思想とは何か
 
 
 親鸞、最後の思想
 
 吉本隆明の『最後の親鸞』は、およそ三十五年前の昭和五十一年十月に第一刷が発行されている。私は時々、これを本棚の中から取りだしては読み返してきた。何度か読み返してもその度に新鮮で、教えられるところがあった。それは言葉には表せなかったが、そして読み終えた後はいつもその時の思いは生活の中に埋没させてきたのではあるが、どう言えばいいのだろう、本書の中に見られた吉本や親鸞の言葉が少しずつ自分の血肉と化してきたという気がしないではない。とはいえ、当然ではあるが、すっかり自分のものにできたというわけではない。今回も、数回読み直しては、この書から立ち去りがたい濃厚な気分の中で沈思黙考、いろいろな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え、また波紋のような広がりさえ感じられて、何かまとまった考えが浮かんできそうな高揚した気分を覚えたりした。
 たとえば冒頭の文章の中に、こんなことが述べられている。
 
〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、私たちには不可能に近いので、いわば自覚的に〈非知〉に向って貫流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。
          (太字―佐藤)
 
 学び、考えることによって知識(知恵や見識)は豊かになる。豊かになった知識はそれ自身の欲望として上昇過程(深化と広がりの過程)に入り、さらに上に向かって頂きを目指すようになる。それは思考とか知識と呼ぶものの自然な過程だといっていい。これを中断したり、再開したり、自在にコントロールすることは不可能なことだ。このことは意外に気づかれてもいないし、考えられてもいない。学び、考えることは、知識としてはこの過程を踏む。これを往きの過程だとすれば、この先に還りの過程というべきものを想定できる。吉本がよく言う親鸞の「往相」とか「還相」とか呼ぶものを単純化すれば、この往きの過程、還りの過程のことだ。還相とは、たとえば頂きに辿りついた「知」が、ここでの吉本の言い方を借りれば「非知」に向かって下降していく、いわば還りの過程を指すと私はとらえている。いったん自分の中に蓄積された「知」を解体し放棄し、その上で「知」に非ざるものを見ることを課題とするからだ。本当に人間的といえるような「知」の作用は、この還相の過程に見られるのではないかと私は思う。
 ところで、もちろん観念の上昇過程にある往相の「知」は全てが頂きに辿りつくわけではない。怠惰や諦めや放棄によって、中途半端に終わることの方が多いと言っていいかもしれない。だが、ふるいにかけられるようにしながらも頂きを極め、上りつめるものがあることもたしかなことだろう。
 一般的に言って、頂きを極めたもの、若しくは頂きを極めたかのように錯覚したものが次に行為することは、啓蒙や指導といった類だと思われる。「愚者」のために「愚者」を高みに引き上げると称して、「知」を吹き込もうとする。だが、先の文章に見られるように、吉本は、「知識」(思想)にとっての最後の課題は「愚者」を高みに誘って啓蒙することではなく、また高みから愚かなる世界を悠然と見おろすことでもなく、逆に愚なる世界に紙一重の、すなわち「知に非ざる」世界に向かって寂かに着地することだと述べている。なぜなら、「知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である」から、というのが吉本の意とする文脈である。「知」から遠く、また縁がないものを「愚」(無智)と言うとすれば、「愚」(無智)は「知」の外側に位置しており、「知」を消した「非知」がやっと「愚」(無智)の近隣に(深淵を間に挟みながら)位置することができるといえるだけだ。「知」は、「無智」を体験できない。またもっとも遠くにある存在としての「無智」は「知」の側に引き込むこともできない。つまりは、「無智」や「愚」は「知」の内側では処理できないところのものであるから、これを切り捨てようとしない限りは「最後の課題」とするほかないものであると思える。もっと言うと、だから「愚」なるものに対してどのように対峙し、どのように接し、どのような関係の仕方を取るかが、「知」にとっての最後の大きな課題になるということになろうかと思う。
 吉本のここでの言説は、一般的に言って識者や指導者側の「知」という側面を問題にし、啓蒙や指導といった類のことは「知」の側面からは何ら高級なことでもないことを暗示している。私はこういうところを読んで、生涯のあちこちで突き当たった指導者然とした人たちにおぼえた疑念や不信や反感といった類の感情を喚起される思いがした。彼らに象徴されるほとんどの「知識」は、無意識裡にでも「高級」に装われ、白く塗りたる墓、荘厳な大伽藍を形成するにほかならないと感じられた。つまりは彼らの「知」が極めた頂きのその場所にあって、「知」は即「愚」に変じ「俗」に変じ、その最後的な段階において彼らの「知」の不徹底、頽廃を象徴するようにしか感じられなかったものだ。「愚」や「無智」をどう考え、どのように接し、どう対処するかは「知」自体の真偽に関わる。
 ここで吉本に語られている世界はしかし、「知識」の頂きを極めたものの最後の課題となる世界のことがらだ。言ってみれば頂きを極めることはむろん、裾野にさえ到らない私ごときの立ち入るべき世界ではないのかもしれない。そしてそれはその通りだと私は思う。しかしながら私は、吉本によって、何人も為しえなかったような「〈非知〉に向っての着地」を「最後の親鸞は、この『そのまま』というのをやってのけている」と言わしめた親鸞の思想的生涯に、大きく興味をそそられたことはたしかなことだ。私の手に負えないだろう事はたしかと感じながら、私は牛のような歩みで「その世界」(親鸞の思想、若しくは吉本によってとらえられた親鸞の思想)の全貌が見たいと願い、突き放されては近づくことを繰り返してきた。
 
しかし〈無智〉を荷った人たちは、浄土教の形成する世界像の外へはみ出してしまう。そうならば宗教をはみ出した人々に肉迫するのに、念仏一宗もまたその思想を、宗教の外にまで解体させなければならない。最後の親鸞はその課題を強いられたように思われる。          (太字―佐藤)
 
 なぜ念仏一宗が「宗教をはみ出した人々に肉迫」しなければならないかは、はっきりとしている。元々の法然や親鸞の思想の基盤が「愚者」への尊重に発し、「衆生」の救済を理念の根本においているからだ。「宗教」を広い意味での「知」に読み替えれば、「知」をはみ出した人々、すなわち「愚」や「無智」を荷う人々に肉迫するのに「知」に依存するわけにはいかない。はじめから「知」の外にあり、「知」の外とは「自然」と重なる無辺大の大きさと広がりを持つものだからだ。そして「知」をはみ出し、その外にある「無智」や「愚」に肉迫するには結局のところ「知」としての思想は自らを解体して、言いかえれば「無智」とか「愚」とかを内側に取り込んでいくしか方法がない。浄土真宗の祖としての親鸞はその課題に応えようとしたといっていい。
 そしてこの「最後の親鸞」において最終的に吉本は、親鸞は「知」によらない「絶対他力」の考えを徹底して深めていき、ついには他力の絶対性をも解体し、念仏門宗派や信仰の問題について「存知しない」とか「面々の御計らい」であるというところまで行き着いたと述べている。つまり親鸞は、「念仏」を信じるのも棄てるのも皆さんの心にまかせると言ったり、念仏で浄土に行けるのか地獄に落ちるのか分からないと言ったり、「弥陀の本願」が親鸞一人のためにあると述べたりということで、宗派的信仰を拒否する視点を持つところにまで到達したと吉本は考察した。
 ここまで考えてきたところにおいてさえ、私には、書きながら、考えながら、たくさんの啓発や疑念や不可解が脳裏に渦巻く。率直なところ、自己解体や「知」の放棄が思想的に本当に最後の課題となるのだろうか、そしてもしもそうであるならば思想とは何か、というのが問いの一つとなる。思想的に苦しみ、真へ肉迫した挙げ句に最後に残るものが「無」に近いようなものでしかないものであれば、いったいなぜ人は思想するのか。また、親鸞の思想は決定的に権力の外にあり続けたが、権力に結びつかない思想は現実的な救済の要素を全く持ち得ず、その意味では常に無力であり続けなければならない。それが思想の本質であるならば、党派性を越える透徹した思想、もしくは思想者といえども、存在する価値は奈辺にあるか。おのれ一人の戦いと、おのれ一人の満足に終わるのではないか。
 私のようなすれっからしの生活者からすれば、まがりなりにも修行僧として二十年あまりも修行し、経文を読み、さらに流罪を経て越後や関東で布教に励みと、静に激しく燃え続けた宗教者親鸞の生涯が、あたかも燃焼そのものがなんの意味もない無駄に帰結するような気さえして慄然としてしまう。俗に言えばそれは一生を棒に振ったと見えなくはないし、時として思想は、一人の個をそういうところに追いつめるものか、という感慨を持たざるを得ない。もちろん親鸞には親鸞を敬慕する多数の門弟がおり、後世には偶像に持ち上げるほどのファンも存在した。また現在でも吉本のような批評家や作家や一般大衆に到るまで、理解者や信奉者は数知れないといっていい。その意味では思想者としての冥利に尽きると考えることもできるだろう。だが、親鸞自身はこうしたことになんの興味も持たなかったろうし、そんなことはどうでもよいことだったにちがいない。ただ彼は嘘や欺瞞のない考えを徹底しただけだ。つまるところ、親鸞の思想の道行きにはそれが不可避であり必然であったという軌跡を見るほかないのだが、生きて思想するとは親鸞自身の内省する言葉にも見られるように、「そらごと、たわごと」の範疇内に留まるものでしかないのであろうか。親鸞のこうした姿勢も吉本の批評も、私などにはいくぶん消極的すぎるのではないかと映る。少なくとも読者の一人として爽快感など感じようがない。
 吉本は、最初の稿としての「最後の親鸞」
を次のような言葉で締めくくっている。
 
 最後の親鸞を訪れた幻は、〈知〉を放棄し、称名念仏の結果に対する計(はから)いと成仏への期待を放棄し、まったくの愚者となって老いたじぶんの姿だったかもしれない。
 
「思・不思」というのは、思議の法は聖道自力の門における八万四千の諸善であり、不思というのは浄土の教えが不可思議の教法であることをいっている。こういうように記した。よく知っている人にたずねて下さい。また詳しくはこの文では述べることもできません。わたしは眼も見えなくなりました。何ごともみな忘れてしまいましたうえに、人にはっきりと義解を施すべき柄でもありません。詳しいことは、よく浄土門の学者にたずねられたらよいでしょう。
 (『末燈鈔』八の吉本訳)
 
 眼もみえなくなった、何ごともみな忘れてしまった、と親鸞がいうとき、老もうして痴愚になってしまったじぶんの老いぼれた姿を、そのまま知らせたかったにちがいない。だが、読むものは、本願他力の思想を果てまで歩いていった思想の恐ろしさと逆説を、こういう言葉にみてしまうのをどうすることもできない。
 
 読みながらわたしは親鸞と吉本を重ねて考えている。いや、言葉や声が同質であるかのように錯覚してしまう。もちろんそんなはずはないのだが、親鸞思想の恐ろしさを読み取り、感じ取りしている吉本が、この「恐ろしさを共有」していないわけはないのだと思える。いったい何が恐ろしいのか。わたし個人は、現世において魂を滅することが恐ろしいのではなく、身と魂(「知」)とを滅するがままに滅し去ることの恐ろしさ、と比喩的に表現しておくほかはない。そして、「いや、そのことの何が恐ろしいのか」と再度問われるならば、もはや沈黙で返すよりは仕方がないのであろうと思う。
 要するに、「愚者」に紙一重となった「非知」の人である親鸞という老人には、信仰の問題も、浄土宗の現在や未来のことも、もはや第一義のことではなくなったということだ。まして他の宗派のことなどはどうだっていいというところまで無化してしまっている。ひとつの思想が、終末を迎えるに当たって自らの思想的な営為の一切を手放す事態がそこにうかがわれる。これは考えてみれば当たり前のことだが、この「知」からの静かな後退の劇は無意識のものではなく、覚醒した過程で行われていることに注意しなければならない。
 いずれにせよ、「衆愚」の一人として溶け込み、親鸞にとって「知」は遙か彼方のものとなりつつあった。それでも親鸞は生きて、娑婆の縁が尽きるまで生き続ける事になる。「知」が消えた後には「愚」が残り、「愚」の方がはるかに「知」よりも先だって存在するものであり、また拡がりを持って散在するあるものである。最後の親鸞は寂かにそこへ帰って行った。
「衆生」、「衆愚」とは、親鸞が最後に辿りついた「知の放棄」、「存知しない」、「面々の御計らい」等々をはじめから体得している存在である。極端な場合、彼らにとって、「知」とは己とは関係ないもの、無縁のものであった。親鸞は「知」の道筋を誰よりも遠回りに経由して、やっとそこに辿り着くこととなった。なんだ、はじめから「衆愚」に留まっていればいいだけの話ではないか。もちろん私も何度もそのことを自問自答した。そしていつも、そうだ、と結論するほかにどんな回答も見つからなかった。そして、もしも親鸞のような思想の深化を生涯にわたって追求する生き方に、何か価値が付与できるとすれば、それは不可避とか、受動性とか、強いられた生涯という視点でしか認められないという気が私にはする。「衆生」の救済を眼目とした「知」は、たとえ親鸞の「知」的営為の終末においてもそのすべての「衆生」の救済には結びつかなかったといっていい。ただ観念的な内部において、「衆生」は救済の道の可能性を付与されたに過ぎない。私の印象では、親鸞の「宗教知」的営為は、「衆生」を取り巻く環界、その余のものを、構造的、構成的に、しかもそれらを観念の内部において組み替えする、そういう営為だったように思われる。そしてそれについて、果たして意味があるかと自問すれば、親鸞思想の道筋は「衆生」を根こそぎ救済しようとする思想の、最初で最後のしかも最大の思想的営為であり、その思想的徹底ぶりは他に類を見ないといえるように思える。言葉を換えていえば、ここに思想の自立を体現した思想家の範を私たちは眼前に突きつけられたといっていい。もちろんそのことにさらにまた、「いったい何の意味があるか」と自らに問えば、私の沈黙は深さを増すばかりなのだが。
 
 
 親鸞思想の変遷と深化
 
(三願転入)
 親鸞の思想の変遷と深化を概観するのに、
三願転入を語る次の『教行心証』の文意が私などには大変分かりやすく感じられる。
 
このゆえをもって、愚禿釈の親鸞は、論主天親の解釈をあがめ、宗師善導の導きによって、ずっと以前に、さまざまの修行をおこないさまざまの善をなすというまだ自力をまじえた仮の門を出て、ながいあいだにわたり双樹林下に荘厳に往生するという考え方を離れて、すべての善の根源、徳の根本である真の門に転入して、ひたすら〈知〉をたよらない他力の往生の心を発起した。しかるにいま、とくに、方便や計らいの名残をのこした真の門を出て、弥陀の選択された本願に絶対に帰依する広い海に転入し、すみやかに、〈知〉にたよらないだけの往生の心を離れて、〈知〉を絶した絶対他力の往生への道を歩みきろうとしている。弥陀の「菓遂之誓」は、ほんとうに根拠があるというべきである。
(『教行信証』化身土巻八四の吉本訳)(太字は佐藤)
 
仮の門」を出て「真の門」に転入し、さらに「真の門」を出て「弥陀の選択された本願に絶対に帰依する広い海」に転入し「〈知〉を絶した絶対他力の往生への道を歩みきろうとしている」と語られている。
 これは出家して天台宗の慈円の門に入った後、二十年後に叡山を下りて京の六角堂に参籠し夢告を得て法然の門に入り、さらに法然らに連座して流罪になり越後に追われ、後に関東に赴いて教えた親鸞の実生涯によく重なって感じとられる。またこれは、通常は『大無量寿経』にある第十九願から第二十願をへて第十八願に転化する過程として結びつけて解釈されている。
 
   第十九願
もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生が菩提心をおこして諸々の功徳を修し、心を至して発願して、我が国に生れんとおもわん。寿終の時に望みて、もし大衆と囲繞して其の人の前に現れずば、正覚を取らじ。
 
   第二十願
もしわれ仏を得んに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念を我が国にかけ、諸々の徳本を植えて、心を至して廻向して我が国に生ぜんとおもわん。果遂せずば、正覚を取らじ。
 
   第十八願
もしわれ仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽してわが国に生まれんとおもい、乃至十念せん。もし生まれずば正覚を取らじ。
 
 若いときに修行僧として比叡山にいた親鸞は、第十九願にある、菩提心をおこしてよい行いを積み往生できるようにと、厳しい修行に耐えたと思われる。当時はそうすることで臨終の時に阿弥陀如来が大勢の仏様を連れてやってきて、必ず浄土に連れて行ってくれると信じられていた。たぶんこれは厳しい修行の仕方によって擬幻覚をつくりだす事だったと思う。臨終の際にそういうよい思いができるように、一生懸命修行を積んだり、よい行いをしなさいという教えだった。親鸞はしかし、途中でそういう考え方をやめて比叡山を出て、専修念仏を唱えた法然のもとに通うことになる。その時親鸞は第二十願の、阿弥陀如来の名号を聞いて浄土へ行こうと願いをおこし、諸々の功徳の根本を行うように努めれば必ず浄土に行けるという考え方を信じた。
 さらに法然のもとに通ううちに、もちろんそれは法然の影響が深くなったということを意味するが、親鸞はもう一度考え方を変えることになる。修行するとか功徳を積むとかを一切必要とせず、ただただ阿弥陀如来の第十八願の誓いを信じて十ぺんでもいいから名号を称えたら浄土に行ける、そういう考えを信じ第十八願の誓願に帰依するようになる。
 この三願転入の過程は、私には大変興味深い。まずはじめの第十九願には善行や厳しい修行のための、努力の勧めというものが透けてみえる。努力によって浄土という報奨が与えられる構造があり、浄土を成功や勝利と読み替えれば、これは今もなお私たちの生活社会のうちに息づいている。ここには個々人の自力や計らいというものが大きくウェートを占めており、まず本人がやる気を持って、その気になって努力することが必要とされている。学問、仕事、スポーツ、あるいは幸福や平和ということに関しても同様に、今日においても努力や精進が繰り返していわれている言葉である。
 親鸞は、こういう視点から振り返ってみれば、はじめに比叡山で修行をし、善を行い、徳を磨きと、一人前の僧になるための階梯を無難に上り続けたと考えられる。だがおよそ二十年の修行僧の生活、たぶん人知れず悩み苦しむこともあったにちがいないその生活の果てに、今流に言えば挫折して、修行の延長にみえてくる未来を棄てることとなった。厳しい戒律、修行、善行、そういったものに自分は耐えられない、適さない、そういう言葉を後日親鸞は口から漏らしているが、自分の側の不適格さばかりではなく、おそらく僧院内部に向かっての不満や疑義や憤懣が心に渦巻いてもいたに違いない。
 どんなことに、どのように疑義や憤懣を持つようになったかは別にして、当時、専修念仏を唱えた法然の名前や行状は若き親鸞の耳にもとどいていたと思われる。迷いに迷った後で比叡山を下り、親鸞は法然のもとに通い、教えを受けた。「知」や「愚」、「善人」や「悪人」であるかにかかわらず、誰もが自力の計らいをなくして、阿弥陀仏の他力を頼み念仏を称えるだけで平等に往生する、という教えだった。親鸞がどこまで法然の専修念仏の理念に感化されたかは私にはわからない。だが旧来の真言、天台の仏教に疑念を抱き、そこからの決別と新しい仏教の地平を探し求める端緒にあった親鸞にとって、法然の言葉は唯一無二のものに感じられたに違いない。
 吉本はこの三願転入の過程を、
 
人間的な倫理の高さ低さの差別の否定であり、善と悪との差別を相対化して、〈浄土〉という概念に含まれている、美麗なところ、清浄なところ、荘厳なところ、豊穣なところという、観想的なイメージの否定を経て、念仏のまえに、一切の人間は等しく『正機』に属しているという思想への過程としてみることができる。これはまた、一切の自力の痕跡を現世的な人間から消してゆく過程ともみなされる。
 
と捉えている。
 私は今、単純に自力聖道門から他力浄土門へ、その中でも法然の主張したわずかに自力の痕跡を残している本願他力から、全くの自力をなくした絶対他力へ、さらに絶対他力をも解体する親鸞独自の視点への転換の過程とこれを眺めている。吉本の「最後の親鸞」は、他力における「知」(はからい―自力)の放棄の仕方において、法然と親鸞との微妙な差異に言及している。そして親鸞はその差異、すなわち「知」(自力)をどのように処理するべきかについて生涯にわたって継続して考え、深化していったと吉本は見なしている。このことは「最後の親鸞」を読めば了解されることであり、ここで私は法然と親鸞の差異の本質を考えるために、親鸞の「非僧非俗」の考えを取り上げて考察してみたい。
 
(非僧非俗)
 
これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす
      (教行信証 後序)
 
親鸞僧儀を改めて俗名を賜う、よって僧に非ず俗に非ず、然る間「禿」の字を以て姓と為して奏聞を経られおわんぬ。 (歎異抄注記)
 
 法然のもとに身を置いて数年の後、いわゆる「建永の法難」に連座して親鸞は僧籍を剥奪されて越後に追いやられた。朝廷からは藤井善信の俗名を与えられたが、自ら申し出て「愚禿釋親鸞」を名乗るようになった。このときすでに僧にあらず俗にあらずの、すなわち「非僧非俗」は親鸞の内面に決意されたもののように考えられる。
 僧籍を剥奪されたから僧ではなくなったが、それでは僧には非ざるという意味での俗人なのかといえば、たとえば藤井善信の名をそのまま了としていたならばそのことを肯定したということもできよう。しかし、そうではなかったというところに、親鸞には俗人でもないという思いが確かにあったのであると思われる。僧ではない。では俗人かと問われれば俗人ともいえない。俗人であるためにも資格があって、過去の僧としての生活が自分に決定的な何かを刻印している。僧でもなく俗人にもなりきれない。あるいは俗人になりたくない気持ちもあったのかもしれない。いずれにせよそうした内面の葛藤が、「僧にあらず俗にあらず」の言葉の奥にうかがえる。
 この時点で、親鸞における「非僧非俗」は単に観念的な内部の出来事に過ぎなかったに違いない。だが越後での生活の中にあって、このことは単に観念の問題であるばかりではなく、おのれの境遇、不可避の生き様として観念と生身とで引き受けなければならないものであった。
 「僧にあらず俗にあらず」という認識、自覚は、たいへん親鸞的であったと私には思える。なぜなら法然をはじめとして罪科に連座した他の僧たちが、同じく発想したことは聞こえていないからだ。先に引用した「教行信証」の後序の文には、朝廷や旧仏教に対する憤怒が感じ取られる。
 当時の一般的な考えからすれば、僧であらざるものは俗であり、俗でないことは僧籍にあることを意味していたと思われる。それならば、僧でもなく俗でもないというあり方はあり得ただろうか、あり得なかっただろうと私は思う。「では、おまえは何者か」という自問の中で、親鸞は唯一そのあり方を「禿」あるいは「愚禿」という言葉で示している。まあ、坊主頭とか禿げ野郎くらいの意味であろうか。もちろん、これは僧でもなく俗でもないあり方の答えとしてまともな答えとはいえないものだ。しかし、そういうほかはなかったのである。なぜならば、あり得ないものをあるとこじつける、いわば方便をここで親鸞は使う以外になかったからだと思える。
 私はここで太宰治の「鳥でもない、獣でもない、人でもない」という声や、吉本隆明の「異数の世界へおりてゆく」という詩句などを思い浮かべる。言うまでもなくこれらは親鸞の表現と同じく、窮極の疎外感、疎外された自分の孤絶の位置を示すものになっている。太宰は続けて人間失格と記し、絶体絶命の立場から読者に永遠に答えの出ない問いを投げかけ、逆説的にその存在の根拠を揺さぶった。身を挺して、世間の人々に自分の感覚の真、その是非を問うたのであり、負の十字架を背負う消極的な決意の表明にもなった。
 吉本の詩句の表現は、太宰に比べるとやや積極的な決意の意味合いが付加されている。
 
けれど
その世界と世界との袂れは
簡単だった くらい魂が焼けただれた
首都の瓦礫のうへで支配者にむかって
いやいやをし
ぼろぼろな戦災少年が
すばやくかれの財布をかすめとって逃げ た
そのときかれの世界もかすめとられたの である
(中略)
生きる理由をなくしたとき
生き 死にちかく
死ぬ理由をもとめてえられない
かれのこころは
いちはやく異数の世界へおりていったが
かれの肉体は 十年
派手な群衆のなかを歩いたのである
     (「異数の世界へおりてゆく」)
 
 親鸞にとって朝廷による僧籍の剥奪はそのまま、生きる場所を奪われることであった。生きる場所をなくしてなお生きることが強いられるとき、親鸞のこころは死にちかく、それはまた俗世間にはあり得ようもないこころの有り様であった。親鸞の身は俗に追われて俗のなかを生きながら、こころだけは動かしようもなく僧を生きるほかなかったのである。なぜなら、幼少から僧籍にあって培ったおのれのこころは、俗世間にあるべきこころからははるかに隔絶して仏教思想に骨がらみとなっていたからに違いない。吉本の詩句の言葉を借りれば、親鸞は「僧にあらず俗に非ず」という「異数の世界へ」、いちはやくおりていったのである。
 
 ところで、「非僧非俗」を深読みすれば、もう少し何か言えそうである。それは、ここまで執拗に僧でなければ俗であり、俗でなければ僧だという当時の社会的一般的な区分というものを考えてきたが、そうではない見方もできそうに思えるからだ。殊に親鸞のように鋭い感性の持ち主であれば、仏教世界の内実がほとんど俗そのままである、とその目に映し出していなかったであろうかと私は思う。
 僧世界に名僧とうたわれながら俗世間に隔絶した厳しい修行などは放棄して、名声や利得、寺院の興隆にばかり目を注ぎ、あるいはまた槍や刀を携えた僧兵を多く抱えるなど、やっていることは権力と結合した政治的な立ち回りばかり。それはまた下級の僧にも波及して、表向きばかりの仏僧の体裁に汲々としている。これでは僧世界は見かけだけが僧であって、本質の所では俗世界と何ら変わりがない。僧の内に俗が入り込んで、僧の実体は俗である。「僧にあらず」とは、こうした状況にある僧世界にする訣別の意志、と重なって私には聞こえてくる。となれば、「俗にあらず」の言葉も実体として俗世間に生きる俗人になりきれない思いと同時に、先における同じ意味合いとしての「俗(‖僧)」を拒否する言葉であるようにも思えてくる。
 親鸞は、最終的にこの道しか私には残されていないと言っている。僧の道でもない、俗の道でもない。もしかすると、普通の人間の生きる道とは異なった道なのかもしれないが、自分には不可避の残された道なのだ。と抑制した声で、しかし無二の強靱さで私のこころに訴えてくる。
               (つづく)
 
 僧に非ずは、後鳥羽院らに押しつけられた境涯に他ならなかった。しかし、これに付け加えるに「俗に非ず」の声は、親鸞の思想的な自覚である。親鸞は越後に配流されるに当たり、その位置なき位置、立場なき立場に生きることを決意した。非僧がそのまま非俗である位置とは、現世にあり得ない架空の生き様を生きようとする意志に他ならない。そんなことが可能かどうか、いや、それが可能でないとしても、道なき道を訪ね歩くように這ってでも前に進まなければならない。それが親鸞の固い意志、というよりも不可避の道程であった。彼は配流された越後の地にあって、僧形を拒否し俗体に姿を変えながら、普通の世間の人たちの姿の中にあってなお異貌の人であった。
 親鸞には何かが残っていた。残り火のようにかすかで頼りないが、その頃の彼を支えているそれは全てであったかもしれない何か。法然の導きによって出会えた専修念仏、「知」の放棄、第十八願への帰依、すなわち「念仏者」親鸞だけが残っていたのであり、さらにこれを本質として言いかえるならば、言葉と言葉に託される思想とが残っていたのだと私は思う。
 親鸞は、本願に憑かれていたのである。本願の言葉を生きる在家の「念仏者」として生きるほかなく、その意味では本願の言葉だけが親鸞の生きる理由であった。
 
 流罪が決定して「愚禿」を自称した親鸞には、僧にあらず俗にあらずを体現した一人の念仏者の口伝えや記録が知られていた。賀古の教信沙弥その人についてである。
 教信は興福寺の高僧であったが、あるとき回心してそれまでの地位と名声とを捨て、諸国を行脚した後に播州賀古に草庵を造って住むようになった。もはや本尊を側に置くこともなく、経文などを手にすることもなく、ただ欠かさず名号を唱えて日を送った。
 教信には妻がいて子が一人いた。生活は、農家の田畑の作業や旅人の荷物運びの手伝いをしたりなどして、食料や工銭を得てやりくりしていた。喜捨を乞うこともなく、勧進することもなかったという。
 伝えられる教信の姿は、一般的な遁世者、捨て聖の姿とは異なっている。公然と妻帯し、一人の子をもうけ、身一つで働き飯を食いつなぐ普通の世間の人の姿であり、ただ一つ称名念仏の実践に異貌の姿があった。親鸞はそこに「非僧非俗」と、本物の僧、現在で言えば自立した思想者の理想的な姿を見いだしていたに違いない。
 私の心にもいつからか、この教信の姿が離れずに居座り続けてきた。何かよくわからないが、徹底した僧体放棄、僧知識や僧としての思い上がりを放棄する姿として、畏敬の念を持って眺めてきたという気がする。今教信のこの姿をあえて思想的な言葉として述べれば、僧と俗との合体、労働者、未来の生活者、未来の人間の理想としての生き様を、もしかするとそこに見た方がよいのかもしれないと考えている。この場合、非僧非俗は単独での僧と俗とのそれぞれの立場の拒否である。もっというと階級としての僧と俗の拒絶であり、個別の階級が無化された状態と見なすことができる。教信の生き様にはその範型が秘められていて、すでに教信はその意味を知った上で実践していたのではないのかと私は穿鑿する。非僧非俗は単に教信が単独に生きる生き様ではない。僧も俗も、やがてあらねばならぬ境涯の行く先を指し示している。
 もちろん、称名念仏が理想社会の住人に必須だというのではない。あくまでも比喩としてとらえてのことだが、具体的に言えば「知」の本質がそのまま大衆のものになっている状態のことを指しているのだ。そういうときが、果たしてくるのかどうかはわからない。だが、そうならなければこの世界がいつまでも変わり映えのしない世界であることも私には自明のことのように思える。(つづく)
 
 遁世のかたちをこととし、異形をこのみ、裳無衣を着し、黒袈裟をもちゐる、しかるべからざる事。それ出世の法においては五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、内心には他力の不思議をたもつべきよし、師資相承したてまつるところなり。
 しかるにいま風聞するところの異様の儀においては、「世間法をばわすれて仏法の義ばかりをさきとすべし」と云云。これによりて世法を放呵するすがたとおぼしくて、裳無衣を着し黒袈裟をもちゐるか、はなはだしかるべからず。『末法灯明記』には、「末法には袈裟変じて白くなるべし」とみえたり。しかれば末世相応の袈裟は白色なるべし、黒袈裟においてはおほきにこれにそむけり。
 当世都鄙に流布して遁世者と号するは、多分、一遍房・他阿弥陀仏等の門人をいふか。かの輩は、むねと後世者気色をさきとし、仏法者とみえて威儀をひとすがたあらはさんと定め振舞ふか。
 わが大師聖人(親鸞)の御意は、かれにうしろあはせなり。つねの御持言には、「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」と云云。しかれば、ことを専修念仏停廃のときの左遷の勅宣によせましまして、御位署には愚禿の字をのせらる。これすなはち僧にあらず俗にあらざる儀を表して、教信沙弥のごとくなるべしと云云。これによりて、「たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるやうに振舞ふべからず」と仰せあり。この条、かの裳無衣・黒袈裟をまなぶ輩の意巧に、雲泥懸隔なるものをや。
(覚如「改邪抄」より)
 
 親鸞が門弟たちに、教信を範としていることを常に申し述べていたことが伺われる件だ。すなわち京を離れ、越後や関東に身をおいていたときの親鸞の思想的姿勢とはそういうものであった。つまり、教信を範として、僧に非ず、俗に非ずの態で身を処していたものと思われる。
 教信は同時代の聖、世捨て人、隠遁者とは明らかに様子が違っている。寺を出て諸国を放浪し、その先で庵をむすび、妻をめとって子どもをなした。家には仏像といった類の本尊を飾ることもなく、経文も読みもせず、持ってもいない。その生活には、仏教思想を深めるとか広めるとかの一切の意図がないと見受けられるほどである。いわば念仏を行うほかには全て断ち切っているように思われる。そして終生怠ることのなかった念仏は、ただおのれ一人のもの、という気配が濃厚である。いわゆる道を究める姿であるといえる。
 仏教関係者に交わることをせず、身体は農作業の手伝いとか荷物運びとかの日雇い的な暮らしの中で、俗社会の中にすっぽりと身を浸した生活をしていたように見える。現代に置き直してこれを考えれば、知識を気取ることもなく、風流や知的雰囲気を見せびらかす風もなく、ただ一介の日雇い人として身を世間に置いているだけだった。もちろん教信はかつては僧籍に身を置き、修行や学問や功徳を積みといった経歴を持っている。今日でいえば大学の教授、あるいは准教授くらいだったと想定することもできる。その彼が念仏三昧のほかは、一介の日雇い人として後の生涯を費やしている。これはなまじの決意とか発心とかで貫ける生き様ではないと私は思う。 親鸞は教信を範としながら妻をめとり子をなし、やはり俗世間の中に身を置いた。だが、そこから先は教信とは違っていたように私には思える。親鸞は、いわゆる在野、在家の仏法者として振る舞った。つまり、仏教や念仏について近傍のものたちと話題にしたり語らったりしたであろうことが、後に書かれた彼の門弟たちの著作等から想像される。それが布教活動に当たるのかどうか、私には分からない。また、それが越後においてもそうであったかどうかは定かでない。だが、赦免後に
京には戻らずに赴いた関東にあって、親鸞は明らかに布教活動めいたことを行ったであろうことは確からしい。
 先にも記したが、教信には念仏者として道を究める姿勢が浮かび上がってくる。一方親鸞にとっての念仏は、衆生救済の手段の一つと解されていた。もしくは、念仏は自分をも含めた、生きとし生けるものの救済のための手段であり、方法であった。
 
そもそもまた大師聖人もし流刑に処せられたまはずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。これなほ師教の恩致なり。(覚如「御伝鈔」)
 
 越後という辺鄙な地の人々の教化、感化について、覚如は親鸞の言葉を「御伝鈔」に伝えている。覚如の書き記したところを信じれば、親鸞は配流された越後の地で人々に向かって念仏を教え、導いたということになる。これは教信の行き方と微妙なニュアンスで異なって聞こえてくる。この違いが私にはよく分からない。一種の布教活動ではないかと考えられ、そうだとすればなお親鸞には教信よりも「僧」の部分が残っていて、それに引きずられていたと解される。これは「非僧」に徹底したかしないかというよりも、人格の違い、思想の型の違いであろう。教信の思想は閉鎖的に見え、親鸞の思想は開放的に見える。
 では、親鸞の布教活動が一般的な僧侶としてのそれであったかといえば、そうではなかったと私は思う。親鸞は僧でもない俗でもない一人の念仏を信じる思想者として、その思想を衆生がどう受け止めるか、衆生の中に入って問うたのだと思える。それは結果として布教と見なされるかもしれないが、親鸞には衆生を専修念仏の信者に釣り上げようとする意図はなかった。逆に衆生を重たい存在と見て、念仏思想が通用するものかどうか、その真価を問うたと考えた方が妥当ではないかと思われる。親鸞にとって自分の念仏への「信」に共感、共鳴する衆生が現れても、彼らを自分の弟子とは考えなかった。唯円の「歎異抄」には、「親鸞は弟子一人も持たず候」という言葉が見える。また、
 
その故は親鸞は弟子一人も持たず、何事を教えて弟子というべきぞや、皆如来の御弟子なれば皆共に同行なり(覚如「口伝抄」より)
 
それがしはまたく弟子一人も持たず、その故は弥陀の本願をたもたしむる外は何事を教えてか弟子と号せん、弥陀の本願は仏智他力の授けたまうところなり、然ればみなともの同行なり、私の弟子にあらず(覚如「改邪抄」より)
 
その故は如来の教法を十方衆生に説き聞かしむる時はただ如来の御代官を申しつるばかりなり、更に親鸞珍しき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり、その他は何を教えて弟子といわんぞ
(蓮如「御文章」より)
 
などの言葉が見られ、親鸞にとって念仏者は徹底して「同行」、「同朋」であった。すなわち自分は教え導くものとしての教育者的立場になく、逆に非教育者的でそれは徹底的であった。親鸞にとっては自分が衆生を教え導くことは、何よりおこがましいことであった。その立場になく、ただ如来の教法を自分は信じてそれを人にも教え聞かせるだけのことであった。あくまでも教え導くのは如来がその主体なので、人間はその前に皆平等であるという考えが親鸞の言葉には含まれている。
 
 弥陀の誓願を信じて念仏を唱えることにおいて、親鸞と教信に大きな違いはない。教信はあくまでもそれを内心奥深くに蔵し、親鸞はその信心を近傍の人たちとも分かち合おうとしたといっていいだろうか。微妙なそうした差異があり、わずかな差異はまた決定的であるともいえる。だがしかし、親鸞の「僧にあらず」の姿勢は教信から受け継いだものだ。
親鸞と違って教信には罪科に問われたり僧籍を剥奪されたという形跡はない。教信にとっての「僧にあらず」は自らの意志と見ていい。捨て聖など、当時の風潮から見れば僧籍からの離脱は特殊なこととは言えず、案外いくらでもあり得たことのように思われる。だが教信の姿は、当時流行したと思われる一般の捨て聖の姿とも違っている。それは、喜捨を乞わず、農作業の手伝いや荷物の運搬などに従事して食料や工銭を得ているところに顕著な違いが見える。日々の暮らしは全くといっていいほど衆生の、それもつましい下層のそれであった。
 親鸞にとっての「非僧」は、教信とは思想を生きる行き方において微妙に異なり、形骸化していた旧仏教、あるいは先行する仏教思想へのことごとくの疑念や不信を内実にしていると思われる。いわば仏教思想の埒内における、内的で思想的な格闘が、親鸞の「非僧」の真骨頂であると私は感じる。教信の生き様や姿には、疑念は感じられても旧仏教や旧仏教思想に対する超克の意味も意志も感じられない。ただひたすらの念仏三昧の中で、それらの思いを昇華していく行き方のように思える。
 親鸞の「非僧」をイメージさせるような挿話が、「改邪抄」に伝えられている。
 
つぎに、堂を造らんとき義をいふべからざるよしの事。おほよそ造像・起塔等は、弥陀の本願にあらざる所行なり。これによりて一向専修の行人、これを企つべきにあらず。されば祖師聖人御在世のむかし、ねんごろに一流を面授口決したてまつる御門弟達、堂舎を営作するひとなかりき。ただ道場をばすこし人屋に差別あらせて、小棟をあげてつくるべきよしまで御諷諌ありけり。
 
中古よりこのかた御遺訓に遠ざかるひとびとの世となりて造寺土木の企てにおよぶ条、仰せに違する至り、なげきおもふところなり。
(「改邪抄」九より)
 
 仰々しく寺を造ったり仏像を造ったりすることは必要ない。ただ寄り集まって法話を語り合うときの集会所としての道場は、一般の家屋とは少し区別して、小棟をあげてつくったほうがいいと親鸞は示唆するにすぎなかった。引用文の後ろに見られるように、親鸞亡き後の覚如の時代には「仰せに違する」「造寺土木の企て」が「浄土真宗」のあいだにも及ぶことになってしまっている。親鸞の「非僧非俗」の思想は消えかかり、浄土真宗もまたありきたりの仏教宗派のひとつに成り下がろうとしていたと言えるかもしれない。
 角度を変えたところでいえば、衆生が生きる俗世間というものは、いったんは親鸞の抱いた「非僧非俗」の思想を受け入れたかのように見えても、それで根本的に変わるといった態の生やさしい存在ではない。逆に底なし沼のように「非僧非俗」の思想までをも呑み込んで、埋没させてしまうほどの大きな存在である。だがなぜ、親鸞の「外見を飾るな」という思いは時とともに風化してしまうのか。これがそれほど人間の本能や欲望を規制する、いわば反自然的な要求だとは思えない。あるいは少しは反自然的な要素を持つといっても、これがそんなに我慢のならないことだとは少しも思わない。立派な寺を建てるにも相当の工事費がかかり、それは結局貧富こもごもの念仏者たちの寄進によって成り立つほかはない。わずかではあっても血と汗との結晶であるかもしれない身銭を切ってまで、立派な寺を建てたいとどうして信者たちは思うものなのか。それはしかし、現在においてもたとえば東京都庁をはじめそれぞれの自治体の役所の庁舎を見ると、その目を瞠るばかりの驕奢な有り様に、実は体面を誇示したがる世間の人々の心象は脈々と続いていると思える。
 親鸞も教信も思想者としての魅力にあふれていると私には感じられる。けれどもどんなにラジカルな思想者の思想を持ってしても、現実の社会の大きさと強さのまえには、やがて風化と埋没を避けることはできないように思われる。それを思うとこころが萎える。
 悲観的になると、現代こそ空虚な大伽藍全盛の時と思い、学問も知識もこの現実社会の前に無力な形骸化した代物と見えてしまう。少なくともそれらは個別化し、専門化し、大部分はかえって個々の人間にとって疎遠なものになってしまっている。にもかかわらず、ひとりひとりの人間にとって形骸化して感じられるものが、社会にあっては必要不可欠の何事かであるようにイメージされている。だがそれらは生きて生活する私たち衆生の苦しみや閉塞感に、どんな希望も力も与えてくれはしない。私たちは、決して思い上がった学問や知識といったものを求めているのではない。だが世間では私たちの実感よりも、社会における必要不可欠のイメージの方が重要視されている。ちょうど、大きくて立派な寺の内部に入ると荘厳な感じがして俗世間に隔絶した神秘が漂っているように思えたりするが、それは建築上にそれを感じさせる工夫がなされているのであって決して内実からのものではない。本当は衆生にとっては寺の大きさは何の意味もないはずなのだが、誰もがありがたがって本堂の前に手を合わせたりしてしまう。同様に社会のイメージは、学問や知識の蓄積を善であり徳であると信じ、また信じさせたがっているのだが、本来はそこに善も徳もなくただ進歩という自然過程が存在するだけだ。つまり黙ってたってそれは進歩していく以外にない。また発見といっても、人間は発見できるものを発見するというにすぎない。
学問や知識の進歩が、社会の進歩や生活の利便性などに結びつくことは言うを待たないが、一方で、人々にとっては疑念や不信の対象であるというのが現代社会の雰囲気として存在する。つまり学問や知識の進歩や拡大がよいことであることを信じたいし信じさせたくもあるのだが、そう信じられるほどに私たちの日常で実感に訴えかけてきてくれるものになってはいないということなのだ。逆に、ある場合には迫害するかのように感じられなくもない。「私」個人にとって、生涯の中でそれほど寄与してくれたとは言えない学問や知識の蓄積が、どうして世間的には上位の概念として君臨し続けられるのか私には分からない。俗世間的な言い方をすれば、世間的に「教育が大事」といわれているほどに「教育」は何もしやしないじゃないかと私は思い続けてきた。反論はいくらもあるに違いない。だが私のこれまでの生涯の実感によれば、「教育」なんて結局の所、利よりも害が多いと感じられる。私はこれによって悩み苦しんできた。
 教信や親鸞の「非僧」は、私には「教育者にあらず」「指導者にあらず」「知識人にあらず」と読み替え可能な概念だ。先に、教信は自らの意志で、そして親鸞は朝廷からの冤罪を契機として「僧にあらず」の道を歩んだと記したが、それをさらに掘り起こして考えれば時代の状況とそこに生きる衆生の姿や思いがそうさせたといっていい。災害や悪天候による農作物の不作や、また貴族社会から武家社会への移り変わりの騒然とした状況の中で、衆生には寺院も僧も自分たちの飢餓や貧困や苦しみに対して、何の助けにもならないともはや自明のことのように思われていたに違いない。教信も、法然や親鸞もそうした時代背景や衆生のこころをいち早く感知して、そういうことに疎く鈍感な旧態依然とした旧仏教、南都北嶺から訣別していったに違いないと思える。そして時代や衆生が真に求めているのは何かを賢明に模索し、衆生の求めに必死に応えるべくその後のあり方をそれぞれに歩んだ。彼らにあったものは、「知」におごらずに、真摯に衆生のこころに向き合ったというただそれだけのことだ。衆生のこころの微細なニュアンスに真摯に耳を傾け、その沈黙の声を鋭敏に聞き分けることができた。人間にとって、それ以上の何が必要であろうか。誰も耳に届いた声、沈黙の中の真実の声や言葉に無関心で居続けることはできない。教信も法然も親鸞も、その声や言葉に動かされたのである。賢しらな「知」をことごとく放棄せよと。
 
 考えてみれば、仏教あるいは広義の宗教の発生の源は、人が生きている現実の場にあったに違いない。人々が生活する社会的な状況の中に生き、貧困や災厄に喘ぐ人々の胸を痛めるような様子に出会い、現実を変えたいという人々の願いや雰囲気に触れ感じ取ることにより、あるいはそこに一人の宗教家が誕生し、後世に偉大といわれる宗教へと発展した。
 仏教もそういった宗教のひとつであり、発生の当初には混濁する現実や現実社会に生きる人々こそが母体であったに違いない。だが多くの宗教やその他の組織や団体がそうであるように、いったん完成の姿を取るようになってしまうと、当初の発生力学的な面は解消してしまい、組織の維持や拡張に関心が向いてしまいがちになる。そのため、現実的な発生母体から遊離してしまうのだ。
 おそらく教信や、後の法然や親鸞に代表される浄土宗派が、既成の宗派や仏門から離れていったことには理由があり原因がある。既存の仏門、宗派にあっては自分の宗教者としての信念の生きる場がなかった。言いかえれば困窮する衆生の願うところにも応えられず、
こんな実態でいいのかという自分の疑念にも一切応えることのできない旧態依然の、だが堅牢な仏教界その枠組みから抜け出る以外になかったと思われる。時代や状況から鋭敏に感じ取ることのできた感性の持ち主だったからのことである。
 法然にはしかし「非僧」の立場はなかった。新たに、別個の専門の僧集団を立ち上げたということになる。一時、その法然門に出入りすることはあっても、流罪を言い渡された以後の「非僧」の親鸞には、同行の志はあってもはっきりと法然の浄土宗派に帰属するという意識はなかったと思える。越後に流された後、赦免を得て、京に向かうのではなく関東に赴いて独自の布教を行ったことからも推測される。それは僧という概念における専門性の拒否であり、党派制の拒絶であり、在家であたかも同人雑誌の同人を募るような活動であったと見ることができる。
 
(衆生)
 親鸞や教信の思想的な展開は、私にはたいへん魅力的に映る。その理由について考えてみたい。
 彼らが生きた時代、「考える」ことをして生きるということは仏教門に入ることであった。仏教は当時、世界的に最先端のアジア文明の所産であり、知の宝庫である。現在、ヨーロッパの文明や知が世界を席巻しているのに似て、少なくとも当時の日本においては仏教がその位置にあり、その教えに学び生きることは知の先駆的な課題であったろうと思われる。言いかえると、現在の私たちが知識を獲得したり、あるいは学問をし思索・研究の道を志したりしていることは、当時としてはほとんどそのまま僧になる以外に道はなかったと思われる。
 ヨーロッパ知というものは知の領域、分野を徹底的に細密化し、分化し、専門化していった。私たちはその影響下にあってそのことが一般常識になっているが、親鸞たちが生きた時代にはそうではなく、仏教によってもたらされた知の総体を一人ひとりが獲取すべく努めていたと思われる。私のイメージでは、僧侶とはある場合先生であり、医者であり、哲学者であり、生物学者であり、政治学者であり等々多義的な要素を含んでいる。このように、全体性を保持した思潮の流れの中で逆に言えば個々の知は、今から見れば曖昧で迷妄の中にあったということもできる。
 仏教も含め宗教というものは、外からうかがえばとてつもない矛盾と異様さを抱え込んでいるように見える。しかし、たとえば仏教においてもいったん内部に入り込んでその世界を見ると、たいへん精密に、そして突き詰めて考えられている世界であることが了解できる。その意味ではけして侮ることができない世界であり、私たちの知や思考がとうに通り過ぎた世界であるということもできない。ヨーロッパ知においても依然として未解決の思考、未解決の課題は、アジア的仏教知においても現在という時間性の中で実はすぐ真横に横たわっていて、いずれにおいても解決困難であり、同時に人類は二つの方法を生み出しそれは同じ課題を背負っていることが理解される。それは簡単にそして素朴にいえば、「人類の平和と幸福」などと使い古された言い方をするしかない。それはアジア的なアプローチの仕方をしても、ヨーロッパ的なアプローチのしかたをとっても実現できていないということだ。が、依然として、アプローチの方法としてはこの二つが双曲として現在に並び立っている。もう少しいうと、ヨーロッパ的知の閉塞感が感じられるようになった現在に、仏教に象徴されるアジア的知が再び浮かび上がってきたというべきかもしれない。 ところで、こういう考え方からすれば、教信や親鸞が出家して仏門に入ったことは、今でいうならば知識人を志したということを意味する筈だ。いうまでもなく私は二人を仏教者とか宗教者とかとして、それらの内部にあって興味を持つものではない。今でいう知識人として、当時どんな道をたどったかに興味があるのだ。
 
 結論から言えば、私は「衆生」に対してどう向き合うかがたいへん突出して特異な存在であると二人を見ている。
 衆生とは仏教的にいえば生きとし生けるものの全ての存在を指すようであり、時々は世俗の人々を指すようであったりと正確には私は分からない。だから、おおむね今でいうところの大衆や民衆や国民、生活者一般の意味でこれを使おうと勝手に思っている。
 教信は一見捨て聖の風体だが、生活は全く衆生のそれである。手伝いや日雇い風の、いわば体を使ったはたらきをして工銭や食料を得た。先にも述べたが、これは教信に相当の思想的信条がなければ、できないことであったと思われる。
 働いて、稼いで、糧を得る。何といったらいいか、生きることの原初から未来永劫に続く核心、根本義をかたくなに守ろうとする意志が、彼の少ない口伝から伝わってくる。そこには、その他一切は取るに足りないことだという主張が聞こえてきさえしそうである。少しうがって考えれば、教信はそこに(衆生の生き方そのものに)価値を置いていたということができる。働いて、稼いで日々の糧を得る、それが生きることにおいての価値が生まれる場であり、また価値のある生き方であるというように。
 教信がそう考えていたかどうかは本当は分からない。これは私の想像である。この想像からさらに私は、教信はどうしてそう考えたかを考える。働いて稼いで糧を得る、それは価値でも何でもなく、当たり前といえば当たり前のことじゃないかと考える立場はある。
 教信の考えには消去法があったろうと私は思う。
 世の中にはいろいろな考えがある。つまるところそれらはいろいろな立場が言わせる言葉である。立場や状況などに左右されない核心的な言葉とはなにか。教信にとってそれは「南無阿弥陀仏」の念仏の言葉であったろう。では同じく立場や状況に左右されない核心的な生き方とはなにか。畢竟それは大多数の人々が無意識に選択し、無意識に履行している生き方に他ならない。他の生き方は何らかの条件が加味され、変数に左右された生き方である。働き、稼ぎ、糧を得ることこそが人間が取るべき生き方の道である。それは定数として、かけ合わせる係数や変数や条件が存在しなければ、必ずそうするほかにないという生き方の王道である。その価値ある生き方を実践しているものは誰かといえば、俗や愚を体現する衆生に他ならない。
 もう一度いえば教信がこう考えたかどうかは分からない。私はこう考えたのではないかと想像する。だからこそ教信は伝わっているような生き方をしたのではないかと私は思う。 教信のような生き方はしかし、考えようによっては自己満足的な生き方にすぎず、何も生み出さない生き方ではないかと考えることができる。もっというと、つまんねぇ生き方じゃないかと見えなくはない。私も幾分かはそう思う。果たしてそれでいいのだろうか、というように。
 みんながみんな教信のように生きたら、それは何となくつまらない世界だ。遊びがない。楽しみに欠ける。人間は悪事もすれば、怠惰に過ごすことや、好奇心でもって善悪を顧みずに行動したり考えたりもする生き物だ。教信は衆生の生き方に核心的な部分を見いだしたかもしれないが、あまりにも痩せ細りの衆生の生き方にこだわりすぎて、衆生の全体像からはかけ離れた。私の見方はそうなる。
 いっそのこと念仏も捨てて、世俗に生きる衆生そのものとして生きて悪いことはなかった。ということは、思想するものが信念や信条を、つまり思想するそれ自体を放棄することだが、実際の教信はどうだったのか。念仏を捨てきれない自分を肯定していたか否定していたか。もしかすると、一介の衆生としては欠点であると見なしていたかもしれない。衆生そのものに成りきりたいのだが、成りきれないのだというように。
 いずれにしても、教信はひっそりと衆生の間におさまって、衆生の傍らにあり続けた。彼にとって衆生は単なる愚鈍の民を意味するものではなかった。愚そのものではあるかもしれないが、その愚は知から見下げられるべき愚ではなくて、いってみれば知の故郷と言ってもよく、別のいい方をすれば衆生の誕生の時から経過してきた時間が愚には刻み込まれているということなのだ。それは由緒ある万世一系の愚だともいえる。だからこそ教信は愚なる衆生の傍らにあり続けたといってよい。教信にとって衆生とはこの世と同じように離れがたい故郷であり、安堵され、教信によって価値が付託された同朋であった。
 
 教信を範とした親鸞もまた、天を仰ぎ自らを世俗や衆生の群れから聖の高みへ押し上げ、いと高きところに位するというよりは、下へ、下へと下降するそういう傾向を持った人であった。彼にとっても衆生は教え導くといったような、軽くあしらえる存在ではけしてなかった。おそらく宗教知としての親鸞が無智としての衆生に語りかけるとき、親鸞の知は衆生そのものの生き方から逆に知の根拠を問われるほどの反撃を受けたはずだ。それこそ軽くあしらわれたり、無反応や過剰な反発といった形態の中にそれは潜んでいたはずだ。それを自身の信心の強弱のように思いなして、やみくもに説き伏せ、ねじ伏せようと弁舌を重ねるようであったならば、ありきたりの俗に通底した面をもった一人の僧にすぎなかった。親鸞はそうではなかった。こころが善であれば悪を行わないわけではないとか、他者に危害を及ぼすまいと思っても百人、千人の人を殺すことがあり得るとかを考えた親鸞が、衆生の姿はそのまま衆生のこころや考えや思いの反映であると考えたはずはない。こころがよくて人を殺さないのではなく、逆にこころが悪くて人を殺すというのでもないように、衆生の俗や愚はこころが俗や愚だからそうなのだとはいえない。仏教語では業縁とか宿縁とかで言い表すもの、吉本はこれを契機という言葉でいうが、それが現世での衆生の姿を決定づける。宗教臭を取り除けば、個としての人間以外の周囲の全ての関係性が彼を決定づけ、衆生の姿として表させていると考えればやや今日的な言い方といえるだろうか。いずれにしても、衆生とは一個人、一私人、つまりはその人だけのことではなくて、あらゆる関係性の中で考えなくてはならない個を越えて大きな存在なのだ。それがしかも一人や二人ではなくて、自分の住む辺地にも大勢の人がいる。「知」にとって、これほど分かるようで分かっていない、不可解で未開拓でそしてある意味広大な領域、分野がほかにあるだろうか。故に親鸞は、衆生をこそ思想的な課題と考えたのであろう。
 法然にとっての「衆生」は、一方では変に偏見や自力の計らいを持たない、「信」に対して素朴に打ち込む信者たちであり、また一方では、しっかりとした教義上の根拠もなくて妄りに他宗派を謗り争いごとを起こし、しばしば法然が注意し訓戒せねばならぬ輩でもあった。言ってみれば「愚」や「無智」に対して両価的である。それはなぜかというと、法然はあくまでも浄土宗の祖としての立場にいて、師と弟子との関係として「衆生」に向き合っていたからであろう。この法然の立ち位置は決定的である。
 それはどういうことかと言えば、仮に法然が「衆生」を尊重し愛すべき存在だと見なしていたとしても、「衆生」のいる場所にまで降りていくことが不可能、あるいは降りていかなかったことを意味している。さらにそれがどういうことかと言えば、「衆生」のいる場所に降りるとは、視点を変えて言えば己の内面を下降し掘り下げることと同義であり、そこに「衆生」にある「愚」や「無智」を探り、抉り出すことをも意味している。法然には不可能であったが、親鸞において可能になったことはそのことであった。
 親鸞において「衆生」に向き合うことは、同時に自らのこころに向き合うことを意味していた。「衆生」が「御同行」であり「御同朋」であるように、自らのこころもまた「御同行」であり、「御同朋」であった。その「御同行」「御同朋」はまた、自らにも内在する「愚」や「無智」以外の何物でもない。
 吉本が言う親鸞の「吐息」のように微かにつぶやかれたような言葉の数々は、ここを根拠として、あるいは発生の根源としてあったのだということができる。
 
念仏は、まことに浄土に生まるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
(歎異抄 二)
 
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。
(歎異抄 二)
 
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
(歎異抄 三)
 
久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。(歎異抄 九)
 
善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。(歎異抄 後序)
 
 これらの言葉以外にも、親鸞の言葉や文章には驚くほど真正直に、己の愚や無智や悪に向き合った表出が多いことに気づく。
 たとえば引用したはじめの言葉を考えてみる。「念仏は、まことに浄土に生まるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。」は、門弟あるいは信者たちに告げた言葉である。私はかつて小学校の教員であったことがあるが、これを先生が小学生に語る言葉と解して言い直してみると、
 
勉強して立派な人になれるとか、頭がよくなって一流の大学に入り一流の会社に就職できるとか、逆にとても苦しく不幸な人生を送るようになるとか、先生にはよく分かりません。
 
というくらいの意味になると思う。勉強を教える立場にある自分が、普通にはなかなかいいきれる言葉ではない。まして雇われ教員の身であれば、子どもたちが進んで勉強するようにすることが役割でもあるのだから、たいていは自分の中の疑問符を不問に付して勉強することによる利点ばかりをあげつらうに違いない。だが、心の中には、確かに疑問符が生じていることは自分で知り得ているのであり、子どもはだませても自分までだますことはできなかったような気がする。
 では、仮に自己欺瞞を嫌って本当のことを口にしたとしたらどうなるか。当然、ではなぜ勉強しなくちゃいけないのかと子どもたちに問われることになると思う。親鸞は先の言葉の後に、「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」といった。同じようなことで子どもに向かっていえば、「勉強してもしなくても、どっちでもいいんだよ。勉強したい人はやればいいし、したくない人は無理にしなくてもいいんだよ。」というくらいのことをいうことになるのだと思う。これは子どもたちにすれば下駄を預けられたことになり、困ることになる局面である。
 勉強することはよいことに違いないんだから、後で必ずよい報いがあることを信じ、精進して勉強に徹しなさいと教えることは一方の立場としてあり得ることだ。ある程度無理強いでも、子どもたちにとってはその強制力に従った方が進む方向を決めるのに楽である。逆にどっちでもいいといわれると限りなく迷ってしまったり、どっちつかずの状態に陥りかねない。だから、進んで勉強しなさいと教えることが学校では一般的である。ではこれでめでたしめでたしかといえば、私のようにぐずぐず考える癖のあるものにとっては、いつまでもすっきりと割り切ることはできないのである。
 親鸞は「存知せず」と言ってしまった。実は私も言ってしまったことがある。私はそのとき内心で、子どもたちを突き放したという気分が濃厚になった。子どもたちがどう考えようと、それぞれである。私の関与するところではない、というような…。親鸞もまた、それ(「面々の御はからいなり」)を言った時に、言葉を投げかけた門弟や信徒たちに対して、ある種自分との間に溝をこしらえている。というか、溝ができること、できたことを覚悟している。そう私は考える。
 門弟や信徒はこういう師について行けるだろうか。子どもはそういう先生を信頼して勉強に励むようになるだろうか。
 どうも具体的な現場の中では選別、選択が起こりそうな気が私にはする。浄土真宗の場合には、親鸞の言葉によってさらに信心を堅くするものもあれば、当てが外れて、師について行こうとする気持ちが削がれ、引き返す者があったかもしれない。
 私が子どもたちに発した言葉には、みんなが本気で勉強に向かってほしいという気持ちが込められていた。勉強した結果がどういうことになるのかは分からない。それは本当のことだ。それでもやはり勉強した方が一人ひとりにとってよいと思うし、その過程の中で自分にとって有意義な何かが見つかると思うし、見つけてほしいという願いも込められていた。親鸞の場合にそのことを当てはめて考えれば、親鸞もまた本当は門弟たちすべてに、いっそう堅い信心というものに気づき、それを実現してほしいと願っていたに違いないと思える。「面々のはからい」としてどっちでもいいというのではなしに、弥陀の功徳に預かってほしいと願っていたはずだ。揺るがない信心はそこからもたらされるから。逆に言えば、親鸞の考えでは確かに信心もまた人の力でどうこうできるものではないのだから、本人たちがどう思おうが起こりうる時には起こりうることにすぎない。それは如来のはからいだ。そのまえでは「面々のはからい」による信心などたかがしれていることだと言えばいえる。ここまで来れば、啓蒙や説得や浄土の教えのうわべの理念などは意味をなさないことになる。
 親鸞は如来の「はからい」を信じられたが、無信心、無宗教の私にはそれに代わるものがない。私たちが行けるところはそこまでだ。
 
 親鸞は明らかに「衆生」と同じ地平に立っている。「衆生」を超えた立場にも位置にもいない。けれども、念仏が浄土に生まれる種か地獄に落ちる業か分からないと率直に告白する時、親鸞の心の中はだれよりも「仏」を身近に感じることができていたに違いない。その意味で言えば、親鸞の信心の立ち位置は同門の信者の誰とも相違していたといっていい。言いかえると、自力、はからい、その放棄の方法において、親鸞には確固たる自覚されたものが存在した。それは「弥陀の誓願、ただただ親鸞一人が為」の言葉からも推察されることで、「他力」とは何かを理念とこころとを交流して感得していたからに違いない。
 
念仏は、まことに浄土に生まるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり
 
 たとえばこれはこころから本音を抉り出して、素直にそれを表出した言葉である。親鸞は、自分のこころに去来する本音の思いというものに、自分というものを越えて「自然」を感得する。言葉を換えていえば、「如来のはからい」を見ている。つまり、こころに浮かぶものこそは「如来のはからい」から個人にもたらされたもので、たとえば「存知せざる」という自覚がすなわち如来からもたらされたものと感じるそれを、自分の「他力」の方法として取り出せるようになったと私は想像する。
 同じ地平にて衆生を見る。衆生を見る時に衆生のこころに重なって自分のこころを見る。自分の心をよくよく見ると、そこに如来のはからいが見えてくる。その如来のはからいはこころに訪れて来るものだから、自分一人のためのものである。親鸞がいかに自分のこころの本音に執着したか、このことをもって推測することができる。「できない」「分からない」「煩悩がある」、これらはみな即他力に通底するものなのである。そしてそれらは「如来のはからい」が待機するところでもある。
 
自然法爾の事
 
 自然(じねん)といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。
 
 自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと、はからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
 
 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。
 
 弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。(webより借用)
 
 これを読むと、まさに独断と偏見以外の何ものでもないが、私には「自然」が「こころ」に、「弥陀仏」が「ことば」に読み替え可能な気がする。
 こころとは「個」に所属するものと感じられがちだが、またある意味ではそういうとらえ方も妥当だと言えるが、別の面では意識を意識によってコントロールできないように、こころはこころによって喚起されるものではないといえる。簡単に言えば自然の理が生み出すものだが、形が無く、微細に詰めていっても「こころ」とは何かを指し示すことができない。親鸞の言葉を借りれば、自ずからしからしむものとして「こころ」はある。「ことば」は「こころ」のありようを知らせるひとつの手立てのように存在している。
    つづく
 
 もとより親鸞は、この「自然法爾の事」を浄土宗における他力信仰の神髄として述べたものに違いない。その意味では私の独断と偏見とは、まったくお門違いの、しかも何の根拠もないこじつけの解釈にすぎない。だが、畢竟、信仰とはこころに兆す何かであって、信心はまた親鸞のいう「自然(じねん)」に結びつくという気もするのである。
 結局、私が行きつ戻りつしながらここで多くの言葉を弄してきたところの真意は、親鸞が自身のこころと衆生のこころとの両方にこだわり続け、そしてこだわり続けてきたが故にひとつの仏教知の集大成、その深みにたどり着けたのではないかという一点を言いたかったが為である。
 衆生、すなわち人間、とは何か。信仰とは何か。仏教とは何か。親鸞は考えて考えて、自らに問い詰めて、その結果として『歎異抄』などにうかがわれるような、驚くべき深い人間洞察の言葉が結実となって弟子たちの表した文書の中に残された。それは「自然(じねん)」の生き様に近い「衆生」の生き様を範として、徹底して凝視続け、その中に本当の宗教的知や信仰とか信心の具現化した姿をイメージ化し得た結果に他ならない。あるいは逆に、本当の宗教的知や信仰とか信心が具現した姿を衆生が生きる世界に重ねて考え、その差異に執拗にこだわるところに深い人間洞察と浄土門教義の矛盾とが立ち現れてきたのだと言えよう。そして浄土門教義が抱える矛盾は最後まで親鸞に考えることを強いたし、そのことがまた親鸞の人間理解と思想とを底なしに深いと感じさせるものとなっていった。私たちはそれを仏教とか浄土門の文脈の中にではなく、優れた人間洞察、人間理解の言葉としても受け取ることができる。つまり、一人の思想者の思想的言葉としてである。