「太宰治と島尾敏雄」その3
太宰治の小説は、中期の安定した作品を除いて、その初期と晩年には、とても生きづらいのだとでもいうような「色合い」に充ちていたと感じられる。そして、初期には思想や芸術への拘わりにその遠因の一つを考えている節があった。もちろん生涯を通じて自分の性格、気質への疑念のようなものを持ちつづけはしたが、晩年の優れた作品には、はっきりと自分の資質にその原因の主たるものを負わせていたのではなかったかという気がする。そして自分の弱さ、女々しさ、社会に適応できない個人の内面の寂寥、不安など、人間的にはマイナスと考えられる面を、ともすれば自虐と見えかねない色合いで表現した。 敗戦から心中を経て、太宰治の人気はかなりのピークに達したものだったろうと思う。 私が彼の作品を手にしたのは彼の死後二十年ほどのことだから、ほとぼりも冷め、文学好きの愛好者たちの間でも表だって話題に出ることはなかった。数年上の先輩たちのなかに、ちらほらとしかし熱烈なファンがいて、時折太宰の名を耳にすることはあった。
私は太宰の名を口にすることがどうしてか恥ずかしくて、本当に親しい人たちの間でしか彼の名を口にすることがなかったように思う。そうしてたぶん、控えめな調子で、ただ好きだという意味合いを述べたに過ぎない気がする。
私は当時、太宰治の苦悩がよく分かるような気がしていた。特に、すべてのものへの違和感を持ち扱いかねている様子が作品の行間ににじみ出ている気がして、それに共感するところがあった。作品の中では、内面の弱さで生き方が左右される人たちに、境界を越えて寄り添おうとする姿勢を認め、それは自他の救済を願う作品形成の初発でもあり、目指すところでもあったに違いないと思われた。しかしその文学は、自らの心中によって道を断たれた。自らを救済し、他をも救済する、そういう作品は、ついに書き上げることが出来なかった。
太宰の作品の内側から発する光芒を感じながら、私はこの世に自分をどう処すべきかに戸惑いを感じていた。つまり、自分の弱さや負をどう処していくかについて。太宰的に処理しようとするならば、どうしても死の淵に傾いていくことを防げないという気がした。 作品に見られる限り、太宰の生き方は、ある時期から「負の十字架」を背負い込んだという気がする。それがいつとは断定できないとしても、意識に潜在する「罪」から片時も自由であることが出来なくなった。そして、対他の関係では常に身を低くし、泥沼に入ってあえて「汚れ」を身にまとうなどのこともあった。つまりは、防戦一方の人生を選択したのではないかとは言えそうな気がする。
しかし、相手が人間であれ社会や世間であれ、防戦一方の構えで何度か足のかかとが俵にかかった時に、太宰はたまらずに相手を突き放す攻勢に打って出ようとすることもあった。「子どもより、親が大事と思いたい」、「家庭の幸福は諸悪の本」、これらの言葉に、私はその典型を見る。言ってみれば、これらは俵に追いつめられた自分の位置を中央に押し戻すための言葉だ。俵に足がかかって、上半身を反らせたままの姿勢でいつまでも耐えられるものではない。そういう繰り返しのリズムが太宰の生涯にはあったように思えてならない。そして、それはそれで、いつ破綻が来ないとも限らないリズムに捉えられていたものと映った。
島尾敏雄の文学は、太宰文学に比較すれば、太宰文学から反撃の気配を抜き取って、いっそう守勢を貫いたものとして見える。弱さや羞恥や小心、みじめさ、格好悪さ、そういう主人公の内面が徹底的にえぐり出されて、何処まで行っても救いや解放が見いだせない世界が横たわる。先のたとえを使えば、俵に足がかかり、上半身を反らせたままの姿勢がいつまでも続く。島尾敏雄の文学はそれだ、と言ってみたい気さえする。
太宰治よりも徹底した負の姿勢。それは弱さという面を持つかもしれないが、そこにしなやかさと柔軟さが有り、決して俵から足を割らない強靱さがあると言っても同じことだ。ここまで来れば、作家は人間の基底に存在するに違いない「自然」を根拠として、それに確信を抱いているからいつまでもそういう姿勢を貫けるのだと考えられた。
私は自分の生き方について、島尾敏雄の文学世界から示唆を与えられたと感じた。
流布された理想的な人間像に対して、正確に自分を表そうとすれば、すべての面でマイナスの要素を持った自分を告白することになる。生きてある限りにおいて、対社会、対人間との関係にはこのマイナスが負債のように積み上げられていくだけだ。身体的な死が自らの上に完全に覆い被さってしまう以外に、この関係に終わりはない。そうして私たちはこの終わりのない関係を、どこまでも持ちこたえて行くほかに、生ききる術はない。島尾敏雄の文学は、そういう生から逃げられない、逃げない、そういう一つの極北を寡黙に指し示している。
私はその後、文学の状況やそのゆくえなどにはあまり関心を払わなかったが、島尾敏雄の日々の戦いの流儀だけは一時も忘れずに生活上の指針としてきた感がある。もちろんどれほど島尾敏雄の流儀にそっていたかに自信はないが、それは年々深く浸透してきたような気がする。
私は太宰や島尾を反面教師として、芸術家や作家の立場に立つことは、自分からは進んでならない方がいいと感じたし、出来れば世間の中に身を紛れ込ませて生きることをしたいと願った。それでも、どうしても表現に誘われたなら、その時にできる自分の表現に、おそらくは感じるだろう限界をそのまま認められるようであったらいいと考えた。つまり私はそれらを島尾の文学から学んだ、ということだ。
私は太宰のように、文壇における華やかな場所での起居振る舞いの経験もしなければ、島尾のような特攻出撃の待機の経験も、精神病棟に妻と一緒に暮らす体験もしたことがない。平和な日常の中で取るに足りない形でくすぶり続けてきただけだ。それでも、きつさという点では、及ばずとも劣るものではないという自負は持つ。もちろんこれは、いい気なもんだという見方と紙一重ではあるけれども。
余談ではあるが、島尾の作品には対社会や対他者に対して反撃の言葉を封じられ、あるいはそういう言葉を失った主人公の悲しみが漂う。そしてそれは、現在、親の子殺し、子の親殺し、夫婦間殺人、あるいは少年凶悪犯罪などのいたたまれない事件に重なるもののように感じられてならない。それはとてつもない飛躍に過ぎないのだが、平和の中のきつさのようなものに耐えられない、平和への不適応の問題の所在がその周辺に集約されてくるからなのだという気がする。その意味では、島尾の文学は今も「現在的」であることを失ってはいない。かえって、その完結性のなさにこそ、現在に続く問題性の新鮮さが遠く輝きを増してくるに違いないと思える。