学力低下なんて大騒ぎすることじゃない
 
学力低下なんて大騒ぎすることじゃない。自分らが小さい頃には,学力の低い子どもがたくさんいた。文字が読めない。計算が出来ない。でも,子どもの生活,遊びの世界では勉強が出来る出来ないなんていうのは,大きな問題ではなかった。
確かに,勉強が出来る子どもはクラスで一目置かれる。そういうことはあったが,遊びの世界では,その遊びを上手に出来る子どもや,あるいはグループの中でグループを円滑に動かす潤滑油のような役割を果たす存在が,そこでのリーダーとなる。それはだから,学校で教わる勉強が出来る出来ないとは一切関わりがない。
学力低下が問題になったのは,世界各国を対象とした全体の学力調査があり,その中で日本が従来よりも順番を下げたことから生じてきたと思える。その結果をいち早く知り得る立場にある人たちが,第一に問題視した。
学者や政治家,報道関係者が,そういう人々としてまず浮かび上がる。
何が問題と考えられたかといえば,簡単なことだ。勉強が出来ることで一目置かれる子どものように,日本はここのところ世界というクラスの中で,勉強に打ち込んできて一目置かれるようになった国である。そのことによって経済的な力を得た。反面,知的能力の高さを誇る以外,誇れるものは他にない。かつては腕白坊主のように,他国に力ずくで存在感をアピールしたこともあるが,より大きな力でねじ伏せられた後は,おとなしく秀才然として励むしかなかった。
そのよい子の姿が,今崩れようとしている。戦後の復興を支えてきた一つの柱である学力の低下は,日本の将来に暗雲を投げかける。そういうことだろうと思う。
学問を,そして日本という国の将来を考える立場にある人々が,学力向上の声をあげるのは当然である。ただ,そこにも少し疑問がないわけではない。たとえば,学力が落ちたとはいえ,依然として世界全体から見れば若者の学力は上中下の上の部類に入っている。どうしても,1,2を争うところに行かなければならないか,という問題である。中や下位にある国々が,駄目な国々であるということではないだろう。それなりに,それなりの国民生活がそこでは営まれているはずである。それでは,不足か。
若者の学力低下を問題視する人々にとっては,不足なのであろう。
 
ここで言うところの学力について言えば,その向上を結果としてもたらすことは,大騒ぎされるほどには難しいことではないと思える。教育行政と学校現場が,ともにそのことを目指した施策を実行すれば,程なく効果を上げることは目に見えている。要するに,主として読み書き計算のような基礎的な学習訓練を繰り返すこと。その上で,子どもたちが学習に関わる時間を増やすことが出来たら,それで申し分がない。必ず,ここで言うところの学力はそこそこに底上げされ,向上する。間違いない。
ただ,これだけのことだ。だから,大騒ぎすることじゃない。
では,こうして学力が向上していけば,万々歳なのだろうか。学力低下を懸念する人々にとってはそうなのであろう。だが,増え続ける不登校,少年犯罪,いじめ等々の一方の問題はどうなる。報道での取り上げが少なくなったからといって,そちらにふたをしてしまっていいか。それとは問題が別だというかもしれない。だが,こうした学校教育の現場に吹き荒れる負の現象から,指導内容や指導方法が新しく模索され,結果として先の若者の学力低下と結びついたという印象は否めない。
学力低下を嘆く人々からの文句は,「総合的な学習の時間」の採用と,土曜休業に関わる時数の削減,薄っぺらになった教科書,及び改正された学習指導要領に対してあったと思われる。こうした改変,改革は,単なる思いつきではなく,浮上する問題があってその解決策としてやむを得ない改変,改革であったはずである。主眼は,詰め込み教育と呼ばれたことに対する反省としての「ゆとり」を考慮したことにあったと理解している。実施してみれば,1年と経たず,非難の嵐が巻き起こった。
教育現場から見れば,当初から予測されることでもあった。教員の間でも賛否両論,評価は分かれていた。知識を精選した上でしっかりと根付かせることと,知識の活用の仕方を身につけさせることとは,理念的には可能であっても,現実的には収拾のつかない混乱をもたらしたと言えるかもしれない。改革の趣旨についての教員一人一人の受け取り方は,それこそ千差万別だし,巨大な現場もまたそれを受け入れる体制の違いは千差万別で,そのいちいちを考慮してはいられない上からの伝達は抽象的なものになるほかはない。最早,制度的にも限界が来ていたということも,今あるような状況をもたらした一因であると思う。
学力低下の要因は,本当はその底流にもっと本質的な問題を抱えている。それは,養老孟司さんが言っていたことだが,社会の繁栄によって子どもたちから勉強する動機が失われるという事態が到来したことである。生きることに,いわば何の心配もいらない家畜のような状態で,弛緩した精神には教育を受ける動機が生じるはずがない。動機がないところに,まるで大量の餌のように,教育を受ける機会だけは与え続けられる。
かつて,生活の向上を願って,日本全体が教育のブームに沸いていた時代とは違う。韓国に見られるような,あるいは学校自体がそれほど整備されていない国々の子どもたちに見られるような,教育への熱い思いは,今の日本の子どもたちには持ちようがない。
こういうことを言ったり考え出したりすれば,きりがない。テレビなどで,現職の教員や文科省の代表,教育評論家,その他の有識者などで教育問題を論じるのを見ていても,それぞれに言うところはその立場立場でたくさんの問題を抱えており,意見が一致したり,方向性が同じになる目途が建ちそうに思えない。素直な感想を言わせてもらえば,子どものためを思い,あるいは社会や国を思うあなた方が,職を辞してそっくりいなくなった方が,どれだけすっきりすることかと思う。それくらい,問題の種はあちこちに転がっている。そのいちいちを取り上げて語っていたら死ぬまでかかりそうだし,一部だけ取り上げて語ったら,それこそ轟々の反対意見が投げつけられるだろう。
はっきりしていることは,だれがなにを考え,どう実行してみても決定的に良い施策などは実現出来るはずがないということだ。それはもう現実が証明してきている。どんな対策が取られようと,それが本当に解決に結びついたものなど,少なくとも自分の目にした教育の世界には皆無であった。そればかりではない。なにか事が起これば非難の声に怖れ,性急な対策が講じられ,うまくいかないところは修正し,また修正でうまくいかないから新たな対策が講じられ,そうして無限に対策,修正,対策が繰り返されて行き,いつのまにか息苦しく不自由な世界が目の前にそびえ立つことになる。システムが硬直化し,子どもと子ども,子どもと教師,教師相互のコミュニケーションがまたぎくしゃくと硬直化していく。
 
学力低下で批判の的になった先の問題とは別に,というよりも,その結果を受けて,逆に期待されてマスコミ等に登場したのが100マス計算,音読練習などの基礎訓練の試みである。この実践は子どもたちの問題に対する集中力を高め,確実に自分の能力の向上が実感しやすいところから,子どもたちも喜んで取り組み,一定の効果を上げることが出来ている。そして,その効果は,他のいろいろな学習にも積極的に取り組んでいくという形で波及し,また応用する力の土台となることもできている。
そのことで子どもの学習力を高めた校長先生が,マスコミに登場してしゃべっているのを聞くと,至極尤もなことを言っていた。結果として,集中力,学ぶ喜び,出来る喜び,考える喜びを子どもたちが持つようになると思う。けれど,こんなことはあたりまえのことだ。というのは,自分の知るかぎり,相当以前から同じような実践は試みられていたし,100マス計算もある程度の普及が見られていた。要するに本当はそんなに目新しいことではない。
要は,教員としていろんな雑務等がある中で,徹底してそれを一日の学習課程の中に組み込んで,年間,あるいは小学校なら6年間を通じて実践できるかどうかだ。この校長先生は,自身が担任の時に,あるいは担任として勤めた学校で,全校的にそれができたのであろう。
自分が担任の時,同じ試みを行った経験からすれば,彼は実践研究としてそれを自分に課したことがあるのではないかと思う。だから年間を通じ,そこに集中して目標を持って実践したものだろうと思う。そうでなく,何となく実践した自分の場合には,7割くらいの児童には能力の伸びとして効果が見られたと思っている。あとの3割は,逆にその訓練自体を苦手とし,積極的な取り組みが見られず,能力も見た目には上がらなかった。
先の校長先生の実践の場合にも,たとえ一人二人であっても,そのこと自体を苦手とし,あたかも体ごと拒否するようについて行けない子どもは居たかも知れない。
例えば,友だちとのこと,家族のこと,そうしたことに悩みを持つ子どもは,こういう基本の訓練にさえ集中して取り組むことができない。これを克服するには,大げさに言ってみせれば,野球選手のような千本ノック,修行者の荒行,そういった強制的な過酷さを課して,環境からの心理的な影響を払拭し,無意識のところまで彼の精神を降ろさなければならない。あるいは,家庭環境をはじめ,周囲の環境を改善しなければならない。彼の中で,問題に向かうための心身の安定,あるいは無意識の不安等を取り除いての心の準備性が,あらかじめ保たれていなければ,どんな試みも効果あるものとすることが出来ない。
また,学校で学ぶことは,ある程度社会の影響から隔離された,純粋培養の実験室にも似た状況が必要である。今の子どもたちにはテレビをはじめとして,感覚を刺激する現実からの影響が高波のようにもろに襲いかかっている。目先の出来事にいちいち反応する感覚器官は,そうした影響を前にしてフル回転し,とてものんびりと漢字や計算に頭を使っていられないというのが実情であろう。だから,学習に頭を使うためには,そうした社会の影響から心と頭を切り離す,そういう状況がどうしても必要になる。
この校長さんは言っていた。家庭に協力してもらったと。つまり,早寝早起きをはじめ,理想的な家族の生活を演じてもらったということになる。このことが何を意味しているかと言えば,それまでの現実的な家庭環境のままでは,現代社会では効果のある教育はできないということだ。子どもたちが学習の方向に顔を向けるようにするためには,ある程度の,そのための環境が必要だということ,それである。子どもたちに準備性ができて,はじめて,教師たちの個々の取り組みは効果あるものとなる。
徹底して,家庭が協力体制を整える。これは,現実的に可能かどうか。この校長が呼びかけた地域においても,100パーセントの家庭の協力は得られなかったという。この差異から生じる格差により,この校長は,別展開の歪みが生じ,新たにキレル子どもを生み出す不安を感じていたという。これは冷静な判断であるし,正直な感想であると思う。
その前に,この,家庭が変わるということが良いことなのかという問題もある。どこかに,ひずみが生じないか。たかが子どもの教育のために,家族の生活スタイルまでも変えるということは本末転倒とは言えないか。そういう疑問も残る。
なぜなら,親もまた,子どもたちと同様,社会からの影響にもみくちゃにされつつ家庭を形成しているはずなのだ。その中で,個人としての生き方もまた手探りで模索しているに違いない。ある時は子どもや家族よりも自分が大事と思い,ある時は自分よりも子どもや家族が大事と思う,その狭間に揺れていることもあるだろう。
 
仮に,協力を得て,その地域の家庭が変わり,子どもたちの学習意欲が向上したとして,それがまた一体どういうことになる。
子どもたちが優秀な学生になり,優秀な大学に進み,優秀な企業に勤務し,自分の能力を社会に役立てるとともに,社会の中で人から羨まれる家族を形成していくということか。それが世の中を平和にし,全ての人に幸いをもたらす道に通じるか。とてもそうは思えない。
かつて優秀な学生であり,優秀な大学を卒業した優れた学力の持ち主が,その後どうなったかは,発達したマスコミ等の報道により,あからさまに知れるようになってきた。
彼らが,日本の戦後の繁栄の中核として存在してきたと持ち上げてもいい。けれども,その裏に生じたひずみ,それらを産み落としてきたのも彼らではないか。そうして,築き上げられた繁栄をもっとも享受しつつ,ひずみの中の生活苦にあえぐ人々の声なき声にもっとも鈍感であるのも彼らではないのか,と思われてならない。この大衆の,現代社会に生きることから来る,見えない酸欠状態にも似た飢渇の苦しみに,「同苦」出来る人間が,学力の高い人々の中にどれほどいる?美化する危険をあえて怖れずに言ってみれば,「同苦」しているのは,いつもそれほど学力の高くない,肌すり寄せるような大衆の優しさではないか。
大衆が,知的に高度になっていくことは必要であり,大事なことだと思っている。だが,ここでいう学力の向上とは,あまり大きなつながりを持たない。
専門的に学問をやっていくとか,研究するということでしか,現在の学校教育で培われる学力は,社会的には役に立たない。仕事上でも,生活上でも,あらかじめ獲得しておかなければならない知識や技能の修得はほとんどないといっても言い。あるとしても,それは学校教育よりは,習い事とか塾とか家庭教師とかのかたちで修得する方がよほど良い。さまざまなアルバイトを経験し,また民間の会社で仕事をし,陋巷のさまざまな仕事に携わる人々との触れあいの経験を通して,そう実感する。分からないことは,職場で教えてくれる。職場で必要な知識や技能は,あまりにも多岐多様に渡り,とても学校教育などに盛り込めるものではない。
結局のところ,学力を向上させると言っても,せいぜいが,今の世で,高い学歴を持った人の再生産を予測させるだけである。高い学歴とは,無駄な知識をたくさん持った人と言うことである。そして,それが人間として優れていることだと錯覚している人たちを生み出すシステムのことである。そんな程度の人間が増えることが,本当に大事なことか。大騒ぎする問題か。それがどうしても分からない。少なくとも自分は,学力が高いと思われる人々にそれほど世話になった覚えはない。精神的にも物質的にもだ。かえって,側にいることが窮屈に感じられたり,高圧的な雰囲気にいたたまれなくなる。
もちろん,高い学歴や学力が,必ずしも金銭に結びつき,豊かな生活と幸せが約束されるとも思わない。どんなに社会的な地位や名声を得て,成功したかに他からは羨ましく見えたとしても,家族や周囲の人たちと仲むつまじく,あたたかく暮らせたらそれが一番いい。
そう考えると,普通に生きて生活する人々にとって,少年少女や若者たちの学力が上がろうが下がろうが,どうでもいいことに思える。少なくとも自分にとっては関係ない。自分にとって関係ないと思われるくらいだから,実際にはほとんどの大衆にとっては関係ない出来事と実感されているのであろう。かつて教職にあった自分は,こういう学力低下などを,単に野次馬的に問題であると表層的に取り上げた報道で,個々の教師が不安と動揺を覚え,そうした教師の内面が影響して,子どもたちにあたらな不安や動揺が生まれなければいいと心底願うだけである。
 
自分にとって,学力の問題も含め,学校をどうするかなんて,本当はどうでもいい。興味がなくなった。学校は学校だ。どうでもよかろう。その学校をどうするかは,持ち主が決めればいいことだ。持ち主は,何かに怯えるように,大変だ,どうにかしなければと次々に対策を講じる。詰め込み教育からゆとり教育,そしてまた基礎学力の向上策と,転々と対策を講じては変更を繰り返していく。そのたびに,たくさんの労力と金と時間が費やされ,施設やシステムが作り続けられる。
その結果もたらされるのは,子どもも含めた,学校を成立させる要素としての人,もの,全ての病弊以外の何物でもない。
少し前に騒がれた野球球団の行き先と同じで,雇われた教員たちには何の権限もない。古い体質どころではない,管理者である行政の考えることは新しいものを生み出すことに百年以上の後退がある。その結果,学校や教育のシステムが破綻したとして,そうなったらそうなったことを教訓として,また一から立て直すほかに方法はない。
こう,乱暴に言いたいと思うのには理由がある。長い間教員生活を続けてきて,つくづく思うことは,この世界では,対策,対策,対策の連続であったなということである。
そして,それらの対策が,名実ともに効果的であったと感じられることなどほとんどなかったという実感である。反比例するように,そこでの生活が日増しに息苦しいものに感じられていった。それが自分一人の思いではないことは,相次ぐ教員の不祥事,長期休業等の増加を見れば想像がつくであろう。子どもたちの生活もまた同様である。
最早,効果のある対策など出来るはずがないと知った上で,にもかかわらず対策は講じなければならないという悪循環の輪の中に,学校もまた存在する。その事実のいちいちをあげたらきりがない。報告は,だいたいが効果有りとなりがちである。何もしないよりは,良かった。と,その程度のことだ。
 
教員は,昨年の三月に辞めた。だから言ってしまおう。自分が学校に行っていた頃のことをすっかり忘れて,学校に過剰な期待を寄せる親たちへ。
どうせあんたの子どもだ。できのよい子どもになるわけはなかろう。優秀な成績,みんなから好かれてなかよしの友だちがたくさんできる。そんな夢のような話があり得るわけがない。
学校,そして学校を取り巻く状況は,内外から病んでいくことを余儀なくされている。この現実を,さまざまに粉飾されて肥大化した存在から,皮を剥ぐように粉飾を取り去って,実態にたどり着かなければならない。当然,自分自身の目にとりついた,何枚にも重なった薄膜を取り除く作業がまた必要になる。
勉強嫌い,不登校,非行,いじめ,犯罪。自分の子どもがもしも望まぬ方向に傾いたとして,事故と同様決してあり得ないことではない。あって然るべき必然に囲い込まれていると言うことさえ出来る。そうなった時に,あなたはしっかりと自分を保てるか。最早,あなたが問うべきはあなた自身のこれまでの生き方と,現に生きている在り方なのかも知れない。
自分の問題としていえば,「教育しなければならないのは自分自身でしたから,残念!」という結論を見た。そして,「拙者,教育者として未熟ですから,切腹。」ということになった。死に際の,虫の息の下で,この文章で自分の言いたいことを言ったことになる。