朝目を覚ますと、布団の中でたばこを二、三本すった。それから台所に降りていって、コーヒーメーカーでコーヒーを作り、やはり、続けて三杯飲んだ。その間もたばこは吸い続けた。三木さんは、さすがに、健康に悪い、そう思った。この不摂生は半年以上にもなる。
 五十才を過ぎて、三木さんはいつ死んでもおかしくない年になったと感じるようになった。実際、身体的な衰え、精神の粘りのなさや俗に言うやる気のなさが、自分の中でも顕著になった。死ぬための準備、そういうことを考えるようになった。もし、明日死ぬとしたら、今日、この時を、自分はどう生きようとするのだろうか、と。
 三木剛史さんは、この三月まで小学校の先生をしていた。体力、気力の減退を感じて、昨年の九月末頃、校長に退職を申し入れた。定年には、まだ間があった。校長は、突然の申し出に、あわてて慰留した。もう少し、考えろと言った。三木さんは、考えた。考えて、いっそう決意を固くした。
 桜の咲く四月、無職の生活が始まっていた。
 何年も前から、三木さんは胃潰瘍の薬を飲み続けていた。薬を飲み忘れると、決まって午前十一時と午後五時頃に、しくしくと胃が痛んだ。もう、薬を手放せなくなっていた。生活改善どころではない。かえって不摂生に拍車をかけた。
 家人から、毎日のように小言を頂戴した。たばこを吸うな。コーヒーを飲むな。三木さんは、そのたびに言い逃れを言って、やり過ごしてきた。良くないだろうことは、自分の体で十分感じてきた。だが、だが、三木さんは自分の意志を通してきた。せめて、意志だけは、強く、健康でいたい。そう、思った。 三木さんは、志の低い男である。少年少女の事件が多発し、教育問題が騒がれる中、教育の現場において、何の行動も起こさず、意見の開陳もなく、ただただ、公務員という安定した職と給与のために、目の前の仕事をこなしてきた。置かれた立場以上の働きもしなかったが、以下にもならないようには気を遣った。相応の年齢が来て、教頭への昇任試験を三度受けたことがある。合格しなかった。当たり前である。頼まれたら教頭になってもいいというくらいの気持ちで、てんで試験勉強などしなかった。そこそこの仕事をして、そこそこの給与を手にすれば、それで良かったのである。教育への情熱など、なかった。典型的なデモシカ先生、であった。
 ここ二、三年は、五時の退勤時間が来るといそいそ帰り支度を始めるようになっていた。他の先生たちが雑事を片づけている間に、さっさと鞄を持って職員室を出た。車に乗って向かうところは、近くにある大型のパチンコ店だった。小遣い稼ぎが目的だった。
 小遣いを稼いで何に使うか、その目的は特になかった。ただパチンコに使う小遣いが、もう少し、欲しかったのである。誰に、何の気兼ねもなく使える、そういう余裕が欲しかったのである。
 パチンコをしながら、三木さんは心がひりひりする感じを憶えた。何かに押しつぶされそうな、不安であるような、焦りであるような、不気味な、黒いものであった。それから脱しようとして、向かったパチンコであるはずだが、かえって真正面から向き合う羽目になる。三木さんは、逃げることができない。いや、逃げようとしなかった。渦中に、特攻のように、今はすべてを投げ打って、つっこんでゆく。そんな気分が充満していた。
 一寸さきに、その闇の中に、何かが待ち受けている、そう、確信していた。けれども、毎日の生活は、その一寸を、更新した。また一寸、パチンコをしながら、三木さんはひりひりとした気分の中で、知らぬ間に何かを越えた。越えることはできたが、ひりひりは変わらなかった。周りの状況一切もまた、変わることはなかった。何一つ変わらない中を、三木さんは、そろりそろりと一寸ずつ、進んでいる。立ち止まることもできない。三木さんは、自分が発狂寸前のところにあると感じた。だが、発狂すら、できなかった。
 発狂できない変わりに、三木さんは、仕事を辞める道を選ぼうとしていた。教育界にはほとほと愛想が尽きていた。特に、この業界の舵取りや、この業界を動かすことに力のある連中の馬鹿さ加減、阿呆さ加減は、心底腹立たしくもあった。講演や講義を聴かされるたびに、こんな程度で偉そうにしている奴らなんだということが、よく分かった。あんな連中の下っ端として、言いなりになって仕事をしたり、同じ穴の狢と外から見られることに我慢できなかった。三木さんは、教員の組合に対してさえ、同様に考えていた。
 これらについて、三木さんと語り合える相手は、誰もいない。三木さんは、自分の方が、変なのか、と思った。
 仕事を辞めようという思いが固まろうとしている頃から、三木さんには、重い、重いプレッシャーがかかり始めた。
 世間でいうところのリストラと、結果的には同じで、その後の展望がない。テレビなどでよく見聞きする、転職、田舎暮らし、等々も、そのほとんどが失敗に終わるらしい。慣れない仕事を一から学んで、結局失敗して立ち上がれないほどの打撃を受けるなら、何とか現在を我慢して、定年まで耐えていく方がいい。三木さんにも、そういう考えはあった。けれども、世にリストラがあり、ドロップアウトする若者があり、不登校や閉じこもりの子どもたちが居るということは、逆に三木さんの反抗心に闘志の炎を燃やさせる。
 自らは塀の内側にいて、知らず塀の外に出ることを余儀なくされたものたちへの哀れみの手をさしのべる、そういう愚劣な連中のなんと多いことか。彼らは、自分のそうした二重の嘘、詐欺行為、合理化、卑劣を決して自覚しない。
 三木さんは、それだけはやるまいと覚悟を決めていた。だから、何の取り柄もない、デモシカ先生に終始した。
 塀の中にいることは、塀の中に生きる法に、自分を従わせることを強制するものだった。嫌だといえば、出されるか自分から出るしかない。三木さんは、多くの人がそのことについて、無意識に、見ざる、聞かざる、言わざる、の状態にあることを知っていた。彼らが、知っていて、知らぬというように、完璧に自分を作り上げなければ、そこに生きがたい悲しさも、理解していた。生きるということは、三木さんにすれば、そういうことであると思われた。多くの人は、そういう網の目の間に生きていて、そういう生き方を否定することはできない。どんな偉そうなことを言っても、人間はそういう生活を、延々と繰り返してきて今があるのだ。
 三木さんはしかし、いずれ、いや、もしかすると明日、いやいや、ほんの数時間後に死ぬことはあり得ることなのだという考えにとりつかれてから、今生きていることを大切にしたいと思った。今、生きて、本当に思うところを大切に、生きていきたいと思った。この瞬間に、自分の人生のすべてをかけて、生きる。そういう生き方ができないかと思った。家族のためにできることは、してきた。また、家族を崩壊させようというのでは、ない。心底、一生懸命に生きたい。それは、生そのものに、純粋に準じる、ただそれだけのものだ。それはまた、あらためて何か特別なことをやろうとすることとは違っていた。
 明日死ぬと分かって、だが、今日と同じ心持ちで、同じ生活の仕方で明日も生きたい。三木さんにとっては、そういうことであった。
 けれども、そんな悟りめいたことを考えながら、三木さんにとっての不安は増すばかりだった。不安を覚えるたびに、この不安には理由がないと三木さんは考えた。そう考えたところで、不安が消えるわけではなかった。一人、世界から取り残されて、虚空の暗闇に、三木さんは操り人形のように踊った。もがいても、わめいても、そこには終わりもなければ何かの始まりもない。
 仕事を辞めるということは、自殺とは違う。生きるということを、放棄しようというのではない。また、もうどんな仕事もしないということでもない。生きるために、働くことは、覚悟している。ただ、新しい仕事に就くまでに、いくらかの空白はあるだろう。退職金で、その空白をまかなうことはできそうだ。今の仕事よりも給与の面で、大きく落ち込むことは当然のことで、しかし、この耐え難さが緩和されるならば、それを良しとしていい。かつて民間に勤めたことがあり、また学生時代に十種類以上のアルバイトした経験から言えば、生活のためのどんな仕事だってやれる。
 現に定年退職した人や、リストラにあった人たちが、掃除夫として仕事をしている。そういう仕事上の高貴、卑賤といった区別は、自分の中では消失している。
 それではいったい、こうした不安はどこから来るのか。三木さんは、考え続けた。考え続けたけれども、この不安の壁はなかなか打ち破れなかった。誰もが、この壁の前に、立ちつくしてしまうにちがいない。自分がその渦中にありながら、三木さんはそう思った。
 しかし、三木さんはこの壁に背を向けることがなかった。引いては押し、押しては引く、思いの揺れを噛みしめながら、じっと壁に対峙してきた。
 この間、どこからも三木さんは評価されることがなかった。家庭において、職場において、世間の中において。誰も三木さんの戦う姿が見えなかった。もしも見えたとして、もちろん一笑に付すか、呆れて相手にしようともしないに違いなかった。それらのことも察知しながら、しかし、三木さんは大まじめであった。誰も見ない、見ても何の反応もしようがない事柄に、大げさに言えば三木さんは、全知全能をかけて戦いを挑んでいた。自分が、この不安の壁を打ち破れなければ、誰もが打ち破れないという思いだった。できなければ、人に向かって打ち破れとは言えない。もしかすると、この戦いには日本の、あるいは人間の、未来がかかっている。自分をドン・キホーテの姿に重ねて、三木さんは、どこまでも現実の生活になじめぬ、阿呆の一人だった。
 痛みは痛みを重ね、三木さんは誰かに訴えずにはおられないほどだった。だが、訴えるべきかつての母親のような存在はどこにもなかった。妻に言えば、余計な不安を妻に与え、そのために自分の不安も二重に増すような気がした。
 案外、友だちが居て、酒でも飲みながら酒の肴として口を開いたならば、その場に流れて先に持ち越さない、その程度の三木さんの思いだったかも知れない。だが三木さんは、自分の思いが誰かに影響を与え、そのために、彼の生き方考え方がほんの少しでも変わることを好まなかった。だから、話せる相手を探しも求めもしなかった。
 自分の考えは、生きてゆくうえで、邪魔にこそなれ、人の役に立つものとはどうしても思えなかった。教室の中の子どもたちにさえ、そう思って、どの子どもにも均等の距離を置いた。生きて、いろいろなことを経験し、その経験から学び取るものがあれば、それでいい。自分がそうであったように、身に付くものは、そういう形でしか自分に訪れることはない。三木さんは、子どもたちとの交流にも、諦めを持とうとしていた。
 そんな中で、三木さんは真綿で首を絞められるように、確実に追いつめられていった。
 どうしようもないところまで追いつめられたと感じ始めたとき、三木さんはある不思議を思った。
 原始から今日まで、人類は着実に進歩し、発達してきたと言われている。三木さんもまた、社会の豊かさを実感している。
 子どもの頃、食べたことのない分厚い牛肉のステーキを、今は食べることができる。
 裸足や草履が、今ではスニーカーや革の靴になった。
 着たきりの衣服が、今では毎日着替え、洗い立てを着ることができる。
 子どもの頃、夜寝る前は布団のノミ取りが日課だった。またよく頭のシラミ退治に、DDTという白い粉を吹きかけられた。今はそんなことが昔話であるような生活をしている。
 そればかりではない。家庭にみそ醤油がなくなったときは、隣家にそれを借りに行った。卓上の醤油瓶やお鉢を持って行ったのである。もちろん、逆に隣家から借りに来ることもあった。
 乞食というものが居て、来れば、自分の家でも買って食べていたお米を、茶碗一杯分、下げている袋に入れてあげた。蔑みの心など、持ちようがなかった。まるで、宇宙的な規模の背景の中で同じ生活苦を抱える同志のようなものとして、当時の地域の誰もが乞食に接していたようなのだ。そういう気配が、今も印象に残っている。そういう、日々の生活に困った乞食の姿というものも、現代には消失した。
 要するに、格段に生活は豊かになり、便利になり、と、当時からすれば理想の社会の姿になりつつある。
 それなのに、と三木さんは思う。たかが仕事を途中休業しようとするだけで、なぜこんなにも怯えを感じてしまうのか、と。
 豊かな社会とは、豊かな暮らしのままでないと、生きていけないと感じさせてしまう社会のことなのか。あるいは生活に困ったものを見ると、同胞として手をさしのべるよりも、惨めなやつと蔑んだり、冷たい視線を送って、自分たちだけはそうはならないようにと生活を防衛する、そういう人間たちだけが生きる社会なのか。その社会が、無意識の中で、自分を脅迫しに来るようなのだ。
 怯えは、豊かさに潜む、ネガの部分から自分をとらえに押し寄せてくると、三木さんは感じる。ちょっと油断をし、足を踏み外せば、奈落の底に引き込まれそうな不安。
 三木さんが、仮に再就職ができずに、退職金も底を突いたとして、実際には、最後の手段としての生活保護といった制度が整備されてはいる。そこでは、最低限の生活は、建前上保証されている。だから以前の乞食といった姿形で、各戸を回って物乞いをする必要はない。けれども世間の無関心と、冷ややかな視線は、折に触れて感じなければならないのではないか。人格が否定されるような、蔑みの気配。乞食であっても、広く同胞としてとらえてくれた、かつての日本的な見方、考え方はこの社会からは姿を消してしまった。豊かさは、この社会に生きる人々の意識を、根底から変えてしまったのではないか。すると、自分に忍び寄る殺気、その気配への怯え、不安、怖さ、不能化、などの心理的な諸々は、この社会の鏡として反映されたものだ。そう、三木さんは思った。そして、正解は、仕事を辞めないことだと結論した。同時に、やはり自分は仕事を辞めようという決意に傾いた。
 
 今朝も、三木さんはたばこを吸い、コーヒーを飲んだ後で、家人のこしらえたトーストをいいわけ程度にかじってから外に出た。出がけに彼の妻が、職業安定所に行ってみたら、と言った。三木さんは、もう少ししてから、と応えた。三木さんの妻はそれ以上言わなかった。もう少し自由にさせてあげよう、そう考えていた。退職金はほとんどが家のローンなどに消えてしまう。明日からの生活を考えると居ても立ってもいられなかったが、二十数年勤めたのだ、息継ぎの間も与えず仕事を探せ、とはさすがに強く言えなかった。心の向きを変えて、風を見送るように三木さんを玄関先で見送った。
 車庫から車を出し、三木さんはいつものパチンコ店に向かった。九時をほんの少し回ったばかりだが、駐車場には多くの車が並んでいた。近所のパチンコ店は、どこもみなよく人が入っている。朝からこんなに人が集まるということは、みんなリストラで仕事を辞めたりした人たちなのか。あるいは、平日休みの人、または、自由業で時間が作れる人たちなのか。二十代の若い娘さんたちもいれば、定年退職した老後の二人連れらしき人たちも多く見られた。三、四十代の働き盛りと見える人もいて、中にはネクタイをしてきている人もいる。三木さんは、見知らぬその人たちに、同志という言葉にも似た、しなやかな親和を抱いた。
 
 初めて、三木さんがパチンコというものをしたのは、高校三年の、卒業間近の頃だった。田舎町の、それこそ小さなパチンコ屋さんだった。椅子も、たぶん、なかった。立って台に向かい、左手に持った銀の玉を一つずつ親指の爪側で台の穴に押し込み、右手の親指を使ってバネの突いたハンドルをはじいた。
 そうしてしばらく遊んでいたら、お巡りさんがやってきて、注意された。三木さんは、通っていた男子校の、薄汚れた学生服姿で打っていたのである。少しばかりとった玉を、三木さんは店の人に差し出して、たばこに換えてもらった。店の人は、何も言わなかった。
 その当時から、パチンコは、何か公言できない、こっそりと遊ぶものだった。店に入っている人たち、店の人たち、みんなが、なんだか影のありそうな人たちばかりだった。三木さんは、そこに集まってくる人たちが、嫌いではなかった。逆に、その中にいると、奇妙な安堵感を感じた。
 大学生の頃、民間の会社に勤めていた頃、それを辞めて教員になってから、ほんの時折、三木さんはパチンコで遊んだことがある。少しずつ、パチンコの変遷を、経験してきた。 特に会社勤めをしていた頃、パチンコは劇的に変化した。いわゆるデジタル台がお目見えしたのである。フィーバー、ブラボー、のかけ声が、店内の騒音の中で大きく叫ばれるようになっていた。そのことで、客の心理はあおられ、お金の出入りも大きくなっていった。
 結婚もし、子どももできた三木さんには、大当たりをする隣の客が羨ましくもあったが、何千円もの資本の投下は不可能だった。羽物と呼ばれる台で、時間つぶしをするくらいのつきあいだった。その頃はまだ百円硬貨も使えていて、三千円ほども使ってしまうと、青ざめて後悔するほどだった。
 二十年近く勤めてきた教員の仕事を、辞めようかと考え始めた頃から、三木さんのパチンコ通いは多くなってきた。すでに、硬貨で遊べる台は姿を消し、出資も、万単位が普通になっていた。
 子どもたちが二十歳を超えて家を出ると、あらためて、「俺はいったい、本当は、一度限りのこの一生を、どう生きたいと思っているのだ。」という自問自答が三木さんにやってきた。見回せば、その答えのヒントを与えてくれそうな者は、いなかった。
 三木さんは、肉親、親戚、知人、仕事仲間との、生活上差し障りのないつきあい方はできたが、それ以上では、なかった。友だちも、なかった。決意や、決心と言った内面上の決断を迫られるときは、いつも孤独だった。
 どうしたらいいかわからなくなったとき、唯一の逃げ場が、いつの間にかパチンコになっていた。台に向き合いながら、ひたすら、「俺は、これでいいのか。」と、自問を繰り返していた。それは、無意味なほどに長い長い繰り返しの自問だった。三木さんは、客の中に、自分と同じ境遇、考え方をしているもののいることを、半ば確信する思いで、居た。
 
 店内に入った三木さんは、このごろお気に入りの台の前に座った。開店してから、百回を待たずに大当たりを引き当てやすいと思われる台だ。
 案の定、デジタルの回転数を示す掲示が、六十四を数えたときに初当たりがやってきた。「確変」といって、次の当たりが保証された当たりだった。この当たりが続くと、多いときには十回以上の連続にもなる。箱いっぱいの玉が、十箱分も積まれることになる。それを換金すれば、五万円以上にはなる。三木さんの期待はふくらむ。家に帰って、ポケットからお金を取り出すときの、妻の、意外の、喜ぶ顔が三木さんの脳裏に浮かんでくる。
 近くに座った客たちには、まだ大当たりがこない。たぶん、自分にも、もうくるか、もうくるか、と期待しながら打っている。三木さんの大当たりが、続かなければいい、と思っているはずだ。
 三木さんは無口な男である。しかも、大当たりしてもポーカーフェイスで、喜びを表にすることがない。よく、中年のおばちゃんたちの中には、手をたたいて大声出して喜ぶ人たちがいる。三木さんは、素直に、良かったなと思いながらそういう光景を見る。だが、自分では、それくらいでは大喜びできないと思っている。小心者のプライド、かも知れない。この日も、大当たりを引いたうれしさをひた隠しにし、わなわなと震えそうな指を、ハンドルを強く握ることでごまかした。そして、落ち着いたそぶりを見せるように、馬鹿にゆっくりとたばこを手にとって火をつけた。
 以前は、三木さんも隣の客とよく話を交わすときがあった。こうなると当たりが近いとか、このリーチ目では絶対当たらないとか、互いのリーチアクションで大騒ぎしたりしていた。大当たりをすれば、目配せをするようにして相手の顔を見て、大当たりが来たことを伝え合った。それはそれで楽しかったし、互いの情報交換が役にも立った。要するに、楽しいパチンコ生活の工夫だった。
 そんなたわいもないことが、好きだったこともあった。たわいもなく一喜一憂する客、そして同じように一喜一憂する自分。通俗かも知れないが、この通俗さこそ、信ずるに値する。三木さんは、そう確信していた。
 三木さんはしかし、このごろ、この通俗さにも飽きていた。話しかけてくる相手に、合わせることも面倒になった。適当に相槌は打つが、自分から話を持ちかけることはしなくなった。自然と会話はとぎれ、二言三言で終わってしまう。そういうように、続かない受け答えを心がけていた。このごろの三木さんにとっては、寡黙が自然体であった。こんな場所ではせめて、家にいるときのように、構えを解いたわがままを自分に許したい。いつしか、そう考えるようになっていた。そして、それができる、唯一の場所だ、そう、三木さんは思っていた。よそ行きの顔ではない、誰に気兼ねや配慮をする必要もない、ただありのままの状態で居られる。機械を相手にするということは、そういうことかも知れない。三木さんは、パチンコという機械を相手にしながら、自分の中の、無意識の海を彷徨うような気持ちに浸っていた。小遣いを稼ぐとか、ゲーム的な要素が面白いから、というだけではなく、本当の自分は、そういうふうに過ごせる空間と、時間とが気に入っているようにも思われた。
 一、二回の大当たりでは、どうと言うこともない。ゲームに出資した分を、取り戻したというにすぎない。だから、このごろ、三木さんは六箱以上にならないと、気が済まない。それくらいだと、たいてい勝ったことになる。また、それくらいでないと、わざわざ出向き、時間をかけた甲斐がない。だが、そんなに欲張りすぎてもいけないと、自戒はしている。そうでないと、せっかくとった玉がいつの間にかすっかり飲み込まれてしまう。そんなことをいやというほど経験してきた三木さんは、投資金額を、少しでも超えるくらいの玉の量を出すことができたら、その日は打ち止め、家に帰ろう、とも思っている。最早プロ並みの考えである。だが、実際には、自戒も何処へやら、もう少し、もう少しと欲が出て、いつの間にかすっかりドル箱を空にしてしまう、そういうギャンブルの心理に、三木さんもまた容易に落ち込んで後悔する日々が多かった。
 どこかに、プロとして食ってはいけないか、と言う考えも、三木さんにはある。遊んでいながらにしてそれを職業とする。それが社会の理想ではないか、そう、密かな思いを抱いている。三木さんは、そんな自分の考えを、また内心では、自分の頭が変になってきているのではないか、と不安に思うこともあった。
 
 やや他の店に比べて薄暗い店内で、多くの客は盤面を見つめて、三木さんと同じように黙々と打ち続けている。リーチがかかり、ハンドルから手を離して大当たりを期待して待つ時に、わずかに表情が変化する。またそれが当たったとき、外れたとき、客たちの小さな一喜一憂がある。パチンコに興味のない者たちからすれば、それは異様な空間かも知れない。横に一列に並んで座り、誰もがただひたすら盤面を食い入るように見つめ、そうしてただそれが延々と続くのだ。
 三木さんは、こうした店内の光景を、子どもたちがテレビゲームに熱中する姿と重ね合わせて想像してみたことがある。実際には、それぞれの家庭のテレビに向かっている、孤独な子どもたちの姿を、一つ場所に空間移動させると、この光景と同じことになるのではないか。これは大人たちの、テレビゲームなのかも知れない。そしてこれは、十分に引きこもり的だ、三木さんは、そう、思っていた。
 ハンドルを、硬貨で固定し、指をふれていれば次々に玉ははじかれる。玉は盤上に配列された釘に当たり、跳ね返り、下に落ちていく。時々その玉が、デジタルを回すきっかけになるスタートチャッカーに入賞する。乱数的に、ランダムに回る三つの数字が同じ数字でそろうと、真ん中下の大きな入賞口が一定時間開いたままになり、そこに玉が入ると一個につきだいたい十五個の玉が、下の受け皿に落ちてくることになる。大当たりすれば、およそ二千発前後の玉が勝ち取れる。誰もがそれだけをねらって座っている。意のままにならない。意のままにならないものが、意に的中すると、大きな喜びになる。
 三木さんは、だが、みんなの中に自分の姿を見て、時々ふと寂しく感じるときがある。自分は、本当にこんなことがしたくて、しているのだろうか、と。生きる喜び、幸せが感じられるのだろうか、と。そう、思うやいなや、いや、やっぱりこれはおもしろいよと、三木さんは自身に応える。理由はわからないが、とにかく夢中になれる。「生」の時間、人生の時間の、浪費、無駄遣いかもわからないが、かといって三木さんには、他に、意義ある生き方、価値ある生き方があるという確信がない。
 子どもは育った。仕事さえ我慢をして続けておれば、飯は黙っていても食える。自分の、生き方を、これ以上どうこうしなければいけないという、動機も理由もない。自分を磨くとか、価値ある存在に高めるとか、そういう問題がないわけではないが、教員として子どもたちと接しながら、そういう上昇志向的な向上心といったものに、胡散臭さを感じてきた。要するにそれは、「蜘蛛の糸」のカンダタの心情、行為に過ぎないのではないか、という考えが否定できなかった。自分だけを、「善」や「美」や「知」といったものに高めることに何の意味があるかと思う。結局それは、自分だけを救済して高みから見下ろす、そういうことではないのか、と、三木さんは思う。
 パチンコは、現代の庶民にとっての、虫探し、虫取りの物語なのだ。そこに、意義などをことさら付け加える必要などない。三木さんは、自分に無理にそう言い聞かせ、また、そう思いこもうとも努力した。
 
 ここ数年の間に、三木さんの住む地域のパチンコ店の、その様相は大きく様変わりした。全国展開、もしくは県内に広くチェーン展開する、郊外型の大店舗が立て続けに進出してきたのだ。そのために、以前からあった小さなパチンコ店、二店が閉鎖に追い込まれ、まだ閉店せずにがんばっている店も、ほとんど虫の息の状態になった。
 三木さんが通うパチンコ店も、進出してきた大型店四店舗のうちの一軒であった。
 新しい、大きな店に通うようになって、三木さんはある変化に気づいた。昔の雰囲気、昔のイメージを払拭するように、最近のパチンコ店は努力をしてきているという点だ。
 外装はもちろん変わった。モダンになり、看板から、例のどぎつい「パチンコ」という文字が消えた。店内も、以前に比べると明るくカラフルになった。全体的にゆとりあるスペースの中で、雑誌を見たり、飲み物を飲んだり、無料マッサージが試せる部屋が用意されたりと、社交的な空間が演出されている。店によっては、「地域の公民館」になりたい、というポリシーが公表されていたりする。
 店員たちの服装も、ずいぶんとおしゃれになった。デパートのような、帽子をかぶった案内係の女性がいたり、フロアーに忙しげに働いている男女も、その店オリジナルの色とスタイルの衣服を着用している。彼らはまた、その接待技術においてもよく教育され、訓練されている。丁寧な言葉遣いばかりでなく、その身ごなし、真心こもった客への対応は、以前には考えられなかったことだ。男女とも、とにかく若くなった。そして一生懸命だ。
 以前も、若い人たちはいることにはいたが、その質が違う。それは、大型の店の、経営体質の改善の結果だと、三木さんは思っていた。そのために、就職先として応募してくる人たちが変わったのだ。俗な言い方をすれば、ちゃらちゃらした人たちが減った。おや、と思うほど、まじめで、高校時代には勉強にも部活にも一生懸命取り組んだに違いないと思えるようなお嬢さんたちが、増えた。
 賭け事のおもしろさを煽って、客を引こうとしているのではないな、そう三木さんは考えるようになっていた。大げさではなく、接客を売りにする、そうした大転換が進んでいるのだと思った。市民権を得た大衆の娯楽。そう言えるところまで、変貌を遂げつつあるのだと思う。密かに、三木さんは、この先のパチンコ店の可能性を、夢見るようになった。 利潤を上げるための、企業の戦略には違いないが、そのことを三木さんは高く評価できると思った。と同時に、それまで吹きだまりのようにこの業界に集まってきていた、あのちゃらちゃらした若者たちの行く末が案じられた。何となく、この業界からもはじき出されて、果たして行き先はあるのか、と、同情する思いがあった。容赦のない競争が、こんなところにまで押し寄せてきている。労働力の供給過多。店側は、昨今の不景気で、就職先を失った若く良質な労働力を、逆にいくらでも補給できる。これが一部の業界に見られるように、使い捨てという乱暴な扱いにならなければいい。いっそのこと、どんな企業にもなしえなかった、定年制を持たない、永久に安定して働ける、そういう経営の多角化、システムの開拓を進めてもらいたいものだ。三木さんは、そう思った。
 これまで、一般の人たちからも何となく一段下に見られていたような、どこか日陰に咲いた花であったような、パチンコ業界といったものが、アヒルの子から白鳥に変身する。可能性はある。若い店員さんたちは、お客に喜んでもらう、ただそれだけの思いで、きつい仕事もこなしている。徹底した社内教育の成果であろう。こんな中で育った若者が、他にこの力を生かせないはずがない。例えば、幹部になったときに、もう一つ、社員に喜んでもらうというベクトルで動くとき、無限のアイディアが生み出されてくるに違いない。年齢的にホールで働くことが無理になってきたときに、培った真摯な客への対応の力を、どんな形で活かすことができるか。現在の、優れた経営スタッフが、視野を広げてそこまで考えることができれば、その方策は容易につかむことができるのではないか。
 しかし、一方で、パチンコに熱くはまり、財産をなくした人がいるという風評を聞くこともある。パチンコの功罪の罪を、三木さんも考える。所詮、ギャンブルに過ぎないのかも知れない。自己責任。そう言うほかない、どこか怪しい危険な罠が待っている。その罠が存在する限り、昨今の見た目の明るさ、健康さへの変貌は、経営側のカモフラージュととられても仕方のない部分はある。
 三木さんは、そういう熱くなる人のために、会社を作ろうかと考えたことがある。パチンコを打つことが仕事である、そういう会社は成立しないだろうかと考えた。
 まず、共同出資で会社を設立。週に一度の出勤で、戦略会議を行う。後はひたすらパチンコするだけだが、時間は、開店の九時から五時までの間に限る。残業はしない。もちろん労働時間は、一日一時間でも、週一時間でも、利益を出せればそれでいいことにする。あまりの時間は個々人の自由。全員が、会社から持ち出した分の経費に、一日一万円を上乗せすれば、何とか成り立つのではないかと、三木さんは思う。
 三木さんのねらうところは、パチンコで大金を手に入れようとすることではない。どだいパチンコは競馬などのギャンブルと違って、大金が手に入るようにはできていない。三木さんのねらいは、好きなパチンコは続けながら、上手くすると余暇の時間が生み出せるというところにある。その余暇の時間を使って、人生を豊かなものにする。趣味でもいい。ボランティアでもいい。要するに自分がやりたいことのために、時間を使っていこうということだ。半ば本気で、そんなことを夢見ていた。
 
 確変を引き当てたものの、次の大当たりは通常の大当たりで、俗に言う連チャンはならなかった。三木さんは、二回目の大当たりの終了とともに、大きく息を吐いた。知らず、息を詰めるほど緊張していたのである。
 一度確変を引いて、それが通常の当たりになって終了すると、時短というものになる。時間短縮という意味で、回転のアクションの切り替わりが、通常の切り替わりに比べて非常に短くなる。その間、チューリップと呼ばれる入賞口は開きっぱなしと言うほどによく開くようになり、リーチがこなければ、時短百回はあっという間に終了する。良い台は、ここでまた大当たりを引くことが多い。
 しかし、三木さんの台は、あっけなく時短を終了した。と、同時くらいに隣の台に確変大当たりがあった。まずい、三木さんはそう思って焦った。こんな形で、隣の台が爆発的に連チャンすることはよくあることだ。案の定、それから三木さんの台は大当たりを引き当てられず、隣はいやと言うほど大当たりを続けた。さすがに、三木さんも、うー、とうなり声を漏らし、また、参った、だめだ、などの言葉が口をついて出た。
 それからは、何処に移動しても三木さんの座った台には大当たりがこなかった。とった玉ばかりではなく、元金すべてをつぎ込んでしまい、三木さんはとうとう撃沈した。
 固定したハンドルからコインを外し、置いていたたばこをポケットにしまいながら、三木さんは立ち上がった。怒りを露わにするのも嫌だし、かといって過剰に平気な顔をしたくもなかった。みんなが背中合わせに台に向かっているその間を、三木さんは宙に泳ぐように出口に向かった。
 さっきまでのパチンコ店に対する親しみの気持ちは消え、やはり、あくど過ぎるかも知れない、と思った。
 普段、きれいな負け方、その引き際を、美学のように身につけたいと、三木さんは思い続けては来た。だが、それでも、時折、どこかの町でパチンコ店がおそわれた、火がつけられたというニュースを見聞きしたことを思い出し、この店だって誰かに襲われたらいい、そう思うことも度々あった。
 今日もまた、どす黒い憤怒が三木さんの心に渦巻いた。エレベータの中では、上昇階を示す表示の点灯を無言で見つめた。けれども、小心な三木さんにできることは、何もなかった。エレベータの壁を蹴り上げてみても、その姿はたぶん監視カメラに捉えられるはずだ。ただそれだけのことでも、三木さんには恐ろしくてできない。
 どうして俺は、こう、愚かなんだ。三木さんは、駐車場においてある自分の車に向かいながら、思った。パチンコなんて、所詮、こんなものじゃないか。どんなに頭を働かせ、勘を働かせたところで、必ず勝てるという保証はない。宝くじと同じで、確率的には当たらないこと、勝てないことが前提となってできているシステムなのだ。こんなことで、夢が描けるはずがない。それは、誰だって分かっていることだ。どうして俺は、俺だけは、みんなと違ってしまうのか。三木さんの心には、今パチンコで負けたことをきっかけに、この後、長く再就職先が見つからず、次第に追いつめられてゆく、自分の、未来の惨めさがよぎった。
 駐車場を出た三木さんの目に、パチンコ店がある団地の、やや高みにある桜並木の、今まさに満開の桜が飛び込んできた。
 「願わくは、花の下にて春死なん」の句が、三木さんの頭に浮かぶ。「この如月の望月のころ」。どんな意味かよく分からない。だが、何となく憶えている。まさか、西行はパチンコをして、負けて、この句を作ったわけではない。三木さんは、西行に申し訳ない気がした。けれども、三木さんも、単にパチンコに負けて、束の間、厭世的な気分に陥って「春死なん」という思いにとらわれたわけではない。そう、決して、生物的な死を願っているわけではなかった。
 桜の樹の下に死んで、悩ましいこの心を捨てたいものだ。そして、いつかこの心が花となって再生することを願いたい。たぶんそんな思いが、この句に秘められているのではないか。誰もが、花のように、輝いて生きたいのに、花のように美しく生き続けることができない。花もまた、風のいたずらにより、瞬時に散ることがあり得る。瞬時でもいい、美しくありたい。それは、ただ心を捨てるだけではだめなのだ。美と引き換えに。そういう希求が感じられる。
 もっと言えば、自分を変えたいという思いの激しさが、この句を通して西行という人には感じられる。そして、それは死によってしか変えることはできないのだという、自分を変えるということの難しさを、三木さんはこの句から読み取れる、そんな思いがした。
 見回せば、世間はこんなにも明るく華やいで見えるのに、三木さんは、自分の体の縁に沿って、ひんやりとした暗い影が、いつまでも剥がれずに付きまとっているように感じられて仕方がない。昔から、こうだった。その原因や、理由といったものが分からない。自分が何をした。悪いことをしたか。人間として、致命的と思われる、どんな悪いことをしたというのか。人を、傷つけたか。もし、そうなら、償いをする。教えてくれ。三木さんは、一人身もだえる。
 たかがパチンコに負けたに過ぎないのに、しかも、三万なにがしかの負けで、三木さんは人生を反省し始め、普段気にもとめない和歌の世界に自分勝手に酔いしれ、仕舞いには自分の人生を呪うほどになる。馬鹿だ。大げさである。三木さんの考えは、いつも極端に走りやすい。その傾向が、三木さんを三木さんたらしめている。
 団地と団地の切れ目に、生えかけたばかりのわずかな若草をいただく小山に視線を走らせながら、三木さんは、家に帰る他はない。ついひと月ほど前までは、自分もそうであった勤務時間の中を、時雨をかいくぐるように車を走らせる。
 三木剛史。生きることを、重荷のように思ってきた。けれども、人は、そう見ていない。 三流ではあるが、大学を出た。親は会社役員。会社に入り、些細なことで辞めたが、その後も特段の苦労はせず、小学校の教員となり、少なくとも教室の中では子どもたちの前に王のように君臨し、二十数年近くを過ごしてきた。その間に結婚もし、子どもも三人をもうけた。五体満足に生まれ、現在は一番下も働き始める年齢になり、心配はない。妻には自分の性格の偏屈さから、いろいろな気苦労をかけたが、今も一つ布団に頭を並べて眠る仲の良さである。
 何が不満なのか、考えると三木さんにもよく分からない。ただ思い当たるのは、生きるということは、わがままが許されないということ。そして三木さんは、思いっきりわがままでいたいと人一倍思うたちであること。何でも、自分の思い通りにならないと、嫌なのである。世の中の考えと自分の考えが違うと、もう、それさえも苦痛なのである。まして、世の中の考えを強制されるのは、死ぬほどにたまらないと感じてしまう。幼児のような反抗心。さして、大きな差違はない。
 公務員という、安定した職を辞したのも、実はそれが一番の理由だった。辞めるときの、身を切るような、この世界でたった一人大きな不安と対峙する、その時間は過去のものとなった。だが、失業という新たな不安に直面している。背広を脱ぐように、少しばかり心の向きを変え、不安を脱ぎ去れば違った世界。けれども、自分の心といえども自由にできるものではない。変えたいと思う部分では変えられず、反面、また自分とは関係のないところで、コロコロと変わってしまうものなのだ。生きることによって、三木さんはそのことを嫌と言うほど、思い知らされてきた。そういう意のままにならぬ自分というものと、上手く折り合いをつけ、生きていかなければならない。時に、心をコートを外すように外し、身体の声のままに生きる。時に身体を忘れ、心の声に準じて生きる。そんなところを、不器用にぎくしゃくしながら行き来するほか、三木さんには、生きる信念など持ちようがなかった。
 
 駐車場に車を止めると、妻が玄関から顔を出し、三木さんを出迎えた。
 「どうだったの。」
 半分、だめだったのね、と言いたげな顔つきだった。
 「だめでした。」
 肩をすくめ、おどけるような調子で三木さんは応えた。
 家に入ると、三木さんは今日の敗戦の弁を語り始めた。飾ることは何もない。すべてなるようにしかならないのだ。語りながら、三木さんは、妻の気持ちが痛いほどに感じられた。先ゆきの不安は、口にしても仕方がない。また、どんな言葉にすればよいかも分からない。三木さんは、ただ、申し訳ないと思った。そしてひと言、
 「なあ、俺、パチンコして悪いか。」
そう、小さく呟くように言った。

                               おわり