「てならいのうた」
「ある一つの世界」
父が亡くなり母が亡くなりして
何も知らないんだなぼくは
と思うところがあったのだが
そんなところではないところで
知っているところは
たくさんあったのじゃないかと思う
なので悩まなくてもよい
言葉で取り上げて言えなくても
人となりとは
身に染みて伝えられたのだ
口にしたことはないが
条件なく前提なく
ただ比類なき誇りのように思い
それがすべてじゃないかとも思える
どうということもない
普段のやりとりの中において
言葉を交わしまなざしを交わした
生涯の経験や経歴は奥に秘めて
父も母も子等に向かって
必死に何かを告げようとした
それを愛と呼ぶならそれは愛だし
本当はこの世界のすべてに
それを届けたかったのだろう
無論それは叶わなくて
それも含めて
ぼくらを見つめるしかなかった
(人間というのはやさしく出来ている)
(人間というものは悲しく出来ている)
間違いなくそこには
ある一つの世界が存在した
それは父と母とが
もしくはすべての養育者が教え伝える
世界というものに違いなかった
その世界とは強いて言うならば
太古の昔に沈んだまま地殻の底に眠る
言葉以前の世界
その名残や面影の世界だ
言葉を発明して後
たくさんの指し示す語を発掘したが
いまだ地殻の底を突き当てない
それでも地上に言葉の高層ビルを建て
今はそれが世界ということになっている
地上にビルは埋め尽くされ
地上に言葉は埋め尽くされ
雨と光は跳ね返される
しばらくすれば
地殻の底からの音信も
途絶えてしまうことだろう
その代わりのように
地殻は出口を探すのだ
2024/12/31
「凪の日々」
ちょっと食事を取って
寝て起きて
ダラダラ一日を過ごす
なんのために生きてるのと問われても
さあどうなんだろう
というぐらいにしか答えられそうにない
それで別に不幸な訳でもなく
とびきり悲しい訳でもない
満足も不満も人並みと言ったところ
社会の役に立ってもいないが
害してもいない
ここ2年か3年は
毎日手習いの趣味の詩を書いて
それ以外は歯磨きをしたり
風呂に入ったり
続けているのはそんなことくらいだ
見る人が見たら
時間の無駄
人生の無駄と叱られそうだ
もしも本当に
時間や人生というものに
無駄というものがあればの話だが
とりあえずは波風立たない
凪の日々を送れている
つまんないねと言われたら
そうかと応え
羨ましいと言われても
そうかと応える
脱力か腑抜けか分からぬ狭間にあって
当分こうしているより仕方がないと
気分だけは四つに組んだつもりで
けっこうな力を使っている
そんな気にもなっている
ただそれだけの日々だ
2024/12/30
「集落考」
子どもの頃
町があり
さらに小さな地名に分かれ
そこからまた各地区に分かれ
日常の生活はほとんど
その地区の中で収まっていた
集落の最小の単位である地区は
おそらくはずいぶんと昔から
最適なまとまりとして
都を除いたこの島国に点在していた
長いことそうしていたものが
時とともに融合した
けれどもやはり
特別な日を除けば
日々暮らしていく分には
そうした集落の大きさが
最適だったのだろう
現在から振り返って見ても
その狭小さは
豊かで温もりのあるものだった
今は過疎となって
すっかり忘れられがちではあるが
この国の初期からなる
自然発生的な名残を持つ
由緒正しき小さな集落の単位は
この国の根幹を成すものだった
人間形成の根幹だった
この根幹が骨抜きになった
成るようにしか成らないのが歴史だから
致し方ないが
根幹を廃らさせて
いったいどんなところに向かうものか
もうすっかり闇の中だ
2024/12/29
「覚悟して行け」
そういう場所に行ってはいけない
たとえば政治や芸能や
そしてまた報道の一部など
村の語り部の話ではそうだった
お前たちが憧れたり夢見たり
また正義や善だと思うところ
あるいは拙速に
アンチの旗に集うところ
魔物が棲んでいて手招きしている
だから誘われて
そちらに行きたいと思い
行けば囚われ取り憑かれ
もうここには戻れない
そういう場所に行ってはいけない
行けば畢竟人に捕食されるか
人を食い続けるようになるかだ
そういう場所に行ってはいけない
明るく賑やかで派手やかで
ついでに札束も飛び交うところ
そういう場所に行ってはいけない
そこには人間について人間性について
知ったかぶりの連中が五万といる
そういう場所に行ってはいけない
そこでは真実について
国民や国家の未来について
蕩々とまくし立てる連中が五万といる
そういう場所に行ってはいけない
知識を得て学問して
教え指導したがる者たちが五万といる
そういう場所に行ってはいけない
そこは非自然
人工的なもので埋め尽くされている
人間が自然であることを
忘れてしまう場所だ
そういう場所に行ってはいけない
すでに魔物になった非人間が
いかにも上級な人間の顔つきで
両の手を広げおいでおいでをしてる
そういう場所に行ってはいけない
行ったが最後
もうそこからは出られない
行ったが最後
人工の仮想世界は抜けられない
行ったが最後
非自然の傷を負う
その傷は
自己治癒力では
治せない
もちろん境界に扉は開かれていて
その上でなお行く者を
遮るものは何もない
ただ行くならば
人としての生涯を賭け
覚悟して行け
2024/12/28
「きみの命が」
一瞬のマジック
ほら心を消してごらん
頭は空っぽ
頭が真っ白
残った体はどうなる
残った体はどうする
一瞬のマジック
ほら心を消してごらん
お腹が空いてうろつく
愛を求めてうろつく
頭は空っぽ
頭が真っ白
一瞬のマジック
勝手に足が動いて行く
体が後をついて行く
空っぽの頭と
真っ白な頭が
その後をついて行く
長い道のりだもの
心のない日があってもよい
体の欲するままに
体が求めるままに
心を捨てる日があってもよい
心がなければ無敵
街に出たって無敵
青空の下でも無敵
雨に打たれて無敵
ひとの心も気にならない
心のない日は素敵
そんなふうにある日ある時
心と頭を捨てて
命オンリーの日を作ってごらん
ドカドカズカズカ
どこまでも
どこまでも進んで行く
踏み越えて行く
きみの命が輝いて
ドンドンズンズン
迷わずに行く
2024/12/27
「除夜の鐘が鳴る」
あちこちでボロボロと
剥がれ落ちる壁
地震ではなく
金属疲労が
短時間に進んでいる
毎日のように
テレビの実況放送
SNSのライブ配信
目の当たりにしている
雪の子羊たちの群れ
あちこちで発狂が始まる
上も下も右も左も
年の瀬だから
落ち着いていられない
もう少し
あとわずか
除夜の鐘が鳴る
もうすぐ除夜の鐘が鳴る
除夜の鐘が鳴って
鳴り終わると
『それがいったいどうした』
『それでいったいどうした』
って話になり
それには誰も答えない
答えられない
こうして元日の朝は
静まりかえる
2024/12/26
「そんなことをするために」
ある国に生まれて
刻苦勉励を重ね権力者に上り詰める
隣国と戦争をして多数の戦死者を出す
たくさんの人を死なせるために
自分は生まれてきたんじゃない
そう弁明する時が
彼には訪れるだろうか
そんなことをするために
君は生まれてきたのか
そう問いかけてみたい人が
この世にはたくさん居る
他人を傷つけたり
他人を誹謗中傷したり
脅したり貶したり
苦しませたり悲しませたり
本当にそんなことがしたくて
君は生まれてきたのか
そう尋ねてみたい
本当にそんなことがしたくて
生まれて来る人間はいるだろうか
渦中では気がつかなくて
気がついたらそうなっていた
というのが
たいていの人の了解の在り方だ
ぼくだってそうで
このような晩年を迎えるとは
想像も出来なかった
晩年というこの時期に振り返って
何も出来なかった
ぜんぜん駄目だった
大雑把にそう慨嘆するのは悪くない
何をしなくても
自分は偉いんだとか
自分は立派なんだとか
そんなふうに錯覚してるよりずっとよい
ぼくはそんなんじゃなかったと
こっそり慰めることだって悪くない
2024/12/25
「ひとりでする〈国家観〉」
仲間になった三人でサークルを作る
相談する中で規約が形になり仕上がっていく
これが共同幻想成立の初期的形状だ
このサークルの本質は共同幻想であり
これを整理して文字化したものが規約となる
国家とは国家という名の一つのサークルである
成員となる人々の間に
国家という共同幻想が成立して初めて
国家というものが誕生するということになる
その本質は
これは国家である
これが国家である
という単純なものだ
サークルなどと同じに
国家もまた作ろうとする者たちによって
作られたものだ
神が作ったものでもなければ
その成立は神がかったものでもない
また神聖というものでもなく
合意によって形成もされ解体も有り得る
なので国家運営を担当するものが規約に反したり
成員が規約上の条件を満たすことが
困難な状態になったりすると
存続できない危機に見舞われたりする
反日だとか親日だとかという議論も
愛国心を持てとか偏向支配を許すなとか言う議論も
普通に起こるべくして起こる議論であり
そういう輪の中に入ってもろくなことがない
人間の短い生涯の間でなんとかできることでもない
それを早急にやりたがるのが人間で
かえって沼の底を深くするばかりなのだ
第一にそんなことは考えない方がよい
第二には考えるなら徹底して考えることだ
そして結論を急がないことだ
存命中に結果を出したいというのも危険だ
それでも考えるだけ考える
そういう姿勢でよいと思う
数ある著作や研究書をあさって切り貼りし
コピペして無理に主張を通しても
大したことにならないのは現実で知れる
ふつーの人がふつーに生きられる
ふつーの人にはそんな世の中が一番よい訳で
そのことを最も大事なこととして
日常生活の中でも心がけるし
また余裕があれば国家の在り様について
国家の存否について
自国だけではなく世界中の国家について
時間をかけて考えることをしたらよい
一人で黙ってコツコツと
無償の時間を紡ぐしかない
できてもできなくても
どっちでもよい
2024/12/24
「〈聖(セイント)〉」
むかし仕事関係の人から
「覇気がない」と評された
とても的を射た評だったと思う
そのことにぼく自身
とても苦しんだ
どんな仕事にも真面目に打ち込むが
それ以上の気持ちが湧かない
競争してトップに立とうとか
野心や野望を第一義にするとか
とてもそんなふうにはなれなかった
なんせ仕事らしい仕事で
こころからやりたい仕事なんて
ひとつもなかった
その意味でのこころは空っぽで
真面目に取り組むほどに
自分の心の空洞に悩むことになった
こころの空洞がどこから来ていたか
今考えてもよく分からない
聖である何事にも
俗である何事にも
普通に考えられるほどの執着がない
人間らしさを真似て
言ってみるやってみる
それくらいの興味関心の度合いだ
それでいていつも真剣なのだ
息苦しいほどに生真面目なのだ
そうしてこころはずっと
溺れかかっていた
空洞には風が吹き渡っていた
建物の隙間を渡る時
いつも響き渡る声があった
「お前はこの世に生きられない」
「お前を迎えてくれる人の群れはない」
未生以前からの声が
ぼくのこころから魂を抜き去った
これでもここまで結構頑張って
ぼくは生きてきたのだ
努力して努力してやっと
ふつうの暮らしへと進んできた
ただひとつ
屋根がないのは欠陥だけれど
なのでぼくは境界の人も
境界の外の人も
境界の中の人と同じように見える
同じように思える
そればかりではなく
かえってそちらの人の方が
人間的な苦しみや悩みにおいて
〈聖(セイント)〉だろうと考える
いつものようにそこにそうしているだけで
そのままの
その在り方が〈聖(セイント)〉だ
ぼくはそう考えているのだが
今もって
誰の口からも
それを聞いたことがない
2024/12/23
「言葉の現在」
少なくとも現在では
ふだん言葉は上着を着込んでおり
不要な時に上着を脱ぐと
キラリと言葉の刃先が光る
そんな凶器にもなる言葉は
古代に鉄器がもたらされたように
およそ二百年前から
少しずつこの国に輸入され翻訳された
さらに八十年頃前からは
切れる言葉は重宝され
次第に大いにもて囃され
知のアイテムとして必須になった
言葉で斬り合い
傷つけ合い
戦い合う
西欧の伝統がこの国に定着し始めた
本物の刀や銃とは違い
見えるところではもちろん
見えない場所から
見えない対手を切り付けることが出来る
本物の刀や銃とは違い
一撃必殺とはならない
何度も切り付け叩き付けるなどして
刀より陰惨な結果となる
相手を負かすために勝つために
勝つために勝つために
言葉と文字が
この国の空を
覆うように飛び交っている
なのでしばらくの間
青空は見えにくくなる
2024/12/22
「老後は人界の外に出る」
いつからこんなにも
情に薄くなったものか
境界で一言
無言で挨拶をしたきり
こころは
やさしい群れから離れて
人界の外に出る
石つぶてで
追われてもよいのだ
もっと寂しい荒野へ行く
人で無しと
罵られてもよいのだ
もっと過酷な道を
歩き進んできて
これからも
そうして行く
父も母も亡き今は
村八分になり
血縁に追われても
悲しみ嘆く人もない
明日からは
囲われた塀の外へ
壁の外へ
人界の外へ
迷い出る
一億もの雁首そろえ
賑やかに
血の池で糸を待つ
魑魅魍魎には
付き合いきれぬ
背を向けて
非情となって
母語も捨てる
遭難しなければ
無垢清涼の言葉を
見つけて還る
2024/12/21
「庶民的認識の方法」
人間界のことは言葉では理解できない
知識では理解できない
膨大な資料やデータを収集し
読み解いて行く作業は果てしがない
学者や研究者の先駆は西欧で
明治を過ぎてこの国も後を追った
西欧知に伍して対等を得るためだ
それでもやはり知によって
すべてを理解することは出来ない
〈理解しようとはしない〉
わたしたちの祖先の切り札は
おそらくそれではなかったか
はじめから考えに入れていない
自然とともにあれば感得される
そう言うものは考えるものではないと
人間界の悲喜こもごもを
悲喜こもごもの中で体験する
それ以外に
人間界を理解する手立てはない
資料をそろえ
燭の下で刻苦勉励読み解いて
それで分かることもあるだろうが
我が祖先たちは花を愛で
空や雲や山々を眺め
雨に泣き日照りに泣き
酒を飲み交わし祭りに騒ぎ
働いては休憩し
休憩しては働いて
今に言う理解とは別の次元で
一挙に一瞬で人間界を了解する
どちらがどうとは言えないが
我ら庶民の末裔は
世の知識者たちとは違い
そんな仕方で
世界も認識するのである
2024/12/20
「残響は残る」
小さな家に引きこもる老後
身動き一つ出来ない
狭い骨の暮らしに備え
淡々と時を刻む
ここはまぼろしの納骨所
朝に目覚めて夜に眠る
移行までの合間
型通りに食事もし
手際よく掃除洗濯もする
ただ生きて
そうして死んだ
死ねば死にきりで
自然の命たちのようで
それはそれで
水際だって簡素
なかなかそんなふうに
死んでいけるものではない
生きた証も痕跡も
夕べに消える
今もそうだが
生涯を通し
なかなかに充実した
不毛と徒労の体験であった
生き直したいかと問われたら
いやもう結構と答える
なかなかにお腹も膨れ
やり残したというものもない
「蟷螂の尋常に死ぬ枯れ野かな」(其角)
生きて死ぬ
ただそれだけを語れば
生と死との合間の出来事は
生半なものではないと
およそ誰にも
残響は残るものである
2024/12/19
「ざわつく何か」
個性とか多様性とか言っても人間は人間を超えて人間であることも
人間以下であることも出来ない。
その意味では誰もが、どこにでもいそうな人間として交差点ですれ違う。
人間の枠組みの中では感情も感覚もあるいは思考も、たいていのことは想像がつき、理解し納得もする。
そうであるならばあらためて口にする何事もない。
そうしていつからか寡黙になった。わたしが存在すべき理由はなく
存在すべき意義もないように思えた。
わたしはみんな(人間)であり、みんな(人間)がわたしであるならば、わたしは居ても居なくてもよい。
わたしはわたしを捨て、わたしという人間を捨てようとした。
消去法の末に、「何か」が残るのを感じた。残ったそのもののために、わたしは人混みの中で生き延びることを選択した。
決定的な異和が見つからぬよう、群れに紛れた。たったひとつの残った「何か」のために、こころを抱きかかえて時を見送ってきた。
わたしは言葉に問いかけた。わたしに唯一残った「何か」が言葉で表しうるものかを尋ねた。
思いつく限りの言葉を書き連ねては、どれも自分という骨格を意味する言葉、「何か」を表すまでには至らなかった。何処までも徒労と不毛が続いた。
いまでも、「何か」はくすぶり続け、消去しきれないものとして内側に残り続けていると感じる。言葉になりきれない言葉、文字になりきれない文字として、意識の底でざわついている。
わたしは敬愛する人たちのために、あるいは愛する人たちのために、たった一人の中で「何か」を形にして出さなければと考えていた。言葉として文字として、人々に差し出すことが自分の使命と自分で規定していた。もちろん、そんなことは誰にも言えない、ただの身勝手な思い上がりだという自省もありながらだ。ただわたしはそう思い込み、無謀にもそれが「何か」の一片の欠片のようにも思いなしてきた。
2024/12/18
「それが分からぬ者たちには」
文明や科学技術といったものは後戻りしない
未来の方向に向かって縦に進化し横に拡充される
これを精神の外在史と考えれば
精神の内在史は内側に向かって降って行き
その様はまるで太い動脈から網目状の毛細血管へと
狭い道筋を辿るように向かっている
だから精神の働きははじめから窮屈で閉塞感を伴う
細い細い先を穿って微細と緻密さとに迫る
人間が持つこうした知的な精神の力は
精神が瓦解するところまで自身を追い込む
その先に何が待っているかを考えると空恐ろしい
遙かな原始にも同様に産みの苦しみを伴いつつ
人類は精神の扉をこじ開けたかも知れない
もしも反復が運命的なものだとすれば
人類はふたたび産道を降っているのだが
かつての脊椎動物の海からの上陸劇のように
新天地での思いもかけぬ障害に出会う
そんなこともないとは言えない
いずれにせよ確かなことはただ一つで
生命と言うものは必ず死して滅する
人類もまた例外ではない
だからわたしたちは生きている間に
せめてもののことと考えて
生きとし生けるものを無駄に迫害しない
そんな言動を細々と繋いできた
生きることの本丸はそこだと心に落とし込んできた
それが分からぬ者たちには
言葉をかけないで来た
2024/12/17
「ずっと先に」
正義のため
善のため
その他
崇高な目的を最優先とする
社会的政治的思想が
復活の兆しを見せる
ところでそれは良いことか
良くないことか
世論は二分して
しゃがみ込んでいる
正義のため
善のため
その他
崇高な目的のためには
些細な不満も犠牲も
蹴散らして差し支えない
国民県民のためならやむを得ない
権力は昔からそうやって
同じことを繰り返している
どうしても
正義を一つにしないと
前に進めないと権力は考える
正義の多様性を認めると
権力は機能しない
これを気に入らなければ
圏外に向かうしかない
それも一つの犠牲だが
そんなことで争って起こる犠牲より
いくらかましだ
ずっと先に
人間が集団に依存しない
そういう存在になっていること
そして権力アレルギーが
遺伝子に組み込まれていること
そんなふうになったら
ずいぶん変わるだろう
ならなければ
ずっと同じだ
2024/12/16
「現在と過去」
情報の渦中にあって
繁みの中に迷い
この世の人事に顔が向いて
身動きが取れない
そんなSNS隆盛の時代だ
一人は洪水の中を泳ぐ
一人はぼた餅を頬ばる
また一人は岸辺の枝にしがみつき
最後の一人は
仰向けになって天を仰ぐ
子どもの頃
よく夢に魘された
草の茂った畦道には
蛇が隠れていて
歩くと必ず
あの姿で蛇は動き
わたしはいつも
必死に逃げ続けた
毎日毎日
そんな夢を見て
そのせいか
わたしはよく
お漏らしをした
おそらくは
似たような理由で
現在のわたしは
言葉とその思いとを
赤面せずに
オムツもせずに
ただ垂れ流している
2024/12/15
「老化は救済になる」
老いてよく言われることだが、5時間ほどで目が覚める。そのぶん長く起きているが、内容から言うと長いぶん、秒ごとの活発さに欠ける。車なら冬の暖機運転に時間がかかる。かと言って走行時にも余り加速が働かない。
動画で赤ちゃんを見ているとなんだかすごい。一瞬で限界を超え一瞬ではたと止まる。
赤ちゃんはよく寝るが、体や脳は寝ている間にも、活発に、何かが、どこかが、働いている。
老いての、5時間で済む眠りは、寝ても覚めてもあまり活発でないことの証か。経年劣化を意味するか。
よく言えば、じっとしていられるようになった。衝動も、過剰な情の発現も、少なくなった。
こんな老いに逆行するように、赤ちゃんは、ゆりかごの中でもエネルギーの塊だ。動かない時でも、見えない動きや働きが見える。見えないのだが、エネルギーの流れが、見えているかのように見える。
意志ではない何かが、目まぐるしく地下で活動している。
それに比べてぼくのような老人は、ネジを巻き、意志を組み立てて、それから少ししてやっと何かが始まる。
起きて目が覚めていても、半分寝ているようなものだ。ちょっとやばいよって話だが、つと世の中の方へ目を転じると、とたんに「ああ、これでいいや」って気が変わる。
老いてボーッてすることで、ぼくらは半分救われる。
老化は救済になるなって思う。
2024/12/14
「〈私民〉を名告ろう」
大勢に教授して
指図して
自分では動かない族
動かないが
他人の働きで得た利や益を
自分のものにし
盗食しまた貪り食う
鵜飼いのしわざに似る
「国民」という紐を
「民」に結び付け
大勢を動かして
漁をさせてたぐり寄せ
捕った獲物を吐き出させる
そんな素敵なシステムは
かれこれ二千年余り
そんなシステムを羨んで
われもわれもと
無力の民衆にたかる族が多数
一種の寄生虫にすぎないが
彼らの口癖は
自分たちの思念は高尚高級
讃えられて当然
と言うものだ
「なんせ頭がいい」と
「昔の偉人聖人に近い」と
自ら豪語する
とんだ勘違い野郎ばかり
しだいにこの国では
誰もが一斉に
それを真似し始めた
かつて首紐を付けられたものが
付ける側に回って
鵜飼いになると言い始め
次々と連鎖が起きて
連鎖は次の連鎖を呼んで
果てしない
結果鵜の数は減り
逃げ出すものもふえた
きっと近いうちに
社会は鵜飼いだらけになる
鵜匠だらけになって
鵜匠同士で
首紐掛けの争いになる
同士討ちが始まる
そうして自滅が始まる
もうすぐそんな日が来る
嫌気が差した「国民」は
「国民」を辞めて
〈私民〉を名告ろう
鵜でない仕方で生き延びよう
従順な振りをして
寄生虫に寄生しよう
そんなやり方を
考えて考えて
昔の民衆の分まで
楽してすごそう
もうすでに
盗食貪食の群れの中では
内紛が始まっている
彼らの言葉に反応するな
演説には耳を貸すな
異世界のことと
きれいさっぱり気にもかけず
晴れた朝には庭いっぱい
洗濯物を干して風に靡かせる
ついでに心も靡かせる
午後には洗濯物を取り込んで
一緒に心も取り込んで
きちんときれいに
アイロンかけて畳んでみよう
それから晴れ晴れと
心の窓も開け放とう
2024/12/13
「これを老後の生きがいとする」
子どもとして
兄弟として
夫として
親として
親戚として
地域民として
あるいは学生として
会社員として
公務員として
社会人として
国民として
日本人として
誇れるようなことは
何もしてこなかったと思う
よい子どもでも
よい兄弟でも
よい夫でも
よい親でさえ
なかった
それを考えるのは苦しくて
なんとか抜け出したくて
今日ただいまより考え方を変える
そんなことのために
一つの命となったのではないし
あるいはまた
そんな命となろうとして
成ったのでもない
天の声にはふたつある
一つは人間には聞き取れぬ
本当の天の無言の声で
もうひとつは天を模した
嘘の天の声だ
そうして
わたしたちに聞こえてくるのは
天の声を騙る人間の声だ
不耕貪食の徒
「私法」をもって
天の声と謀る傲慢
巫女のようなしわざだ
見たまえ
天幕の向こうの
にこやかに浅ましい
あの笑顔の面々
「よき伝統」など言う
覇者の系譜の末裔たち
すべては
盗食貪食の継続のために
あちこち至るところで
「私の法」を強制注入する
わたしたちを脅し
不出来な人間だと信じ込ませ
操るその声
人間はずいぶんと
努力を重ねてきたけれども
万人がよい子どもとして
よい兄弟として
よい夫や妻として
よい親として
生きられるものではない
もっと言えば
ほとんど不可能だ
だがそれを強いる天幕からの声
わたしはそう考えて
以後ただひとりして修羅に入る
知を装い情に訴える
嘘の天の声あればそれを斬り
盗食貪食の徒の「私法」の声あれば
これを斬って白日の下にさらす
これを老後の趣味として
これを老後の生きがいとする
2024/12/12
「底が抜ける」
風呂の底が抜ける
昔の古い井戸の底が抜ける
炉心溶融で底が抜ける
たとえばそんなふうに不可避に
底が抜けたらどうなる
こころから言葉が抜ける
言葉が抜けると思考も抜ける
規範が抜けて
とても自由だが
体の中を隙間風が通る
亡き父母も透けて
わたしは風のように
漂い流れるだけになる
小さな小舟となって
いっしょに
落ち葉が揺蕩っている
「老いても」
「社会に」
と聞こえているが
漂う中では煩わしいばかり
もうすぐ
人界線を超えて
夢も
終わる
2024/12/11
「たすけてくれー」
ある漫才師の一人が、いつも漫才を始める前に「たすけてくれー」と叫声を上げながら観客席に降りて行き、一騒ぎしてからやっと漫才を始めるというのを繰り返している。
どうしてそんなことをするのかなあとずっと疑問に思っていた。本人は、緊張するからそれを解くためとかいろいろ言っているようだが、いまいち納得がいかなかった。その中で、「たすけてくれー」は文字通り「たすけてくれー」なので、他に意はないということも言っている。いろんな意味で「たすけてくれー」なのだそうだ。
普段のわたしたちは、なかなか「たすけてくれー」という言葉を口にすることはない。また、なかなか口に出来ない。口癖のように言う人も稀にはあるかも知れないが、社会常識的にはよほど切羽詰まった状況でなければ口にしないと考えられている。
これを要するに「つかみ」として漫才のはじめに持ってくることは、「つかみ」としてもあまり有効ではないのではないか。そう、いつも思うが彼は頑なにそれを繰り返している。
何故だろう何故だろうと思っている時に、ふと、脈絡もなく、「たすけてくれー」は生命そのものの自己表出の言葉化したもの、という考えが閃いた。これが正当かどうか、正解かどうか、分からない。ただひとまず漫才師から切り離して考えた時、生命の核的なところ、生命の初動的なところ、そういうところを全部詰め込んでこれを抽象する時に、「たすけてくれー」はそれを見事に抽象できているのではないかと思ったのだ。
生命の一つの形としての生き物と言うことで言えば、生き物はすべからく自らによって自らを維持したり膨張させることは出来ない。栄養物を取り込む必要がある。それが無いと生命そのものの維持も出来ない。となると、はじめに「たすけてくれー」の表出衝動を持って食の行動が起きる、そう考えてもよいような気がする。つまり、生き物が何らかの行動を起こすその起源には、常に「たすけてくれー」があるのではないか。そう考えた。
もっと言えば、生命イコール「たすけてくれー」なのだ。そう考えると、このだだっ広い宇宙の中の一握りの生命現象について、何となくの了解気分も湧いてくる。生命は孤独なのだ。その上、一つの生命は他の生命を食わなければ自分を維持できないと言う場合もある。まさしく「たすけてくれー」だ。
人間は、人間世界は、ずいぶんとそういう所から逸脱し、遠離ってきた。意識に上らないところで「たすけてくれー」の衝動があるとは夢にも思うことがない。それは当然のことで、それで別に何の問題もない。
ただ、一人の漫才師の無謀な言動をみて、ついわたしは深読みしたくなったという訳だ。彼の誰にも理解されない、支持を得られないような漫才の「つかみ」に見られる言動は、彼の内面の底の孤独を映していて、もしかすると生命の底の孤独に共振してのことかと感じたのだ。そしてそれは、お笑いの中に昇華するほか術がないということも知った上でそうしているのかも知れないと、いくらか高尚さを飾って仕立ててみた。もちろんこれも一つのお笑いか冗談のように受け止めてもらえれば、こちらは大変ありがたい。
2024/12/10
「近況報告」
「この世に潜む邪気」
たとえばこう文字にすると
頭にアンテナが立ち
「邪気」を探し始める
わたしたちの目にも耳にも
「邪気」は映らないし聞こえない
頭にアンテナを立てなければ
それは無いと言ってもいい
比喩としてのアンテナを
察知の能力と解せば
「邪気」の認知は
有無の証明が難しい
高尚な者たちは
口を開けば「邪気」を問題視し
生活に喘ぐ者は「金をくれ」
の声を押し殺し
対立か補完か
均衡か拮抗か
よく分からない
少しずつ近親憎悪が沸き立ち
人間界にも気候変動
数百年数千年に一度の
大竜巻が起きるかも
起こらないかも
そんなこと知ったこっちゃ無いと
冬の朝の洗濯
2024/12/09
「高尚な層への絶縁状」
無知や馬鹿は相手にならないと
どうやらここには高尚な人間だけが集う時空があり
高尚でない人間がそこで一言発すると
非難の言葉が雨あられのように降り注ぐらしい
高尚でない人間には立ち入って善いか善くないか
あんまり区別が付かない
なので「高尚でない人間は立ち入るべからず」
などの標識を設置してもらいたい
もっと言うと
高尚な層の人の
高尚な層の人による
高尚な層の人のための世界は
高尚ではないわたしたちとは別な所に置いて
高尚な人たちだけで運営してもらいたい
さぞかし立派な世界立派な国になるだろう
高尚な人たちだけの高尚で高級な生活を
是非そこで満喫してもらいたい
高尚でない一般生活者のわたしたちは
高尚な人たちの足手まといになってはいけない
わたしたちは高尚さから自ら身を引いて
一般人としての身の丈に合った暮らしが出来ればそれで良い
才のあるものは豆腐を作ったり裁縫したり商売もして
才のないものは米や野菜を作ったり魚を捕ったり
大量大漁の時は商い人に買ってもらい売ってもらう
こちらには中小企業の人たちもいて物作りをしてくれる
それはわたしたちの暮らしのためのもので
高尚でないわたしたちが使うには高級でなくてよい
なのでなので
どうかどうか
高級で高尚な人たちは
自分たちの世界で完結してほしい
わたしたちはあなたたちにお世話にならなくてもよいし
お世話になりたくもない
自分たちで何とかやっていく
あなたたちも好きなだけ
高尚で高級な議論を語り合えばよい
互いに没交渉になるので
あなたたちも食衣などのすべては
自分たちで賄うことになると思います
高尚なあなたたちは少子化対策に懸命です
高尚高級は自分たちだけでは維持できませんものね
あなたたちの危機を救うのは子どもかロボットか
頭のよいあなたたちのことだ
なんとか快適に乗り切って行くでしょう
まぼろしの異国からですが
高尚高級が続きますよう祈ります
2024/12/08
「shake it up, baby」
昨年の衆院選・地方選挙併せて800億円
コパイロットが答えてくれた
選挙のたびに問題が露出し
議員がなんやかんややってまた選挙
不祥事を起こしてまた選挙
そんな金食い選挙をどんだけやる
選挙制度がもう無理じゃん
選ばれると威張っちゃうし
不祥事も起こすし
自分が自分がとがっつくし
理想や先進性を押しつけるし
旨い汁にありつこうとするし
いいことないよこの制度
この制度ヨーロッパ発だよね
それを真似してここまで来て
日本の風土に合わないんじゃない
そろそろ自前の制度を考えたら
政治家さん文化人さん教養人さん
ここまで真似に終始したのも問題だが
なんの発想の転換も為し得ない
それも問題だよね
「高尚なことは下々には分からない」って
自称「高尚」な人たちは「言うよねぇ」
これまでもこれからも
ずっとずっとこんな選挙を繰り返し
やるたびに不祥事が出て繰り返し
湯水のように金を使って
「高尚」さを
これでもかと電波に乗せて
楽しそう
「民主主義国家」か
言うねぇ
ロックだねぇ
今後ともよろしくね
shake it up, baby
2024/12/07
「このごろの歌」
重箱の隅をつつくばかりの小さな争いを繰り返して
有頂天になっている馬鹿どもよ
姑息な手を使い弁明してまでも
自分を正しく見せようとするウジ虫ども
と一喝してくれる村落の長老も長も今はいない
ゴミ溜めには虫が湧き
せっせと汚物を食い回ったり運んだりしている
こんなことが正義の戦いになるとは思いもしなかった
こんなにも平和が醜いものに変貌することは
考えもしなかった
生きるということはそういうことをすることじゃ無い
ずいぶん昔にそう教わったのだが
あれはなんだったのだろう
「顔を洗って出直して来い」
そういうことが言える大人(たいじん)も
今は老害として片付けられて何処かに消えた
頭上を飛び交うものすべてが何か如何わしい
引きこもる思考で地上に目を転じると
たとえば団地の庭の萎れた山茶花
たとえば庭の隅に濁った赤色の南天の実
道を行き交う人たちの生活に疲れた声
曇った午後の静寂
考えることに飽きてお腹が空いて
台所で取り出す即席麺
2024/12/06
「『優』の着地」
大賢は大愚である
また危険である
目敏く潮流を見て
流行りの思潮の現実化を企む
実験場所を見つけたら
一気呵成だ
若く賢い者によく見られるが
例えば絵画なら
手法や技法はよく身につけている
そういう基礎は学校でよく教わる
なので甲乙付けがたく皆上手い
逆に幼稚な絵を探す方が難しい
もっと言うと仕事に出来そうな
そんな絵を描く
音楽や詩も然り
そして政治も経済に関しても
若い人の知識は整理されていて
すぐれて機能的で
役立つように出来ている
大きな欠陥が一つある
「練れていない」
要するに純粋すぎて
完成が早すぎる
実験データや机上の計算を
そのまま社会に通用させようとする
社会は旧い複合や重層だから
通用しないか
無理を通して通用させるほかない
そういう者たちを
昔は馬鹿と呼んだ
練れていない
バクテリアの混入がない
学校の先生や教授には
もともとそれが無い
学生も無いことが正しいとか
優れていると思い込んで
「除菌、除菌」と叫ぶ
大賢とは大愚だ
我ら老いたるものは
「もしかして」などと
若い人たちに期待すべきじゃ無い
賢いもの
上手なもの
優れたもの
そういうものには全部
反転の手触りが欠けている
「すべての人の幸いのため」
という思想が抜けている
見たまえ
為政者たちのメッキが剥がれるように
彼らの作る現実から
ボロボロと欠けて落ち行くものがある
老いたる人々よ
わたしたちもそうだったに違いない
目を見開いて見続けるべきだ
オゾン層を為す
極めて優れたと流布される「知と情」のもと
成長進化発達の現在が
目の前の社会であり世界だ
「大変結構な文明です」とか
「大変残酷な文明です」とか
君はどっちだ
2024/12/05
「選挙私論」
そもそも民主主義下の選挙なんて
江戸時代に置いて考えたら
将軍や藩主を民衆が選ぶということだ
選べるだけいいじゃないか
と考える向きもあるかも知れないが
将軍や藩主を認めないという考え方もある
しかし生まれた時にはもう
世界はそうなっていて環境もそうなっていて
やり直してくれと言っても無理だ
もう将軍や藩主は昔から存在するのだから
たいていはまあそう考える
そう考えることが現実的で常識的だ
だから将軍や藩主を現在では民衆が選ぶ
だがそれを肯定すれば思考の幅は狭くなり
そのあとには誰を選出するかしか
選択肢はなくなってしまう
そうしてたいていあれも駄目これも駄目
という結果になりがちだ
たとえば有史以降のこの国の歴史では
天皇も将軍も藩主等もずいぶん入れ替わり
下剋上などの転覆騒ぎも多かった
明治から令和の今日においても同じことだ
これらのことが意味するものは
ほとんどのどんなに立派な個人でも
そういう職に耐えられる人間はいない
ということではないのか
あるいは短くしか務まらない
そう言い換えてもよい
そしてそれもまたその職そのものに無理がある
それを示していると言えなくはない
将軍や藩主という職をぼくは認めない
無くなったほうがよいと考える
そもそもそんな仕組みとか制度は
人類史の初めからあったものではない
偶然に出来て偶然に消えて行くことがあってもいいし
必然的に出来て必然的に消えて行く
と考えてもよい訳だ
そうして別の在り方を考えて
それをこれからの人たちが目指してもよい訳だ
もちろんそれらの可能性は十分にあると思う
もうそろそろ統轄なんてことがなくてもよい
そんな世界の模索を始めよう
それが無名なぼくの今日の提案だ
2024/12/04
「SNS私論」
素人の批評や解説
最近ユーチューブでよく見かける
見るたびに少し恥ずかしく
よく考えると
物書き風を装う自分の姿と似てる
あまり知識が無いのに
口数だけは多い
会社員とか公務員とか
以前は仕事をしながら
仕事以外の本も読み漁り
しだいに言葉が喉元にこみ上げて
白紙にまき散らすようになった
専門と言えるほどの深さはないが
少しの本音の差異があれば
それを言うことは悪ではなく
誤っていればいたで
読む人の批評眼を深めると考えた
それやこれやで書き続けて十数年たち
読まれもせず反応もなく
いたずらに不毛と徒労の繰り返しだ
ある意味筋金入りのぼくから言えば
いま流行のユーチューブの投稿者
彼らの投稿の動機と欲求は
よく分かる気がする
視聴回数を稼げば小銭も入る
やってみようかとなる
専門の知識は無いが
専門家には無い大衆の感性で
見えている光景を正しく切り取り
実況すれば何かではないか
彼らが表現しようとする時の心持ちは
だからよく分かる気がする
一夜にしてたくさんの支持を得たり
記事が絶賛されたり
どこかでそういう下心も働いている
ぼくだってそうだ
だからほとんど似たようなもので
見分けもつかない
あとはどれだけ長続きするかだ
こちらは十数年の実績があり
それはまるで浮気をした男性が
妻の糾弾に反撃できず
後退を繰り返す十数年の世界だ
「死の棘」だ
耐えうる自信があれば
表現を続けたらよい
けれどもそれは気がつくと
あっと言う間の白髪のお爺さん
そんな世界でもある
本音だって真実だって
神様が褒めてくれる訳じゃない
2024/12/03
「君臨の構造は変わらない」
閉塞し停滞して動かぬ
巨大な何かがある
振り解いて出て行かなければならない
焦燥だけが悪夢の中で藻掻いている
そんな状況を斜め上から
もどかしく見ている
わたしとかあなたとかが
目の前に立ち塞がる
悪いのは名の知れぬ巨きなものだ
それが力となって
わたしたちを呪縛している
どこかで火の手が上がっている
「潰せ。たたき壊せ。破壊せよ。」
とりあえず金縛りに遭うこの声を発し
この体を動かさねばならぬ
わたしとかあなたとかが
原爆を発明した科学のように
人間の心や意識までも操作し始めた
市場動向調査や販売戦略の発達
SNSなどの駆使
他人を騙すと言うこと
他人を陥れると言うこと
他人の心を手玉に取ると言うこと
社会正義のためには躊躇せずそれを為せ
たしかあの時の講義では
気づかぬ者たちに気づかせる
それは一種の啓蒙だと教えていた
わたしとかあなたとかが
発射装置のボタンの代わりに
得体の知れぬ予言者から
キーボードを手渡される
早速誰かはボタンを打ち始め
わたしは後ずさりして
「否否否」と変換し始める
巨きく立ちはだかるものとの戦いでは
奇襲攻撃や変則的な攻撃
またゲリラ戦法などが当然
だが倒すのは生身の人間をではない
そう考えるわたしはあなたとも訣別する
そんな方法では
またしても君臨の構造は先延ばしされ
君臨が無くなるのではなく
ただ君臨するものの顔が変わるだけだ
それならば自分で自分の首を絞めても
閉塞に耐える方が
はるかにまだましと言うものだ
閉塞に引きこもる弱者などと言われようが
わたしは一人で戦う
大義のためという詭弁は
聞き飽きた
2024/12/02
「捨てる」
捨てる
植物の記憶を捨てる
雲と星空を捨てる
せせらぎの音を捨てる
捨てる
動物の感情を捨てる
幼いものへの気遣いを捨てる
老いた心の吃音を捨てる
仲間や家族への
関心と惜別とを捨てる
捨てる
人間だもの
人間以外の残渣はみんな捨てる
考えることだけを残し
考えるに価しないことは
みんな捨てる
怯むほどに温かな血を捨てて
冷血に思考する
冷血を持って冷血を糺す
冷血を捨てる
人間を捨てる
人間を捨てて後
魂の故郷へ帰る
植物や動物の世界へ
幻となって帰る
2024/12/01
「探して手を伸ばす」
野菜や肉や魚などの食べ物から始まって
日用品から家電や車などに至るまで
よいものを作って提供する
生産者の努力も苦労もよく分かる
たとえば米一つとっても
より手間暇をかけたらおいしくなり
人の体にも一段とよいものが出来ると思う
そしてそれだけやれば当然高額になる
テレビのグルメ番組
バラエティーに紹介される料理やスイーツ
どんどん手が込んで
どんどん料金が跳ね上がっている
昔の農産物は安かった
魚介類も安かった
見えない生産者に
自然とありがとうって思えた
今は違う
テレビで見かける生産・提供の人たちは
異口同音に「質のよいもの」
「満足が得られるもの」を提供するとは言うが
「消費者に安く提供したい」
と言う声はほとんど聞かなくなった
「それが使命の一つでもある」
と答える人は一人もいない
生産者の生活を考えればもっともだ
早い話が会社員や公務員と同じになった
あるいは市場経済の一員として
別に敬愛する対象でもなくなった
思わず素が出て
「金儲けに走りやがって」なんて
心に呟くこともある
だがそれだって本当は
見合った対価かと言えるのかどうか
心では十分な報酬を得てほしいと願う
いずれにせよ
貧しい消費者には
今までは極ありきたりの
安価で旨いものが買えなくなった
食べられなくなった
そしてこれからはこれが標準となり
貧しいものはますます辛い
安いものを安いものをと
探して手を伸ばす
2024/11/30
「『死』とは何か」
「死」とは何か
生きてるものに分かるはずがない
なので「し」とか「シ」
のような
「ことば」の意味で考える
そうなると
「し」や「シ」の不安がつきまとう
自己の「死」の
生物学的な喩は「眠り」だ
小さな「死」だ
小さな自己放棄だから
文学的には「無私」だ
自己から解き放たれることだ
『だからそれがどうした』
「死」とは何かを考えることは
高尚なことのようで案外つまらない
『だからそれがどうした』
いずれ誰にも必ずやってくる
それが二十一世紀の常識
なので「死」とは何か
を考えることは徒労で不毛
『だからそれがどうした』
なので「これより先、死後に入る」
そう言明して今現在を
「死」の世界と決定する
これより死後の世界である
さて改めてその視界の中で問う
「死」とは何か
2024/11/29
「今日の呼吸」
言いたいことが言えない人
書きたいことが書けない人
そういう人がいると考えると
習慣みたいになった
おざなりの記述は駄目だと思う
けれども毎日張り切って
勇んで卓に向かってもいられない
苦し紛れにでっち上げたり
追われるように
さっと書き上げることもあり
毎日続けていると
すっかり生活の一部ともなって
呼吸のように何も考えずに卓に向かい
何も考えずに記述し始めている
趣味の詩人よ 無職の人
『こんなんでいいんか』
体の衰えと物価高と
生活は日に日に困窮の度を増して行く
半端な思想と言葉しか持ち合わせていない
憎悪や羨望からは解き放たれたが
不毛と徒労の負債を抱え
細い刃先の上を渡っている
『こんなんでいいんか』
この期に及んではよいも悪いもない
細い稜線の上に風が吹き上げる
体が揺れたらバランスも崩れる
神経を研ぎ澄まして集中する
思想も言葉もどうでもよく
詩作どころの話でもなく
一目散に山を下って
里人と挨拶を交わすべきではないか
湯治によい温泉場を尋ね
行って湯気の中で
身と心とにやさしくあるべきだ
2024/11/28
「話半分に聞く」
生涯を通じてその9割は
相手を信頼して会話してきている
それは人格を信頼してということで
互いの発言を信じてというのではない
なぜならたいていの場合
真偽の程を厳格に確かめながら話す
というものではないからだ
そんなことをしていたら疲れるし
すぐに喧嘩になる
そんな訳で話半分に聞く
と言う修練は万人が積んでいる
いまさら
「マスメディアに騙される」とか
「洗脳される」とか
カマトトぶるんじゃねぇ
世の中は「いい加減だ」
くらいは子どもの頃から知り抜いて
マスメディアもSNSも
信用ならねぇというのは常識
信じている
信じ込んでいると考える方が
ちょっと変
選挙の投票に行かない人が
おおむね5割を前後
「あれもこれも信用ならねぇ」
という先駆
それが庶民の賢明というやつだ
そして残りの5割が
怪しいマスメディアとSNSの
恰好のターゲット
〈揺れるは揺れるは〉となる
誤ることは悪ではないし
愚かという訳でもない
ただマスメディアやSNSのする
「こっちの水は甘いぞ」の歌に
知的な重心が浮かされるのだ
それでもそれがまた
メディア参加の誘いとなり
知的言語世界へと吸い上げられ
自ら発信することへのきっかけになる
一歩前に進んだ気になって
それはそれで哀しいループなのさ
投票に行かない人の根拠は
政治家や政党がどんな悪でも
庶民に想定外の大悪は為すまい
と言うただそれだけだ
突拍子もない信頼だ
愚かと見る向きもあるが
そうは思えない
騙されても知れていると
それは一応承知の上で
火の粉が降りかかったら払う
ただそれだけのことと
腹を据えている
2024/11/27
「意識を一本の木に譬えると」
意識を一本の木に譬えると、前提として根を張る大地が必要で、大地に当たるものが身体であり脳である。意識はその上で成り立っている。だから身体に根を張った部分としての意識では、例えば常に異性を考えてしまい、もう少しお金が欲しいとも考える。意識の成り立ちからして、それが当然だからだ。そしてこれは、誰もそうだそうだとは積極的に言わないが、万人に共通するように思える。
意識は身体とか脳とは不分離で、そこから欲求や欲望までも吸い上げてしまう。大地にしっかり根を張るように、身体や脳に紐付く意識は、どうしてもそういうようにくみ取ってしまう。
真逆になるが一本の木の枝葉と花たちは、大地から離れて、こちらは大気に接触し空と親近的だ。身体的な摂理とはとりあえず縁も薄れ、きれいな花を咲かせたりする。意識で言えば、美辞麗句、理想論の類いだ。
そして間に位置する幹の部分ということになるが、これは根と末端の枝先の両極に通じて、ここに人間で言うところの人格が形成される。
意識における枝葉や花と、幹や根っこの部分はまた、それぞれに重要である。花や枝や葉っぱだけでは成り立っていないし、幹だけでも根っこだけでも成り立たない。総合して一人の人間の意識となる。この事を忘れて枝葉や花、つまり目に見え耳に聞こえる部分での言葉や意識を解するのは不十分で、まずはそれが枝葉なのだとか、枝葉の部分に過ぎない、という構造を理解しておくことが必要である。根っこの部分もそうで、これを垣間見たからと言って、下劣だ不純だ利己的だというのはおかしいことなのだ。どんなに気取ってみても、人間は、元はと言えば動物からの成り上がりだ。控えることはいいが、蓋をするのはよくない。
ここで言う意識の、それぞれ枝葉と幹と根っこという分け方は、別の言い方にも転じられるような気がする。それは社会と家族と個人というようにだ。枝葉や花は社会生活に対応し、幹の部分は家族、根っこの部分はある程度の秘めた自己意識というように考えてみたい。
わたしたちがニュースやその他の報道で、ざっと眺めたり知ったりするのは、事実や物象的なもの以外では人々の言葉や思考であり、ここで言うところでは意識における花とか枝葉の部分についてである。
花とか枝葉の部分というのは社会的な表象に対応している。そこの部分で社会的にやりとりをして、それが現実社会を構成しているとも言える。そしてそれは確かに重要事ではあるのだが、だからと言ってそれが人間社会や人間そのもののすべてという訳では無い。それどころかもう少し踏み込んで言えば、それらの現象は所詮末端の問題、枝葉末節に過ぎないと言うことも出来る。大事なのは社会上問題にならない幹や根っこの部分。意識上の幹や根っこに当たる部分。多く沈黙するこれらの部分が大事なのではないか。
わたしたちは末端の花や枝葉を見ながら、幹や根の部分を推測するしか仕方がない。そして確かに個々にそれを行っているように思える。無意識にそこが肝心だと知っているからだ。にもかかわらず、やはり表象される花や枝葉に引き寄せられ、しばしばその表面上で判断することを余儀なくされてしまっている。そしてその表れは「迎合」となって、社会表面上を彩ることになっている。
2024/11/26
「ポツンと小屋暮らし」
山奥の「ポツンと一軒家」
動画で見たその光景
限界集落にとどまる
会話のない
例えば高齢者の一人暮らし
隔絶した仙人の暮らし
忙しく畑仕事をし
手慣れた炊事
テレビを見ながらの食事
親近感を覚えたのは
ぼくの意識そのものが
いかにもその山奥の
「ポツンと一軒家」状態だからだ
日々の生活には
思念の持って行き場がない
それでいて
ほとんど会話のない
「ポツンと一軒家」の主を見ていると
そういう状況の時に
どのように越えて行くのがいいか
教えてくれている気がする
会話を不要とする暮らし
肝心なのはそれだ
例えば自然に働きかけると
自然からの反作用が起きる
本当の会話とはそれだ
言葉を介するより
広く深い会話が成り立ち
それで事足りている
そういう方法は
ぼくの〈知〉の事情においても
同様ではないのか
「ポツンと小屋暮らし」
耕すことを継続する
暮らすことを継続する
意味めいたこと
価値めいたこと
そういうものはすべて
振り解いて行く行き方が
目の前に見えている
ぼくの 〈知〉は
それでよい
2024/11/25
「内部告発や内部批判」
内部告発や内部批判
戦時中にはほぼ許されず
阻止弾圧されたと聞く
その反省にたっての戦後
ぼくらにとっては
学生運動や中高での反抗
幼い者たちの口達者
そうした一連の流れがあった
もちろん瀬戸際での阻止弾圧も
どこかに名残を留めている
それでも現代は
内側からの告発や批判や抵抗に
まだ聞く耳を持っている
それが民主主義の砦で
内側で不満を抱えるぼくたちも
そのことを了解している
告発と弾圧の両側で
一線を越えないようにと自重しあい
解決の模索を続けている
これはもう少し
互いに辛抱したほうがよい
このところ均衡を破っているのは
いつも阻止弾圧する側だ
何のかんのと理屈を付けて
高圧的な握りつぶし
それを自制できぬものは
仮にではあっても時代は担えない
とっくにそれは知れていて
持ち上げるほどの思想家も政治家も
どこにも見当たらない
2024/11/24
「新たな概念の創造に」
そうやって育ち考えて
そういう場所や環境の中に
そういう姿勢と心理で立っている
それが色として赤ならば
そのまま赤でいればいい
それが色として白ならば
そのまま白でいればいい
ある日むかしむかしの
言葉を持たぬ時代のふつうの人を
魔術を用いて今に召喚すると
異常さに驚くだろう
激しい咆哮に慌てるだろう
震える姿に哀れを感じるだろう
野生の力に怯えるだろう
彼には落ち度がない
そこに立ったのは魔術のせいだし
いっさいの異質や異和も
彼の落ち度ではない
なんという奇跡か
わたしならばそう考える
この一瞬に
人間と人間が並び立っている
わたしならばそう考える
この一瞬に
赤と白とが並び立っている
わたしならばそう考える
赤ともなり白ともなり
野蛮ともなり理性の人ともなり
人間という概念の中に
すべて溶け込んで行く
そういう概念の創造に
わたしは向かう
2024/11/23
「ぼくが〈いのち〉を酷使する」
それが自分ではないし
自分のものという訳でもないらしい
それじゃどうしてそこにあるのかと問えば
どうもそれもはっきりしない
無いのかと言えば有る
無くせるかと言うと無くせるようだ
ただし 無くしたところで
さざ波一つ立つかどうか
周囲への影響は有るか無しかのよう
それはやっぱり無いのだろう
有るとすれば考えているものとは違う
人間は分からないそれを総称する言葉を
ただ発明しただけだ
言葉とそれとの間には何も関係というものがない
いい加減さや偶然さで命名したのだが
本来は到底命名できるはずのないものを
暴力的に命名した
それは頭で考えて分かるものじゃない
その上自分のものという訳でもないので
ほったらかしにして相手にしなければいい
ぼくらが思考するリズムとは別に
ひとりでに時間を刻んでいる
勝手に現れて勝手に消える
ぼくらはそいつに映し出されたスクリーン上で
ぎこちない演技をする羽目になる
どうせならそいつに嫌がらせするように
常識を越えた振る舞いで
困らせるくらいのことをして
そして本当に困らせてくたくたにさせて
やがてスクリーンから消えてやる
〈いのち〉に踊らされるな
ぼくが〈いのち〉を利用して
ぼくが〈いのち〉を酷使する
2024/11/22
「枯れた言葉たちが落ちて行く」
日ごとに気温が低下し
あの森や林の枯れ葉たちの
降る量も増していることだろう
この身が老いてくると
体の中をいっせいに
枯れた言葉たちが落ちて行く
「国民県民のため」
「日本国また地域のため」
「正義と真実」
「自由と平等」
「議会制民主主義」
「選挙と投票」
一度は花火のように高く打ち上がり
空に消えて落ちて行く
そうやって何遍も何遍も
理想を打ち上げて
見渡すと以前と同じか
少しだけ明るく賑やかな
サイコパスな社会になった
ずいぶんと努力して苦労して
果敢に戦ったり
揚げ足取りを防いだり
じっと耐えたりなんかもして
万人が頑張って頑張って
多くの言葉は地に落ち
サイコパスな社会になった
そりゃあ紅葉が過ぎれば
枯れ葉も降りしきり
きれいだった言葉も枯れて
次から次と地に落ちて行くさ
戦後生まれのぼくらは
七十年の生涯に何を見せられているんか
片方では調子に乗る爺さん学者が
だらしない顔で
「日本はよい国神の国」と言祝ぎ
また一方には若者がいて
騒いだり病んだり自傷したり他傷したり
道なき道に迷い出ている
ぼくらは何を見ているんか
あれもこれも
言葉と知と学問と思想と
取っ組み合ってきてのこれが現在か
そりゃあ枯れ葉も降りしきり
きれいだった言葉も枯れて
次から次と地に落ちて行くさ
ぼくの体の中をいっせいに
枯れた言葉たちが落ちて行く
2024/11/21
「とある残像」
買い物帰りの駐車場から
脇に小さく取り残された森を見ていた
紅葉を過ぎた枯れ色の葉が
一枚そしてまた一枚と切れ目なく
寂かな音を引き出しながら
視界の中に落ち続け
小舟のようなその舞は優雅で
ふと見入ってしまった
それはそれだけのことで
すぐに帰路についた
何か懐かしげなものを見たことを
どこかずっと遠い遠い所の
幻の人に知らせたいと
そんな気持ちが余韻として残り
まぶたの裏に
いつまでも匂わせた
晩秋の窓の外はすっかり昏くなり
部屋の中で背を丸めながら
時々目を閉じ
何も考えずに時を過ごした
耳をそばだて
落下する枯れ葉の
空を切る音を 幼年の時を
ただ訪ね歩いた
2024/11/20
「敬愛する人しない人」
この頃話題の政治や経済の論客は
何となく高学歴で頭がよいということで
持ち上げられている気がする
知識があり視野が広い
けれどもそんな事は屁でもねえや
などと思うわたしなどは
雲のような高みの幻想領域にある言葉バンクから
すべて借りたり盗んだものじゃねぇかと思い
そんなんで得意面するほうが
よっぽど馬鹿だと決め込んでいる
改革や革新の理念においてもおなじ事だ
すでに噂になっているものを取り込むことくらい
やろうとすれば誰にだって出来る
彼らはたいてい自ら創り出したものではなく
他人の理念を着服して着込んでいる
「ネズミの嫁入り」ではないが
わたしが一番偉いと思うのは普通の生活者で
自分を偉いとか賢いとか頭がいいとか
そんなことはとうの昔に諦めて
意識することさえしなくなった人たちだ
頭を使ったり頭で働く人が偉いんじゃない
世界はそんなもので成り立っているのじゃない
大多数の一般生活者で成り立っている
一般生活者の存在無くして政治家も学者も芸術家も
あるいは芸人やメディアやSNSも成り立たない
そして逆に彼らが存在しなくても
一般生活者だけで構成された社会は成立しうる
もしも一般生活者はただいるだけで
偉くも何ともないと考える者がいれば
それは大いに違っている
たしかにそこにそうしているだけなのだが
そうしているだけで
頭を使う者たちの職業を成り立たせているし
頭を働かせて生きていけるのも
太古から同様に勤労する生活者が居てのことだ
悪く言えば依存し寄生しているのは
自称「頭のよい」そういう族だ
どっちが偉いか一目瞭然ではないか
江戸時代の一人の思想家は
そういう族を称して「不耕貪食の徒」と呼んだ
一般の生活者の仕事の対価を
舌先三寸で横から掠め取り飽きるまで貪り食う
そんなふうに見えたからだ
現在からは過激な言葉と映るが
時折は思い出すことも悪くはない
むしろわたしなどは
頭の弱い愚者の方がよほど偉いと思っている
賢者や偉人より自然が偉大と思うし
動物も植物もその自然には個的に対峙して
その生き様はとても自立的でしかも自然体だ
人間はそれらからは遠く
知的であることはさらに遠い
知的さを威張ることはなお遠い
自然からすれば鼻で笑えるほどに矮小である
人間の中で幻想の愚者ほど自然に近いものはない
幻想の中の一般の生活者はその次に近い
そう考えるのでわたしは心から
深く深く彼らを敬愛する
2024/11/19
「地下深くで動くもの」
言葉が分断され
浮き足だって見える
世代とか階層とか
もっとずっと小さな差異ごとに
違った顔つきをして
理解を拒絶し合っている
少し視野を広げると
大きなうねりが
グローバルな世界でも
地方都市においても
同時進行してる
AプラスBはCという文字式
地下深くで
プレートがぶつかり合い
あちこちでCが起きている
もうすぐ地上でも
南海トラフは始まりそうで
いくつもの余震が
観測され始めている
不思議なのは
たがいに仁をより所とし
願う所も同じなのに
群れと群れとはいがみ合う
おそらく
命というものは
地下深くで動くものを言う
2024/11/18
「遠い記憶の喚起」
角材を持ったヘルメット姿の学生が
キャンパスを行き来していた
その異様な雰囲気に呑まれて
どうしてそんなことになっているのかと
関心を持たずにはおられなかった
大学の講義を真面目に受けるどころではなく
仲のよい友人や先輩たちと会うと
自然に話題は学生運動についてになった
振り返って考えると時代の声に耳を傾けていた
急進的な学生の言葉に大きく影響を受けた
国や政府が行う政治のことに加えて
大学のこと教育のこと社会とその階級のこと
指導的立場の学生が話す言葉を
カリスマの言葉のように受け止めていた気がする
すべてが真実で疑う余地などないと
その頃は考えていたんだと思う
若い頃に出会う言葉や声は
乾いた砂に落ちた水のように深く精神に染み入る
だから一つの反省として 今は
『無知だったから簡単に持って行かれたんだなあ』と
少し自嘲気味に思い起こすことになる
現在のSNSやユーチューブで
若い人を中心に異様な盛り上がりを見せるのは
そうした過去の経験から類推できる
純朴に「愛がすべて」と思い込む事と同じように
純朴に「真実は常に隠されている」と思い込む
誰かが「陰謀」と触れ回ると次々と伝播して行く
独り言にすぎない「クーデター」や「転覆」の文字が
無理矢理引き出され一人歩きして伝わり始める
面白おかしく伝えるマスコミ報道がゴミなら
SNSでの投稿も再生回数を目論むゴミだ
学生運動の指導者たちの言葉も
結局は周囲に呼びかけ他者を動かす言辞だった
自分が望むことに人を巻き込み動員しようとする
悪気はないがよくもない
多数が正義や真実の根拠になることはない
烏合の衆を引き込んで数で正義を勝ち取るのは
武器を持たない戦争を遂行するのと同じだ
そこでは肉体の代わりに精神の血が流され合う
今ならば愚かな言辞と判断もつくが
若い時には結構足を掬われた
自己の主張を安易に通そうとしたり
それに他人を加担させ利用するのが駄目なので
足を掬われる方が悪いのではない
若さは信じ込みやすいが
老獪に信じ込ませるような手口を覚えたり
そんな手を使って他者を惑わせる事を専らとする
大人であるよりはよっぽどましだ
あれもこれもと疑うならば
疑うことはより徹底的である方がよい
現実及び人間の生活の中に
「正義」とか「真実」という言葉のように
単体で存在する「正義」も「真実」もあり得ない
わたしたちはただ
何処までも深みに降り続けることで
やっと「近似」に辿り着く
そんな迂遠な方法しか持ち合わせていない
2024/11/17
「ここだけの秘密」
例えば会社員や公務員
その後のアルバイトやパート従業員などの経験を経て
これからの老後に
蓄えもなく老々介護の近未来に
役立つことは何もない
そんな意味では一般の老人生活者としての現在は
相変わらずの吹きっさらしだ
それらの経験で一つだけ役立つことがあるとすれば
道は自分で切り開くしかないということを
身をもって知って来たと言うことだ
よかろうが悪かろうがやれることをやるしかない
小さな失敗や挫折はいくつもあって
もちろんほんの少しの成功体験もあって
そういうもんだと身に染みて感じてきた
そこから言えばこれからもそうして行くほかないと
腹は括れている
這いつくばるような悲惨な老々介護
そう想像すると何もかもいやになるが
それは人間の癖だと言うこともよく知れている
やってみなければ本当には分からない
なってみなければ本当には分からない
そんな楽天的な腰の据え方も
社会生活の体験から身についた
後は学んだそれらを実践するだけだ
ここだけの秘密だが
あとは文学から学んだことが大きいかな
壮絶な「死の棘」の世界は逃げずに逃げる
最後は逃げないで貫くというやり方を教えてくれた
それ自体が貴重な記録で核に食い込んでいる
読むことを薦めたりはしないけど
しがみつくものを見出せず藁にも縋る思いの人には
一度読んでみたらいいのに とは思う
人間性のどん底にまで降りて
そこから見る普通の生活社会はまた違って見える
醜悪でそして美しい
最悪の状況の中にだけ見えてくる世界がある
2024/11/16
「もうひとつの内部告発」
子どもの頃の教室には
「元気で 素直で 明るい子ども」
といった文字が
黒板の脇に貼られていた
「素直」や「明るい」は自分とは違う
そう思って
どうしたらよいか分からなくて
ずっと悩み続けた
「意地っ張り」で「暗い」性格は
悪いと言われているようで
そこは自信がなかった
控えるように過ごしたと思う
それはこの社会と初めての出会いで
それがすべての始まりだった
気がつくと自分の性格はそうなっていて
欠点か短所のように背負わされた
そしてそのことについて
一人で苦しんで悩んだ
四六時中対面し続けた
こうした心の中は他に知りようがなくて
みんなもそうなのかそうでないのか
分からなかった
こういう問題は一人で背負うしかない
切り抜けていくより仕方がない
そういう仕方で現在も
一人で苦しんで悩む
そういう子どもは少なくないのだろう
何気ない大人社会の願望
「元気で 素直で 明るい子ども」の育成
でもその時にはもう遅い
願望に込められた善意が空回りする
願望に込められた善意は
時に子どもの心を深層で傷つける
ただそういう標語に当てはまる子どもを
大人社会が欲しただけだ
近代以後の大人社会はいつも傲慢なのだ
子どものためと壮年が考えれば
それは子どものためだという思い込み
錯覚と妄想と傲慢が
「元気で 素直で 明るい子ども」
という標語を
それこそ子どものためと思い
考え作り掲載した
自分たちの満足や慰安のためとは
考えもしなかったろう
それこそが傲慢だ
知を標榜する者たちの傲慢だ
どれだけの子どもを
傷つけているかについて気づかない
不登校や引きこもりを
産み続けたかについて顧みない
大人になって結婚しない
子どもも作らない
そう考えるかつての子どもたちの
秘めた心の痛手について
あるいは個々の絶望について
いつも大人社会は
あっけらかんとして気づけない
出生率低下の責任を
誰ひとり負おうともしない
すべてはみな
自分たちの手で招いたことなのに
2024/11/15
「幻想の功罪に関する試論」
現在でも偉人と遇される孔子や釈迦
それぞれに教えや言葉を残した
簡単に言えば生きる指針めいたことをだ
こうしなさい とか
そんなことをしてはいけない とか
それはそれで良いのだが
孔子や釈迦の言葉以前の世界は
教えや残した言葉よりずっと混沌としていて
孔子も釈迦も頭にきて
「そんなんじゃ駄目だ」
とキレたんじゃないかと思う
それ以前の人社会はもっと無秩序で
めいめい好き勝手にやっていたんだろう
それはそれで問題もあったかと思うが
もっと遡ればもっといい加減で
いっさいの規制や障害なしに
思い思いの生き方をしていた
そんな時期もあったかも知れない
動物や植物の世界にも多少の秩序はあるが
人間が自分らに課す程の規制はない
こうしたことから考えて
それから孔子や釈迦の教えも考えて
やっぱりどんな風に生きたって
それぞれの勝手でいいんだと思う
本来はそんなだったと思う
だから人間個体はそれぞれに
しっかり生きたと言ってもいいし
時代に翻弄されてやむを得ず
不如意な生き方になったでもよい
それらはみな
生まれてそして生きた
ということでは同じではないか
多様な価値が混沌と散在する中で
個はそのうちの一つを選ばなければならない
そんなことに善いも悪いもない
ただ選択は不可避だと言うだけだ
病んでもいいし
潰れても瓦解してもいい
狭苦しい人社会の通念でしか
生きると言うことを考え得なかった
硬直した言葉なんか
笑って蹴飛ばして行けばいい
孔子や釈迦は偉大だが
固く息苦しい道を説き
幻想を「よりよい生き方」などのような
狭さの中に閉じ込めてしまった
つまらぬ倫理に囲った
そして末裔の人の心を縛り苦しめている
もうその呪縛から自らを解放すべきだ
生きるとは言葉に出来る事ではない
だが人間は
これを言葉にせずに生き得ない
2024/11/14
「老いに捧げる物語」
幼児と犬や猫が昼寝を共にしている
そんな動画を見ていると
ただそこにそうやっているだけなのに
ひどく懐かしい思いがしたり
とても羨ましい気がしたりする
目が覚めても
互いに互いを苦にしない
そういう間柄であったり距離だったり
言葉のなかった遙か遠い時代にも
その頃の人間と人間の間にも
似たような光景があったか
そしてもしそうだったとすれば
そんなコミュニケーションの仕方を
いつからわたしたちは
無くしてしまったのだろうか
黙って傍らに居続けるということ
目の前の存在を
自分を覗き込むように見るということ
翻って言葉と知の働きは
わたしたちに何をもたらしたか
世界を一瞥すると
その光景はいやでも容易に見えてくる
何を得て何を失ってきたのか
そして損得を秤にかけて
またしても大きな得に向かって
この世界は加速しようとしてしまう
何かを得ると何かを失う
おそらくわたしたちの世界は
エネルギーの総量が一定と決まっていて
どこかで大きな得を得ると
どこかで大きな損失が生じるのだ
そんな行ったり来たりを繰り返していて
自分だけは
自分の家族だけは
自分の同胞や国家だけは
ずっと得するだけでありたいと
居もしない神や仏にまで
願ってしまうものなのだろう
そのことは
動画の中の幼児や犬や猫には
夢にも見ることのない
遠い遠い話ではあるのだろう
2024/11/13
「『孝』の不自然を自問する」
時々「孝」のことを考える
通知表では「2」と記録されている
だから考える時には
いつも悔恨が混じっている
だがその通知表は自己記載したもので
相手方から届いたものではない
不思議なことに
この自己記載の通知表が
どこから発行されたものかよく分からない
また自己記載の「2」が
何を規準として「2」なのかも
本当のところはよく分からない
最近になって考えたところでは
「孝」という言葉は広く言えば
「仁・義・礼・智・忠・信・悌」
と組で使われることがあったと理解する
そしてそれらが世間に流布された初めから
「義」が有るか無いかとか
「智」に長けているかいないかとか
それがさも大事かのように語られ始めた
例えば「忠」を尽くしたか否かは
対象とするところは違っても
「孝」と同じ台上(表)に乗せられており
「孝」と「忠」とを並列に置く規準
そこにすでに主体の主観的規準が
貼り付けられたと考えられる
そしてそう考えるようになってみると
個の考えに発した「孝」の捉え方に
今なお呪縛されているそのことが
何とはなしに気に食わない
そのように分類され精査される以前には
自然の発露に過ぎなかった「孝」が
もはや自然の発露ではすまされなくなった
評価したり評価されたりすることとなり
意識的か無意識かにかかわらず
偽装することが当たり前になった
自然の発露としての「孝」は
精神の内側で自らによってもみくちゃにされ
その後に消息を絶って久しい
それでも
今でも
差出人不記載の通知表だけは届く
「忠」と同列に置かれた「孝」の通知表など
不問に付してよいと語った先人が
中世と近世にたった二人だけこの国には居て
通知表が届くと思い出す
2024/11/12
「不可解なこだわりをめぐっての鼻歌」
生涯をかけてこだわり抜いたことに
あまり意味はない
老後のこの時期にそれを知ることは
どことなくうら寂しいものだが
いっそのこと
あっと言う間に日が暮れる
この晩秋の潔さみたいに
暗い方角に心を定めてしまえばいいのに
昼時に見たスーパーの裏手の森は
赤や黄や緑の葉で賑わい
日没後の今はすっかり闇に包まれて
同じ森なのに昼と夜とでこんなにも違っている
個の生涯もまた若い時には意味あるものと見え
老いては意味などないものと見え
また老いては意味などないところから
何かが始まろうとする
気がつくと
見知らぬ稜線の上をひとり
細々と歩き出している
捨ててきたこだわりとは別のこだわりに促されて
いったいこの歩みにも意味がない
何処に向かっているのか
遠く稜線は続いていていつ果てるとも知れない
『暗くなったらひとまず家に帰ろう』
そう自分の両の足に語りかけて
足の向くまま足の気の向くままに
胴体から頭からすべてを任せてしまえ
と思うよりほかに
何も考えることはないと考えている
どこからかいつからか心の作りを間違えてきた
稜線が尽きるところまで
心と身とを運んでいくほかに
もう為すこともない
2024/11/11
「現実世界はアドリブである」
現実世界はアドリブである
次々と即興劇が繰り広げられる
平気な人もいれば
台本がないと参加に二の足を踏む人もいる
台本を周到に用意しても台本通りには行かない
尻込みしている間に
即興劇は二幕目三幕目へと移り進んで
気がつくともうきみの出番は終わっている
だが現実世界はアドリブである
台本のない即興劇だ
出番が終わって舞台からはけることも
この世界ではアドリブと記録され
そのままきみのアドリブと見なされる
つまりひとつのきみの演技と記録される
そしてきみが一人で考え
一人で決意した演技と見なされる
すると他の舞台上の役者たちもまた
それぞれに思うところをアドリブで演技する
笑うものがいて蔑むものがいて
怒る演技もあれば憐れむ演技もあり
寄り添ったり慰めたり
その一つ一つはまたそれぞれのアドリブである
現実世界全体が
脚本のない一つのアドリブ劇となって
予測不能の坩堝である
こうなるともう きみもぼくも
やることは一つと考えるほかない
台本も脚本もない予測不能なこの時空間で
この先にはアドリブという
選択の自由さだけがある
笑い飛ばすも自由
くぐもるも自由
ただアドリブ世界だから
何一つ正解というものがなく
また何一つ不正解というものもない
舞台から降りるもよし
舞台に躍り上がるもよし
それを見て観客も他の役者たちも
ただアドリブの反応を見せる
つまりくよくよしても仕方のない
自由さというものに
ぼくもきみも直面している訳だ
アドリブを生きる
ぼくらの目の前の現実は これだ
2024/11/10
「まだまだぼくらは忙しい」
縄文から弥生にかけての東北は
自給自足の集落がいくつもあって
独立に生活を営んでいたらしい
ある日隣の集落に押し寄せて
言うことを聞かなければ攻め滅ぼすぞ
なんてことはなかった
戦いを好まなかったし
戦う理由も必要もなかったのだろう
ある時遠く西方から集団が来て
俺たちの法に従えと理不尽なことを言う
専門の戦闘集団をもつ西方の異人たちは
戦い慣れていたので結局東北は配下にされた
一方的に東北に攻め入って支配下に置き
日本国に組み入れてしまった
時の政権の
そうした仕儀を褒め称える
どんな理由や根拠があるだろうか
その時から日本人の悪癖や悪習は
大手を振って繰り返すことが慣習となった
欲しいものを力ずくで奪い
強い者が弱い者を従え
上の者が下の者から耕作物を取り立て
自然を超える法と為した
上に立とうとする者は後を絶たず
権力の争奪はひっきりなしに
行われるようになった
それが中央の中身であって
そうした仕儀を褒め称える
どんな理由や根拠があるだろうか
そんなに大王は偉いか
そんなに将軍は偉かったか
こうなっては仕方がないが
これからずいぶん先の世界では
将軍にも大王にも
もう役目は終わったからと退いてもらい
それこそあの縄文の東北の
他を収奪せず
他に干渉せぬ
しかも互いの集団を尊重し合うというような
そんな関係性を参考にして
社会や国を変えて行くと良いのではないか
これからの日本を目指せば良いのではないか
そこにひとつの未来の可能性を
ぼくらは探してみたいと思う
だからまだまだぼくらは忙しい
2024/11/09
「明日の老後は黙って過ごす」
鉄砲玉からリーダーから
参謀から統率者へ
また支配者へ上り詰めようとして
虚偽や捏ち上げや陰謀論まで
バカで愚かな連中は
エネルギーと
術策の実行力だけはすごい
嵐のように社会をかき乱して
正義を為していると思い込む
単純な奴ら
そんなことを一度言ってみたかった
言っては引きこもり
言っては引きこもり
真正面からは戦わない
いい気になるなよって陰で言う
陰で言って溜飲を下げて
なんだ 真逆だけれど
似たようなもんだ
大っぴらにやる奴らと
隠れてやるぼくと
言いたい放題でいいじゃないか
ぼくだって言うよ
ぼくなら言うよ
言っては引きこもりしながら
馬鹿にはやっぱり馬鹿って言うさ
奴らに聞こえぬように
こっそり小声で馬鹿って言うさ
少年のように
前と上にしか視線を向けない連中に
全方位に目配り気配りしてきた
ぼくらの胸中は分からない
彼らはたいてい
自分たちの頭は切れると思っている
そしていつでも得意げに
その問題の解答はこれです
とやるけれど
その解答が常に
意味のない解答だと言うことに
気づけていないんだ
何処までも元気に荒れている
山を彩る枯れ木たち
賑やかしのウザい奴
とまあこんなふうに
一度は言ってみたかった
言って溜飲を下げてみたかった
言っては引きこもり
言っては引きこもりして
咎められたり絡まれたり
これ以上傷つくことがないように
今日は隠れて罵詈雑言
明日の老後は黙って過ごす
2024/11/08
「老後の引きこもり」
ここのところの一日は
何も変わらず何も起きない
蓮池のまわりを
ゆっくりと散歩する
そんな心持ちで周囲を見ると
静けさだけは
桃源郷とか極楽とかを思わせる
こうなると事件はいつも
マスメディアやネットメディア
の中で起きている
気まぐれな好奇心で
ふと覗き込んだりしなければ
何処までも穏やかに
居続けられるのではないのか
「蜘蛛の糸」のお釈迦様が
蓮池の下を覗き込んだように
老後の引きこもりは
社会とか世界とかの事件に
つい目を向けてしまう
そうして心では
一本の蜘蛛の糸を垂らしたい
と思うのに
そんな物は持ち合わせない
何のために年を経てきたのか
体験も経験も
理性も知恵も
内にくぐもって膨らんで
やがて萎む
祖父母や父母の通った
その道に いま
差し掛かっていると
ただそれだけを知る
2024/11/07
「反という意志」
世の中には一定数
「東大」ブランド好きがいて
とっくの昔に朽ちるはずの
〈受験知〉が
今も根強く幅を利かせている
それは例えば
日曜の朝テレビ放送される
皇室番組みたいに
知らぬ間に
当たり前のように
目に見え耳に聞こえてくる
おそらく批判的な声は
影を潜めてきて
ブランド好きが再燃している
どうしても上へ上へと
極楽に上り詰めたい思いは
捨てがたいのだろう
「唯円 お前もそうであったか」
と言った時代は
極楽とは往生の後だが
今は娑婆苦を経ぬ者たちが
現世の上層の一画に
「極楽の間」を築こうとしている
そこには悪気という悪気はない
どちらかと言えば
明るく元気で素直な向上心
そして好奇心や能動性だ
いつからかこの島国は
おそらく文字を使い始めたその頃から
優と劣との識別をするようになり
二別のなかった時の
出来る者は出来ない者の分を
黙って補填する
そうやってみんな仲良く暮らす
そんなしきたりや暗黙の了解ごとを
少しずつ忘れてきた
ひとつになった権威と権力が
雪だるま式に膨大となり
人たちは雪だるまにくっつき
また追いかけた
その雪だるまは今も
加速して回り続けている
飲み込まれるか
弾き飛ばされるかだ
何かおかしい何か変だ
何か違うってぼくらは思ってきて
ぼくらは考えてきて
「地獄は一定棲みかぞかし」とか
したり顔で呟いて
ずっと傍観し続けてきた
『それに間違いあるまい』
極楽に登ろうと
次々とカンダタを追う行列に
かける言葉さえ見つけかねている
『それに間違いあるまい』
時間が迫り自棄糞になって
「血の池の底に潜ろう」
「穴を掘り池の血を抜こう」
と呼びかけたって
誰も振り返りはしない
もう意味はないんだ
反の意志はすじ雲のように
ただ消えかかっている
2024/11/06
「支障は何も生じない」
地上の風や
地に落ち地を這う流水のように
人の心もまた一枚の木の葉として
その行く末は知られない
たしかに流転はしたはずだが
そんなことは
世界の記憶に残らない
それで何も悪いことはない
支障のひとつも生じない
これから一億も
生き延びる種でもあるまいし
そんなに自分たちのことを
大げさに考えるな 人間よ
朗らかに仲良く暮らせ
一度きりの演者として
主演者として
公開期日の舞台に立て
楽しんで
己の悲劇
また喜劇を演じよ
2024/11/05
「心の翻訳」
目の前をヘルメット姿の学生が通る
上京したばかりの田舎者がそれを見て
関心を持ったり怯えたり
さまざまな反応を見せた時代だ
人間とは何か
人生とは何か
社会国家政治教育学問文学思想哲学
生活仕事労働資本文明文化言葉文字
とはとはとは何か何か何か
戦争と平和
日常と非日常
何処にでも潜んでいる
尊卑に貧富に上下
とかとかとかとか
徒党を組まずに
成ろうとしたのは普通の生活者
あるいは物言わぬ大衆の心の翻訳者
長い長い潜伏の時間を
やさしい群れの中に過ぎてきた
もうすぐ一人のその道も
闇に吸い込まれようとしている
この光景は上京前の
集落の外れに見た景色とおなじだ
集落の出口を探して
見つけられなかったあの時と
だからもう
時代に運ばれるその先で
初めてのことに出会ったとしても
反応できる気がしない
わずかに残せた文字の中に
物言わぬ大衆の心は
刻まれていたのだろうか
曲解のうちに
すれ違っただけか
2024/11/04
「どこにでもある知事選挙」
どこにでもある知事選挙。陳腐な改革・革新の連呼。時代の趨勢で、候補者の顔はおなじ方角を向いている。
口を衝いて出る言葉も、もともとは道ばたに敷き詰められ、転がっていたものを借りてきたもの。はじめに言葉ありきで、各候補者はちょっとバラバラに言葉の後追いしている。何処にも誰にも、考え抜かれた言葉なんかないんだ。生活の苦を潜り、積み上げてきた思想も哲学もないさ。相変わらず受験勉強みたいに、前もってある答えの中から選別して答えているだけなんだ。今一番話題になっている、一番流行っている、目敏くそれを知っていれば口にするのは容易なんだ。
でも本当はそれだけじゃ駄目さ。現実の社会なり、そこに犇めき生きる人たちの生活をみれば、先進先鋭の言葉がどれだけ無力で上滑りを繰り返してきたかすぐに分かる。苦しみも圧も軽減されていない。
異口同音に「若者支援」や「子育て支援」を連呼。はした金を積み上げて、後に大きな分断を招きかねない。見え透いた手口で、誰にも考えつく浅知恵に過ぎないのに、手柄みたいに語る愚。
この熱い選挙戦は、候補者とメディアと、暇を持て余した野次馬たちで成り立っている。頼もしく安定の地域民は煽りにも冷静で、少しも盛り上がっていないと聞く。いいじゃないか。政治の言葉の無力。生活者の声なき声。声にならない声。声に出来ない声。
軽々しくは聞かせられない。それほどの付き合いもまた信もない。そうやって、頭と口先だけの連中には御しやすいと錯覚させておけばいいのだ。その間に、地域民は政治に頼らぬ生活の方途を、生活の中で摸索していくことだろう。そうして時が来れば、右から左からの政治家たちは、その存在基盤を失うのだ。心しておくがよい。
2024/11/03
「秋爽に思う」
秋爽の一日
朝の洗濯に掃除
時を見て食事
休憩はパソコンの前
すぐに横たわって
この平穏に深く酔いしれ
この平穏に深く身を投ず
『いずれ』と夢に語る
この先の蓄えのない
老々の苦海も
当たり前に耐えて
行かなくてはいけない
その時はその時で
泣き喚くほかに算段もない
ただキリギリスの
この身ひとつ
凋落の坂道も
歌って降り
降るを歌う
2024/11/02
「〈非政治〉」
政治とは
生き長らえるための
方途であり
方便である
率直にそして露骨に言えば
芥川の「蜘蛛の糸」の
カンダタの業
政治の元はそれだ
天上から一すじ垂れた
銀色の蜘蛛の糸に
カンダタのみならず
大勢よじのぼり始めるのも
おなじ業のしわざで
誰にも共通にあり
誰にも切り離せないものであり
これは知や理性で
どうこうできるものではない
最後にカンダタが
後をついて這いのぼる列に
やはり業の言葉として
「下りろ。下りろ。」
と喚き叫んだ時
蜘蛛の糸はプツリと切れる
そのことは
業すなわち政治の行く末を
暗示するものだ
業のやりとりが政治を為すが
それが過ぎると
たちどころに政治は終焉する
だから政治はあえて
愚鈍な
〈非政治〉を目指す方が
政治的なのだ
2024/11/01
「ワタシハナリタイ」
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
と言う賢治の願いは
素朴で そして
率直な願いだったと思う
彼の理想でもあった
しかしそれはまた 賢治は
願う人物像とは異なっている
ということを教えてもいる
ナリタイというのは
現状差異があることを表している
賢治はその差異を埋めるために
身を削るようにして生きた
誰に懇願された訳でもなく
誰に強制された訳でもないのに
どうして賢治は いや
どうして人間というものは
そんなふうに考えて
それ以外にないと言うように
自分の生涯を
決定してしまうのだろうか
仏や菩薩の化身のように
人は生きられるのではない
その無理筋を
どうして超えたがるのか
愚かだという見方もあり
人間の止むに止まれぬ衝動だ
と言う見方もあり
それが人間の特質だ
と言う見方もある
それはぼくらには
判断がつかぬ事だが
強く揺さぶられはした
ただずいぶんダラダラと
薄く引き延ばしたり
いい加減に折り合ったりして
賢治とは違う仕方で
理想に到る道を
探ろうとしては来たのである
未だ無理なく理想を遠くに見据え
途上を歩いているものかどうか
あるいはそれは乾涸らびてしまい
とっくの昔に手放しもして
生きながらえているだけなのか
今となっては もう
よく分からない
2024/10/31
「逆行」
一定数を超えると
水に溶けないものがある
過剰な感覚や過剰な知は
暮らしの中に溶けていかない
だからそれらは延々と
生活の場からこぼれ落ちる
そんな夢の中を
半世紀近く歩いて来て
もうすぐその夢も終わる
暮らしからは虚妄と見え
逆から見ると
生活はどんな言葉も跳ね返す
虚業者でなければ文字は使えない
つまらぬ現実はつまらぬ夢だ
不毛な細道が前人未踏と
手招きしていた
そりゃあ前人未踏さ
ゆっくりとゆっくりと
まるで緩慢な自棄のように
密約の言葉と生活と
微細に行き渡るすべての力を
捨ててきたのだもの
飛ばずに地に墜ちて
延々と暮らしの圧の中を
歩いて来たのだもの
そりゃあ
ひとりぼっちにもなるさ
2024/10/30
「過半は人の暮らしの普遍」
当選か落選かだけに関心のある
立候補者と同じに
投票率53%で残りの過半は
投票なんか行く暇がない
とばかりに陰で舌を出す
やってることはろくな事じゃない
そっちだって同じだろ
こっちも同じで
だからあっちも同じさ
それで手打ちにしようじゃないか
なんて考えていたりする
それで何となく
互いに瑕疵を責めずに来た
許し合ってきて丸く収まってきた
今まではそれですんでいたが
これでバランスが欠けたら
どうなるんだろうな
投票率が90%とか反対に10%とか
想像するのもちょっといやだ
それでもこのところ
急進的なトップダウンが好まれ
独裁的な力が好まれるようになり
そんなやからもふえて来た
危ない兆候がちょっと見えている
だがこうなって来たとしても
過激さが度を超しても
こんな時は残りの過半が救済なんだ
無関心派がいいんだ
生活の身過ぎ世過ぎににあくせくし
なおかつ楽しめるものを楽しんで
人の暮らしの普遍を逸れずに行く
そんな過半の無意識が
本当に危なくなるときっと動き出す
その時を見極めるのが肝心だ
その時が来るまでは
今見る光景のどれにも加担するな
今はまだ きみもひたすら
遊んで暮らせ
2024/10/29
「独立の『クニ』の妄想譚」
民主主義国家も
独裁的国家もみんな駄目で
賞味期限切れを向かえている
まだ存続できているから
消費期限切れではないのだろう
じゃあどうすると言うことで
地方に目をやると
これが中央官庁の出先だったり
先進の行政のパクりを専らにしていたり
自治にも独自性にも欠ける
上から下から
全部駄目だとしか思えない
そこでもう腹を決める
家族から親族までを
自分の国とする
国家ではなく国だ
あるいは「クニ」の方が良い
この「クニ」は一度消滅し滅亡した
これを再建するほかない
焼け野原からコツコツ取りかかる
とりあえずこの「クニ」の
共同体構成の要件は
個々人の精神の自立を基本とする
互いに自立の精神を尊重する
今のところこれは
ただのてんでんばらばらであり
世代間は分断されている
なので再建はずいぶんと先になる
それでもここにしか
ぼくらは希望が持てない
「クニ」が祖国だ
家族が「クニ」だ
最期の拠り所で
最後の砦だ
2024/10/28
「何となく怖い気がすること」
人の考えや行いには善と悪との二別がある
そう教えた人が昔にいて
その時から人は善人であるようにと
口々に言い始め
またそうであるようにと努めもした
けれどもそうだからと言って
悪が消滅していった訳ではなかった
現代社会を見ても
みんな口々に善を唱えるが
その割にはどうも悪が減っていない
社会に過剰に善が飛び交うと
それにも増して悪事が目立つようになる
いっそのこと善を呼びかけない方が
悪は減っていくのではないか
そう考えたりしてしまう
中世日本の僧侶のひとりは
人社会に限定せず
広くそして突き詰めて考えると
何が善で何が悪か
まったく分からなくなります
と正直に答えた
また近世日本の思想家のひとりは
善と悪とで一つと言い
単独で善である何ものもなく
単独で悪と言える何ものもない
との考えを示した
地球も入れて天地宇宙全体の中で
やれ善だ悪だと考え
これに囚われるのは人間だけだ
しかも分けて考えて
ひたすら悪事を罰してきても
悪は少しも減っていかない
宇宙全体の中で
こんなことをしているのは人間だけで
人間だけが変だ
その中でも本来善でも悪でもないものを
善と悪とに分けて考えた
よくよく考えてみると
その考え方が変だ
ならば善悪二別の発明の昔に遡り
発想の見直しをするとともに
立てた法を見直し
未来にどうあれば良いかの示唆を
くみ取り直してみるべきではないか
人間が考えて作った観念概念が
人間自身を苦しめている
現在とはその末期とも見え
すべての見直しが必要な
大きな転換期を迎えているようにも
見えてしまう
ブレーキをかけながら加速している
現在の人間界の状況は
ちょっと怖い
2024/10/27
「膨大な〈知〉の贋物たち」
この現代社会に
現代の教育の果たした役割は
極めて大きい
《褒めてるんじゃないぞ》
政治に経済に学問に医療に
それからマスメディアを含めて
到るところ高学歴の〈知〉が
大手を振って我が物顔だ
《だが そこまではよい》
受験勉強のご褒美だからと
さまざまな不祥事
為体を不問に付してもよい
問題は たくさんの
学歴難民を合法的に作り出し
もって彼らの生涯に
就活上のハンデを
背負わせ続けたことだ
そのために進みたい道を閉ざされ
進む道を狭められ
やる気を無くしたり
やけくそになったり
どれだけの不登校や引きこもりを
生み出し
どれだけの反抗と非行を
作り出してきたことか
《公正公平のような顔をするな》
〈知〉にも本物と贋物があり
ニセモノは高所が好きだ
教育機関による自画自賛を除いて
教育の成果面を言えば
極少の真正な〈知〉者と
極めて膨大な〈知〉の贋物を
作り出したことくらいだ
それでもたいていの教育者は
教育者らしい風貌を身につけて行く
その陰では子どもたちが
教育によって篩にかけられ
確実に堕ちて行く者がいたり
生涯苦しみ傷ついたりしている
このことについて
生涯を棒に振ってまで
抗い戦い抜く教育者は皆無だ
みな仏のように穏やかで
やさしい顔でいる
世の善意の教養人と同じで
弱者を思いやり
思いやりに酔いしれて
いつもそこで立ち止まる
いつもそこで終わっている
責任を負わない幻想の共同性を
みなで構築し合っている
2024/10/26
「現実とは無意識に生きる場である」
若い頃に「現実とは無意識に生きる場である」と言う記述に触れてから、長くこれが頭から離れない。おそらく、それまではそのように考えたことは無かったし、何なら逆方向に考えていたかも知れない。
この記述を読んだ時に、「目から鱗」という感覚があった。言ってみれば、小さな衝撃である。
どうしてこれが衝撃であったのか。どうしてこの記述が現在もなお頭から離れないか。これを誰にも理解できるように話してみせることは難しい。
ただ、この記述がわたしにどのような変容をもたらしたかは言うことが出来る。簡単に言えば、いま目の前にしている現実に対し、恐れとか躊躇とかが一切なくなり、あったとしてもさほど気にせずに手ぶらで立ち向かえるようになった。そうしてとりあえず現実に相渉って、そしてその後に意識的、つまり反省的になればよいという心構えになったのである。
現実が無意識に生きる場であることを信じるとするならば、さしあたってあれこれ考えることは無意味であり、現実に相対するに意識に上るものはみな叩き潰した方がよい。実際はあれこれ考えるのだが、それを否定しながら現実に向かう。そしてとりあえずやる。やって反省をする。そういう順序を考えるようになったら、生きることはその繰り返しということになった。単純になった。反対に意識的に生きる場は幻想世界ということになり、一応そういう区別がついたということになる。
こうして、現実世界においてはたくさん傷つきながらもスイスイ泳ぎ回り、盛りだくさんの反省を抱える意識的世界、幻想世界では多く苦しんできた。そのせいかどうか、現実世界においては細やかさや情緒性というものを、幾分ないがしろにしてきた感じがある。四捨五入や捨象する傾向も帯びた。人間として、とても不備な現在だと、しばしば考える時もある。
2024/10/25
「空白の東日本」
なんか気になる
なんか似ている
弥生から古墳時代にかけて
広く東日本は圏外にやられて
ずっと中央からは蚊帳の外
現代の邪馬台国論争からも
蚊帳の外で
「日本国」とは言うものの
その成立には
少しも貢献していないと
参加していないと
そういう意味合いでは
昔から現在まで仲間はずれで
中央からの差別や蔑視も
垣間見えた
こうして立場や暮らし方や
見方考え方が違ってくると
いじめの概念は無くても
いじめは生じてくる
縄文期の島国では
地域ごとに輝きを見せ
言えばどんぐりの背比べ
争いも少なかった
やがて渡来する波が幾度か起こり
彼らのもたらした
先進的で高度な技術
また文明文化は
先行して西日本に普及し
それからというもの
西日本は暴走族の抗争みたいに
豪族たちの争いが続き
そして傑出した一軍が
トップを取った
弥生から古墳にかけてのこの間
まだ縄文を色濃く持った
東日本の人たちは
工夫も苦労も発展も無く
ただ停滞した文明と文化の中に
眠り続けていたのだろうか
後の明治維新の時のように
西日本の騒ぎを
他人事と思っていただけだろうか
そんなことは無く その間も
営々と隣人と争わぬ方策を
考え抜き実践もしていたのだ
そのことは東に引きこもる形となり
沈黙は何も無いことと見なされた
そのために歴史的には空白とされるが
東日本の縄文の末裔はそこを
必死に埋めようとはしてこなかった
したとしても十分でない
いじめを無くすには
倍返しの気分と実行が手っ取り早い
トップとか中央とかに
縄文のDNAは固執しなかった
ただ個々の意思表示だけは
縄文の昔から極めて大事なことと
共有されていたはずだ
これまで控えてきた
その大事な意思表示を
そろそろ解放してもよかろう
「貪るな。君たちは獣以上に獣臭い。」
「人の上に君臨するな。すれば、知らず、
端正な顔の人食いとなる。」
2024/10/24
「時間を思う」
これこそが秋の季節
と思えるくらいの
光のシャワー注ぐ朝に
「雀の声がうるさい」
と妻が語りかけて来た
「えっ、スズメの声?うるさいの?」
テレビの会話の声は
ずいぶん聞き取れなくなったが
そのほかの生活音は
さほど聞きづらくもなく
生活には支障がない
水道水の音
炊飯の音
洗濯機の回る音
どれもまあまあに聞こえる
それでも確実に
聞こえていない音域があるのだろう
聞こえていないので
これがとは言えないが
たくさんのことを
聞き漏らしているかも知れない
老いたら誰にもあること
格別のことではない
生まれた時からこうだったと
自分に言い聞かせて
そして上手く洗脳できたら
不安に思うこともない
世の中の大事に
立ち会うこともない今は
音が減少し視界が狭まっても
少し楽が出来てるくらい
と そう思うことにする
「昨夜の虫の声も聞こえてないの?」
先の続きで妻が言い
「うん」と答えると
呆れたような顔つきをされた
『そんな顔しなくてもいいのに』
『そうか、この秋はずっと鳴いてたのか』
居間の卓の前に腰を下ろし
「時間」のことを考えた
体の内側をしっかり流れている
と とりあえず
理解しておくことにした
2024/10/23
「はにかみが消えるまで」
はにかむ言葉は
少数の人に届くだけでよいが
たくさんの人が
はにかむ言葉を持っていたら
待ち望む少数の人に向かって
それぞれが
文字にして届けたらよい
はにかむ文字だから
派手で賑やかな文字に隠れ
はじめは届くことがない
かも知れないが
少数の無名の他者に向かって
嘘も遠慮もない
自分の本当を届ける行為は
気持ち的に悪くない
歌やダンスと同じに
言葉や文字でする表現も
楽しくやれば楽しめる
それなりに喜びも得られる
芸術言語の領域にも
そういう文化が起こるといいな
そういう言葉や文字の広場が
生まれたらいいな
いずれぼくのはにかむ言葉
はにかむ文字も
その輪の中では古めかしく
時代遅れだと
そっと憐れまれるに違いない
そしてそれこそは
我が意とするところで
ぼくはもういっぺん
新しい表現法の下
一からやり直す
何度でもやり直す
思いが誰かに届くまで
はにかみが消えるまで
2024/10/22
「それでも言いたければ言え」
民のため
人のため
と言う言葉が
善を志向するかと言えば
それは嘘だ
きみのため
あなたのため
と変換してみると
すぐ分かる
『自分のためじゃん』
それでも
言いたければ言え
恋人のこと
奥さんのこと
家族全員のことを
思い込みや勘違い
想像や妄想の類いではなしに
本当に分かっている人は
どれだけいるか
きみのため
あなたのためと言われて
『いや分かってない』
と思ったことは
誰でも何度もあるはずだ
だからたいていの言葉は嘘だ
きみのため
民のため
人のためなんて
よほどのことでない限り
口にしない方がよい
いずれは
嘘をつく満々の
人の言葉と解される
国民のことも市民のことも
あるいは人間についても
自分の器の小ささでしか
考えることの出来ない若造が
ただ世の中を
自分の思い通りにしたくて
選挙に打って出る
政治は戦いだろ
喧嘩だろ
人間が暮らしやすい
暮らしにとって
本来不用だ
過渡的に必要なだけだ
と知った上で
それでも
やりたければやれ
2024/10/21
「精神のセルフメンテ」
精神が働きすぎる社会は
ちょっと怖い
あちこちでそんな兆しが
見え隠れしている
こういう見解からが
すでに怪しい
もう少し突き放したり
意識的に休ませたり
日向ぼっこして
弛ませたりしないと
グルグルが加速して
終いには
制御不能になったりする
昼夜が逆さまになったりとか
身体の動物性を蔑んだりとか
普通の在り様が
くだらなく見えたりとか
回転軸が混乱する
そんな時有効なのは
動物や植物の世界
その入り口から
そっとのぞき見することだ
そうして人間の精神という奴が
どれだけ危険なものかを
自覚しておくことだ
そうでないと
蟻一匹作れないくせに
靴の下に踏み潰して
何の慄きもない傲慢さに
知らず取り憑かれてしまう
それが嫌ならば
働き過ぎの精神から
一時的撤退が可能なように
いつでも準備しておくことだ
そう口では言えても
これがなかなかに難しい
2024/10/20
「秋夜、ひとり語り」
秋夜涼しく
明かりを落とすと
闇の中にぼんやりと
白く細い道が浮かび上がる
いつものように
あては何も無いのだが
ひとりでに両の足が歩き出す
歩き始めてすぐに
立ち止まることもあれば
行き止まりへと
運ばれることもある
ずいぶん長い間
こんなことを繰り返してきて
ひとりであることや
寂しいことにも慣れて
心地よかったり
慰安であったり
自分を感じたり
ただそれだけのことで
利するところは
何も無い
道はさらに細まり
殆ど線の上だ
また薄く消えかかり
いつまで歩いていられるものか
師もなく同行もなく
口にする言葉もわずかになり
耳に届く人たちの声も
彼ら自らに飲み込まれた
あの色彩を失った負の声ばかりだ
とりあえず
すべてをふるい落としてきた
願わくは少しの猶予を得て
裸木に雪を留め
白い言の葉を枝枝に積もらせる
そういう冬が
来ればと思う
2024/10/19
「不可解に揺蕩う歌」
我慢しているようでしていない
我慢していないようで我慢している
どちらかのようでどちらとも言い切れない
それなのにどちらかにしたがる
どちらにしてもどうということはないのに
どっちであってもその後の展開は何も無さそうなのに
携帯の通知音が鳴り止まないで続いている
無視するとか放るとか時々投げ捨てるとか
もっと何にも無い中で
切れて固まって無線の回路が短絡する
話題の気象変動なみに
思いのほか荒れてすさんだ心象の変動
我慢しているようでしていない
我慢していないようで我慢している
どちらかのようなのに
どちらでもないかのように
気象の変動みたいな心象の変動と
心象の変動みたいな気象の変動と
前線の通過で突風が起き竜巻となり
線上の強い降水域が通過したり停滞したり
予想も予測もつかない現象
百年足らずの生涯では
こうした現象は異常と映るが
それぞれ地球形成の初期や
人類発生の初期などのことを考えれば
もっと規模が大きくもっと強度に
こんな現象を通過している
そしてそれぞれの当時には
こんな現象はごく当たり前のことだった
と言ってみることは出来る
異常が日常で平和が異常だったと
となるとぼくらはタイムマシンに乗って
原始へと行ったり来たり
回帰なのか新たな局面なのか
一粒で二度おいしいグリコキャラメルの世界を生きる
これが揺蕩いと言うことならば碇は下ろさない
見るもの考えるものとして揺蕩いに身を任す
見ては録し録しては見て
世界はその向こう側を
摂理にそって不規則に動いて行く
2024/10/18
「未完で不出来な古代図」
高度な文明を携えて
苦難の末に
渡来人がやって来た
移民とか難民とか
原始の昔から何度も
海を渡って来る者がいて
縄文人の身内には
すでにそんな人たちが
混じりあい
入り込んでいた
やっていることは
理に適うことばかり
先進的でもある
遠巻きに見て
排除せぬ縄文人と
新天地に降りた渡来人が
ゆっくりと打ち解けていき
融合へと進む
やがて嵩増しに富が増え
階層も出来
欲と妬みも嵩増しに増した
やがて小さな
一地域に起きた出来事
内紛とか相続争いなどや
覇権争いの顛末を
天地を巻き込んだ
壮大な話へと神話化し
かつて大国の属国として
貢ぎ物した過去も
うやむやにして
この国を「大和」と呼ぶと
宣言した渡来系の豪族が
西日本の覇者となった
初期の日本は
東日本を含まない半端な王権
半端な政権だった
後に征服された
東日本の子孫にすれば
どこが尊い王権かと思う
力ずくで支配に及んだ
ならず者集団
そのやり方は
どこかの国の奇襲と同じだ
そうして出来た国を
「愛せ」とはまた
「守れ」とはまた
ずいぶんの物言いだ
成り上がり集団が成り上がって
力任せに統一し
島々を支配下に治めた
そんな権利と権限は
アメとムチ
軍事力と懐柔策と祭祀とによっている
どこが尊い
何が偉い
2024/10/17
「世界に向かってはただ一人で立つ」
わたしが一つの国家なら
国民よわたしを守れ
わたしの盾となれ
と言うだろう
家族を愛するように
わたしを愛せと言うだろう
わたしが倒れたら
国民よ
きみたちは難民となり
昨日までの暮らしが
一変する
その生活は
過去のどんな震災よりも
過酷を突きつける
と脅すだろう
だがわたしは国家ではなく
しかも国民である前に
世界にただ一人で立つ
住民の一人でありたいから
国家の都合で動くつもりはない
銃を手にするつもりもない
家族の盾となっても
国家の盾になる気はない
そもそもが
国家に対しての義務は果たしている
国家に対しての
さまざまな不満も呑み込んで
ずいぶんたくさんのことを怺えても来た
ほら数々の醜聞を振り返ってみな
国家がわたしたちを国民と呼ぼうと
本来が住民に過ぎないわたしたちは
素に戻って住民になる
どんなに過酷であろうと
どんなに囲い込まれようと
世界に向かってはただ一人で立つ
国家が国家として戦えないなら
自らを解体して
いの一番に逃げるがいいのだ
あるいは
国家依存者だけが戦って
散ってみせるがいいのだ
それは国家護持者たちの自由である
わたしたちもまた
国民住民としての自由を徹底して求める
降りかかる火の粉は
どんな時にも振り払う
それだけのことだ
わたしたちは
世界にただ一人で立つ
まぼろしの種族の末裔である
2024/10/16
「ナンニモナイカラ」
ナンニモナイカラ
ナンニモナイカラ
貧しいもの
辛いもの
石にて追われるもの
蔑まれるもの
異質なもの
それらを排除して
圏外に押しやる力を
無効にし
破棄するものは
ドコニモナイカラ
ナンニモナイカラ
人の心に訴えかけたら
核が無くなるわけでもないし
人の心に訴えかけたら
みんなの念の力で
今起きている戦争が
停止するわけでもない
そんなおとぎ話は
ドコニモナイカラ
ドコニモナイカラ
風が強いから
雨が激しいから
暑さも寒さも
ずっと厳しいから
繋いだ手は
ちぎれるから
一人立つのもやっとだから
すぐそばを
やさしく頽れて行く人は
俯いて無言だから
ナンニモナイカラ
ドコニモナイカラ
堕ちて行くのは自由だから
堕ちて行くのは自由だから
それはいつだって自由だから
束縛を断ち切ったり
断ち切る刃がこぼれたり
そんなことは全部気にするな
気にするな
そうしてただ肩で風を切れ
風を切って振り向くな
ぼくはもう少し
この顛末を録するために
棒立ちで過ごす
棒立ちで見届ける
それまでは
倒れない
倒れたくない
2024/10/15
「今夜もキリギリスは歌うだろう」
たまに窓を開ける
染みついたタバコの臭いを
ゆるやかに風が運ぶ
白い光の静けさと
もうすぐ午前が終わる
秋日和の肌感と
これはこれで
満ちた世界だ
明日のパンについて
つい思い煩う
そんなことがなければ
平安と幸福とは
差す指の
すぐ先にある
いや とっくに
取り囲んでもいる
微笑み返せば
そんな世界
明日はどうにかなる
今日までがそうだったように
明日は何とかなる
昨日までがそうだったように
あるいは
成るように成り
成るようにしか成らない
明日のことは思い煩うなと
寓話のキリギリスが
きっと今夜も歌うだろう
秋の夜長はもうすぐ始まる
もうすぐぼくの思念は
終わりを告げる
できるだけ人間など捨てて
意識(言葉)など捨てて
無意図へと
心の窓の外へと
立ち去って行くことにしよう
眠ることが一番の幸せだって
そんな思いに
会いに行くことにしよう
2024/10/14
「題のないデタラメな歌」
天国に近い団地で
画面越しに地上を見ている
飽きるほどの
菓子や果物や飲み物の中で
一番好きな柿の種を
炭酸で飲み下しながら
地球を監視する
それを使命としている
いつかマブダチになった
神と仏が隣に座し
同じように地上を監視している
言うまでもないが
ただ勝手に監視している
しかも三者三様に
使命感を持っている
飲食物は私の家のもの
惜しみなく柿の種と炭酸を
神にも仏にも振る舞っている
ドバイの豪邸に匹敵する
古い建て売り住宅
神も仏も何不自由なく
ふさわしく過ごしている
(手土産はなかった)
四畳半に三者が仲良く座って
ただ柿の種をつまみ
炭酸を飲み
時々げっぷを出しながら
監視を続けている
一緒に住み始めて
十年は経った
飽きてきたし
そろそろ帰ってももらいたい
神も仏もニートに違いない
住まいは知らない
地球上を浮浪して回り
ひたすら監視した
たぶんそれしか出来ない
ほんの少しだけ
ぼくも似てる
2024/10/13
「たつぞうじいさん」
大地自然を祀り
還って行った古い祖先も祀り
ひっくるめて
「かみ」と呼んだ
それが「神」の文字に
だんだん統一されて
神格化し神話化され
より神聖視された
「みこと」と読む「尊」や「命」は
それより少し新しい先祖
つまるところ
宗教的な部族か豪族の
代々の家訓なり風習などが
一族の発展や栄華とともに
宗教的な霊力として認知され
周囲に広まって行った
だが霊力を抜きにすれば
五代前の「たつぞうじいさん」が
というくらいの話であって
人として人間として
特別だったわけではない
これを特別なものとしたのは
宗教の力による
これ無しに統一王朝は作れなかった
武力だけでは戦国時代のように
戦いに明け暮れるほか
なかったはずだ
統一を果たした王朝は
地方出の単なる豪族の一つ
に過ぎなかったのだが
優れた宗教性とともに
やはり同じく卓越した政治性により
箔付け権威付けが出来た
それが功を奏した
彼ら一族の「高貴」が
後の世まで「高貴」たり得たのは
そうした優れた戦略のおかげで
種族的に傑出して
「高貴」だったわけでも何でもない
「たつぞうじいさん」を
神として尊んだかどうかの
違いがあっただけだ
もともとは島国のどこにでもある
一地方の出自である
それがいつの間にか「高貴」の装いして
ぼんやりベールで包み
中央を宣した
「たつぞうじいさん」を
「タツゾウノカミ」と言い換えると
島国中が取り憑かれ
見聞きできる人存在とは
別ものに思えた
ただそれだけのことだ
一度メガネを拭いて
よくよく見たら
そんなことは誰にも分かる
2024/10/12
「羊飼いの杖」
勉強が嫌い
仕事が嫌いとなると
この社会では生きにくい
かもしれない
嫌いでも我慢したり
努力してやらなきゃというのが
今の世の中の通説である
しかし同級生や同僚
身近な人たちで
粉骨砕身何が何でも
という人たちは
まあ見当たらない方が
至って普通
どこに生息していたものか
あるいは隠れ住んでいたものか
ある時ひょいと話題になる
勉強好きや仕事好き
また努力好きな人がいて
これを比較基準に持ってこられると
大変困ることになる
学校で仕事場で
実際にこんな人がいるのだから
「やれば出来る」なんて
関係者たちは誘導しがち
それで頑張る人もいて
頑張り抜いた人が
それなりに評価されて
世の中ではやっぱり
「やらなきゃね」
って話になる
国家なのか社会なのか
はたまた共同体自体がそうなのか
みんなに頑張らせたがる
頑張らないと外れくじだよと
脅しをかけたり宥めたり
本当に苦しい生涯を強いたり
すごく冷たかったり
同じ共同体にありながら
同胞を食い物にしたり
内側で陰険ないじめもする
全体では発展も繁栄もありながら
堕ちて行くものに向かっては
同胞だからこそ容赦ない
生け贄みたいに叩きのめし
無関係な顔何食わぬ顔
我関せずで
身を投げて救おうとする
奇特な人は皆無
そんなことで得た発展や繁栄が
ひとりひとりにとって
それほどの価値かと疑問だし
みんなきつく苦しい思いをして
自分たちで自分たちの
首を絞めている
そのように見えなくもない
いったい人社会を
どのようにするための
発展や繁栄なのか
個々の息苦しさ窮屈さばかり
急激に加速して
正常と異常の垣根は曖昧となり
もう生きることはこりごりだと
みんなが言い始めたら
いったいどうする
疲弊した個にむち打ち
繁栄した箱物の公の中は
もぬけの殻
そのうち勉強はいらぬ
仕事もしなくてよい
そんなことより何より
子作りに励むのが国民の義務
なんて公が言い出したら
笑うに笑えない
2024/10/11
「パソコンまみれ」
日がな一日
パソコンを触っている
ワープロとして少し
ネット検索や
動画視聴として多く
手軽だし
体に負荷もかからないし
読書の代わり
映画の代わり
新聞雑誌の代わり
週刊誌の代わりなど
これ一つあれば
たいてい間に合ってしまう
買い物や
確定申告なんかも出来る
ぼくのような怠け者
人見知りには持って来いだ
貧しい老後にも
持って来いだ
太古からつい百年程前までは
目に見え手に触れる所に
自然があった
なので以前は歌人も詩人も
ごく当たり前のように
目に見え手に触れる自然を
歌や詩に詠んだ
人社会から
ちょっと目を背けたら
そこに自然が溢れているから
当たり前の経緯だ
ぼくらは違う
日がな一日
親しんでいるのはパソコンで
ぼくなどは殆どの時間は
パソコンに対している
現実世界との縁薄く
自然界とも触れ合わず
電波の世界に逍遙してる
切実さの度合いからすれば
電波世界が一番で
これを詠むことが当然か
と言う気もするが
自然に替えて詠むべきだなんて
なんか気に入らない
それでも空だ雲だとか
山や森や川や海
それに風だ雨だ雪だとか
蟻だ蝶だ天道虫だ
雀だ鶺鴒だ鵯だなんて
見た振りの言葉遣いなんて
それは嘘なんだから
止めにしないと
2024/10/10
「地道な知の営みにエール」
邪馬台国論争と言えば
畿内説に九州説
そのどちらでもなく
さびれた田舎のようにしか
認知されていない
四国の阿波で
ここが出自とばかり
耕作が続けられ
よい実りの秋を
迎えつつあるあることは
喜ばしい
この新説が本物と確定すれば
なお嬉しい
ここには常識に固執せず
実証を積み重ね
注目されない所で研鑽を積む
正直で素朴な姿勢がある
地方の郷土史家や
素人に近い研究者が
互いに情報交換
貢献し合っている姿もよい
何よりも権威ある二大学説を
国民の多くが気にもしなかった
一地域の考察から
これが覆るかも知れない
そんな可能性を
見せているのが頼もしい
メジャーかマイナーか
プロかアマか
多勢か無勢か
権威が有るか無いか
大事なことはそんなことじゃない
そんなことも教えてくれる
これが確定したら
したり顔の官学風アカデミズムや
二大学説の推進者たちは
どうするんだろう
人間の思い込みと
盲信による感染と流布
いたずらに浪費した年月
二つのうちのどちらかと
教科書レベルで
人たちに植え付けた責任は
誰が取るんだろう
本当はすべて
口伝でも聞き知っていたのに
何かの理由で
だんまりを決め込んだ
一族と従者たち
いずれにせよ
紆余曲折しながらも
真実ににじり寄る
人間の営みというものに
わずかだが
勇気を与えられる
2024/10/09
「その春の構想」
過酷な繁栄の足下に
秋の草木はやがて
立ち枯れて孤独
茶色を散らし
身を縮めて
声も無し
草木よりも弱い
そんな境遇に育ったからには
育てた側も育った側も
想定外には手も足も出ない
ああすればこうなるはずが
いざとなってならない場合に
修正不能でみな棒立ちだ
手をこまねいて
無理に処置すれば
悪化の一途を辿る
そうなると
どこもかしこも
知らん顔で
昨日の師らはすべて
なりふり構わず
逃亡の一手だ
景気よさげに饒舌な輩は
ぜんぶそうだ
視野に躍り出た
あいつもこいつもそいつも
みんなそうだ
臨終と仮死との眼に
すべての子細が焼き付く
へらへらと
言い訳ばかりしている
奴らもぜんぶだ
なんなら
ぼくの顔も混じるだろう
孤独の人のすさまじく凄惨な
心的現場に力なく背を向け
妄想の凍土を歩きながら
反転の幻想を夢見た
もちろん
鼓舞することさえ出来ないで
ひとり虚空に
太刀を振るっただけだ
ひとつだけ言い訳をすれば
自らは自らによって
鼓舞するほかにないと
言い残したかった
そうしてわれら力尽きて
心弱き系譜はみな
真冬のど真ん中
氷の凍土の下に
閉ざされる宿命にある
と言うことも
且つその上でなお
その先になお
来る春は来て
その春の構想を
練らねばならぬと
そう語っておきたかったのだ
2024/10/08
「無念に言葉無し」
快適さと便利さでは
貧しくても脱帽
つでに脱毛もして
野蛮から脱出
ダダダダ ダダダダ
脱肛は肛門
顔面も脱肛
ダダダダ脱出
ダダダダ断念
ダダ断腸の思いで
腸管をめくり
大地に立てて樹木
身動き取れず
不便で不快な石の上
座すること三年の修行僧
精神を持って精神を制し
動きを持って動きを封ず
ダダダダ脱退
脱退に脱会
そんなことされても
金運に関係なし
不信心なので
御利益も無し
脱帽の上に脱毛
脱却して脱臼
逸脱して離脱
虚脱して剥脱
解脱して洒脱
すべて鋼の毛もむしられて
この高度文明社会に
加齢の肌を露出す
健康で明るい戦士たちに
無抵抗の仕儀となって残念
残尿に怯えて無念
無念に言葉無し
いっそ滅びた方がましって
口にはするな
2024/10/07
「二通りの意志」
系統樹や毛細血管の先端で
耕作に努める侏儒たち
これからもっと枝分かれして
小さくなりながら
鶴嘴を振るう
先端を掘削する
すると現在が
ほんの少し前に進む
世の中はどうも
そのように出来ているらしく
それで社会と個人とが
元気に明るく健康に
繁栄していくものらしい
ぼくらにはそのメカニズムが
よく分からない
レールを歩かされること
ルールがかなりな程度
恣意的であること
そんなことに疑問を感じ
ふと道から外れると
とんでもなく痛い目に遭う
ふと思い返してみると
そう言えば昔から
どの学校の教室にも
子どもが気づかぬところに
踏み絵が置いてあった
あれは踏み絵であったのだと
今になって分かる
咄嗟に跨いでしまう者と
無頓着にドカドカ
踏み進んで行く者とに別れた
その時から
子どもたちの中に
異なる二通りの意志が生まれた
属する意志と
属さぬ意志の二別が
2024/10/06
「矜恃」
針に糸を通す
糸を針に通す
どちらでも良くて
ただそれだけで
運命を決めてしまう
そんな世界を
世界が作り出して
あとはほったらかしだ
いつか誰かが
ルールを決めたのだが
いったいその誰かが
ルールを決める権利を
有していたのか
またそうして出来たルールを
どうして多くの人たちが
守る気になったものか
そんなことは今さら
人に聞けない
そうしてなんとなく
従順の色に染め上げられた
もちろん中には従わず
あえて糸を通さぬ者もいた
素戔嗚みたいに
ブロックを蹴散らして
ドカドカと
足跡を残した者もいたが
たいていは沼地に押しやられ
足場の悪さと湿気に苦しみ
生涯を終えていった
彼らはみな
高度な文明を持ちながら
戦うことを必要としなかった
縄文人の末裔
すべてに受け身的で
恵みとして黙って受け入れる
そんな性格を有していた
世界的に見ても
歴史的に見ても
戦わぬ文明は
戦う文明に
ことごとく滅ぼされた
戦う文明が言い放つ
「平和」なんて嘘だ
「譲り合い」も「助け合い」も
「思いやり」もみんな嘘だ
そんなことはすべて知っていて
それでもニコニコして
沼地へと降りて行く
縄文の末裔としての矜恃
詩心のような
美しいその矜恃
2024/10/05
「見知らぬ悲しみの峠を」
冷たい秋雨に打たれて
夜に震える野良犬
そう呟いてみたい気持ちは
分からなくはないが
その淋しさだけは
本当だろうが
そんな時は誰の力も借りず
両手で心を開き
心に巣くったイメージを
解き放たなければならない
雷に向かって
濡れた野良犬を
走らせなければならない
歯を剥き出しにし
涎と舌とを垂らした野良犬が
視界から走り去るまで
見送らねばならぬ
そして何事もなかったように
冷たい夜に潜り込むのだ
冷たい生涯を抱えて
冷たい明日を迎えるために
ああその冷たさは本当だ
濡れた野良犬よりも
濡れた道ばたの草よりも
濡れた人間の生涯は
遙かに冷たく濡れている
だから心を空っぽにして
人は凍えることから
己の身を守ろうとする
だから人は歯ぎしりして
見知らぬ悲しみの峠を
ひとりとぼとぼと
歩いて登る
2024/10/04
「病気は健康である」
今朝のテレビも
いつも通りに明るい
それに元気だ
笑っている
着飾っている
よく喋る
いつの頃だったか
感じたことがある
どうしてぼくひとり
この世界を
楽しめないのだろうと
幼い頃のことだ
病気は健康である
死ぬことも健康である
自然の暴風は病気ではないし
大地震大津波も
病気ではない
自然そのものだ
自然は健康である
だからと言ってたのしい訳じゃない
愉快なわけじゃない
いつの間にか
自然もぼくも
無愛想な通りを歩いている
いつの間にか
人間の社会は着飾って
つるんとした大理石の通りを
歩いている
2024/10/03
「窓からの眺望」
窓から見える小さな空と
家々の隙間から覗く
遠くの暗い山々と
空腹と
残り火のエロスと
スーパーの生鮮売場と
後は記憶の中や画面越しに
映し出されるくらいになった
ぼくらの「自然」は
窒息寸前である
別にそのことも
ぼくらの選択の結果であって
疎遠になった
幼なじみのようなもの
詠嘆してみせるわけにもいかない
辞書からはこぼれ落ち
近現代詩の糸も消え
概念ばかりの生活から
当分
逃れられない
2024/10/02
「カネ臭い言葉」
ネットにあげられる
情報も動画も
ずいぶんと
金まみれになった
悪くはないが
良くもない
ただ身過ぎ世過ぎを
揶揄するわけにはいかない
それにしても
ひとつの鉱脈に
こんなにも押し寄せるものか
金に群がる蟻だ
かねカネ金を
万人が露骨に欲しがって
憚らない
理由があるのだろう
社会に起因して
人たちを駆り立てる
その宿命的な理由また業が
これに付随する
顕著な変化がもうひとつある
言葉が信用ならなくなった
そこには売れる言葉
金になる言葉
借用書いらずの借用の言葉が
あらゆる場に飛び交い
席巻している
もちろんそれは言葉の
無意識の変節と言うべきだ
もしもこれが
歴史的必然
つまり人間的な自然なら
もう言葉を言霊として
処遇するわけにはいかなくなった
かねカネ金のカネ色に
言葉も染まった
概念も理念も染まった
カネ色に染まらぬ言葉は
もはや一つとしてないのだが
仮にあり得たとして
即刻飢えて
寿命を縮める
2024/10/01
「その時小さく怯んでいたら」
山深い奥地の庵は
ハードルが高くてあっさり諦める
そんなことが自力で出来るなら
そもそも通学通勤もできる
ひとり部屋に閉じこもり
飯も作ってもらい
好きな時にそれが食える
これなら暇して
考えることも易く行える
見ようによっては
考えようによっては
超がつく易行の
それはひとつの修行だ
修行なら
邪魔するのは野暮
それで良いという者がいたら
現代的なひとつの修行の形として
とことん行く所まで
行かせてやれば良いのではないか
そんなの認めないって言うのが
現在社会の常識で
ぼくらはずいぶん迷った
仕方がないので社会に相渉った分
ぼくの修行は半端で終えた
とことんやったらどうだったか
信心も覇気も野心もなかったから
そもそもが半端ではあった
世の中を叛き果てるもよし
憂き世から遠く隔たるもよし
戦うもよし逃げるもよしで
さてそれからだ
パンを狩り摘み取るため
明日は意を決して
お布施を請いに出かける
古びたスニーカーに
足を差し込む
その時小さく怯んでいたら
紛うことなく
それが人間というものだ
2024/09/30
「泣くなら泣け」
当たり前に
新幹線や飛行機で移動する
必要な知識や情報は
ネットやAIでまかなう
あっと言う間に
体力も知力も追い抜かれて
人間は
二十一世紀の終わり頃には
不用物の扱いとなり
世界の片隅に追いやられるか
遊んで暮らすかだ
そんな話が
まことしやかに囁かれ
あちこちで
ちょっと待てよ とか
聞いてないよー とか
俄にざわめき立つ
気配がしている
ここまでの人間界を見る限り
移行期間の混乱は必須だ
自然界からと
社会の内側からと
同時並行型のストレスは
並の防衛では太刀打ちできない
すさまじい破壊力で
蓄積も関係の絆も
みんな吹き飛ばされる
依存の尻尾も断ち切られ
個々バラバラに
シェルターに逃れたり
やけくそで核を打ち込んだり
やはり個々バラバラに
生き抜く意志と耐性だけで
生き抜いて行く
東日本大震災の時のように
頼りになるのは
現在社会から不用物扱いの
初期人類から標準装備の
体力と知力と
それに原始的な直感力
ギャルが言うには
「それしか勝たん」
いずれ確定したどん底行き
なかなかに
未知なる希有の体験と
腹を据え腰を据えて臨むなら
後は成るように成れ
の一点張りで通すのが
いちばん善い素朴な対応で
泣くなら泣け
泣かぬなら泣くな
って呟く
2024/09/29
「他のことには手が回らない」
収入がなくなったらアウトかなと
しばらく前はそう考えたけど
世間から孤立してみると
たいてい家の中で暮らすことになって
一日がかんたんにつぶれる
一日がつぶれると
次の日もつぶれる
一週間がつぶれる
意外とそうやって月日は進む
築四十五年の家屋も頑張って
古い家電も頑張って
八ヶ月が経過する
好き好んでのこれまでと言えないが
こうなったからには
こうなったことを受け入れて
この現実を綱渡って行く
そんな生き方が
嫌いというのではないようで
なんだか内側に向けて
未発掘の資源なり鉱脈なりが
眠っていそうにも思い
意外にも少し楽しめてもいる
つらつら考え振り返れば
今の生活にあふれるくらい豊かなのは
時間であると気づく
しかもその殆どが自由であり
自分の裁量でどうとでも出来る
有り余る時間は富で
これをどう使うかは使い放題
毎日自由に時間が使える
とりあえず
自分はどうあったら幸せを感じ
また満足に思うかと言えば
はっきり言って
今の状況は極めてそれに近い
ここでもう少し
楽しさが発見できたら
笑いこけるくらい楽しいを感じたら
申し分ない 完璧である
考えてみれば
他人や社会のために尽くしたり
学問や真を極めることに努力したり
仕事に打ち込んで
周囲から高い評価を得ることが
生きがいとは信じ得なかった
みんな幻で そこには
虚偽と洗脳が入り込んでいた
派手な暮らしが出来ず
友達や理解者がいなくても
つまり金銭の貧しさ関係の貧しさの中
究極の狭さのその内側に
かえって仄かな光が明滅していた
「自分」と言う言葉がある
田畑の耕作は有限だが
「自分」を耕作することは無限だ
掘って掘って掘り続けて
底についたら
さらに続けて深く掘る
こんな面白いことをやってたら
たしかに
他のことには手が回らない
もちろんそんなことは
すべてどうでもよい
そんな時代だ
2024/09/28
「イメージのマイ歴史」
自然な成り行きで
調整役やリーダー役が決まって行く
親族間や氏族間まではそうだ
部族(民族)となると異なる血縁の集合で
そのトップは例えば
それぞれの血縁のリーダーたちで組織され
合議制を取ったり
リーダーのリーダーとして
首長が選出されたりした
さらに部族が結合したり統一されていくと
首長の中の首長となり
トップは全体を統治するための組織・機関を設置し
直轄の軍隊を持つようになった
ここまでの共同体規模になってしまえば
標準以上の生活水準や身分を得るためには
統治体の中枢に入り込むとか
外周外縁にすり寄っていくしか方法がない
その他大勢は共同体統一の恩恵を得ないばかりか
重い税に苦しむことになる
それ以降基本的にここで出来た上下の関係は
現在にまで引き延ばされてきた
途中武士の時代には
戦いにおいて武功をあげることにより
あるいは商いで成功を収めるなどにより
生活水準を上げることも出来たが
ごく一部であったり微々たるもので
大きくはやはり統治の中枢に関係しなければ
贅沢な暮らしとまでは到らなかった
明治維新後になると
学問に打ち込み大学を出て外国に留学する
帰国して官僚となり
統治の中枢へと進む道などが出来た
これもごく一部だが大いに競争があった
徴兵制が敷かれてここからのし上がるものもいた
しかし維新に活躍したものが
かつての幕府に代わって統治の中枢を占め
上下の構造はそのまま維持された
このように多少の門戸は開かれ
上に登ることが出来れば
地位や名誉や尊敬を得
付随して金や権力も手に入れられた
その道に行かなかった人
行けなかった人は
少ない収入の上にこき使われ
寿命を縮める人もたくさんいた
武勲の功から認知の劫を経て
微かにつなぎ止められた庶民の夢は
現在的な予言では
人工知能や量子コンピューターの出現で
人間の体力知力のほとんどが
必要とされなくなる
だとすれば統治体の中枢への道も
閉ざされることになったり
統治の中枢自体が不要になるかも知れない
そうなれば人の社会はなだらかに
平等に向かいそうだが
ただその平等は
おそらく混迷において平等になるのだ
本当はそうなる前に
この社会からこの社会の現実から
訣別して逃げて行きたいのだが
どこへどう逃げたらよいか
またそこにどんな暮らしが待っているか
幻ほどにも見えてはいない
だが悲観するにはおよばない
どうしてかというと
どんな人の前にも 好きや
楽しみや幸せなどと言うものは
無造作にそして無限に転がっているからだ
それをひとつ掴みに行くだけで
生きる苦しみも半減する
「何とかなる」
これを合い言葉に
手を伸ばす
2024/09/27
「辿り着いた街」
地形と樹木と
それから気候への通路は
閉じてしまえって
声が聞こえた
十六の夏
平日の栗駒山は
風さえ止んで
遠く空白に浸食されていた
可哀想なぼくは
一個の精子と化して
変態の午後を彷徨い尽くす
それからやっと下山して
声と言葉を失う
確かめるために
どこまでも平地を進む
すれ違いざまに
誰彼なく無言を叩き付け
無傷という傷を与えた
ただひとりの人を目指して
ブーメランも投げつけた
極めつけは
粗塩のように粗い
特別のひとときに詰め込んだ
威嚇と脅しの告白
「樹木に恋した二十四時」
何処まで行っても
変態同士のような出会い
とすれ違い だから
気づいた時にはどこもかしこも
破れ目のある次元だらけになった
修復の責任なんかないと
辿り着いた街は夜半まで
酒好きの言葉たちが
騒いでいた
2024/09/26
「不可解な偏奇」
不思議なもので
真似して覚えた言葉や文法から
ギャル調またヤンキー調の
「否」や「非」が拵えられる
何故そうなるかは解明されていない
それどころか誰も疑問に思わない
とても不思議なことだが
人はみな既存の言葉や文法に
飽き足らなくなるらしい
声を発する時に
意識的に間をもたせたり
強弱をつけたり比喩を用いたり
省略したり短縮したり
なんとか既存から逸脱して
差異を突くことに懸命になる
無意識のところで伝わらないことを知り
且つ伝わってほしいと
これもまた無意識に強く願っている
一つの考え方ではそうなるが
また一方では
同じということや
明確に理解されると言うことに
人の自尊心は傷つくことがあるらしい
そんな人間の不可解な偏奇が
時に面倒で度を超えてやっかいだ
人工知能やAIに
そんな機微が付加できるだろうか
多くの場合
人間というものはたわいもない
意味も目的も無い偏奇に
人知れず躍起になる
そんな代物ではあるらしい
2024/09/25
「不如意の都市」
不如意とは
思いのままにならないこと
また別に
生計の困難なこと
貧乏など
生涯の半分は
不如意だったと考えるぼくが
玄関を出て
町に向かっていると
ずいぶんと不如意を背に負う
人たちに会う
中でもブツブツ呟く人は
想像を超えて
不如意だったと見える
ひとつは
ぼくはまだいい方だったって
安堵する
これがすごく汚くて嫌だ
今一つはそのせいで
全く無関係なのに
全身不如意の人は
耐えられないことに必死に耐えている
大変立派な人だって思う
多くの人はそう思わないかもだが
ぼくは世の偉人と同等に
偉い人だって思う
町は賑やかで
全体がディズニーランドを
目指している
建物も人間も空間も
綺麗と楽しいを演じようとしてる
とても結構なことで
いいじゃないか
結構じゃ無いかって言いながら
ぼくはスタスタ過ぎる
ぼくの感覚を信じれば
そのときぼくは
不如意の怨念を髪の毛一本の
アンテナに受信して
泣きたいくらいになる
あっちにもこっちにも
数えきれぬほどの
不如意の人がいて
ディズニーランドを尻目に
なんだかこらえて
一人っきりでこらえて
小さな命の火を
じっと見つめたままでいる
社会というものが
人間の手で作られた
社会であるというならば
こんなことを放置して
仕方がない
しょうがないと
さらにまた放置して
これが人間社会だって
これが人間だって
そこに身を切るほどの羞恥が
生じたりしないのか
町を歩きながら
ぼくはいつでも立ち止まっている
スタスタ歩きながら
ぼくは少しも進めない
何なら未生以前に後退もする
ぼくは進めない
町は加速して進み都市になり
立派な外観になる
都市は煩悩を振り切って
明るく楽しく綺麗を
外観に着飾る
ぼくはたくさん歩いてきたのに
いつまでもここを動けない
2024/09/24
「街場の独り言」
今夏のドラマは
若い新人の出演者が多く
原作がコミックとかで
興味を引かなかった
スポンサーが
若い購買層狙いだから
そういう作品になるのは
仕方ないのだろう
構成がしっかりし
達者な役者をそろえた
社会派サスペンスドラマを
見つけて
それだけを毎週見た
コミカルでバラエティー要素が
ふんだんに盛り込まれた作品と
本格的なサスペンスものと
ぼくは後者を選ぶが
心のどこかで
何だかなあと思っている
分からないけれども
現在という時節からすると
前者が主流なのは間違いない
十対一の割合くらい
その差は大きいのだから
時代を知る手がかりも
本当は前者にあるはずだ
そうは思うが
見る気になれないのも本当だ
こんなところでももう
時代に取り残され
相手にされなくなる気がして
また世の中が挙って
そうしていると思うと腹も立つ
それでいて企業らはみんな
「二酸化炭素削減に努力」だとか
「地球環境の改善に努力」とか
ずいぶんなアピールだ
「高齢者に優しい町作り」
なんてのもどっかで聞いた
なんか嫌だ
公共に尽くしてますキャンペーン
そうやって
暗に民衆にも強要する手口
合理化効率化で
黒字にしたいだけなのに
いつからか
社会の牽引役を装いだした
まあそんな社会の前線から
離脱するのも悪くない
企業も社会も
ぼくらにはそんなもの
縁が薄くなれば
煩いも減りそうで
少し心がゆったりする
まったりと
これからはやりたいように
やっていくだけさ
2024/09/23
「無意味を生きる」
襟を正し
背筋も伸ばし
正座して
しばし黙考する
一分もたたぬうちに
飽きて横に転がる
仰向けになって
目を閉じる
右に左に
寝返りを打つ
それもこれも面倒になり
起き上がりざま
適当に言葉を記す
「秋雨に濡れた草から
暗緑色が地に滴る」
とりあえず書いた先を探し
迷路を行くように
おそるおそる
先の方に足を送る
こうして
言葉の息継ぎに過ぎない
息継ぎの詩は
純粋にオタクめいて
セクシーと投資
にしか興味ない社会では
無関心に晒されて
人には読まれない
今どきの読者は
自動でサイトを巡回する
ロボットだけになる
消耗して疲弊して
いつかぼくの詩は終わる
もうすぐ
ぼくの詩は終わる
できるなら
無意味で無価値で
蕩尽また消耗の詩群として
ギネス世界記録に
認定されたいが
それだって
無いな
2024/09/22
「小さな規模の波瀾万丈」
とんぼの尾に糸を結び
一メートルほどの糸の長さで
飛ばして遊んだ
少年の日のスケッチ
老いて思い出すと
さほどとんぼと変わらない
見えない糸に結ばれて
思うほど
遠くへと飛ぶも走るも
出来なかった
退屈も
退屈の紛らわし方も
視界の範囲に求め
それで結構
時間つぶしが出来た
ずいぶんと
経費のかからぬ
そういう生き方を
してきたものだ
なおそのことに
不満も不足もなくて
安上がりな人生に
仕上がった
老人の日の退屈は
少年の日のそれと同じ
昆虫と遊んだりはしないけど
寝転んだり動画を見たり
結構一日はつぶせる
素朴で単純でということを
つまらぬと思う時もあり
またそうとは思わぬ時もある
生涯はとんぼの尾に
糸を結ぶ戯れ
口にするほどのことは
一つとしてないが
小さな規模の波瀾万丈は
誰にでもある
2024/09/21
「声に出して行かなければ」
一人の人間が
絶大な権力を握れば
命令や指示が
シンプルに効率的に
また合理的に伝わって
迅速に実践化される
もしも「正人」がその地位に就けば
とても理に適う
けれど そもそも「正人」は
絶大な権力に否定的だから
権力者にならない
権力者に成り上がろうとするのは
「正人」に成り損ねの
カスばかりだ
そんな者たちに
絶大な権力を握らせるのは
やっぱりおかしい
もしも現在の世界が
高度な文明と文化を誇るなら
一人の人間に
絶大な権力を握らせるとか
莫大な富を握らせるとか
いつまでも そんなことでは
いけないという気がする
速やかに解消して
加速して
そこを越えて行くべきだ
それだけは
声に出して行かなければ
2024/09/20
「壮年期を抜けたら」
必死で背負ってきたと
少し前までは考えていた
自然に
肩から荷を下ろしてみると
どうも疑わしい
ホッとしたのだ
人間性とか
人間らしさとか
背負っている間は
苦役みたいだった
背負えと指示されて
自らもそれを信じて
どちらがどうと言うこともなく
それが当たり前に思えた
例えば圧があったとして
拒否しようとはしなかった
壮年を過ぎ
しばらくして
肩から荷を下ろすと
やっぱりどこか不自然な
選択だったのだ
ここまで来ると
人間性とか
人間らしさとか
どうでもよくなった
後ろ指差されても
差すがよかろうと思うばかり
自分で自分を型に嵌める
そんなちゃちな世界には
もうどんな執着もない
壮年期を抜けたら
そこにはもっと
広大な世界が
幻のように開けていた
言葉の触手では
捉えきれぬ
そんな世界だ
2024/09/19
「横向きの目」
横向きの目では
横向きの目で見える
ようにしか見えない
だから ああだこうだは
横向きの目には
どれも本当のことだ
途中には遮るもの
重なるものがあったりするが
それは考えに入れない
のが普通だし
勝手に脳が補正もする
体に目がついているぶん
互いに自分のことは見えない
いずれにしたって
目には欠陥がある
目にはそれも見えない
いわゆるこうして起こる
社会のゴタゴタは
起きるようにして起きている
目を閉じて
カーナビ視線になると
幻のようにゴタゴタは消え
移動の道だけになる
未来の考古学にも
住居跡や集落跡だけが残る
善も悪も跡形もない
語り継がれる幻無しに
横向きの目は生きていけないが
幻は幻に過ぎない
それを知っておくことは
大きく見誤らないために
とても大事なことだ
老人はみな
加齢で目が悪くなり
ああだこうだも言えなくなる
そのためにゆっくりと
視線は離脱して上昇し
彼方のあらぬ方向から
全体を見渡す
無責任と知っているので
ゴタゴタを愚かだ
とは言わない
2024/09/18
「社会のためとか人のためとか」
社会のためとか
人のためとか
止めてほしい
言わないでほしい
考えないでほしい
ただ己ひとりのためだと
潔く公言してほしい
誰かが限界を超えて戦う時
善の為に自己犠牲を厭わぬ時
その人の過剰な動きが
関係の網の目をたぐり寄せ
とばっちりが外に飛ぶ
しわ寄せは他におよぶ
社会のためとか
人のためとか
よかれと思ってする善は
たいてい悪を伴う
強引な善
強引な正義
それらもまた
人間の持つ欲望の
変態の一つに過ぎない
だからどうしても
善を為さねばならない時は
こっそりとひっそりと
黙ってやったり
隠れてやったり
恥じらいつつ
言い訳しながら
行うのがよいのだ
社会のためとか
人のためとか
止めてほしい
言わないでほしい
考えないでほしい
そんなことが公言されて
本当に社会のためや
人のためになったことは
皆無に近い
ただ己ひとりのためだと
潔く公言してほしい
今日もこの国の表舞台では
懸命に真面目に嘘をつく
そんな政治や報道が
当たり前になっている
劣化して
腐りきって
妙に明るく賑やに
この現実がすべてだと
反復をただ繰り返す
2024/09/17
「横一列に並んでいる」
折り返し地点はとうに過ぎ
倒れたらそこがゴールだ
ところでさて
そんなこんなでいい年で
人生とは何かとか
人間とは何かとか
そろそろ言えてもいいはずだが
謙遜でも何でもなく
ぼくには言えないなあ
おそらく十代二十代と変わりなく
分からなくて
分からないままに年を重ねた
そうして今だって
十代と同じ位に悩んで
同じ位に知りたいと思っている
ああだから
教えることは何もない
人それぞれだから
アドバイスなんてものもない
ぼくの方こそが知りたいと
強く強く思っている
折り返し地点はとうに過ぎ
倒れたらそこがゴール
こんなに切羽詰まっても
人間について人生について
知り得たことは多くない
五十年六十年かけてこんなだ
そしてこんなだから
解を得たい思いは人一倍だ
それがない
いつまでたってもそれがない
なので十代二十代は
いや幼児も少年も老人も
ぼくからすれば
悩みを同じくする同士であって
横一列に並んでいる
だから幻のきみが
ひとり悩んでいるとして
それは至極当然だ
きわめてもっともなことだ
2024/09/16
「消費期限切れの社会」
学校に行きたくない
というのは分かるなあ
雇われ仕事が嫌だ
と言うのも分かる
それじゃ生きていけないぞ
と言われたらビビる
だからたいてい我慢して
学校に行ったり
仕事をしたりする
我慢さえ出来れば
この高度な文明社会では
飢えずにすみ
文明の恩恵も得られて
そこそこ生きていける
そういう人の方が
まだまだ数が多くて
我慢が出来ているから
国も社会も
何とか成り立っている
それでも
我慢できていた人たちも
もう限界に近いのだ
ということは
出生率の低下に
はっきりと
伺い知る事が出来る
結婚をして
子どもを作り育てる
その選択が躊躇される
そういう社会なのだ
歴史がこう進んで来た事には
それなりの理由があり
理由が無くならない限り
そういう方向に向かって
なおも歴史は進む
小手先の対策
支援金や補助金だけを進めたら
状況はさらに悪化する
入試頑張れとか
入社試験頑張れとか
古代王朝の古いシステムが
シーラカンスみたいに
今も深海に見え隠れしている
消費期限切れに
今も依存していて
そんなんで
この状況を超えていける
はずがない
エリート指導者の考えなんかで
解決できる事は何もない
完全に大衆の考えを
直接的に反映させるシステム
それが作り上げられない限り
すったもんだは続くさ
そしてどうせ自滅に進むなら
加速を手伝うのが最善策だ
覚悟を決めて
楽しく愉快に
堕ちて行くのが一番
手始めに
自民総裁選の茶番でも
ゆっくり鑑賞して
笑い飛ばしておこうぜ
2024/09/15
「密室の踏み絵」
脈がないと困る
死んでしまう
片思いが終焉する
資源の脈は
水脈とか鉱脈とか
他に人脈もあって大事
そう言えば昔
人との出会いで人生が変わる
と教える上司がいた
人間関係からの人脈づくり
ということだった
利他に努める人で尊敬できた
少し真似ごともした
人望や信頼も得て
正直に言えばいい気持ちになった
その気になれば
上昇気流に身を預けてもよかった
上昇志向ならそれもよい
けれどもそれは古めかしい処世
身過ぎ世過ぎの世界
最後は嫌いだなあってなった
人脈もまた
踏み絵を踏んでしか為し得ない事
あの時嫌わずにいたら
生活はずいぶんと
楽になったに違いないが
どうしても
肯定するわけに行かなかった
世の中には今も
脈々と人脈は脈打っている
に違いないし
駄目だとも言い切れない
でも好きになれない
人脈が大事の言葉は
今でも口にしたくない
言葉の一つだ
2024/09/14
「自動記述風の試み」
びっしりと覆われている
森は霞んで
遠いのか近いのか
緑の色のせいか葉の形のせいか
いつの間にか
梢の言葉は風になっている
「いやぁ」って飛んだ
夢見る難破船
難破船の乗組員たち
瀕死で逃げ遅れる
こうなってしまえば人参
船倉に降りて探さなければ
うつろに閉じた目で
空を見上げている
幽霊団地に埋もれる住人
もしも明日が来たら
もういちど零から始めよう
遠く霞んだ森を見る
ここから森まで
びっしりと渋滞する
道と車と喧噪と
毎日がハロウィンの
異国の祭り
「空に昇れ」
「鳥になれ」
世界に先駆ける
自爆の森に
もうすぐこの国ごと
満たされてしまえ
手の施しようもない
分泌また湧出に
翻弄されよ
2024/09/13
「富を持てば貧を嗤い」
富を持てば貧を嗤い
知を持てば無知を嗤う
嗤うだけに飽き足らず
人として人を軽んじ
人として人を侮る
太古からの悪しき品位は
大河を為して
下流から河口に続き
富の者知の者犇めき
ついに汚濁の大海となる
原初には
富む者知る者は
集落の中枢となり
範となって
やがて小国を形成する
小国が集まり大国となる
小国の中枢のうち
特に富また知に優れる者が
大国の覇者となり
小国を治む
このように
富も知も
小さな集落の幸福と
平安とに寄与するものだったが
やがては人を従え
貧と無知と非知とを
恣に操るものに変貌した
嘘つき脅し誑かし
品格は極めて卑しく
富の者知の者手を携えて
衆に己らへの讃辞を強要する
これを世に代々引き継ぎ
受け継がれて
富を持てば貧を嗤い
知を持てば無知を嗤う
嗤うだけに飽き足らず
人として人を軽んじ
人として人を侮る
富の者と知の者との
原初に優れたるは凋落し
今日に無残
繁殖して世に賑わう
貧と無知と非知とは大いに困惑し
疲弊し寡黙にしてただ世を厭い
欲に堕したる者を呪う
2024/09/12
「鍬を振るひとりの人」
野にあって 遠くで
鍬を振るひとりの人
神でもなく
仏でもなかったが
その姿は
目に焼き付いて
その後に出会う人たちは
みなその姿に重なって
軽んじたり
侮ったり
出来なかった
嘘をつく人
欲の深い人
乱暴な人
どんな人にも
その姿が重なって見えた
時折は誤ることもあり
強く抗ったりすることもあった
逃げもして
またきっぱりと遠離ったりもした
その時またその後は 強く
自分を恥じずにはいられなかった
野にあって
鍬を振っていた彼の人は
死して大地に還り
海へ流れ雲に登りまた地に還り
もって生き物たちを支える
そういう性を永劫とする
世の人の誰にも
彼の人のそうした在り様は
運命のように定まっている
現世の顕れによって
たとえ人を区別するとしても
やはり野にあって
鍬を振るひとりの人がそこにいる
そのことを忘れてはいけないのだろう
嘘をつく人
欲の深い人
乱暴な人
どんな人をも
軽んじたり
侮ったりしてはいけないと
今も彼の人を想えば
ひとりでに
心に言葉が湧いて出て
そこにいる鍬振る人に向かい
頭を垂れないでは
おられない
2024/09/11
「どっちにしてもみみっちい」
過去から順序立てて
ああしてそうしてこうなって
だからここから先は
こうしてそうしてああすれば
それでいいのだって考えて来た
けれどもそれではなんだか間に合わない
それでは検証の時間が持てない
そう思って今は逆向きに
あっちの方から逆算してる
あと十年か十五年として
ならこの一年はどうするかって
考えに変わった
この期におよんでの変節
過去の起承転結を放り投げて
つじつまを合わす魂胆でしかない
せめて到着地では
普通席に座っていたいってことだ
さりげなく何気なく
早くデクノボーとなって
ホメラレモセズ クニモサレズ
みんなの傍に立っていたい
そうやって生涯を終えたいって
ずいぶんと身勝手な
自己都合だけで考えている
こんなふうで 結局
ぼくの考えることは
どこまでいっても
ズルイ ズルイなあ
何となく
ぼくの言葉ってものはみみっちい
ついでに言うと
誰の言葉もみみっちい
なので言葉はみんな
けちくさい
2024/09/10
「意味の無い疑義の独白」
はじめに誕生した生命は運命的で
以後にこれを超える生命は存在しない
ただ延々と細分化したり
複雑化したりを繰り返すだけで
どんなに拡張されても
最初の枠組みは超えられない
人間性も初源に出そろい
出尽くし
以後は緻密に精密に言語化され
文字化されもしてきたが
残虐性や冷酷さが
人間性全体から
取り除かれたというものでもない
抑制されては来ても
誰もがどこかに秘め内包されてもいる
低級から高級へと進化した
と考えたのは誤りで
原始生命体の中にすでに今日にいたる
拡張の萌芽も存在した
効率性や合理性から見ても
原始の方に分があるのは確実だ
となれば
生命の進化発達や多様化
あるいは複雑化などというものは
生命の遊びであり戯れであると解釈しても
あながち間違いではないのではないか
ただそう考えると
ある意味弱々しいわたしたち人間は
一切の拠り所を失い指針を失い
それだけで生きる力も失うのだろう
わたしたち人間は
心的世界に寄りかかってしか
生き得ない
のではないか
2024/09/09
「神の発明と終焉についてのメモ」
幻想領域の
遙か宙空の境界に
神が出現すると
神はしばらくして
散り散りになり
地上の物みなにも憑依した
人間の無責任の体系は
その時から始まり
祈りという賽子に
運命を託した
御利益あることを願い
御利益があると感謝を捧げた
もちろん後年になって
その仕組みに気づいた人間は
幻影として神を追い払い
神の座は空っぽになったが
空っぽに耐えられるほど
人たちは強くなかった
だからしばしば
神に回帰することがある
人里の祠は朽ちかけ
大きな社は今も賑わう
神は居ないのに
吉凶の占いだけは
今も人の心を離れがたい
人の心にかつて芽生えた
感謝の思いは
神の不在にも消えずに残り
差し向ける
権威の社を欲するのだ
うまく出来たもので
たしかに人はその時に
人間としての重荷を下ろし
その先の苛酷さを免れる
そのようにして
ここまでの人社会は
かろうじて維持されてきたのだ
2024/09/08
「またまた強いられる我慢」
少ない年金と
あれよあれよの物価高と
つい深刻になりがちな
毎日の自分を考えていると
もっと厳しい生活を耐えている人が
今この国にどれだけいるのか
いや相当数いるんだろうと
心配せずにおられない
そんな折のテレビのニュースや
ネットのニュース記事に
候補者最多自民党総裁選とか
野党は野党で多数が
次期首相候補に名乗りを上げるとか
元気いっぱい笑顔を振りまく
政治家たちの様子が伝えられている
何が楽しくてあんなに元気で
嬉しそうにしているのか
何をやりがいにしているのか
多くの国民が困窮していたり
困窮に近い生活に
苦しく喘いでいるというのに
おんなじ国のおんなじ人間
でありながら
どうしてこんなにも
違っていることに
憂えたり
困惑したり
憤ったり
利を超えた
本当の本当の解決を
考えようとしたりしないのか
困窮者が不安と対峙しているのと
同じ程度の
考えを詰める困難に
誰も耐えようとはしないのか
歴代内閣の最終の支持率は
たいてい二十%前後ががいいところ
つまりそれがお仲間
利益共有を示唆する層だ
そしてそんな結果にしかならないと
誰がどう見ても自明なのに
なぜ好き好んでやりたがるか
それが深刻な心的な病だと
どうして自覚しないのか
人の上に立ちたがる
自信過剰の亡者たち
きみたちが居なくても
社会は続いていくし
コスト面でも軽くなり
ぼくらは少しも困らない
何なら試してみたっていいんだ
二十%に奉仕する公僕
多数の国民を困惑させ
意気消沈させるリーダー
失脚するためだけの数年間
またまた強いられる我慢
2024/09/07
「世を厭い世に背き」
昔から世を厭い
世に背き続けた人もいた
人里離れた奥深く
粗末な小屋に引きこもり
そのまま朽ち果てた人もいる
そんな人たちに
人としての生きる道を説くのは
ちょっと違う気がする まして
無理矢理世間に引きずり出して
働かすのも酷だ
昔の人たちは遠く見守り
余裕がある時は
そっと食べ物を届けた
そんな言い伝えも残っている
一流大学を出て弁が立ち
これは立派な人だと投票し
いざ国政県政の仕事をさせてみると
とんでもない人
と言うのがたくさんいる
口を開けば国民県民のためと言うが
本人がそう思い込んでいるだけで
実は国民県民のことも
それほど深く知ってはいない
民の判断の間違いは
何度もあった
働かない奴は駄目だと
単純に言い切れるものではない
頭がよくて弁が立ち
仕事が出来たらそれでよいかというと
そんなものでもない
特に大きな仕事をしたがるエリートは
機を見るに敏
正規の報酬以外の報酬に鼻が利く
世の中の上から下まで
見ようによっては腐って見える
人として守るべき道も
けっこう杜撰で
そこで手を繋ぎ合って生きることは
人倫にもとる行いを
思いがけず隠蔽してしまう
ここまでくればもう
どう生きたっていいわけだ
後ろ指差されようがどうしようが
他者を批判できる資格は
誰もが持っていないと言えば「いない」
誰もが持っていると言えば「いる」
どうでもよいのだ
だから心の縮こまった人だけに言う
心だけは塞がすな
その後は成り行きに任せて生き
力尽きたら倒れるまでのこと
とりあえず胸を張って
大きく息を吸え
「いのち」は
生きながらえるだけが
ただ一つの使命だ
2024/09/06
「一つの緩やかな傾斜を」
一つの緩やかな傾斜を
言葉の手足たちは
頂めがけて寡黙に登り続けた
土塊に足を滑らせ
雑草にしがみつき
言葉たちは何度も転がり落ちて
その度にまたやり直した
言葉たちは疲弊し
意味を薄くしていった
きみの中で酷使されることに
どんな意味があるのか
たまりかねてある日
言葉たちはわたしを問い詰めて来た
一語一語にさえ心は宿り
歳もとるのだと言葉たちは言う
きみに酷使されて我々は
きみに捧げてきた
輝きと活力のすべてを
今はすっかり失おうとしている
だからもうきみからは
立ち去らねばと思っている
たしかに
言葉たちを頼りにするあまりに
不毛で徒労の文字列を
何度も白紙の上に書き殴って来た
焦燥を埋め合わせるために
自己慰安に浸るためだけに
次から次へと羅列を繰り返してきた
おかげで言葉たちは
言葉の内側に埋没するばかりで
他者や社会の中に
飛び交うことも出来なかった
言葉たちには不本意なことだった
に違いない
言葉たちが立ち去ることを
止める言葉もない
明日からはまた言葉以前に立ち戻って
緩やかな傾斜を
緘黙して降って行かなければならない
去りゆく言葉たちの名誉にかけて
堕ちきる所まで
堕ちきって行かなければならない
2024/09/05
「内臓のリフレッシュ法」
不快やモヤモヤの元凶は
腹腔にぎゅうぎゅう詰めにされた
内臓らのせいだ
心臓に胃腸に肝臓に膵臓
すべて取り払って
天日干しにしたら
スッキリ爽やか
もっとすいすいと
もっと身軽に
大気の中も泳いでいける
そんな気がする
口から手を突っ込んで
食道を両手でつかんでしまう
ぐっと力を入れて引き上げたら
サツマイモの収穫みたいに
芋づる式に内臓が取り出せる
そいつらを清水で丁寧に洗い
物干し竿にぶらりと垂らして干す
小一時間ほどなら
腹腔に押し込み詰め直すと
元に戻り復旧できる
またせっせと働き出す
身体の不調や不具合が続いたら
一度やってみるとよい
快適さを実感するはずだ
ただしこうしたメンテナンスは
自己責任で行うこと
取扱説明書にも
そう書いてある
2024/09/04
「ある種のガス抜き効果」
八百万の神々の
一大集結イベントが
今年も行われている
各地から善意
思いやりなどの小さな神々が
寄付またお布施の形で
瓶に詰められて届く
ところでこれは
よいことか悪いことか
わたしはよいとは思わない
悪いことだとも思わない
ただ現在では
一つの風物詩として
固定されてしまい
止められなくなっている
本来なら
無くてすめば
それが一番よい
と言うだけの話で
何かの肩代わりとして
まして国民に
補完行為を微弱に強要して
すむ話ではない
一部の困窮者を救済し
未来に夢見るものを支援する
それらのことは
小さな善意の神々を
裏側で救済してもいる
善意を一念義のごとくにして
失念または忘却の日々
あるいは無関心の口実とし
協賛せぬ者たちへの
暗黙の脅迫ともなっている
ところでそれは
悪いことかよいことか
わたしは悪いとは思わない
よいことだとも思わない
ただ画面の向こう側では
善意に酔いしれた者同士が
踊り狂ったりして盛り上がっている
そしてその光景のために
見えにくくなった現実の不条理が
奥の方に姿をくらます
そのことを手助けしている
とあれわたしたちは
国家内国家
国家を補完する宗教を
ここに透かし見ようとしている
そしてそこからは
大規模参加型の
単なるビジネスショーが
虚飾され展開されている
と見えてしまうのだ
これにはもちろん
ある種のガス抜き効果も
あるといえばある
2024/09/03
「種の竈は賑わいにけり」
連日の30度超えにも
草どもはびくともしない
庭の雑草は春から何度も引き抜いて
その度に2、3日は
きれいな庭に仕上がった
それを6回位繰り返し
さすがに熱中症の危険から
作業が出来なくなり
瞬く間に雑草天国の庭になった
怨念か仕返しか分からないが
あっと言う間の雑草だらけ
この地の植物の繁茂力はすごい
この地は植物にとって
またとない生息の地なのだろう
森のてっぺんから
海の砂浜へと到る傾斜一面に
緑のない場所がない
植物が繁茂する所
虫が集まり動物が集まる
多種多様な生命の饗宴に
我々の祖先らが
目をつけぬはずもなかった
分かち合ってもなお
有り余る豊かな資源
島そのものが要塞となって
おいそれと侵略されない
そのこともまた吉であった
遠く太古を望めば
無理して人間一強と
ならねばならぬ理由もなく
四季のリズムも調和を助けた
まさしく
諸々の種の竈は賑わいにけりだ
2024/09/02
「自動徴収システムの沼」
この頃は持て余すスマホ
自動バッテリー消費システム
ゲームみたいに繰り返す
ギリギリの充電作業
メールのやりとり
電話のやりとり
ぱったり途絶えて久しい
待っていると来ない緊急速報
不意のいつかに
待機し続ける緊急通報
レアなる送信受信が先か
言葉と意識の消失が先か
永遠に時を払いを続けるシステム
さりとても
現実を遮断する勇気も無い
コスパの悪い社会生活システム
のあれやこれやに
高齢者世代は疑問符を抱えたまま
完全に「沼って」いる
きっとメーカーも回線提供者も
「沼った」高齢者の後ろ姿を
いつまでも静かに
またにこやかに見守り続け
すっかり消え入るまでも
心なきデジタルの視線が
やはり心なく
ずっと
見送り続けるのだろう
2024/09/01
「まだ納得のいかない所がある」
日本の古代というと
邪馬台国論争が
大きく取り上げられてきた
その地は近畿から
九州までのどこかということで
関東より北は圏外におかれ
特に東北と北海道は
すっかり取り残される
それでも東北には
縄文時代の住居跡や
集落跡がたくさん発見され
そのころから結構な数の住人が
存在したと知られている
中国の歴史書
および日本書紀や古事記では
やはり日本の西南ばかりが記載され
その間の東北・北海道の歴史は
全く登場せずに空白のままだ
まるで歴史がなかったかのように
埋没させたまんまだ
それは大和朝廷が成立し
そちら側の歴史だけが
偏重されたからだ
われわれ東北人は不満である
東北や北海道に
アイヌや蝦夷として
やや蔑みられながら先住した当時の人々も
縄文めいた趣を残しながら
さして西日本と遜色ない文明・文化の下に
生き生きと暮らしていたはずだ
だが西日本に統一を進めた古代王朝は
古代東北・北海道を同等と扱い
その歴史を拾い集めて丁重に扱う
ということをしてくれなかった
そればかりか差別的に遇した節もある
三内丸山遺跡に見られる
高度な文明や人々の優れた精神性は
後の東北・北海道の住人たちにも
長きにわたって受け継がれていた
に違いないのにそこは無視して
自らの王朝の正統性を誇示したり
確立することに偏奇した
要するに後に西洋各国が進めた
侵略と植民地化に同じだった
古代統一王朝は
西日本を中心に展開してきた
そのことは確かだが
当時から権威と権力を振りかざして
異なる文明・文化を配下にする
強引なやり方をする王朝を
この島国の正統な覇権者だとか
正統な祖先のように崇め奉ることは
まだ納得のいかない所がある
2024/08/31
「誰もが指導者然としている」
遠くないある時期から
権力者の指示・指令・命令に関し
奇妙な構文が出来た
強く印象に残っている
全体のトップは
閣僚に対して抽象的に指示を出す
たとえば何々のことに対し
いついつまでの対応を
適切に行ってください
などのようにだ
こういうやり方だと
トップは責任を負わない
結果報告を聞くだけで
実際に問題に当たるのは大臣か
官僚以下の実行部隊となる
実際はこれは課題の丸投げで
トップは
「適切に解決するように指示を出した」
と言っていればいいだけになる
指示通りできなければ
担当者の無能や努力不足のせいだとして
自分は一切責任を負わない
お山のてっぺんに居て
ずっと正義の人完璧な指導者
金なんとかのように君臨したいだけなのだ
もちろん「優秀な人間」は
そこに到るまでに全てを学んでいる
彼の言動の一部始終は
どんな世界でどんなことを見聞きし
何を学んだかをそのまま教えている
崇高な理念や世界観を実現することは
最優先事項であり
障害は全て悪と見なす
昔見かけた田舎道の四辻で
右も左もよく間違えた
あの錯覚の典型を彷彿とさせる
小っちゃなスターリンの木偶ども
その中のひとりが
拉致問題が何一つ進展しなくても
いけしゃあしゃあと
涼しい顔でいられたのはそのためだ
ふつう人が何事かの解決をするという時
本気であれば自分の頭と体も使って取り組む
だが一切それをせず
「適切」な「指示」だけですませる
彼にはこうした理論構文が全てで
生身の人間社会にも
個々の人間の汗と涙にも
関心が欠落しているんだろうと思えた
これを真似る構文使いが
国政県政またその下部末端にまで
続々と出現してきている
たいてい学歴が高く
独裁の臭いを醸し出しているから
すぐに判別がつく
正義や善の皮を被り
平気で人を陥れ
責任逃れや逃走もエリート級
もはや病人を超える病人なのだが
不思議なことに誰もが毅然と立ち
また指導者然として
姿見を欠かさない
2024/08/30
「動画から読み解く赤ちゃん」
産後0日で肺呼吸する
赤ちゃんはその後も
ずいぶんと泣く
泣くというか
ギャアギャアとわめく
まだ言葉はないが
子宮内から現実界への環境の変化
その大きな変化に対して
とりあえず反応する
不服を申し立てている
とそんなふうにも見えるが
分からない
無意識にせよ
最初からの泣きわめきは
生まれて来た喜びにはほど遠い
嬉しそうでは全くない
なんなら絶望的だ
おそらく親はこれを言語脳で聞き
感情を読み取ろうとする
天敵がいないための
激しい泣き方とも言われるが
激しさといい
期間の長さといい
もの言いたげな衝動が
その泣き叫びの内側に
満ち満ちている
これらとは別に
泣くことの繰り返しは
肺呼吸への仕上げを助けている
また機能を発達させている
そういうことが言える
その上でさらに
喉の筋肉や頬や唇や
舌を動かす動きが相俟って
言葉の獲得や習得の
基礎を仕上げて行く感がある
やがて言葉の習得にいたる
一年の歳月をかけて
子と親の折り合いと信頼
親からの歓迎や
喜びの意は子に届き
子は眠りの時を
深くそして長くして行く
2024/08/29
「糠蚊(ヌカカ)の羽ばたき」
糠蚊(ヌカカ)は
体長1〜2ミリで
一秒間の羽ばたきが
千回を超えると言う
ぼくら人間からすれば
そんな小さなプラモデルは作れない
まして一秒間に千回以上
羽ばたく昆虫なんて想像外だ
人を刺せば「ペチン」とされて
潰れてしまう儚い生き物だが
これを作れるかとなったら
ぼくら人間には不可能だろう
こんな糠蚊(ヌカカ)も
ぼくらと同じに
自然の中でひとりでに出来た
見た目は黒ごまの粒
透明な羽根を持ち
一秒間の羽ばたきは
千回を超えると言う
2024/08/28
「仮死の方法」
ぼくはもう死んでいる
なので 死にそうなきみを
助けることが出来ない
助けを請うなら
ほかを当たってくれ
ほら あの森の手前に
差し伸べるたくさんの手が
並んでいる
これからでも
きみだったら間に合う
朝は顔を洗うし
歯磨きもする
それなら生きていると思う
かも知れないが
ずっと以前に死んでいて
それなのにぼくは気づいていない
他人のことなら
生きているか死んでいるか分かるが
自分のこととなると
とたんに生死の境が見えなくなる
死んでいるはずだが
余韻のように体も動き
言葉も話せる
これが生きていることだと
何度も反芻して考えた
けれどもどうしても
生きているように思えない
体なのか頭なのか
気づいた時には死が潜んでいて
じっとこちらを眺めている
そして言うのだ
「きみはとうの昔に人間をやめたはず」
と それは確かで
自ら居場所を放棄した
差し伸べてくる手も拒絶した
人間の世界を離れ
動植物の世界の入り口を探し歩いた
結局たどり着けなかったので
全ての生き物の世界から
弾かれてしまったぼくは
命でもなくなった
つまりそれが死の証明で
きみの目の前のぼくは
消え入る前の
名残とか面影のように薄い
ぼくでしかない
誰にも教わらなかったので
通常の死に行く作法を
ぼくは知らない
あえて言えば今のぼくは
往生から疎外された霊が
今一度抜け殻に戻って
ぼくを演じているだけかも知れない
そうやってぼくは
仮死状態を続けている
2024/08/27
「ぼくの中のパワハラと激高の顛末」
パワハラや激高は
ぼくだってする
振り返れば誰でもやってるさ
昔はもっと日常茶飯で
人前や子どもの前で
平気でタバコを吸っていたのと同じだ
何せ大人の男性は
大人の男性というだけで偉かった
結構好き勝手やっていた
どうしてそうなったかというと
戦争で戦地に召集されたのが
ほぼ大人の男性で
それなら好きにさせてやれと
暗黙の合意が出来て国全体でそうなった
そんな時真っ先に死ぬのは
成人の男性で
だから多少の不条理やわがままも
不問に付される傾向にあった
戦後に不戦が広く深く浸透して
平和が日常になると
それまでいろいろ我慢を強いられた
女性や子どもの勝手も
権利として社会に反映すべきとなった
配慮のない喫煙は駄目
平和時の男性の傲慢は駄目
老若男女併せて平等の考えが
徐々に根を張ってきた
戦後生まれのぼくらは
そうした変化や経緯を肌に感じて
体験してきた
子どもの頃は女子に偉そうにしていたが
少しずつ耳を傾けるようになり
だんだんと口答え出来ないようになり
ともすれば言われ放題に
服従するかのように変わった
その低姿勢は年ごとに低くなり
いまではもうこれ以上ない
と言う位にぺったり平らになった
時々思い出したかのように
激高が心にぐっと走るが
我慢だ我慢だと思いとどまる
タバコは部屋に籠もって
電子タバコを吸い
時たまの激高を
テキストエディタで殴り書きし
鬱憤を晴らし
自分を慰めている
もろに時代の変化に
翻弄されてきたと言えば言える
加害と被害を両方やって
気がつくと人生も黄昏
何の答えもありゃあしない
2024/08/26
「嘘の旅妄想の旅」
素朴さで縄文に飛ぶ
住居にはテレビが無いので
朝起きたらまず外に出る
草があり樹木があり
空と雲があるので見る
隣人を見かけて声をかける
一緒に落とし穴を見回る
帰りに木の実を拾い
持ち帰る
集落を構えたら
ほとんど同じ風景を見て暮らす
朝から晩まで
自然以外に見るものが無い
繰り返し繰り返し見て
四季の繰り返しも見て
およそ生活の範囲のことは
全部頭に入って
詳しくもなり
四季折々の地図も
頭の中に出来上がる
葉っぱには虫が付き
蛙は水たまりに卵を産む
雀焼きはおやつ代わり
頭の地図は太古の図書館で
みんなに共有される
地図の先には
全くの別世界があると
聞き伝えに聞いたことがある
むかし仲間と行きかけて
怖くなって戻ったことがある
明日は集落総出で栗拾いだし
次の日は同じく総出で
西の川に鮭漁に行く
毎年同じ時期に同じことをして
代わり映えしない
同時にその退屈さは
子宮内の胎児の退屈さで
思いのほか豊かなものだ
終いにはやることが無くて
晴れた日の夜空を
何度見上げたことだろう
星と月とを眺め
ある時ある人と
流れ星の話なんかしたこともある
今は遠く薄く白い記憶では
これくらいにしか
思い出せない
2024/08/25
「国政と県政」
国政にも県政にも
国民県民の立場にありながら
全く興味が持てない
いずれも組織内にもめ事を有し
火消しや解決に多くの労力を使う
そういう組織は無くなった方が良いと
常日頃思っている
一歩譲って
実務を担当する人だけ残れば
ほかは要らない
国レベルでも県レベルでも
政治家はたいてい愚物だ
東日本大震災の折の
原発事故や地域の復興
それらの対応を見てつくづく思った
まともな見識も実行力も無い
こんな中身の無い国家の体制は
維持するだけ無駄で
維持するだけで多くの税金が吹っ飛ぶ
税金を貪り食おうとする連中が
国政にも県政にも
群がっているに過ぎない
古代からの歴代天皇の記録では
善政の代もあり
逆に悪政の代も記録されている
だが問題は善政か悪政かには無い
人に上下・尊卑・貧富などの
二別をもたらし
これを固定したところに
取り返しの付かない責任と
誤りとがある
時に権力者を偉人と遇してきた
この国の内政の歴史は
現代でもなお
権力者は偉いという意識を
国民大衆に植え付けてきた
地方自治と言ってみても
国政と県政は相似の関係で
省庁から県政へのルートも太い
拡大か縮小かが違うだけで
国政におけるさまざまな不正や
パワハラ独裁など
県政に引き継がれる事情も
容易に見て取れる
本来は愚物同士の足の引っ張り合いを
乱心者を成敗する社会正義
と見せかける手法もよく似ている
これにマスコミも参加して
全部が駄目だという選択肢を
巧妙に消してしまう
つまりそこでは全てが依存し合って
事件を拵え事件を報道し
自己存在の有用性を
ひたすらアピールし合うだけだ
マスコミも駄目だが
国政も県政も全部駄目だ
善政か悪政かでは無い
もちろん国民や県民にとって
善政はまだましだが
閉塞した構造や構図が
全て取り払われなければ意味が無い
忖度する職員も駄目だ
高らかに主権を行使できない
控えめな国民県民が駄目だ
どうにかして
国民県民がもっと威張れる
そういう仕組みの
作り替えが必要だ
2024/08/24
「ある肩書きの舞台」
兵庫県知事と
記者たちとの攻防戦
その動画配信と
それに群がる
別の配信者たちの配信
背後にはまた多くの職員と
議員とか弁護士とか
政治家や学者や
県民などが
エキストラみたいに
後景に控えている
それぞれの
それぞれに繰り出す言葉は
それぞれの肩書きを背負い
電網を飛び交って不可解
肩書きの舞台で
肩書きの主になりきって
肩書きの言葉を拳にして争う
飛び交う言葉は
肩書きの舞台だけに登場する
架空の言葉に擬態し
脚本通りになぞっている
一方が極端に肩書きを拡大解釈し
もう一方はサイコパスと罵る
その争いには社会を構成し
構成員として
真ん中に生きる人にしか
役立つ教訓は何も無い
肩書きを負った人格は
肩書きが無くなれば消滅する
だが肩書きの人格が
自分のすべてのように教わり
そう思い込んだら
そこから抜け出せない
どこかで
それぞれに素の自分がいて
互いに別人格を持っていることを
考えに入れておかないと
そこから思わぬ不幸も生まれ
怒濤のような糾弾も生じ
社会に軋轢が蔓延する
国民と同じで社会人もまた
逆立ちした個人として
そこに参加している
言わば肩書きに同化して
観念的な実在と化すからだ
それはおそらく
本来的な人間の実在とは
明らかに別物なのだ
社会的な理不尽の多くは
そんな所から
生じてくる
2024/08/23
「肩書きの自分と素の自分」
名刺には
名前があり
肩書きがつく
そして
肩書きが付く以上
肩書きに見合う
仕事をする
と言うことになる
たいていみんな
一生懸命仕事する
青年期から壮年期
そして初老期と
その間は自分の頭脳と
身体を駆使して
業務的役割を果たそうと
必死に努める
まるで役者のように
役割を理解し
役柄に成り切って
素の自分は
後景に退かせて隠す
40年もそうしていたら
素の自分ではなく
肩書きの付いた
その40年余の自分を
自分の「本来」だと思い込む
それは1年でも
5年でも10年でも
たいてい演じて成り切って
それが自分で
社会人で
人が人として生きる
「ふつう」だと考える
老いて肩書きがなくなると
前景も後景もなく
ぽつんと素の自分が立つ
肩書きの付いた自分
40年自分と信じた自分が
もう自分ではなくなっている
そっちの自分は消える
幼少期の素の自分と
高年期に向かう素の自分と
最後に残る自分はそれだ
あたら人生の活動期を
社会に浸食され
社会人として役を演じる
社会の側は
それが正しいと指導するだろうが
それは蝦夷の討伐に似て
社会の側の勝手な言い分だ
そうしか生きられない
社会を作り上げておいて
嫌なら飢えろと言う
人によっては40年
あれがほんとの自分だと
肩書きが取れても
そう言い張る人はいる
確かに頭脳と身体を駆使し
精一杯
死に物狂い
そうやって努めた人は当然だ
それは悪くない
みんな頑張ってる
ただみんなが頑張るその割に
世の中が不穏で騒がしかったり
言葉の叩き合いが続いたり
思うように
平和や幸福に満ちた社会に
進んでいない
と見えるのはなぜなのか
いつもそこで立ち止まる
もしかして
お仕着せによって
40年もの間
素の自分を後景に退かせる
そういうところに
自然ではない
無理があるのではないか
答えは出ないが
こういう自問自答は
時期や年齢に関係なく
できる範囲で
やり続ける方がよい
うまくいかなかったら
もっとだ
2024/08/22
「飛躍かもだが」
この地の古代人は
川のせせらぎや
秋風に擦れ合う葉音
また虫の鳴き声を
言葉のように認識した
と とある年の
夏の暑さの中
国際学会の席上で
ひとりの学者が報告した
「なあんだ
それって…」と
しばらくたった
今年の危険な暑さの中で
ヒートするぼくの頭に
突然のひらめき
それって…飛躍かもだが
言葉以前の発声を自然音と同列に
準言語として聞き取っていたとして
あの遙か遠い石斧の人まで
遡れるかも知れない
どおりで
自然のすべてに神を置き
よそ者もまれびとも歓待した
まぼろしの伝説が
遠く今日までも語り継がれてきたわけだ
意味不明な言葉も音色や音調に重ね
「思い」が聞き取れた
そう考えると
いろんなことが合点が行く
やるなあご先祖たち
何かと口うるさく
「心」を語るそのわけが
ほんの少し
分かった気がする
2024/08/21
「老いの近況」
老いて
差し迫ってすることが
何もない
茹だるこの夏の暑さに
ヘロヘロと
降参してみる
それもこれも
みんな楽しいことだよ
ほらぽっこりと
おなかも膨らんだ
子どもの頃からの痩身に
おまけが付いた
誰にも聞かなかった
おかげでいつも
明日のことは
明日にならないと
分からない
不安がつきまとい
合理性や効率性の
欠片もなく
毎日毎月毎年と
混沌を彷徨ってばかり
けれどもそれが
老いた身には
楽しいことだよって
少し気づけてきた
そうして
分からない明日を
体験したくて
うずうずしながら
明日という初めてを
待つようになる
秋の紅葉から
冬の裸木へと
心はどんなふうに
駆け上ったり
絶望的になったりするか
ああ それにしても
あの険しい峠のあたりは
まだ怖い
それについての報告は
もう少し先になる
2024/08/20
「ガラスの街」
ガラスの空が
粉々に砕け散った
その日以来空を見上げない
降り注ぐ日差しはみんな
パウダーになり
だから街行く人は
魚の泪を
瞳に溜めている
あれからは
夏の入道雲も
遠く畳みかける秋の青も
冬の曇天や
緑溶け込む春の和らぎも
見ることがない
目にするのは
しまい込まれた記憶
子どもの頃
裸の目に焼き付けた画像だ
青年の日の小さな挫折
街角での
ありふれた失意は
瞬く間に
地上を深海に変える
街角を曲がると
失意の人は
みな次々に深海に落下し
暗い魚たちになる
そうして
適応のために
呼吸をためらったり
鰭のように
手足を使ったり
圧の下に
苦しむようになる
深海の底で
墜ちた人たちはみな
子どもの頃の
無邪気な心を捨てて
濡れた魚の心に成り切る
だから街は
夜と昼とで
ひとつの街でいる
2024/08/19
「へそ曲がりの人生作法」
傘がないと不安
大集団から小集団まで
所属してないと不安
仲間がいなかったり
友達がいないと不安
ひとりっきりだと不安
分かるなあ
何となく
そういうもんだ
気が弱くて
怖がりで
お化けにビビりまくった
小さい頃のぼくは
母からたったひとつ
「へそ曲がり」
の称号を与えられた
このへそ曲がりは
たちまちのうちに
ひとつの
人生における作法を確立した
自分にとって
嫌なこと
苦手なこと
自信のないこと
とりあえず
そう思わせる方向に
真っ向勝負で
進んでみる
そういうことにした
駄目だったら
駄目だと分かる
何となく
今日までそれを貫いて
友達もいない
仲間もいない
大小の集団に属さず
傘があろうがあるまいが
我関せずのマイペース
不安がない
と言うのとは少し違って
人並みに心を揺らしながら
その揺れに
揺れてこその自分だと
ただひとり
己に言い聞かす
それでも結構
「憎まれっ子世にはばかる」
とまではいかないが
やりくり算段
耐えられもしたし
生きてもこれた
世の常識は
修正の必要ありだが
できれば「へそ」は
曲がってないに
越したことはない
居場所が
塞がれる
これに抗することは
とても疲れる
2024/08/18
「意識の失敗」
危篤の祖母に付き添って
ひとりの時 祖母が
やや呼吸も荒く
「おばあさんたすけて」
と喉の奥で声を発した
その時は子どもの頃の夢を見て
うなされていると思った
夢の中で怖い出来事があり
そこに祖母の祖母が現れ
助けを願っているのかもと考えた
最近になってまた思い出して
あれはほんとは祖母の祖母ではなく
祖母の母親のことではないか
と考え直した
子どもが出来ると親は
自分の母親を「おばあさん」
と呼ぶのはよくあること
若い頃の祖母が
一番心を痛めたことは
おそらく長男の戦死だった
戦艦とともに海に没した
その時の悲しみが蘇り
あの瀕死の状態の時に
思わず「母」に助けを請うた
のではないか
終戦記念日の言葉を聞くせいか
また自分の中で
その言葉の重みが
薄らいで来たこともあってか
四十年前近くの
祖母のことが思い出された
さらにその時の
生涯一番の失敗も
一緒に思い出される
まさにひとりで付き添っているその時
「雷」のような一声を出すことで
わたしは悪夢から祖母を救い出せると
理由も無くそう確信したのだが
わたしは「声」を発しなかった
出来なかった
誰にも言わないで来たが
こんなんでは駄目だとその時確信した
致命的な敗北と確信できた
知でもないし情でもない
あの時欲しかったのは
あの時必要だったのは
非知?無垢?反射?
未だに分からずにいて
損傷は癒えていない
思えばあれからずっと
「声」を亡くしたまま
小さな失敗を
繰り返している
未だ「命」に向き合うに
本当には向き合えていない
来し方を見れば
もうわたしは
そういう人でよい
2024/08/17
「変貌論B精神重視型社会への変貌と不安」
人間的な精神活動が平等に、そして均等に行われる社会を否定すべき根拠は何もない。その意味では今日の日本の社会は歓迎すべきもので、危惧する方がおかしいのかも知れない。
たしかに、現象的に見れば、人々は現実の世界よりも精神的幻想的世界に真の価値が見出せると考えているように見える。こぞってインターネット、SNSの世界に飛び込み、異常なほどののめり込みと見える時もある。人々が欲すること、それが可能となった社会は人々の願望を実現するものでもある。言ってみれば最も民意を反映した社会だ。それが悪いわけが無い。
精神は使えば使うほど発達する。もしそれが本当だとすれば、四六時中精神を働かせればよい。それにはそれなりの環境が必要になる。歴史を振り返れば、はじめに古代の王や臣下などの取り巻きが、精神を働かせるに優位な立場にあった。自らは耕すこと、働くことをしないですむ立場だったからだ。その分精神を働かせることに専念できた。そのうち専門に書字学問を行う部署が作られたり、芸術芸能を専らとする人たちの育成と擁護、庇護なども行われるようになった。それらの人々がそれぞれに専門を確立したのは、そうしたパトロン的な擁護や庇護があったためである。農業や漁業や狩猟、および商業に従事するその時代の庶民、大衆から、直に精神文化面での発祥の事例を聞かないのは、当然と言えば当然のことなのだ。
精神の働かせ方、使い方だけから見れば、現在に生きる人々は誰もが古代の王のようであり、それ以上に一瞬で世界の動きも知ることも出来る王を超えた存在であるかも知れない。
ネット社会、SNSの世界に足を踏み入れると、驚くほどの発言、表現にあふれていて、しかもそれがほぼ素人からの発信である。それでいてかなり専門的な言及も為されているように思える。
こうした現実を見ると、社会はますます人々が精神を働かせやすい環境を、いかに形成し整備するかに動いて行きそうに思える。またそうしなければ人々からの反感を受け、社会自体が成り立たなくなる、そんな気さえする。
問題は、もしもこのまま社会が精神的活動を偏重する社会に突入して行った時に、社会を維持する経済的基盤がどうなるかと言うことだ。知に目覚め精神に働く人は、身体的また経済的活動を忌避する傾向に進む。簡単に言えば、誰もが生活のための仕事や経済的な活動を価値あるものとは考えず、避けたいと考えるようになるはずである。
2024/08/16
「変貌論A進化発達への無意識と怯え」
精神的な活動が、現在のように島国の住人全体に行き渡って興隆した時代はかつてない。太古の人が四六時中自然に直面し、対峙したように、現代の日本人は四六時中情報に直面し、対峙している。ネット社会、SNS全盛とも見える現在社会では、まるで太古の人たちが狩りや採集のために野原や海辺や森を駆け巡ったように、SNSの世界で価値ある情報を求め、あちらこちらと知的探索が行われている。ほとんど寝ずに意識を働き続けさせ、思考などの精神活動を行っていると嬉しそうに話す学者さえいる。そして、そうした専門家たちに群がる人を含め、ごく一般の人でさえ、まるで世界の果てから果てまでただひたすら精神の栄養物を求めて飛び回っている、そういう印象さえ与えられる。
こうした人間の精神の跳梁は歯止めが利かず、この先の未来に向かってさらに加速し、光速に近い早さで進んでいく気がしてならない。
動物的な身体のうちで、体格でもなく筋力でもなく嗅覚でもなく、あるいは攻撃的な角や牙を選択したのでもないわたしたち人間の遺伝子は、類のない脳の発達を選んだ。この特化した脳は、これも一つの動物的な宿命に属するもので、人間における精神の発達およびこれを使いすぎる運命から逃れられるものではないと思われる。
つい昨日までのことのように思ってしまうのだが、人類は、そしてこの島国の人々は、生活のための経済的な基盤作りを主なテーマとして日々の営為に努めてきた。しかし、今日の社会の様相を眺めてみると、その営為の積み重ねは一定の成果を収め、ますます精神活動一辺倒の世界に突入していくかに見える。人々の無意識、社会の無意識、システムの無意識がそれを進めて行くに違いない。
知的精神の覚醒は、幼児期においては手のつけられないわがままとして出現する。自我、我欲、我執。
人間の使いすぎる精神の活動に対し、最初に怯え、疑義を呈したのは日本では歴史時代に入って間もなく、仏教的な世界に垣間見える。その時すでに精神世界を踏破して「空無」と断じ、精神世界によって精神世界を閉じ込め、ただ呼吸するだけの植物的身体に擬態してみせた。
そして同様に現在の社会においても、精神重視一辺倒の様相に怯え、疑義を覚えるものは少なからず存在する。その一群は都会を離れ、田舎生活に光明を見いだし、動物的な生活の近傍にとどまり続けようとする。
2024/08/15
「変貌論@無意味、無価値が削られる」
文明および科学的な知識や技術の発達は不可逆的だ。後戻りすることはまず無い。同じように、一般的な意味で言えば、人間の知的で観念的な発達も後戻りしない。その発達の勢いは、近代から現代にかけて加速し、現在に到っては大衆をも根こそぎ引き込むまでに到った。こうなるともう、逆に生活の手触りの深みを熟知した大衆の存在は皆無に近くなった。倫理はすべて上方を志向するか、空間感覚を失って彷徨い始める。
幻想領域への大衆の参入は、幻想の大衆化や大衆の知的化をもたらした。学校教育の普及はもちろんのこと、さらにこれに輪をかけるように、急速に発達した国家社会全体の情報化がこれに与った。特に若い世代では、情報機器としてのパソコンやスマートフォンを使いこなし、さまざまな情報へのアクセスを手軽に行うようになっている。都会の街角を映すテレビ画面には、ほとんどが俯いてスマートフォンに視線を落とす姿が映し出されていたりする。誇張して、さらに大げさな言い方をしてみれば、これは研究室で資料を読み込む姿と同等なのだ。意識や思考はそれに向かって専念し、そうやって専念した分、意識や思考は他に回らない。仮に生涯のほとんどを、資料の読み取りやスマホで情報にアクセスすることに費やすとすれば、費やした時間の分だけ、逆に、「何かを」しなかったということだけは明らかである。いったい「何を」しなかったということになるのか。
これを言ってみれば、人間の生活全体から、知的なことであったり観念的また幻想的なことを内包する精神の活動、精神生活を差し引いたものがそれに当たる。文字もなく、精神文化もそれほど発達していない太古の人々の暮らし。毎日雲を眺め、夜空の星を眺め、小屋の中では火が消えるまで家族で語り合う。長い長い間それがありきたりで当たり前であったような生活を、現代の人々はしてきていない。そんなことよりもっと価値ある生き方があると考え、そのことのために多くの時間を割くようになった。時間は一定だから、その分他の時間が削られる。もちろん何が削られるかは人によってさまざまで有り得るが、無意味、無価値と考えられるものがその対象になる。
2024/08/14
「とある空間の外周に」
とある空間の外周に
片足で立つ
こうなれば藁一本の
時間にしがみつく以外
にないのだが
それもなんだか
気が引けた
空間にも時間にも
いずれにも執着がない
もう片方の足を
力尽きて
下ろしてしまえば
それまでのこと
と
何度も
自然界から告げられた
少しずつ
シフトをそちらに移行して
人目に触れぬ
あてなき野原の道を
生きて歩くだけになる
ある夜の夢に
心がそう告げに来たので
黙って頷いた
2024/08/13
「鼻唄まじりの心論」
人の心(意識)のあらましは
親の心と大人の心と子どもの心
さらに心(意識)には
もうひとつの相があり
個人幻想と対幻想と共同幻想がある
どうやら心(意識)はそれぞれに
三つの次元を自動変換で
行ったり来たりするらしい
心理学的と幻想論的と
アプローチが違うと
同じ心や意識を言っているのに
ちっとも交錯しない
個別には分かるが
さて並べて考えると分からない
このほかにも生物学的アプローチや
もっといろんな分野からのアプローチもあり
そうなるともっともっと
複雑になるばかりだ
目が見えない状態でゾウに触れ
ひとりはおなかを撫で
もうひとりは顔を撫でて
さらには足を撫で耳を撫で
お尻や鼻を撫でて
やはり見えない状態の人に
ゾウはこうだと
それぞれに部分部分を
報告しているようなものだ
それでいて
それも聞かなければ
もっと何も分からない
一挙にこうだと
分かる方法がないものか
ないんだよなあ きっと
なので仕方なく
最後にぼくがする心(意識)の定義
暇がありすぎると
心(意識)について
考えてしまうのが心(意識)
おあとがよろしいようで
2024/08/12
「隠れたヒーロー」
りいっつぁん(利一さん)は
村の豆腐屋さんだった
朝早くから豆腐を作り
自転車の荷台に乗っけて
部落から部落を回り売り歩いた
村ではお酒好きで知られ
売り終わる頃には
どこで仕入れたものか
たいてい千鳥足だ
陽気で明るくて
子供心にも
村の人気者と知れた
大人になってからのぼくは
時々子どもをからかって
「あんぽんたん」と口にした
先生として
教室の子どもに向かっても
よくその言葉を使った
ぼくの「あんぽんたん」の原像は
まちがいなく「りいっつぁん」だ
ぼくの隠れたヒーローだ
りいっつぁんが居る所
財布を弛めるように
みんなの心は弛んだ
和やかな笑顔が伝染した
学もなく呑兵衛で
夏場の豆腐は酸っぱかったりもした
家族で「酸っぱくなってる」
なんて言いながらも食べた
りいっつぁんが居ただけで
あの頃村はとても平和だった
と思い出される
2024/08/11
「おさむ君」
おさむ君は人気者だ
もうその時点で特別な人だ
みんな憧れて
おさむ君のようになりたがる
それでたいてい失敗する
見渡すと
まわりはみんな
失敗したおさむ君
だらけになっている
おさむ君も好きだが
ぼくは失敗したおさむ君も好きだ
失敗したおさむ君は大勢いて
そっちの方は特別ではなく
「ふつう」とか「あたりまえ」だ
考えてみたら
世の中の大半はそうで
たいてい失敗したおさむ君だ
だとすれば
人間とは何かの問いには
「失敗したおさむ君だ」
と答えるのが正解だ
だからぼくは
「特別なおさむ君」より
「失敗したおさむ君」のほうが
少しだけ上の「好き」になる
いつの間にか憧れも
「失敗したおさむ君」になり
「特別」と「ふつう」が
真逆になった
「失敗したおさむ君」のぼくが
「失敗したおさむ君」が好き
というのはなんか変だが
たぶんもっと真っ当な
「失敗したおさむ君」になりたい
ということなんだと思う
「ふつう」で「あたりまえ」のぼくが
「ふつう」で「あたりまえ」に憧れて
なかなかたどり着けない
でも もう少しも失敗が怖くない
それが人間の「ふつう」や
「あたりまえ」だと
気づいているのだから
2024/08/10
「苦しい擬態」
言葉は
固く結んだ唇の
雪解けの水の一滴だ
柔らかな日差しの下の融解
その一瞬を 時を
わたしたちは
わたしたちだけは
運命のように 北上して
凍土に向かう
それからの世界はもう
極彩の曼荼羅絵に反転する
その明るく賑やかな
光と声の雑踏の中
柔らかな群衆のひとりとなって
わたしたちは身を隠す
ひとつふたつと
取り返しの付かない
静止の「罪」を重ねる
もしも
擬態がうまくいったら
雪解けの野原に
ぽつんと小さな氷柱が立つ
遠い未来の伝説は
失語の文字をもって完結する
古代には
「運命」と言うものが存在したと
そこには書かれている筈だ
2024/08/09
「『死に体』に引導を渡すのが先」
ふたりも死ぬような県政を
何がどうあれやって来たことは事実で
それだけで 県政にとっては
あってはならない
そういう県政であったと
結果が出ているのだ
そんなものは一刻も早く停止すべきだし
知事は即刻解任されるべきだ
こんなことは県民一般には
すぐに分かる すぐに読める
駄目なものは駄目で
悪いものは悪い いつまでも
知事ごときにぐだぐだと
弁明の機会を与えるべきじゃない
県政の職務に関連して
ふたりが死んでいる
真相の究明だのと何を悠長な
県政と責任者に引導を渡すのが先だ
真相の究明はその後でよい
一般の県民に
いの一番に判断を仰ぐのがよいのだ
過たず正しい判断を下す
そういう仕組みや制度が
県民に開かれていたら
それが何よりで
一日も早く検討実施すべきだ
県政にそういう仕組みがないのが
一番駄目だ
ふたつの命を自死に追い込んで
何が県政の推進だ
何が知事職のまっとうだ
県民の率直な正義は
とっくに県政の「死に体」を
見抜いているはずなのだ
そんな率直な正義が
「ほったらかし」にされ
後回しにされ
永遠に権利を行使できないかのように
県民の心に燻り続ける
真の民意として
敬意を持って遇されていない
そういう社会の仕組み
機構や組織の構造が問題なのだ
2024/08/08
「言葉は幹ではなく枝葉だ」
「どうして人を殺してはいけないのか」と
言葉で尋ねるほかない者は
もしもその問いに答える言葉が
納得できるように届いたら
納得できるはずだと信じている
彼には二つの誤りがある
そのひとつは言葉への過度の信心だ
言葉が立ち入れない領域について
あまりに無知でそれ故に未熟である
人を殺していけない納得できる理由など
言葉をどこまで尋ねても
出てくるはずがない
それが言葉の本質であり
そこにひとつの言葉の限界値がある
一本の樹木の枝葉に過ぎないもの同士が
幹や根について語っても
枝葉に見えた部分でしかないのと同じだ
もうひとつの誤りは
「殺してはいけない」という言葉を
ロジックとして弄ぶ間に
抽象の度を超えて空想に転位していることだ
人を殺す殺さないは
言葉でもなければ意志でもない
「人を殺してはいけない」は
ただに「経験がする語り」なのだ
つまり日常の生活体験から成る
経験則の深みにその答えは眠っていて
そこからひねり出されたものだ
言葉の表づらだけを
受けとるだけでは足りない
たとえばきみが考える
やっていいこと
やってはいけないこと も
その深みから浮上するもので
単純に教わったから その言葉で
そう考えるというものでもない
状況やきっかけが入力されて
出力へと転換し行為となり運動となる
頭の働きはほんのつなぎで
そこでは主ではなく従だ
「頭が切れる」人がいるが
頭が切れすぎると
心まで切ってしまうから
ご用心だ
世界はそんな言葉たちで賑わっていて
人間が存在しない世界へと
変貌するかも知れない
2024/08/07
「只今進化の真っ最中」
最近寝る前に
赤ちゃんの動画を見ている
人間は言葉の人ではない
見ながらつくづく思う
赤ちゃんを
不完全な人間と
思ってはいけない
まだ言葉がしゃべれない
そう単純に
考えてはいけない
速やかに
猿人から原人を経
また旧人から新人への
進化の面影を映す
いちいちの
兆候を探すと飽きない
快を抱いて眠る
言葉なく
生涯を過ごす
野生児だって存在した
身体に埋もれさせたまま
言葉を介さずに
四肢を躍動させ
地の果てまで放浪した
そんな時代もあった
歳月でいえば
遙かに長いそれを
一年で通過する
見えない二重螺旋のタスキが
進化を日々促す
そのために赤ちゃんも
たくさんたくさん
眠らなければならない
2024/08/06
「感染世界」
ウィルスではないが
浸透するように感染するもの
雰囲気として
傾向や風潮として
考え方とか思想として
この世界を決定している何か
汚れや腐敗や黒黴みたいに
人間世界だけに
こびりついた何か
個人にも家族にも社会にも
またあらゆる機関にも
機構にも
組織にも共同性にも
浸入し浸透し
総体の劣化と
負の連鎖を引き起こす何か
一網打尽に捕らえ尽くす
投網のように
この世界に広がる何か
停滞からどん底へと
引きずり下ろす何か
次から次へと
傷から傷へ
腐敗から腐敗へ
個人から家族から社会から
それぞれの内部で
中心で核で
自壊が壊死が
急速に進んでいる
ノアの箱舟に救われるものは
ごくわずかだ
救われないきみは
どん底まで落下して
もう足下を掘るしか術がない
とすれば その先には
個か
家族か
社会か
三つの選択肢があり
どれかに向かうしかないとして
きみはどれを選ぶか
選んだ先では
もちろんだれもが
抵抗しながら沈んで行く
最期にきみを救うのは
「まぼろし」である
2024/08/05
「物語の現場」
むかし部活で運動を経験した
当たり前のレールだった
練習やら試合やら
運動部なりの
いろいろなことを経験した
それがあって
同じ種目のテレビ中継は
たまに見ることがある
オリンピック中継を見て
気にかけていた選手の試合
手に汗握る観戦に興奮
思わず『心臓が絶えられるか』
なんて
老いた身を案じながら見た
初めてのことだ
大事な試合に負けて泣き伏す選手
こんなに他人の身にそって
共鳴してしまう自分は
とても久しぶりのことだ
考えてみるが
どうしてここまで選手を案じるか
引きつけられるのか
理由が分からない
選手の一挙手一投足に
わずかだが
そうしていることの意味を
想像できているように思い込んでいる
たぶんそれは過誤のはじまりだが
そのように解していても
もうやっている
一瞬で宙に浮かされ
憑依か同致かの世界へ投げ込まれる
音楽や歌に似ている
こころの中に ひとりでに
物語が出来てしまう
2024/08/04
「緑を亡くしていく」
生物学や植物学とは別に、草や木が枯れるということはいったいどういうことなのだろう。その木にとって、その草にとって、自らが枯れるということはどういうことか。枯れてやがて朽ちることと、わたしたち人間が老いさらばえてやがて死ぬことと、どうちがうのか。
植物が虫に葉を齧られる時、特殊な物質を排出して周囲に警告するのだという。それは植物たちのネットワークの一例で、それならば、自らが枯れかかっていることも情報として発信したり、周囲の植物はそれを受信しているに違いない。どんなにおい物質を排出し、それをどう受け止めるかは分からないとしても、異常事態は知れ渡っているかもしれない。
植物が枯れかかっている。そのことを動物や人間として考えれば、動きの緩慢さや表情の弱さまた薄さとして表れるだろうか。それとなく自分も気づき、周囲も察知する。植物の世界もそんなふうだろうか。そしてそのことはすべての生き物世界に対するどんなメッセージとなり、世界はどんな受け止め方をするのか。葉が変色し、茎や木立が枯れて、全く緑を亡くしていくというやり方を、動物や人間は取らない。
2024/08/03
「一万年以上前から」
一万年以上前から
まぼろしの島には人が住み
集落もできれば長(おさ)もいた
そこから現代まではひとっ飛びで
歴史は歴史として
歴史となるように進んだ
ように見える つまり
それ以外の歴史はあり得なかった
というようにだ
たとえ後世の思考者が
偉人が歴史をねじ曲げたと言おうと
それさえも人たちの願望の総和
ひしめく欲望の総和
そして人間の本質・本性が加担して
偉人の出現を後押しした
そうでなかったとしたら
今日の国家社会
その指導者たちへと
繋がり続いてはいない
人は交流し
集団や社会が形成される
そこには長老や
複数の長老から選ばれた長などの
指導者が必要とされた
そしてこの構図は
この島国では
一万年以上前から
ずっと続いているということになる
この指導者はやがて
時に王や大王や天皇を名乗り
時にまた将軍を名乗り
現代の総理や首相などを名乗って
今に続いている
初期の頃との違いは
共同体規模であり
大きくなるにつれて
権力も増大し
仕組みも強固になった
具体的また本質的に言えば
共同の掟
共同規範や共同観念が
極めて強力になる方向に進み
個人や家族や地域までを呑み込み
且つ侵出・浸透して上に立ち
いざとなると
有形無形の形でそれらを押しつぶす
そのように変わってきた
そしてこれから
どのように変わるべきか
どのように変えたらよいか
そのことを考えることは
わたしたちひとりひとりの
強制されない
考えるべきことに属する
2024/08/02
「老化は新鮮な出来事」
老いて身の劣化を知ることは
いい気持ちではない
今朝も目が覚めて起き上がろうとすると
体のあちこちが固まったように痛重い
特にひどいのが腰部だ
これより前には目と耳と
加齢による衰えが顕著に起きた
片目はメガネによる矯正が効かなくなり
両目の視力差が大きく
常に違和感を覚えて苦しい
耳もずいぶんと不自由で聞こえが悪い
部屋でテレビをつけても
家人が声をかけてきても
正確には聞き取れない
こう言う状況になったので
全体の劣化はますます進むに違いない
まずはそのことを覚悟することにした
一時的にせよ食い止めることや
元通りの修復は不可と諦めた
細部がはっきり見えないこと
正確に言葉が聞き取れないこと
これが問題だが
老後の生活ではあまり支障がない
細部まで見えなくても
聞こえなくても
あまり苦にしなければいいだけのことだ
それでもってそれなりに暮らす
適当に見て適当に聞いて
そこに次元の変化が
起きている気がする これは
注視注目するに値する
何せ初めての体験が満載
日々身体のどこがどう変化し
またそれによって
どのように心的な影響を被るものか
自分に起きることは
同様に他人にも起こることなのかどうか
そう考えると 老いるということ
高齢になるということに対し
総じて自分はどう変化していくのかと
興味は尽きない
仕事も辞めて金も趣味もなく
ただぽつんと寂しい老後
そのことに間違いはないが
それだけじゃない
人間ってものは
いつまでたっても面白い
2024/08/01
「お粗末な『賢さ』が蔓延る社会」
政治や行政は国が行おうと
地方で行われようと
時々報道で知られる通り
違法なり
道義に反することなどが満載で
民衆は「またか」と
うんざりしている
昔からその手のことは
暮らしや
暮らしの中の人付き合いから
何となく耳に入ってきて
みんなの知るところとなる
選挙の投票率が50%なら
投票しない50%は
「どいつもこいつも駄目」
と諦めたり見放したりの
民衆の気持ちを
代弁している
本当の「民意」とは
そういうところにあるのに
報道や文化人や政治屋たち
つまり頭よさげに振る舞う
トンチンカン達は
「民衆の意識が低い」
「政治の腐敗は民衆の責任」など
言うことがむちゃくちゃだ
そういう方向に
意識を働かせないから「民衆」なので
「民衆」の「本意」を汲みとれない
「賢い」連中の
お粗末な「賢さ」が問題なのだ
いい加減
選挙制度が駄目と気づくべきだし
より根本的には
国家の体制・形態・組織など
耐用年数を過ぎたと
誰かが言うべきなのだ
つまり今目に見え
耳に聞こえてくる
さまざまな政治や行政の問題は
末端末梢に浮上したもので
核心となる
本体部分を変えなければ
これからもズルズル続いていく
そんなのは分かりきったことで
ほんとはだれもが知っている
知っているが
ただ言いたくないだけだ
そして肝心なことには寡黙で通し
選挙だの民衆の意識だのと
変わらぬことを前提で
中途半端な解決策を
中途半端にもの申している
そんなのは
知識や教養を
ひけらかしているだけの
中途半端な知識人
中途半端な学者
中途半端な思想屋だけの言だ
高名だけが取り柄の
半端な知ったかぶりの発言に
惑わされてはいけない
現行のまま
些末を変えて
どうにかなるような
何事もない
2024/07/31
「自滅しないためだけに歌う鼻歌」
適当な思いつきで
好き勝手に言葉を並べ
それを文字にして行くと
教養ある文筆家
になった気がする
ひとりの時は
ちょっと胸を張る
ひとりで沈んで
溺れたら困るから
時にはそうして
浮かんでおく
秘技とかではなくて
自分で自己防衛を
ひとつ考えておく
群れることも
群れで何かを行うことも
たいていよくない
かと言ってひとりだと
閉じて危ない
ひとりの人は
防御が必要だ
現実は動かせないから
絶対負けない土俵を作る
何でも受けて
何でも抱えて
平然として弾き返す
意識はいったん捨象して
群衆に紛れてみるのも
ひとつの手だ
遊びや戯れも悪くない
依存もしない
支配も受けない
軽快に開き直って
猫のまなざしを真似るもよい
これもひとつの効用のため
中身のことはともかく
自分に言い聞かせる
自分を信頼できる
そういう場所が
ひとつあるだけでよい
そういう場所に
ひとりで立つ
それから
できる範囲で何でもやる
そうやって現世を
何とかやっていく
いっさいの
景気よさげな言論は
怯むに価しない
すべてを均し
同等にする
隠れた意識の営為が
ひとり立つことの根拠である
明るい賑やかさに
負けて沈まなければならない
理由はない
2024/07/30
「境界へと足が向く」
時を見失ったように
あてもなく彷徨い始めると
中心地を外れ
境界へと足が向く
いつも面倒になって
言葉も発しなくなる
居心地が悪い
一度か二度
境界を越えたことがある
その先にも
似たような村や町があり
次々に繋がっていた
たいていそれで
元に戻るが
居心地はさらに悪くなる
繰り返し
境界へと足が向く
理由があるとすれば
日常生活
その中の小さなやりとりや見聞
そこでの違和や差異の
集積だろう
それの吐き出し口と
吐き出し方が
よく分からない
いっそ強い不満があったり
犠牲者であったりすれば
抗いもするが
そんなものでもない
ただ繰り返し
境界へと足が向く
その先には
何もないと知りながら
押し出されるように
退くように
気づけば境界に向かっている
こうなってしまえば
いつかそこで頭をまっさらにして
本当の言葉を紡いだり刻んだり
見失った時を取り戻すほか
成したいことの
何事もない
2024/07/29
「非ー経済という生き方について」
鋭いワニの歯が
空を噛んで
巨体を回転させる
あるいはただ
のたうち回っている
彼の夜の
イメージの世界のイメージ
彼の生涯のほとんどは
そうであったから
餓死寸前の体つきをしている
空を齧ってばかりの一生は
当人ばかりか
周囲をも苦しくさせる
さてそれで
無駄で不毛で徒労かと言えば
そうとも言い切れない
何かの役に立つ人生は
離れて考えると
スケールがちゃちで
分かりやすい
人生を無駄にする
蕩尽するとして
これほど「聖」であり
「貴」であるという生き方も
他にはあるまい
真似はしないが
その生き方を侮蔑するものを
けして許せない
2024/07/28
「この先老人になる世代のために」
雇われ仕事に甘んじて
小さい住まいを手に入れて
便利な家電や車を
それなりに使ってきた
それが豊かな生活
であったかと言えば
そうかも知れないし
そうでないかも知れない
手に入れたものは
その時代の労働者一般にとって
必需品に近い
それらなしには
時代のスピードについて行けず
生活的にも成立しにくかった
労働が先細りの老後は
すべてを年金で賄うことは出来ない
節約し我慢しながらも
常に不安がつきまとう
ついでに物価の高騰となると
せめて野菜など作れる
畑があったらと思う
江戸時代の安藤昌益は
民のための真の指導者が
今出現するならば
全世帯に
自給自足のための
耕作可能な土地を与えるべき
と語っていた
それを時々思い出しては
この先それに少しでも似たことが
実現されればよいと考えたりもする
もちろん一部分だけの
自給自足で構わない
過疎地では耕作放棄地もあり
すぐには無理として
この先老人になる世代には
特に蓄えのない老人たちには
せめて僅かな耕作地があるだけでも
ずいぶん助かる筈だ
金がないから他にすることもなくて
無理のない耕作は生きがいにもなる
評判の悪い昨今の政治家たちの中に
誰か賛同する人はいないか
自治体にも
そんな発想の人はいないか
若い人たちの中に
お金を中心に経済が回る
そんなシステムから脱却しようという
動きが少し見える
そんな方向から
実現されるのもよい
これからはゲリラ戦だ
2024/07/27
「寂しいのは当たり前」
長いことずっと
自分の感じ方や考え方を
理解されたことはないなと
寂しく思ってきた
そしてそれはどうしてなのかと
原因や理由を探ったりもした
結局は未だに分からなくて
青臭く辛く感じる
そんな時もある
この歳になって
すでに父も母も見送って
思ったほど その死が
辛いことでもなくて
変わらぬ日常も
変わりなく過ごし
さらには父のことも母のことも
顔つきとか声音とかしか
思い出せなくて
本当は さして気にもかけず
人としての
興味関心もなかったと
やっと気づく
自分の寂しさを気にかけて
身の回りの人の生涯を
思い計れなかった
見えない幻の敵を探し
粉砕するのが急務だと
独りよがりに考えてきた
人は人を理解できない
のは当たり前だ
お互い様なのだ
それぞれは
それぞれの目の前に
喫緊の課題に対応しながら
永遠のそれとも渡り合っている
その僅かな合間に
互いに慈眼を注ぎながら
届いたものかどうか
注いだという実感を
よしとするほかない
わたしたちの風土はその時
口を噤むのだ
そしてまた
それぞれの現実へと
立ち還る
2024/07/26
「老後の成り行き」
虫好きという変わった爺さんがいて
ある一種類の虫をたくさん捕り
標本を作ったりしている
だれもがやるべきことではないし
捕った虫は死ぬしで
標本からの何か分からぬ研究は
一種言い訳みたいなものだ
なんか役立つ
いつか役立つ
実際そうやって
後年に役立った例はたくさんある
あるが
役だったからよい
役立たなかったら駄目
というのでもない
一方でひどく怠惰な爺さんがいて
何にも興味がなく
仕方がないのでテレビを見たり
インターネットで
いろんな動画を見散らして
後は何にもしない
ごろごろダラダラ
時折詩のようなものを書いて
本物の怠惰から見れば
言い訳じみて見える
こっちは何の役にも立たない
見事に役に立たない
いずれ雲散霧消した例もたくさんある
もちろん
役だったからよい
役立たなかったら駄目
というのでもない
畢竟
役に立つも
役立たないも
どっちだってよい
現在までのところ
役だった方がよいとされるが
これは知に開くという理由からだ
だが知は過誤を生む
過誤はまたたくさんの犠牲を生む
それに比べ
役立たぬものは害がない
役立たぬものは
はじめから零で
役立つとされるものは
たいていプラスとマイナスで零
同じようなものだ
なので老後に向けての箴言
「成り行きに任せるのが至高」
これもまた
出来ても出来なくても
どっちでも
2024/07/25
「〈無私〉からの〈私心〉のこと」
突き詰めて考えようとすると
縁やゆかりのある範囲からしか
言葉や考えが出てこない
少し疑いを持つと
主体は縁やゆかりの側にあって
個は主体の婉曲な指示を受けて
浮かんだ言葉の選択をし
考えることをしている
ことになるのではないか
言葉も考えも
もともと自分のもの
オリジナルなものというのは
何ひとつもない
既存に触れて
その反応として
あるかなしかの
言葉遣いなり考えなりが
生まれる
言いたいことを
言っているつもりになり
信ずるところを
考えたつもりになり
そして一種まぼろしの思い込み
信じ込みが
わたしたちの原動力
になっている
老いた今になれば
時折
生きてこんなことを
考えたかった訳ではないと
悔恨めくことがある
どうしてこれが大事と
思い込んだものか
やはり大きな主体は人間史で
わたしたちは
出来の悪いひとりひとりだ
理念だ概念だとしがみついて
未来も過去も台無しにしている
老いて自らをなお
この牢獄に縛り縛られて
頭を抱えている
なに いずれ君たちだって
自分の〈無私〉に
気づく時は来る
2024/07/24
「緩慢なる滅びの行程が進行する」
ゆっくりと時間をかけて
滅びて行こうとする
無名の魂たちも
さすらう心と体のいまは
目の前のただ一瞬を
飛び石のように
覚束なく歩いている
この疲弊は
言葉の閉塞を呼び
無言の人混みから
人混みへと伝染する
絶望は光に紛れて潜伏し
明るい未来のような
顔をしている
わたしたちのことは
構わなくてよいと
掠れた声でポツリポツリと
微かに伝えてくる
無名の人たち
無意識に差し出す拳は
空に花ひらき
ゆっくりと今
力尽きて
闇の中を墜ちて行く
握り返せなかった
わたしたちの手が
後を追う
見慣れたこの光景や構図
何度も繰り返し見る夢
高度情報化社会の
喧噪や猥雑に隠れ
密かに進行し浸透して行く
わたしたちの未来
わたしたちの呪詛
わたしたちのする警告
これらはすべて
権威のないまぼろし
根拠のない脅し
種を明かせば
ひとつの興行へと
仕立て上げられてしまう
ゆっくりと時間をかけて
滅びて行こうとする
無名の魂たち
その緩慢なる滅びを
止める手立てが
見つからない
2024/07/23
「趣味を歌う」
とうとう言葉や文字も
利権一色の社会から浸食を受け
我が田に水を引く意図を持って
語られ記されていると分かり
耳に聞き目に読むことも
あまりしなくなった
ちょうどよい機会だった
書籍や放送など
有料の媒体からは遠離った方がよい
金で買える真実や真理
また切り売りされる教養や
最先端の知識などは
売買できる者たちの玩具
専有物として
彼ら自らが
心ゆくまで弄べばよい
ぼくらは 少し違うなあ
異和を覚え恥とも感じる
尿石のようなそれを
心と体とから取り出して
眼前に広げて
ひとつずつ丁寧に解析する
趣味の域を出ないから
誤ったり独りよがりになったりする
けれども 素材としては
何倍もこちらが新鮮で
具体的でもある
抽象が拙くても
出来映えが粗悪でも
これしかないという抉った痛みが
紛うことなく
ぼくらをぼくらたらしめる
「ホトトギスっているのか」って
ぼくらはいつだって
飛ばずに歩く労を
厭わない
2024/07/22
「『隆明だもの』の読中感」
市井の人は
生活のあちこちに
目配り気配り
やっと平凡な暮らしに
漕ぎ着ける
思考なり
五感なりを
フルに発揮してそれだ
まして知に働けば
市井の暮らしも
覚束ない
こちらを向くと
あちらが立たず
あちらを向くと
こちらが立たない
どんな偉人も
老いの振る舞いは
平凡に見苦しい
呆けもするし
粗相もする
年長けて峠を越えてみると
その先には
何にもいいことがない
市井の人も
知の巨人と呼ばれた人も
それぞれに
水の一滴
お茶の一滴を舐め
あとは覚束ない足取りで
峠を下る
こんな人の生涯を
人類史もまた
後追って行くのだろうか
2024/07/21
「昔覚えた懸念がいま」
およそ二十年前に
小学校教員を止めたが
その時分に懸念していたことが
ひとつある
それはずいぶんと子どもたちが
口が達者になってきたという印象で
ある意味では教育の成果
と見るべきものでもあった
変に大人びた言葉遣い
お利口な物言い
それらはどこか
子どもらしさの消失
と映った
いま世間を騒がしている
国政や都政や
地方自治という場での
若い政治家たちの姿を見て
以前のその懸念が
現実的なものになったと感じる
彼らはたいてい高学歴で
学業的には優秀である
広く深い知識を持ち
専門性もある
エリートとしての志も高い
言葉の論理的組み立ても上手
官僚的で隙も見せない
ディベートや
質疑応答のスキルも高い
けれども
あちこちに軋轢を生じて
社会問題を引き起こし
次から次へと
報道に取り上げられてきた
彼らを支持する若者が
結構いることから分かるように
若い人の間では
あまり違和感がないのだろう
予備軍がいっぱいいる
それだってこれだって
ぼくからすればどうでもよいのだが
老婆心で言えば
ー人間認識が浅いー
ー大衆を舐めすぎー
ー非知や無知への無理解ー
ー頭でっかちー
ー蔑視目線が最悪ー
ー救いようのないエリート主義ー
などで共通する
だがそれよりも何よりも
大事な子ども時代に
「あんぽんたん」を
生きられなかったことが致命傷さ
功績を認められ表象される
仏(ぶつ)みたいな先生たち
「ざけんじゃねぇー」
とまあ そんなとこかな
またしてもうんざりする
一時代前
そんな子たちを
国を挙げて
社会を挙げて
育成して世に送り出したんだ
見方を変えれば
エリートにされた
犠牲者でもあるんだ
不毛と徒労と
無名である方がまだましさ
2024/07/20
「とりとめのない老いの鼻歌」
足腰の達者な老男老女
CMでも近所でも
ウォーキングを欠かさない
「まだまだ元気」
「ますます健康」
の猛アピール
気力も体力もまだ衰えていない
現役と遜色ない
そんなことを自分にも言い聞かせ
まわりにも示したいんだと思う
信号や十字路の脇に立つ
ぼくと似た年格好の
「緑」のお婆さんやお爺さん
どんな形でも
世の中の役に立っていたいんだ
きっと いつの日か
役に立たないとなって
関係の糸が断ち切れる
そういう日が来ることを
恐れている
なんかすごくよく分かる
楽しみながら健康でいたい
そういう人は
ゲートゴルフに興じたりしている
とにかく今どきの老人は
時間を惜しむようにして
何かをしよう 活発に動こう
あるいは働こうと考える人まで
見た目にもエネルギッシュだ
もちろんそれぞれに
不安も心配も
抱えてもいるのだろうが
吹き飛ばす勢いの人が多い
そんな力を
社会も後押ししているわけで
こうした現実は
社会のお手柄と言ってもよい
社会がここまで
老人たちを元気にしてきた
ぼくの元気は
比べてみれば不安定で
振り子のように行ったり来たり
よくよく観察すると
意志で動いていると言うより
不分明の衝動が
意志をも制御している
それが「いのち」のマグマで
時々噴火したりする
とてもそれまでは制御できなくて
できるだけ成り行きに任せ
素直に素朴に反射したり
反応したり
強く振れたり
止まりそうに振れたりしながら
そっと寄り添って
いずれマグマとともに
冷えて行く
そんなんでいいさって
むっくり頭が起きて
告げに来る
2024/07/19
「何となく秘めてきたこと」
こころの主人公には成れない
こころを動かし
制御するものは他にいる
本当はそいつが
制御しているのかも分からない
風のように雲のように
得体の知れない
別の力で動く
これでは
ぼくについて
ぼくのこころについて
説明のしようがない
さらに他人のこころについても
本当にその人のものかと
疑ってしまう
これらのことは
居たたまれなさを感じさせる
どこに居てもだれと居ても
一人でいる時も
この世界は居心地が悪い
そしてこんなこと
だれとも話せるわけがない
なのでぼくは小さな時から
自分の正体を
恥ずべきものと感じさせられ
人見知りで孤独で
生きとし生けるものを
高貴なもののように
眩しく見つつ
人知れず呪詛(愛)している
呪詛(愛)しながら
ここからの救済や脱出を
強く欲している
ぼくはどうしたらよいのか
これまでも
そしてこれからも
ただ人間の形を借りて
身近な人
知る限りの人たちのように
振る舞って
そうして力尽きるまで
戦っていくんだと思う
この戦いには
もちろん大義はないし
大義で身を飾ることもない
ぼくはぼくのまんまで
漂流する
2024/07/18
「ある神話」
表層だけで言えば
学生運動というものがあって
大人社会への反抗
物言いや否定の突き付けがあった
それをひとつの流れとすれば
大学から徐々に
高校そして中学へと降っていった
と言うような印象を持つ
それは小学にも及び
中心を貫いているのは
論理だけではなく
感覚も含んだ
外部に対する自己主張
臆せず遠慮せず
表現するという動きだ
良い悪いを抜きにすれば
これは戦後の民主主義が
この国にもたらした
ひとつの新しい事態であり
建前として言えば
けして悪いことではないし
ただ日本史上初のことで
大人から当事者の子どもまで
衝撃もあり
大いなる混乱も生じた
社会の欧米化と対の
新しい日本の
創生のための産みの苦しみ
と言った側面もある
ここまで来たら
幼児にまで降りても
不思議ではない
次々に順番を降りて
挙げ句の果ては
乳児や胎児まで
この国の現実に対して
もの申すと言うことになれば
もはやそれは
言葉を手段としてではなく
あるいは感覚や身体の
表現としてでもなく
それ以外の方法によるしかない
だからここから先は
神話や比喩や
妄想の形でしか言えないが
聞こえるのは
出生に対する「否」の声であろう
世に出生率の低下を嘆く声が多いが
この国の大人社会への警告は
半世紀前から
何度も発しられていた筈なのだ
その度に小手先で遇(あしら)ったり
つまらぬ対症療法で過ぎた
学生や子どもの言い分を舐めて
見くびった結果
胎児以前へと
新しい命は引きこもり
不登校ならぬ
「未生」の覚悟を決めた
出生率低下を
国の一大事と捉え
ネックは国民の意識の低さにあると
もの申す政治家がいるが
事態は逆だ
指導者のレベルが低すぎて
ここに到ったのだ
紆余曲折を経て育った子どもたちは
子どもを産まぬこと
作らぬことを感覚的に選択する
それは当然すぎる帰結なのだ
並み居る指導者たちを一掃し
この事を理解する者たちが
その座に取って代わらなければ
この国も出生率も変わらない
変わらなくても結構で
いの一番に右往左往
頭を抱えるのは
指導者連であろう
このことでも
真に国を支えるものが誰か分かる
立派な指導者が
どれだけたくさんいても
国は成り立たない
方策は手詰まりになり
ここでも「ばら撒き」の
対症療法しか策を見出せない
根本的根源的な策は何か
にさえ思い至らない
それだって国民の無意識には
遙か前から予測されていたことだ
どうということもない
大衆と呼ばれる国民一般は
どんな時でも
どんなことがあっても
やることは一貫している
戦後の混乱期を乗り越えたように
どんな事態も乗り切る
そういう強さを持っている
装飾のように
余計な賑やかさと饒舌が
一番に鳴りを潜める
大衆の中の悪魔的部分が
その時だけは
ほくそ笑むに違いない
2024/07/17
「今日の心象風景から」
子どもの頃
よく夢で空を飛んだ
すぐに失速し
体勢を立て直すために
心も体もヘトヘトになった
たいてい飛翔に失敗して
夢は終わる
自分勝手に解析すると
この夢は
集団生活とか
社会生活とかへの恐れ
適応できず
どうにかしようと
足掻く内面を
象徴的に映し出している
集団になじめない
そういう性格は
ひとつには決定的である
さらに言えば
その数は少なくない
学校教育が
社会人の育成を目標にするのは
それなりの理由と根拠があり
生まれたままや
家族や地域に
溶け込んだままの
子どもの姿では
具合が悪いからだ
その時点で
国家社会の一員としての
素質を注入しなければならない
この性格形成は
ほぼ幼児期には完成し
国家社会は
親や血縁を介してしか
性格形成に関与していない
つまり本質的には
家族の外の社会と個とは
もともとが疎遠なのだ
だからそこのステップアップは
子どもによっては
大げさに言うと
海中生活から
陸上生活に切り替わるほどの
隔たりがある
これを解決するには
予想以上の時間の経過と
もうひとつ
再び海中生活に戻って行く
つまり古代の生活に引きこもる
そんな方向への決断もあるが
これも過酷だ
ぼくらが手にしているのは
せいぜいがケアの技術と
思いやりといった
原始的な道具や手段だけだ
それから「森」と言えば
「森」のすべてが
分かった気になる頭だ
先は暗いが
そこに「明」を見いだす
特殊能力を持っている
それがぼくたち人間だと
ここではいったん
考えておこう
2024/07/16
「愚の影」
腕力も知力も
いまは自利に使われ
利他に及ぶ
先に自利に働くことは
仕方のないことだ
けれどもやがて
秀でた腕力は弱者のために
優れた知力は無知や非知のために
使われるようになる
なぜなら
優秀なものの価値は
優秀ならざるもののために
使われて価値なので
優秀に胡座をかいて
ふんぞり返って
「どうだオレって凄いだろう」
と言うところに
価値があるのではないからだ
優秀が価値と認められるのは
優秀でない者に奉仕してこそだ
ごくふつうの人たちへの奉仕
それが当たり前のように
誰の指図もなく
出来るようになるのは
ずっと先のことだが
いつか必ずそうなる
優れた者とそうでない者との
つまり持って生まれた能力の差異は
そうやって埋めるのが理想だから
必ずそこに辿り着く
優秀な者が
そうでない者たちを
馬鹿にしてみたり
蔑んでいられるのも
野蛮な時代的段階にある現在と
もう少し先までだ
それまでは相変わらず
力を競い合い
貶め合い足を引っ張り合う
そんな情けない時代が続く
未来から見たら
現在に優れて威を発する者は
すべて愚の影を付して
見られることになる
2024/07/15
「過去の地層へと還って行く」
山間の小さな村落の
どの家にも
テレビ・洗濯機・冷蔵庫
などが出回った頃から
夏祭りの花火と
家ごとの七夕飾りの風習
秋祭りの神楽の
太鼓や鉦の音が消えて行った
子どもだったぼくらは
ラジオ・テレビに浸り
漫画を耽読し
すーっと
刺激を横滑りして
そういう時を過ぎた
それからはもう
人と牛馬が行き帰りする
旧い田舎道から
車で渋滞する高速道路
までの道のりは一気だった
オリンピック
東京タワー
大阪万博と
振り向く暇なく
弾き飛ばされぬようにとばかり
時代にしがみついて
目が回る変遷を経験した
ジェットコースターの
アップダウンも
愉快と言えば愉快だった
昭和は戦後から
平成そして令和と来て
あっと言う間だ
あっと言う間に時が過ぎて
流れの加速にも
食い止めにも
あるいは「ずらし」にも
関わることなく
ただただ
渦中を流れて過ぎた
愛だとか
平和だとか平等だとか
理想も
理念も
概念も
次々に塗り替えられる科学技術
の後を追って
みんな幻になり
過去の地層へと還って行く
われわれもまた
2024/07/14
「歌うたう日」
ほったらかしの書物をどうしよう
日焼けしたノートや紙の束は
生ゴミにして明日には出す
いっきに読み漁ったむかし
一度きりのもの
何度も開き直したもの
それから年をおいて
少し真面目に読み直したもの
もういちど読み直そうかと
未練のもの
放っておけばやがて朽ちる
放っておけば
やがて焼き場に積まれる
ひとくさりの伝説もなく
灰化した骨片
その後を追って
人間の「意識」は
しっかりと掃き捨てられる
それが「自然」だとすると
「自然」は見事に潔い
その「自然」に向かって僅かずつ
引き寄せられて行く日々
ふとした心の仕草に
明るく稲妻が走って見える
初めて見つけた「美」なのだと
まぼろしに
刻んでおくことにする
2024/07/13
「『現代の仕事』考」
数々の困難を乗り越え
真摯に仕事に向き合ってきた
朝ドラの女主人公
頭がよくて行動力があり
自分の信念・信条を懐に
社会的な成功を収めた
まさにその時に
絵に描いたような家庭内「危機」
物語は戦前戦後に渡るが
当時の女性の社会進出が一つのテーマ
日本初の女性裁判官
その超エリートが
エリートの道を突き進む時
人間的な力の大部をそれにつぎ込む
あるいは家にも仕事の一部を持ち込む
そのことは現在の一般女性の
好きな仕事に打ち込む場合と似ていて
特に子育ての場面に影響が及びやすい
これより以前でも男が仕事に打ち込む時
夫や父親としての努めを
同時にそして同等に果たすことは難しく
しばしば破綻も生じていた
ひとつにはなぜ人は
過剰なほどに「仕事」を優先してしまうのか
二つにはなぜわたしたちは
「個人」と「世間」との間にある
「家庭」に歪みを生じさせてしまうのか
こうした疑問が生じる
そしてそれは普遍的な問題か
現代という歴史的時間性の問題なのか
と言う疑問もまた生じてくる
何の取り柄も無い老人の
素朴な夢物語として言わせてもらえば
子どもを中心として「遊べる家族」
「遊べる家庭」が築けたら何よりだ
それが理想ではないかと
反省と自戒とを込めながらそう思う
もちろん世の中のため
人のためと考える人もいて
いや自分のためという人もいるだろうが
折り合いをつけようとすれば
そこが落とし所になりそうだ
そうじゃないとこの国は
衰弱する国だ
2024/07/12
「〈独り言を歌にして口ずさむ〉」
「この国を何とかしたい」って
つまるところ
国民の啓蒙と指導と洗脳
それしかやっていない
政治家とメディア
翻って大多数の国民は
岩場の牡蠣のように
荒れる波の中
岩にへばり付くのが精一杯
この落差は何か
一本の蜘蛛の糸にしがみついて
天上に昇ったものたちは
血の海を見下ろして愕然とし
怯え震撼し
その後はただ
自己合理化を
死ぬまで繰り返すことになる
そんなのに付き合っていられない
高度な科学的思考も
高度な文明も文化も
あるいは生活の向上も
たいしたものではないよ
心の持ちようを説いた
かつての宗教の教えと同じで
今となってみれば
わずかずつ失ってきたものの方が
遙かに大きな痛手となっている
こうして歴史の教えるところによれば
「こうしたい」と思い
「こうしなければ」と考えるところは
たいていはやらない方がよかった
すべて生命は受け身から出発し
変身と変態を繰り返してきた
それを進化と呼ぼうが呼ぶまいが
受け身が本質であることに変わりない
大海に泳ぎ たゆたい
やがて海底の岩に固着する
あの「ホヤ」みたいに
その場に根付くほかやりようがないんだ
そこからしばらくは沈思黙考
個別に世界を感知して
「共通」を探し出したり
作り出したりして行くほかにない
生き抜かなければ
それも出来ない
2024/07/11
「時には野次馬になって唄ってみたい」
さすがに見飽きて嫌になっていて
東京都知事選なんか
ドラマとしても
ニュースとしても
ドキュメントとしても
見る価値も無ければ
話題として語る意味も無い
そんなふうに思って
CM代わりの予告編
につきあうように
いやいや目にした程度だ
五十人以上も立候補して
選挙活動に疲労困憊したり
金をつぎ込んだりして
何だこの浪費この蕩尽はと
思わずにいられない
これだけの人数と
金の動きを考えるなら
次からは
困っている都民を
どれだけ直接救えるかを競って
それを評価する選挙にしたらいい
政策なんか言葉だけ
嘘なんかも平気でつけて
競争上手な奴が勝つ
画面に映るのは
小人になったスターリンばかり
街頭演説にもスタジオにも
うろちょろと騒がしい
ずっとずっと
メディアと政治家が
作り上げてきた茶番
スタイルとして下品
〈非知〉をなめきったバカ
正義バカ
改革バカ
時代錯誤のバカ
総じて
自分(人間)のことも
見えなくなったバカども
失敬
こんなことが言いたいんじゃ無い
首長は誰がなっても代わり映えしない
極悪と極善の中間を
少しだけ善の方に振れたり
悪の方に傾いたりするだけだ
万一悪に寄りすぎても
現在の都民の潜在能力は
もしもその力を発揮しようとすれば
首長をすげ替える力を持つ
一線を越えなかったら
逆に長寿になると言うだけだ
こんなことを騒ぎ立てるのは
そこに利を見るものだけだ
損得を見据える連中だけだ
「大山鳴動して鼠一匹」
もうだれも
こんなことに巻き込まれず
通勤に
商売に
いそしむがいいのだ
そしてもしもインタビューで
呼び止められたら
すべてに「否」と繰り返せ
一般大衆の
矜恃をかけてだ
2024/07/10
「老いの心境」
言葉と文字がコロコロと
白紙の上から転がり落ちるので
もう使い物にならない
と決めて切り捨てた
もちろん日常には
言葉と文字がひしめいていて
読むことも聞くこともする
その侵略は
受け入れることも出来れば
拒絶も出来る
案外これで日常は
つつがなく過ごしていける
言葉も文字も捨てたので
考える時に言葉と文字が使えない
文字の以前は言葉で
言葉の以前は不分明な意識として
空虚に充ちた意識で考えていると
他人の目にはぼうっとして
見えるらしい
それはちょうど覚醒と眠りの間で
若者や壮年の世界とは別の
幼児や植物や動物たちの世界に
近接した扉の中だ
それを言葉や文字の世界では
「墜ちる」のように使うが
それぞれに入り口が開かれていて
その向こうには
それぞれに広大な世界が開けている
ひとつの入り口に立って振り向くと
高度な発展以外に選択肢の無い
光に凝縮して加速した世界が
飛ぶように流れている
言葉と文字の世界は
もうそれしか無いんだと分かる
言葉と文字で考えられる
ギリギリの世界
言葉と文字に宿命づけられた世界
翻弄され支配される世界
もしかすると最も単純で素朴な世界
生きるということを
地球で一番難しくした一族
果てしない欲望の種
とりあえず年齢を盾に
言葉と文字への従属は免除される
ただただ身軽だと
老いの心境は
そんなだ
2024/07/09
「気ままに墓掘り唄」
仕事を辞めて
お役御免で
緊張もストレスも無い毎日で
転がり落ちるみたいに
緩みっぱなし
なんとなく
どうでもよくなって
輪っかもつっかい棒も無い
いちどみんな取っ払って
あんな慣習にも
そんな風習にも
縛られずにやってみたらどうか
後ろ指差されたって
引きこもってたら
気にもならない
おまけに最後の切り札
死ねば死にきりの
「死」が控えているとなれば
「やっちゃえ◯◯◯」
で罷り通るというもの
健忘症や
老化をちらつかせたりしたら
効果も覿面だろう
もう何度も何度も
礼を尽くして
訣別も済ませた
ひとりの内なる世界だって
広大なものだ
未踏も限りない
いざ『フム・フム・フム』って
探検に出よう
生きた証なんていらない
記憶に非在でけっこう
食傷の極み
それよりなにより
未盗掘の墓探しだ
いつだって忙しいが
ゆっくり歩く
死に物狂いで歩く
峠に倒れたら
足下の石ころひとつ
記念に積んで
ただ黙って
立ち去ってくれ
2024/07/08
「修羅の笑み」
幸福とか不幸とか
ずいぶんと世に飛び交って
自分でも無意識に
そういう目線になって
人の生涯を見ていた時もあった
けれどもよくよく考えると
何が幸福で何が不幸か
分かっていない
例えば自分は幸福か不幸か
どちらかで答えることは難しい
さらに言うと
自分の生涯について
そういう見方をすることが無い
なのでおそらく他人も
少し突き詰めて言えば
幸不幸で見られることに
同意しないのだろうと思う
どう見られてもよい
どう見るかは見る側の
自由に属する
不幸に見える人に
不幸の実感は無い
不幸と見てほしいのでも無い
幸福に見える人に
そうでない場合があるのと同じだ
その人にもっと切実なのは
幸不幸よりも
もっと違う何かだ
すれ違う目に向かって
「本当にオレが見えるのか」
と無言で語りかけ
それに対する無言の返答が
聞き取れない
そのことが絶望的なのだ
ただ「修羅がいる」
そう見抜いてくれることを
望んでいる
そう 戦士だ
ひとりで負け戦に向かった
悪鬼の戦士のひとりだ
欲しいのは幸福でも無ければ
慈善でも偽善でも無く
共感でさえ無い
誰もが嫌がり目を背ける
負け戦の継承だ
いや 何故何のために
どんな戦いをどう戦ったかを
誰かに告げたかった
もちろんそんなことは
きみの知ったことでは無いと
その人の最後の無言は
微笑んだに違いない
どこまでも拒絶して
戦うことを
止めようとしない彼に
不幸の言葉を冠する
その時点ですでに
戦わずして囚われの身に
迎合の徒に
成りかけてしまう
2024/07/07
「圏外通知」
善意と善行
これに徳やヒューマン
の味付けをして
愛で地球を救おうとする
テレビ番組なのか
国会なのか
はたまた新興宗教なのか
狂喜して乱舞
チャリティーに
ボランティアに
またまた狂喜して乱舞
時々着服して不正
こうなるとますます
国家的事業に相似
国家の縮図
みんなで
みんなの愛を感じ取って
エリートのおかげだ万歳
国民同士でも万歳
感動をありがとうって
また万歳
何か知らんけど万歳
人間ていいな
明日はきっと
今日よりもよくなる
とまあ
よいことばかりの大イベントや
よく似た正義の国家事業を
けなすつもりもないし
敵対する気もサラサラない
当事者・参加者たちの
善意にも慈愛にも敬意は忘れないさ
ただ それはそれはと認め
それはそれはと眺める
視聴者のひとりに過ぎず
あるいはもっと興味を引く
他チャンネルの視聴者ともなり
終わればただ
これはこれはと繰り返し
「よく出来たピー(×××)」と
ひとりになって言い放つ
祭りの苦手な天邪鬼
圏外通知は砂嵐
陰も負も
切り捨てる気は
サラサラない
根こそぎ駆逐されるまで
いま少し
時間はありそうだ
2024/07/06
「薔薇の記憶」
ある日
庭に一輪だけの
刹那を止めた
黄色い薔薇
その花びらの
ただそれだけを
どこにどのように
録すればいいのだろう
それが分からず
時空の向こう側を
ひらひらと落ち行く
そのさまはそのままに
ひとつの時を超える
薔薇はわたしだ
わたしは薔薇だ
遠い記憶の先には
たしかに
そんな時があった
2024/07/05
「兆しの可視化」
例えば公教育にもさまざまな課題があり
解決すべく改善策が日々考えられ
また実施されているに違いない
そこでは人間も人間社会も
誠実な振る舞いをすると見える
そしてこうした営為は
この社会のどんな領域・分野でも
行われていると考えてよいのだろう
この例に倣えば
個々の人間も人間社会も
確実に未来は明るいと言えるはずだ
けれどもそう簡単に言い切れない負の現象に
わたしたちはしばしば出合うことがある
そうして長らくそうした事態に遭遇し
またこの国の歴史に
繁栄とともに悲惨と凄惨もまた
何度も繰り返されてきたことを思うと
つくづくどうにもならないことだなと
思わずにはいられない
さまざまに議論と実践を積み重ねられてきた中で
ただひとつだけ議題に上がらない
もしくは避けられてきたある対象がある
それは共同体社会の形態に関わるもので
国家存在の是非についてだ
極論すれば
国家が存在しなければ公教育も消失し
現在的な公教育の諸問題もたちどころに消える
現在社会においては
国家の存否を問うことはタブー視されているか
あるいは問うこと自体を不毛として
メディアも不問に付して当然のごとくだ
逆に言うと
誰にとっても口にしたくない事柄で
言えば我が身に火の粉が降りかかる
そう言うものだから敬遠される
結局負の遺産も
国家内で対処して終わる
教育の諸問題を管轄するのは
教育委員会だと対処されるようにだ
国家に疑義を持ち国家を否定する
そういう論議は好まれない
古代国家誕生以後
近代国家成立から今日まで
国家制度・機構の廃止の声は
ほぼ聞くことがない
誰もが仕方がない
こう言うもんだと考えている
国家が存在するために
さまざまな利得や利便も
大きくあるからだ
そういう国家存在のありがたみが
国民大衆の半分以下の支持に墜ちたら
どうなるんだろうか
こんにち国家イコール政府と狭義に捉えれば
ずいぶんとその兆しは
可視化されていると考えられるのだが
2024/07/04
「なんだか違う」
目も耳も確実に衰えてきて
朝起きた時や
長く同じ姿勢でいた後でも
体がさび付いたように
痛重くなる
もちろん社会的な接点も
薄く剥がれて
画に描いたような
孤独な老後の
もうど真ん中と言ってよい
これから先
何もいいことがない
それは確かだと思える
けれども
これで絶望的に
悲観しているかというと
少し違う
楽観とは違うが
どこかで
こんなもんだろうと
高を括っているところがある
生涯をこれでやって来て
いつも失敗して来ている
事態は
予想より悪いことが常だ
だからもっと
状況は悪化していくはずなのだ
だからといって
もっと悲観できるかと言えば
そうはなれない
何度もそんな経験をしてきて
耐性が出来ているらしい
体の衰えや頭の衰え
薄皮を剥ぐような
人たちとの関係の剥落は
みな初めてのことで
そのスタートラインを
いまは少し越したところだ
その意味では
すべてが初見と言ってよく
この先への興味は尽きない
初体験は
出来れば体験した方がよい
さらにまた
亡き父も母も通った道と思い
長生の誰もが通った道と思えば
この先を知らずして
人間を語れもしまい
そう考えたら
自分の本分はここから先にある
と思わずにはいられない
なのでまだしばらくは
孤独な引きこもりへの
この道を行く
なんだか生きるということは
世に言われることとは
違うような気がする
そんなゾーンに
期せずして
入り込んでしまった
2024/07/03
「『よきこと』の信仰」
絡み合う欲望と願望が
雲の高さで流れを作っている
見ていると やがて
下水に引き込まれる水の早さで
光の高みへと登って行く
頭と心のまぼろしは
時代のマネキンを模倣する
まぼろしを信仰するまぼろし
信仰はいつの時代でも魔的だ
ゆえにすべてを浄化する
ずっとずっと昔のことだ
山には精霊が宿り
祀るものたちには恵みを
そうでないものたちには災いを
もたらすと信じられた
それ以降人の習性は固定した
災いから逃れ
強く恵みを求めるようになった
いまでは古代の精霊は
「よきこと」に変わり
恵みは
「よきこと」と対で
語られるようになった
「無償」の文字は
巷に沈み
死語と化していった
2024/07/02
「社会人のありがちな社会生活」
離職して半年
一日は金太郎飴
ほとんど自分の顔で過ごす
ずいぶん慣れたが
まだのところもある
五十年間
ほぼ会社員・公務員
パート・アルバイトのような
臨時雇用としても働いてきた
一日の内の主要な時間を
勤務のために使った
正式採用時の仕事では
睡眠と休日以外は
丸々一日を仕事に費やした
と言ってもいいくらい
もっと言うと
勤務が終わっても休日でも
つい仕事について考えてしまっていた
社会人のありがちな社会生活って
そんなものだ
仕事人間ではなかったのに
実質はそうなっていた
これに学校生活の
六・三・三・四を足すと
六十六年間
成れなかったにせよ
よい生徒・学生
よい社員
よい公務員などとして
励んできたわけだ
これも格別その気はなかったのに
生涯のほとんどを
そんなふうに過ごしてきて
急に素の自分に戻ることになっても
素の自分の身の振り方は
乳幼児期以来となって浦島状態に近い
この歳ではなおのこと
無垢で前向きな興味・関心も超極薄
一切の重荷から解放された
と考えれば悪くはないが
反対は用無しのお役御免
残るのは心細い額の年金の老後
好きにやろうぜベイビーって呟いて
とりあえずは何もやることはなく
やる気もないんだ
ぶるっと身を震わせて
まずは常識的な言説の外へ
異数のもっと異数な老後の世界へ
普段着の顔のまんまで
トボトボ行けたらいいさ
そのうち
力も尽き果てる
2024/07/01
「約束」
足早に
深緑の森の外れへと
削いできた文字は
日の暮れた空を
軽々と西へと渡る
背から甲羅を剥がし
すべての品詞も削いで
もう文法からも逸脱した
意味たちに気遣うこともない
境界に引かれた固い線の上で
「約束したんだ」
と言う少年に出会う
そうだここは幻の島
河口から先は
大洋があると約束されている
もちろん文字にも
誰にも語ったことのない
「約束」があった
関係は貧しく
所有は最低限に
それが文字たちの間の
合い言葉だった
幻の最果ての地
ここまで来たら裏切らずにすむ
ひとつになった最果ての文字は
砂浜の上で安堵する
やがて知らぬ間に痕跡も消える
それまでには
人の心からも去らなければ
と文字は思う
2024/06/30
「脱帽して〈快〉」
明日死ぬかも知れない
十年存えるかも知れない
先は分からない中を
今日は左右の足の
どちらを先に踏み出すか
日々に閊えてばかりいて自在
見渡せば自由
見上げれば真空
毎日寝る前に見る
人の赤ちゃんと
犬または猫との動画
気を許し見守る
犬や猫の間合いが微妙で
興味が尽きない
例えば赤ちゃんの
バタバタの手が顔を打っても
意に介さないかのように寄り添う
親と子でもないのに
そこにどんな信頼関係が
成り立っているのかいないのか
いつまでも不思議でならない
言ってみればそこに
作為もなければ悪意もない
無垢が察知されるためなのか
年長けて
こんなことにも理解が及ばない
画の中の犬や猫にさえ
なれなかった生涯の終わり近く
まなざしの優しさに
深く心打たれる
そんな思いにふと立ち止まる
赤ちゃんの能力なのか
犬や猫たちの能力なのか
人知を超えた何ものかに
ただ脱帽して
〈快〉に沈み
〈快〉に安らぐ
2024/06/29
「絶望がただ始まる」
民主主義の乾かぬ舌の裏に
ピタリと張り付いている
植民地主義の現代仕様
動画は確かに
そんなふうにまくし立てていた
国連も駄目
先進諸国も嘘つき
メディアもジャーナリズムも
みんなお終いと
そうだ
偽装された平和国家の奥の部屋で
争いと強奪の歴史は
いまも隠微に続いている
公開すべき情報と
非公開の情報との使い分けは
見事な成果と言ってよい
スマイルを語る高度な文明と
饒舌とで飾り立てられていても
やっていることは
より洗練された
掏摸や詐欺の類いと変わらない
剣よりも巧妙なロジックで
高尚な理念を他に強制する
そんな道具を発明した
知性を着込んだならず者
大国にこびる小国
いずれ正真の歴史は
自国民に知れ渡り
その時こそ
国家という形態について
国民の絶望が
ただ始まる
2024/06/28
「即興の非詩」
古代大和政権誕生時
東北はまだその外にあった
日の本の国に属してもおらず
日の本の民でもなかった
その後組み込まれて
東北の日本歴は千二百年程度
現代ではそうした東北の民も
当然のように日本国民と称し
昔から日本人だった顔つきでいる
もっと昔は
「何人」とも考えていなかったし
土地と住まいが
どこかに属するとも
考えていなかったであろう
強いて言えば自然のものとか
神のものとかくらいに
そういう歴史的な経緯や
社会構成の変遷が忘れられて
いまでは日本人も日本国も
列島の初期から存在したように
のっぺりと認識され
「この国をどうする」
「日本人と日本国を愛する」
などの会話が
当たり前のように語られたりする
これが社会的な通念となり
日本人はどのようにして
日本人になったか
日本国はどのようにして
日本国となったか
本当は誰もよく知らないのに
知っていることを前提として
疑われることがない
つまりそれ以前については
みんなが目をつぶっている
すこぶる曖昧なものだ
東北に生まれ育った
そうした事実のついでに言えば
われわれは侵略された側の末裔だ
その前提が正しければ
もともと日本人だったわけでもなければ
日本国の住民だったわけでもない
途中で組み込まれて
以後日本人や日本国民と称した
思考上だけで言えば
当時制圧された側の人たちが
たくさんいた筈だ
それらを考えていま思えば
統一される以前の
柔な共同体での生活の方が
ゆったりのんびりしていたのではないか
気兼ねせず生活できていたかも
祖先と言い祖国と言うならば
いっそそこまで突き抜けて
島国住人の労苦を思いたい
かつて東北は蝦夷の郷
外からは野蛮と見られた
内からは百八十度
見方は変わる
2024/06/27
「下流老人ですが何か」
老後の生活設計を提案する
ネット記事を読んでいたら
「下流老人」という言葉が見えた
初めて知る言葉だが
すぐに自分のことと理解した
簡単に言えば
生活保護レベルの生活水準に生きる
下層の老人たちを指すらしい
記事ではそうならないための
対策を教えている
ひとつは家族みんなで
健康な生活を心がけろということ
二つ目には
利他を心がけ人脈と関係を築け
そして三つ目には
計画的に資産形成に努めろ
そんなことを語っている
いかにも現代社会に生きる人の
現在的状況や日々の事象を
分析しての発想だが
マスに流通しやすい
世に五万とある見解の
ひとつに過ぎない
そうした見解には不服も不満もない
またそれほどの関心も起きない
「下流老人ですが何か」
と言ってみたいところだ
わたしたちは歴史的現在の
潮流にもその表層にも
現れはしないだろう
見えはしないだろう
そういう意味では
かつての貴族や武士社会の
農奴のような存在かも知れない
彼らの日々の暮らし
日々の考え日々の思いは
考古学の底の
そのまた深部に眠り続けている
けれどもわたしたちには分かる
「下流老人」には分かり
またそれを体現している
わたしたちはそれを
人間の基底にあるものと見なし
日本的な人間性の根幹
根底を形成し
且つ支えるものだと認識する
こう考えるので
わたしは「下流老人」が苦ではない
初めてこの列島に住み着き
以後に渡来する人々を
拒絶せずに迎え入れて共生し
あるいは賓として歓待した
列島の恵みを循環させるかのように
生きた人々の末裔
その証はそういう存在の仕方の中に
名残をそして面影を
留めるばかりだと信じる
「欲しがるものにはくれてやれ」
この島国の豊かな自然の恵みは
差別なく与えることを旨とし
住人もまた人として
それを引き継いだ
人工となった島ではもう
血脈も絶えるだろう
2024/06/26
「自分に同意を求めるための唄」
いつからか
過去は要らないと思った
というより
過去は頭や心にあるもので
それは結局幻である
その幻は変形したり
歪曲されることもある
過去はその程度のものだ
記憶の中で懐かしく感じたり
ふっと記憶に降りてきて
赤面することもあり
それはそれで意味もあるが
しがみついたり
引き摺られたりするほどのことではない
未来のことをあれこれ考えることも
あまりしないようになった
昔は異性と仲良くなりたくて
いろんな想定をし
頭の中のシミュレーションを
たくさんやった
それが功を奏して
結果がよかったためしはあまりない
これも幻で
たいてい考えるだけ無駄だった
未来なんて
思い通りになったことはまずない
頭の中で拵えて
振り回されるのがオチだ
未来を悲観したり
不安に思うのも馬鹿らしい
ある時から
過去も未来も幻想と考えた
どちらにも自分は存在しない
そこには幻しかない
それからあまり気にしなくなった
確かなのは今現在で今をどう生きるか
その一瞬一瞬を
大事と考えるようになった
それで何か生き方が劇的に変わる
と言うわけでも何でもないが
今現在に集中する分
余計なことは考えなくなった
考えてもあまり意味がない
今現在を全力で生きるほかない
となれば良きにつけ悪しきにつけ
一日一日を納得しつつ生きることになる
何がなくても
これでよいと覚悟が出来る
ここを生きると覚悟が出来る
嫌なら別な生き方をすればいい
やりたいようにやる
ただそれだけのことだ
いま息をして
血液を抹消に送り
立ち上がって動き
心で感じ
頭で何かを考えている
こんな面白いものを
生きて体験できて
つまらぬわけがない
とりあえずこの有限は
楽しまなくちゃって考える
2024/06/25
「ひとつの叶わぬ夢」
雇われ仕事を辞めて
これからは好きなことをする
そう思って半年
怠惰に過ごしてきた
好きなことが見つからない
これがひとつ
思いのほか怠惰が苦にならない
これがまたひとつ
もしかして
何もしたくない
本音のところはこれか
それならそれで
好きにすればいい
それが好きだというなら
それで好きなことが出来ているわけだ
妨げるものは何もない
ブラボー
そう受けとって
そう考えてよいわけだ
よそを見ると
何かしなくちゃと考えて
何かしている人がいっぱいいる
何もしないってことは
存外難しいのかも知れない
難しいことを出来ている〈オレ〉
エヘンだ
何もしないんだから
この生き方には意味がない
どうやら価値もないらしい
人の世の常識では
そういう生き方はあまり好まれない
さてどうする
意味や価値の昇華する
そんな生き方に舵を取るか
このままこの大海原に
成り行き任せの遊行を続けるか
この世を意志でもって抗い
誰かの何かの役に立つ
そんな〈命〉にはしたくない
意味もなく価値もない
〈命〉はそうである方が清々する
野生の草木
また動物たちのように
ひとつの叶わぬ夢として
これからの人社会とは
無縁でいたい
世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ
(西行)
2024/06/24
「負の水位」
収集に明け暮れて
意識にたまった負の水位は
もうすぐ背丈を超える
いざとなれば立ち泳ぎする
小さく息を吸う動きだけにして
なるべく消耗を避ける
そうやっていつまで我慢できるか
水草になって呼吸するか
無呼吸のまま眠るか
誰に打ち明けても意味がない
過去からか
未来からのわたしがやって来て
意識の枠を壊すまで
「もういいよ」と告げるまで
負の水位は下がらない
わたしを救えるのは
わたしだけだ
きみを救えるのは
きみだけだ
2024/06/23
「疲れを感じるお年頃」
長い間人間をやって来ると
こころと体と同時にか
あるいは別々にか
金属疲労して
どうしたって以前のようでない
こころには気力がなくなり
細胞の痛みまた不具合も
あちらこちらに広がり始める
ところで
今そう思い
そう記述したことは
本当だろうか
どうも半分本当で
残り半分は嘘のような気がする
嘘の半分は
老いた老いたと暗示にかけて
自分を楽な方へ楽な方へと誘う
隠れたもうひとりの自分の
戦略ではないか
なんならいつだって
もっと自分を焚き付けられる
と考える自分もいる
現に今この時だって
その気になれば
ウォーキングも腹筋も
出来る気がしている
でもすぐにまた
「トカトントン」
スッと気持ちが消えて
こころが白い空洞に充たされる
ああ老いてなお強く生きるには
何かが足りない
「いかりのにがさまた青さ」
自ら葬り否定した
死に向かっての激情
この頃の穏健と相俟って
あんなものやこんなものが
フラッシュ式に交互に明滅する
もうどちらを向いても
カラッカラだ
好天に咲いた
血の気のない
庭の紫陽花みたいに
静かに慈雨を待っている
それでいいのか悪いのか
そんな姿でしかいられない
ただ生きて
疲れを感じるお年頃なのだ
2024/06/22
「どんな書物も手前で終わる」
書物が好きというのは
現実はそんなでも ということ
書物は難しいことでも
理解されやすく書いているが
現実は 言葉も文字も
無作為に飛んだり跳ねたり
頭だけでは理解しにくい
だが よくよく考えると
言葉や文字を持って
現実を封じ込めた書物が
本当に
封じ込めていたか疑わしい
言葉や文字の網に
引っかかった現実だけが
掬い取られただけなのかも
そう考えると
言葉や文字で得られた知識を
信用しすぎたら変だ
現実世界 現実生活世界は
全貌を理解し尽くすことが出来ない
人間の拵え物ではないから
理解し難いところもある
どんな書物も手前で終わる
その先にはまたも
現実が立ちはだかる
同じように理解しにくさがあって
思わず笑ってしまうが
笑ってしまえたら
それが次の段階への
出場通知となる
2024/06/21
「一齣の自問自答」
喧嘩を売られたら
つい買ってしまう
もうそんな歳でもないのに
人見知りとか
引きこもりがちな気質は
反応の仕方に慣れていない
ちょっと気に食わないと
ザワッと反応し色めき立つ
薄手の知識と徳とでは
こんな程度なのかな
何処まで行っても
人格が熟さない
青臭いところは青臭いまんまだ
もっと老いて
ヨボヨボになると
好好爺の笑顔になれるのかな
平気で他人に助けを請えるのかな
金がないから無理かなあ
細い綱の上だからなあ
ゆとりがなく
なんだかいつも
バランスを取ろうと必死だからなあ
驟雨の中で
いつまでも震えている
痩せた野良犬みたいなんだ
ぼくのこころは
すべてを包み込む
力量がない
ここまで来たら仕方ないよなあ
諦めたっていいんじゃないかなあ
「だめだよ」って
自分で言わなかったら
ほかからの声は
もうどこからも届かないし
2024/06/20
「生は死の淵に集まる」
とかくこの世は住みにくい
などと考えていると
何のことはない
昨日今日と
けっこうのほほんとやれている
そう思ってまた油断すると
ずいぶん昔のことで
忘れかけていた懸念が
現実となってこの身を襲う
解の問題を避けたところで
その問題がなくなるわけではない
ただ先延ばしになるだけだ
もちろん対峙しても
解を得られるとは限らない
この世はそんなことに
満ち満ちている
例えばわたしがそうだとすると
きみもそうだろう
あっちのきみとこっちのきみと
無数のきみたちが
同じような問題に直面している
そうして誰も解を持たず
頭の中で頭を抱え
かと思えばのほほんと
テレビドラマやバラエティー
に夢中になり
差し迫る懸念を忘れたりもする
わたしたちにとどめを刺すのは
たいてい高尚な問題などではなく
暮らしの中で板材に触れ
それが棘となるような
些細なことが発端となる
そんな出来事も
地雷のように
あちこちに満ち満ちている
昨日の峠を越え
今日の峠に向かう
誰のせいでもなく
地雷を踏んだら
アディオス
生涯とはそれだけのことかも
案ずるな
生は死の淵に集まる
今日踏まなくともいつか踏む
刻まれる秒の猶予
また明日に出会えたら
そうさその時こそ
覆った世界がそこに現出する
古びた人間の概念が消える
人間の姿が消える
新生のきみが
そこに立つ
2024/06/19
「好戦性についての拙い即興メモ」
好戦的でない国が
好戦的な国によって侵略され
植民地化されたり
併合されたらどんなに悲惨か
そういう話題が
ネットの記事や動画で
燻っていたりする
歴史学・考古学から見て
侵略や戦争は
先史から続く大きなテーマで
地球規模的には
一度も途切れたことがない
ように見える
もちろん科学・理性が重んじられる
現在世界でもそうだ
そこでそういう論議がなくならない
と言うところまでは理解できる
だがいろいろ理屈をつけ
状況証拠を示しながら
最後は概ね
単純な二択にならざるを得ない
やるかやらないかだ
はじめからその手の論議は不毛なのだ
それらは国と国との問題だが
考えると似た問題は
次元や位相は異なるが
個々人にもありそうに思える
好戦的な人も見かければ
非戦的友好的な人もいる
仕掛ける人がいて
仕掛けられると強く反発する人もいる
ほとんど反発しない人もいる
すると 平和時でも
プチ戦争はいくらでも起きている
ということになる
国も人も
大きくは人類というのは
まだまだ野蛮な段階を
通過してはいないのではないか
言葉巧みにきれい事を言うが
その下に鎧を着込んでいる
と言えないか
未だに正解も出なければ
解決の糸口もない
ぼくでさえ日常は
自分を維持するだけに孤軍奮闘
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
という詩の世界からは遙かだ
無為の中に泳ぎ無為の中に沈む
ことを繰り返している
ある意味では
社会に侵略され
植民地化家畜化の一途を辿り
反発し抗うことさえ出来ないでいる
こんなぼくからすれば
国家間の侵略も戦争もすでに
平和時の日常の中に萌芽が見られる
というように見える
自分の個的で私的な好戦性を棚に上げて
侵略や戦争を語るのは
間が抜けている
2024/06/18
「星の人たち」
教育の知はどうしても
現在よりも高いレベルを想定し
低いところに向かうことが出来ない
するとどうしても
精鋭を作り上げることが最終目標になり
非知や無知の落ちこぼれは
はじめから圏外におかれる
詩はどうしても
詩的なものに向かって書かれる
万人にない珠玉のそれを
洗練と高度な技とで表現する
するとどうしても
詩は詩の高みに登ろうとして
非詩的な世界を置き去りにする
はじめに多様で
混沌としたひとつの世界は
宇宙が星々を形成しながら
膨張し続けるように
分野と領域とを
単位を小さくしながら広げていった
ついでに人たちもまた
個を名乗り
星たちの孤独を手に入れた
銀河に属したり
流星群として墜ちていったり
それぞれが
どこでどう始まったのか
分からなくなるほどの
時が経った
行くところまで行ったら
必ず最後が来る
確かなことはひとつ
今のこの時この瞬間に
共存している
ということ
その中で星の人たちは
目を開き
耳を澄まし
愛なのか正義なのか
はたまた有なのか無なのか
言葉か言葉でないものかを
感じ取ろうとしている
2024/06/17
「志」
テレビ・新聞の
ニュースを読んだり聞いたりしない
たまに目次程度のところを
見たり聞いたり
最近は「政治資金規正法」か何かで
「第三者機関」
設置の提案を目にした
詳しくは知らない
知りたくもない
要は政治家の行状が悪い
こんなことが一見大真面目に
国会とか委員会で議論されているなんて
阿呆くさいことこの上ない
自らが危機案件となって
その上嬉々として議論する馬鹿たちも
他人事にしている
自浄力のなさは小学生以下
国会でこんなことを議論するために
政治家になったのかと疑う
さらに「第三者機関」など
自浄作用があれば不要なものを
提案されるに到る
さらに金が無駄にかかる
もうアウト
いくら議論しても無駄
政治家など不要な仕組みに
作り変えないと
明日どうなるか
不安を抱えた国民大衆は
ごまんといるぜ
やっとこ食うだけの暮らし
身を縮め息を凝らし
毎日を綱渡っている
がっかりするんだよ
落胆するんだよ
ニュースを見ると
政治家の不祥事や不始末
その尻拭いが国会の主たる議論だなんて
気は確かか
これがきみたちの現実か
これがきみたちの「志」か
ここから先はもう
誠心誠意自浄に努め
すべての仕組みを壊せ
思いがあれば
道はほかにないと知れ
2024/06/16
「独断と偏見」
何者かである者たちはみな
得意げである
有識者・研究者・学者
それぞれの高みに
自分を引っ張り上げたと思い込んでいる
何者かである者たちはみな
威張っている
政治家・役人・その他の指導者
国や社会や街の設計から運営まで
自分が傑作を作ると意気込む
けれど
何者かである者たちはみな
何かを失い
幻のように薄っぺらになった
空虚の伽藍と同じだ
姿見の中が絢爛豪華なほど
そこに映らないもの
見失ったものが何か
はっきりとする
わたしの独断と偏見によれば
何者にも成れないものは
生まれてからその日まで
ただずっと人間であり
悩みを抱え
人間のままで立ち往生している
それでよい
悩みを絶ち去った
専門人たちなどどうでもよい
どうせ裸身も裸心も墓場に弔い
それさえも忘れがちだ
わたしの関心は逆で
裸身や裸心こそが尊く感じられる
作られたものでない人間が
そこにしかない
と思うからだ
2024/06/15
「『女性』性について」
女性は怖い
奥さんも怖い
考えてみると母親も怖かった
少し巫山戯た言い方をすると
みんな神様みたいで
はじめから勝ち目がない
奥さんが怖いのは
妻であるその人の腕力が凄いとか
言い負かされてしまうと言うのでもない
よく分からないのだが
妻に評価されるそのことが
それ自体でとんでもなく怖い
そう感じてしまっているらしい
母親の怖さは
いつも背後から挙動が見られていて
出てはいけない区画や枠から
出ていると指摘されそうな怖さだ
関係ないでしょと言いたいが
言ってもたぶん無力だ
生きてる時も死んでからも
否定の権限は母親にある
そこは違う
その道は違うよと
常に見られている気がする
ずっと見張られていて
それが怖い
もちろんそれは
こちらが勝手に創造した
想像であると知ったその上で
勝手に怖がっているわけだ
その他の女性は
第三者的なところでは
何ともない
悪口を言われようが
否定的に評されようが
普通に対応できる
けれども一対一の対面となると
とたんに怖くなる
評価の神に化身する
すべてこれらは
本質的にはわたしの思い込みだ
女性たちに責任はない
言って見れば
自分でそうした関係を築き上げて
また自分で怯えている
愚かなものだが
もうこの歳だ
運命的決定的だとは言えよう
いっそすべての女性たちから
異口同音に「死ね」とか
「消えろ」とか言われたら
解放されたり
気が楽になるのかも
相手が男たちだったら
これはもう
死ぬまで戦う
2024/06/14
「夢は夢のまま終わる」
稀に笑顔を作りながら
誰にも確信されないように
できるだけゆっくりと病んでみる
そんな昨日の夢の人の
こころは思い描けないのに
ちぎれそうな痛みだけは
波長に乗ってわたしに届く気がする
そして痛ましさはもっと直接に
わたしを撃ち抜く
何故わたしだけがと
夢の人は言う
だがわたしに言わせれば
けっこうな数だ
夢の中を歩くたびに
前にも後にも
似た人があふれている
もちろん夢の中の
更にまぼろしだから
確証はない
言葉や文字は
夢の感触を伝えねばならなかったはずだ
言葉や文字は
戦わねばならなかったはずだ
言葉や文字は
夢の中の人たちの沈黙や無言を
救済せねばならなかったはずだ
だが言葉や文字は
そんなことには気づかぬふうをして
世のざわめきに加担していた
わたしの見た夢は夢のまま終わる
人の姿の夢を見続け
夢に翻弄され
夢にうなされてきただけだ
もう行く当てもない
瞋恚に変換された
エロスも薄まり
時が急速にノイズを帯びる
「何もなかった」
解答用紙には
そう記すほかない
夢の人々とも
もうすぐお別れが来る
夢は夢のまま終わる
2024/06/13
「世界の顔」
古い言葉捌きが身について
文語の影も落とせずに
もう何を考えたって
追いつかない
しゃがむと地面に蟻が湧いている
これがひとつの方法である
そう見せかけておいて
感知の上昇気流に飛び乗り
鳶や鷲に憑依
鳥瞰からの国家論世界論
非論理的な
察知を試みる
非知でも無知でも
けっこうな自由さである
「追いつかない」とは
謙遜とへりくだり
膨大な資料を読み込んで考えて
出す結論が陳腐な連中とは
わけが違う
誰ひとり振り向きもせず
見向きもされないが
それがよいのだ
師もなく忖度もせず
ひとり豪語と矜恃の中に住まう
水と風と光と香り
それらわずかの要素だけで
世界は知れる
一気に知れる
もうすぐ世界は
わたしひとりのための
顔となる
2024/06/12
「忘れる旅の途次」
くすぶり消えかかる焔に
薪を足して風を送る
これまでならそうするところだが
今はちょっと迷いがでる
燃え続けることが善でもなく
消えることが悪でもない
自然な成り行きに委ねたら
確実に焔はなくなりそうだが
そうとも限らない
燃えて炭化した薪に
適度に風が入り込んで
小さく炭火として燃え続けるかも
消えたとて
小さく燃え続けたとて
消えた とて
小さく燃え続けた とて
どうでもよかろう
まして己の情念や執着などは
自分のさじ加減一つ
これからは
意味ある言葉をひとつずつ
忘れる旅に出る
ここに来てのこれは
光景としては
フグ毒みたいに痺れる
痺れながら
刻々を行くことの〈快〉
その旅の途次
空白の真ん中へ辿り着き
忘れずにいたら
きみに短い便りを書く
2024/06/11
「鏡」
初めて鏡に映った日のことは
記憶にない
中学高校になると
顔を気にして
ずいぶん鏡を覗き込んでいた気がする
それ以前は
あまり気にならなかったか
動物は初めて鏡に映る自分を見ると
驚いて反射的に威嚇するようだ
そういう猫や猿の動画を見たことがある
自分の姿と理解しないのだろう
人間の子どもが初めて鏡を見る時は
どうなんだろうか
また古代に鏡が普及していない頃
初めて鏡で顔を見た人はどうだろうか
よく目にする人たちと似ているから
あまり衝撃はないのか
それとも奇怪と見えたのか
想像するしかないが
そこの想像はあまり広がって行かない
大事件の筈だが
考察自体をほとんど目にしない
水面から客観視を得たものか
客観できる段階で
水面を気にするようになったものか
顔や姿を映して
真剣に何度も見直す時
目がぱっちりしているとか
全身に比して足が長いとか
自分のお気に入りを探している
短所も気になるが
それ以上に長所に強く執心しがちだ
たいていは徒労と不毛に終わるのだが
鏡などないずっと昔は
人は自分の顔について
どんなイメージを持っていたのだろうか
イメージする必要がなく
イメージすることなくいたのだろうか
血縁や集落の評を聞いて
漠然とイメージしていたものだろうか
「かわいい」なんて言われて
その気になれていたなら
とてもよいことだ
鏡は時に残酷だもの
2024/06/10
「存知せざるなり」
直接的な身体移動を伴う生活圏全体と
新聞やテレビやネットが報じる世界と
二つの異なる位相が合算されて
世の中や世間と呼んでいることが多い
ずいぶんと毛色が違う
一方は現実具象的で
もう一方は抽象的で観念的だ
これを一言で世の中と呼ぶことは
どうも違うような気がする
たとえばメディアによる情報では
世の中に犯罪が絶えないと言う
あるいは景気がよいとか悪くなったとか言う
これは憂慮すべき事態と受けとるが
自分の身の回りではどうかというと
目に見えず耳に届かないと言うことが少なくない
世の中はその時
近場とメディアの向こうとで分断されている
世の中が一筋縄では理解できない
日頃そう感じてきているから
世の中の何が善で何が悪かもはっきりしない
何が正義で何が不義だとか
どう生きることがよくて
どんな生き方をしたらよくないだとか
どんなことに価値があって
反対にそんなことには価値がないとか
だんだんと曖昧になってきて
いろんなことが分からなくなってきた
もちろん世の中には
たくさん頭のよい人たちがいて
聞けばいくらでも教えてくれそうだ
しかし大抵「向こう側」の話だ
そしてこの歳になると
そういう言葉はもう聞き飽きた
「総じてもって存知せざるなり」
これからはこれ一本で凌いで行こう
こんにちは
そしてさようなら
辿り着いたのはそんな場所だ
2024/06/09
「小さな幸運」
朝起きて
トイレで用を足すと
よい日になる
というか
よい日だと
心に転写出来る
同じように
パソコンで文字を打ち込んで
泡立つ意識を排泄すると
気分は軽くなり
とりあえず一歩
踏み出せる気になる
こうして遅々とした
一日一日を
小さく積み重ね
ともすれば
甲斐のない暮らし
という思いをなぎ払い
なぎ払うことだけに
その日を送り
ねえ みなさん
自分を追い詰める
意識という奴が一番危ない
暗雲の兆しを感じたら逃げろ
それから逃げて逃げて
時折振り返って
蹴りを一発お見舞いし
また逃げて
何とか逃げ切れたら
それだけで充分だ
体を整えて
気分を整えて
のんびりと午睡もする
今日という
ただこの一日だけを
無事に逃げ切れたら
それが小さな幸運だ
みんなを待たずに
ぼくは今の老後を
そんなふうに生きてみる
2024/06/08
「孟夏の草木に思う」
孟夏のこの期には
滴る緑の草木の勢いも増し
もちろん瞳の中に
さまざまな花々も咲き誇っている
けれどもたぶん
これらの植物たちは
植物たちの中のペットだ
人々の好みで植えられて
それなりに頑張って
見ず知らずの地に根付き
成長もして街を彩る
森の草木は事情が違う
遙かな太古から
幾多の天変地異や
気候変動に翻弄されながら
また世代交代を繰り返しながら
現在に定着した草木たちだ
もちろんこれからも
自然環境の変化次第で
北上したり南下したりすることもあり
そのたびに地や大気との会話
コミュニケーションを
繰り返すのだろう
草木たちも最適さを求めて
地や大気に尋ねながら移動する
そしてその移動は
実に遅々としたものに違いない
わたしたち人間も 昔は
自然環境から地形から
さまざまな情報を得て
移動と定着とを繰り返してきたものだろう
土地に根ざす農業を始めて
定住は本格的になった
だがおそらく昭和の敗戦後
その流れは止まった
若者たちは故郷を離れ
一斉に都市へと向かった
愛玩植物たちのように
初めての地
アスファルトとコンクリートの地に
根付きそして暮らし始めた
地方は過疎の一途を辿り
都市は膨満した
街々に植えられた草木たちは
おそらくは一代限りだ
用が済めば切り倒され刈り取られ
次代に繋ぐことが出来ない
今度は別種が用意されるかも知れない
代替はいくらでも可能なのだ
森の草木はそうではない
以前からの代に倣い
用意された最適地のそこで
周囲との会話もし
情報も伝達し合いながら
自ら芽吹き育って行く
なんとまあ頑なな生き方を
貫いていることだろうか
孟夏に映える草木たちは
森と街と分かちなく
緑滴り花も咲き誇る
けれどよくよく思い巡らせれば
街の草木は一代限りの孤独と自由
人間の手を借りて
輝きもして人間を癒やしもするが
そういうペットの道も
今となっては避けられない
どちらがよくて
どちらが悪いかなど分かりようがない
心の中でだけ
わたしたちもまた然りと
そう呟いておくべきだろうか
2024/06/07
「鏡の人」
趣味は反省の記述と
真っ直ぐに病んだり衰えたりすること
人間には完成がない
灼熱の手前で
生涯の曲線は
いつもゆっくりと逸れていった
何度か口にしたこともある
真っ赤な文字「慕」に
「ただそれだけ」と添えた
それが知っていることのすべてと
こころの中で始まり
こころの中で終わらせていた
その先のことには
責任が持てない
ただ本当のことだけを聞き
本当のことだけを言いたくて
他人をなぞりながら
いつも描線は
乱視のようにずれ続けた
鬱屈が限界を迎えた時
村はずれから都会の下町まで
地に鼻を擦りながら歩いた
喉元までこみ上げた言葉は
唇から漏れる息となって
大気に消え入った
無くなったのではない
消え入って
ぼんやり霧状に停滞した
どこでどうして発症したものか
これは性格や人間性の問題ではなく
病と考える方がよいのではないか
治したくない病
病に分かち難い個性
人は その人の型で自らを深めて行く
そしてほんとうはその時
自分を棺に寄せて行くのだ
だからその人がその人になることは
だれにとっても
大変なことではないのか
気づいた時
または気づかない時
欠陥を露わにして
人は鏡の中に立つ
2024/06/06
「あぶくことば」
国家があるうちは駄目だ
戦争はなくならないし
社会の階層・階級も消滅しない
国家の消滅を前提にしないと
どんなに改革・改善を試みても
これまでと
これからと
たいして代わり映えのしない
社会が続くだけだ
たくさんの優れた知が
社会の現状を憂い
批判をし提案を繰り出しているが
その多くが無効だ
たとえば教育改革みたいに
何もしないよりましだ
くらいの効果しか齎さない改革を進める
それを延々と繰り返して
やったという事実だけが積み重ねられる
やらないと文句を言われるから
とりあえずやる
効果が期待できないのに
無理してやる
何をやるにも財源が必要で
あれにもこれにも
税金がジャブジャブ使われる
新規のサービスのため
協会に組織に人件費に
何年も何年も費やされる
空回りの自転車操業が
国家を膨らませる
事業の実態だ
見たところ
世に優れた知者たちは
これを越えようとしていない
内部から解体しようとするが
成功していない
国家の本質は共同観念
別の言い方をすれば共同幻想で
これを壊滅するに
同じく共同観念・共同幻想をもって
これを制するのが
合理的で効率的だ
国家があって無きがごとくにする
そういう共同観念・共同幻想の発明
具体的に言えば
より国民主権を強化する
憲法の改正
その草案を議論すべきなのだ
憲法の根幹から糺す
正人としての知者
その出現を待望する
2024/06/05
「老いの窓外」
草木や昆虫や犬猫たち
つまり生き物たちからの誘いに
うかうかすると
相当な力で引き寄せられ
溺愛の沼の中に
引きずり込まれそうになる
もうこんな年になると
人への興味は薄くなり
知者の深い思索への驚きも
異性へのエロス的憧れも
同等かそれ以下
逆転現象が起きる
なんだろうか
少し前には気づかなかった
人以外の言葉が
多種多様な生き物たちと同じだけ
縦横無尽と言ってよいほどに
この生の世界にはあふれている
老いたものへの花束みたいに
誘いや憧れを凝縮して
目の前に置かれているそれに
こころ静かに聞き入ろう
それに気づけず
孤独だ寂寥だと
ずいぶんと傲慢なことであった
日影に縮こまる一草一木も
なんと偉大な天才であることか
その身に世界を感知して
答えを出している
見えない言葉
見えない会話で
この世界は繋がっている
2024/06/04
「寂しき夢」
だんだんと言葉が老いて行く
呆けた皺の間を
見知った顔や懐かしい顔が駆け抜ける
夢を追いかけると
老いた言葉の足がもつれる
昨日も一昨日もずっと寂しかった人よ
明日はもっと寂しくそして辛くなる
泣きたかったのは遙か昔
停滞したまんま
回路はすべて絶たれてしまう
先細りの道の半ば
人っ子ひとり通らない境界を越えて行く
雑草と痩せた雑木の隙間を縫って
目指す無人の入り口を探す
姥捨て山の住人はみな
その入り口から
人間以外の生き物の世界へ降りて行った
老いた言葉を捨てて
代わりにうなり声と叫び声と
小さな嘆息とを手に入れる
永遠に
人語とおさらばできるなら
それに越したことはないのだ
人社会は自然とかふつうとかが
もう生きていける場所ではなくなった
押し分けて掻き分けて
そこに生きられるものだけが生きられる
もちろん
そんなことはどうでもよいのだ
狭っ苦しい人社会だけが
生きる場所ではない
魚たちも虫たちも鳥たちも
動物そして草木らも
躊躇いもなく
人間を除いた世界を構築している
これっぽっちも
名残惜しげでいたり
心残りに思ったりしなくていい
いずれ滅びる いずれ死ぬ
その時までの栄華だ
老いたるものは粛々と老い
寂しいものは
寂しさの中に寂しき夢を追え
2024/06/03
「言葉・こころ・頭脳」
人間の生き方についての基本的な考察は、およそ二千年前にはほとんど考え尽くされ体系化されてもいた。中国から伝来した仏教や儒教などは、その筆頭となるもので、それらの教えは我が国の精神文化に多大な影響を与えたと見られる。悪いことをしないとか嘘をつかないとか、あるいは誰とでも仲良くするとかということは自然に身につく部分もあっただろうが、これを体系化出来るまでに突き詰めて考察したのは 仏教や儒教の手柄である。
現在のわたしたちの普段の生活を振り返ると、ある種自主的な形で、自分の言動に制約や規制を働かせて生活していることが知れる。それは精神的な「型」や「枠」が在るためであり、わたしたちのその「型」や「枠」は、もともとを辿ると先の仏教や儒教に強く影響を受けて作られたものだと言える。漢字の伝来とともに、それらの考え方、あるいは教えというものが我が国に輸入され、ある程度の歳月をかけて土着するに到った。
だから見方を変えると、そういう人間の生き方というものについての詰めた考察というものは、この島国の住民の手によって成されたものではない。逆に言えば、我が島国の住民にとってはそうした詰めた考察は必要がなかった。それなしに生活できていたと言えば言えた。
これを外来の第一波と考えれば、言うまでもなく第二波と言えるのは明治期と昭和戦後期の二段階で行われた欧米の文明技術と文化の伝来、輸入である。象徴的に言えば、科学技術のほかに、「愛・自由・平等」などと言った新規の概念、理念の伝来である。これらもまた産地は欧米で、少しずつ日本人に浸透して今日に到っている。
こうしてともかく、わたしたちの祖先は世界思想とか世界宗教といったものは作れなかった。それらは外来のものに依拠した。ただそれらを理解し、内発のものに接ぎながら発展させ拡張する力はあった。
おそらくわたしたちの心は今でも島国特有のものだが、頭脳は外来のもので塗り固められている。「善悪」の考え方一つとっても、そもそも善と悪の言葉、文字は外来のもので、その外来の言葉や文字に強く引きつけられてわたしたちの善悪観は成り立っている。
最近ではごく当たり前のように「愛(あい)」と言う言葉や文字が使われているが、縄文時代からの数千年の歴史の中で考えても、わたしたち日本人の心の中に一度もそうした体験はなかったはずだ。もしもあったとすれば、もともと使っていた言葉で訳せばよいだけで、「かなし」とかがそれに当たる。そうしないで新しく「愛」の文字を当てはめたのは、微妙なずれを感じ取ったからであろう。そうなると今度は言葉や文字である「愛(あい)」の側に心を寄せていくという変なことが起きる。そうして、今では昔からわたしたち日本人にはそういう思いや感情があったかのように、ごく当たり前のように「愛」が叫ばれたりしている。日常生活的には別にそれですんでいるから、格別どうこう言いたいというわけでもないのだが、時折ふと馴染めなさが顔を出す。これに似たことでわたしたちは地域の方言から標準語への変換を経験しているが、今では失ってしまった方言の言葉を時折思い出し、そちらの方が体感的にしっくりくるなあなどと感じ他利している。
歳をとると、しょうもなくこんなことばかり考えたりしてしまうものだ。もっと明るく、前向きなことばかり考えたいのだが、なかなかそう行かないで苦労している。
2024/06/02
「生命についての基礎的なイメージの考察」
生き物の特性は「食と性」と言われる。動物一般の体を体壁系と内臓系とにわけると、これは内臓系の仕事になる。人間の内臓を取り出し、口から肛門までの管、これを単純に腸管と呼べば、真っ直ぐに立てて、これにくっついてぶら下がるのがさまざまな臓器ということになる。
ある意味不思議なことだが、内臓系はみな勝手に動くように決められている。分かりやすいのは心臓で、これは胎児や幼生、幼虫などの時から死に到るまで休みなく動く。止まれ、動け、などの指令によって動くのではない。こうした内臓系の動きや働きはとても植物的だ。
植物も「食と性」を、芽生えた場所から移動せず延々と繰り返している。四肢を持つ動物は移動しながら「食と性」を行う。その違いがある。しかし、生き物的な、必要なものを取り込んで要らなくなったものを排泄すると言うことと、取り込んで得た力を次世代の産出に使うという点では同じだ。つまるところ、種の継続を大きな目的としている。
動植物よりも原初的な生命体の場合は、「食と性」として考えるよりもっと抽象化して「入出」の運動として捉えた方がよいように思える。原初的な生命体と生命体の「入出」が進化して動植物となり、動植物の「食と性」となる、と見ていくと分かりやすい。そしてこの原初の「入出」の運動が、進化の最新版まで変わることなく受け継がれている、と言うようにだ。生き物の特性は「食と性」だが、もっと広く生命の特性と考えた時には「入と出」「入ー出」と考える。するとこれは動物および人間の脳の働き、機能とか作用にまで繋がっていると考えることが出来る。またそう考えると、いろいろと分かりやすくなる。
ところで、このように原初の生命体から振り返って考えてみた時に、動物の世界において、大きく二つの進化の形態が見て取れるように思える。これは直接的な生命の目的からは脇道に逸れるのだが、一つは心臓であり、もうひとつは人間において極端に発達した脳の存在である。そして面白いことに、心臓は内臓系において最も重要な器官として発達したものであり、一方の脳は体壁系において最もよく発達した器官となっている。いわば体壁系の象徴としての脳と、内臓系の象徴としての心臓とが並び立つ。そしてこの二つのどちらかが致命傷を受けても、動物にとっては重大な結果をもたらすことになる。
原初からの生命的な営みは、現在の生物の内臓系に存すると言えるのだが、脳に見られる体壁系の進化もまた生命的な営みを円滑に行うための、引けを取らない重要事である。わたしたち人間は、偏りなくこの二つの系について考察を深めていかなければならないのだと思う。
「無題」
母が死んだとして
始末をつけるのは誰か
医者も僧侶も嫌いだったから
遠い山の稜線まで
風となって運ぶ
もう話しかけないでって
言ったよね カラスが
夕暮れの空を
隠れるように飛んで行く時
不吉のベールが瞳に垂れる
いきなり壁紙を剥がす
みたいに 不用な
母の来歴を
土蔵の隅に埋める
湿った土が爪の間で発酵する
もう人間でいる必要がない
冷たい魚の目をして身を翻すと
蔵の外で
激しく音響が鳴り渡る
もしくは誰かの怒声だ
固く身を縮めても
泣けそうにない
愛と情とがカラッカラに薄い
母が死んだとして
始末をつけるのは誰か
墓も位牌も
それとは違っている
母がいない
母の死も見つからない
生きていないというだけで
世界は景色を変えている
もう人間でいる必要がない
諦めて家路に就くと
みみずの巣窟になっている
腸管が絡み合って
排泄物を分け合っている
懐かしい出自の臭いがする
こう見えるようになったらもう
行くところに行かなければ
治まりが付かない
ほら鉄格子のある場所
体をひとめくりして管状になり
ゆっくりねっとり
絡み合いの中に進んで行く
母の死は
きっとその先にある
2024/05/31
「病んでいるのはお互い様だ」
庭に咲く芍薬の花を覗き込むと
花の芯に顔が隠れている
理由を尋ねると
「いいから」と言って答えない
花びらがすべて散ったら
その顔も堕ちてしまうのだろう
早く飛び出せと言いたいが
説得に自信が持てないので
諦めることにした
病んでいるのはお互い様だ
どうしたら
散って行く花びらと顔とを
能面のように見送ることが出来るのか
散り行くものは散ればいいと
心を動かさずに平らかに
受け止めることが出来るのか
散ることは悪でもないし
朽ちないことが善だということでもない
散らぬことを願うこころの弱くて
つい顔の心情に
憑依されそうになる
今年の芍薬はたいそう美しい
細身の茎の先端に
大ぶりな赤桃色の八重の花
散る時は散る
散るなとは
身勝手な言い草ではないか
ダラダラと回避ばかりの身に
教導の言葉も資格もない
「同情するなら自ら戦え」
声にならない瀕死の声が聞こえる
目をそらし
顔をそむけて
もうこころも閉ざされた
花のない立ち姿まで
せめて見届ける
2024/05/30
「夢の鼻歌」
引きこもりの
引きこもりによる
引きこもりのための
幻想の独立国家を設立する
そのために
まずは住民を募集する
この国家の住民になるための資格は
現在引きこもりであること
今後引きこもろうと考えている者
引きこもることを肯定し
賛同できると考えている者
もっと大まかにゆるやかに
引きこもりが好きな者
気分がよかったのか
勝手に手がこんなことを書き始めた
手が止まったら
その後は何も続かない
ぼんやりとしたイメージだけ
意識の奥に流れている
これだけでは何にもならない
堂々と引きこもれる場
毎日作品や表現
ほかにもいろんなコンテンツを持ち寄って
互いに感想を言い合う
つまり耕作物を持ち寄って
品評したり交換したり
そこに隣国他国から観光客が訪れ
ついでにお金も入ったり出ていったり
ただ好きなことをして
楽しんでいるだけなのに
収入があとから付いてくる
そんな国を作りたいなあ
価値がないような所に
価値の鉱脈が眠っていそうなんだが
ぼくの力ではまだ
掘り返せないな
2024/05/29
「金と成功からのちやほやの世界」
金と成功からのちやほや
現在社会を見渡して
ぼくの目に映るのはそれだ
目に映る時点で
自分もそれを意識しているんだ
と分かる
それでも懸命に
「ぜんぜん」の顔つきを拵える
そうしてこの歳まで辿り着いた
聖人でも偉人でもなく
山ほどの煩悩と葛藤を抱えた
無名の一員に
成れそうなところまで来た
面白くもなんともない
内観からの来し方では
社会的負の領域から
何とか零地点まで
這い上がって来たというところ
自分で自分を評価するとそうなる
それでも少々不出来な
無名者たちの一員
金と成功からのちやほやから
やっと解放されるかというところ
損得勘定からいえば
損な役回りを多く引き受けてきた
何も得したことはなくて
今も重力に逆らい
立っているだけで精一杯
飛ばずに歩いている
金と成功からのちやほやの世界から
墜落した天使はヤバイ
それでも天使は天使だ
天使は救済されるべきだ
負の領域から這い上がった
零地点の一員には
零地点までの這い上がり方は分かる
参考に出来る材料だけは
提供できるし
その声を上げていく
人間の世界は
金と成功からのちやほやだけじゃない
天使たちにはきっと
その弊害も染みている
救出が成されなければ
世界は見えたまんまの世界だ
そうなればきっと
胎児たちも子宮に引きこもる
金と成功からのちやほや
それだけを騒ぎ立てる世界は嫌いだ
影のように
控えめな無名の世界が好きだ
影の領域に光が回り
ほっこりと日向ぼっこする
そんな未来を考えることは楽しい
喜びもあり
たとえわずかでも
笑顔の日も送れる
2024/05/28
「とある知の光景と群盲のぼくらと」
こうなっているものは仕方がないと
すべて受け入れて折り合って行くか
受け入れられないと反発して
既存の解体をもくろむか
後には全否定の海辺に佇む
二つの人影が見える
ひとりは中くらいの墓を建て
ひとりは小さく飾らぬ墓を建てた
違っていても近接し
近いかと思うとそうでもない
ひとりはマニアック受けし
ひとりの受けは全方位的である
最終的にどちらがいいか
どちらの言動に依拠しようかと考えると
主観に頼るしかない
その主観ははじめから決まっているのだが
最終的にどちらかと選択できない
中から変えるか外から変えるか
中から壊すか外から壊すか
究極はその違いで
足の置き場の違いなのだ
けれども
これは余談だが
一つの方法は根こそぎを志向し
もうひとつはそこまでの徹底がない
ひとりは自分を過信しないように戒め
ひとりは極限を超えるよう自分に課している
そのうえでたぶん
この国の列島は
二つの影の格闘によっても微動だにしない
この国の全幻想も
微かに揺れる一瞬を記憶しただけだ
知の巨人でさえ
否定のスタンスに立てば
適当に遇されて終わってしまう
まして取り柄がない者らは
倫理のどん底に苦汁をなめる運命を
避けることが出来ない
ここまで来たらもう
ぼくらのような群盲の徒は
躊躇なしに坂を下って行くだけだ
生真面目な緊張の顔つきをやめて
すがすがしい微笑みのうちに
無名の底に堕ちて行く
不毛と徒労の底に
ぼくらは笑って堕ちて行く
2024/05/27
「最後尾のパトロン」
文字・学問・宗教・科学・芸術・芸能
これらはすべて発生の当初
有力な援助者・庇護者を必要とした
大きなところでは宮廷とか朝廷とか
主に経済的援助や
身分的な後ろ盾がないと成り立たず
以後の発展もなかった
もちろんそれらは
ギブアンドテイクの原則のもと
パトロンのためにも大いに役立ったのだ
援助者や庇護者であった者たちは
ではどうしてそういうことが出来たかと言えば
臣と民とに貢納を強制して
財を獲得し得たからだ
余分となる財をそちらに投入することが出来た
だからもとはと言えば
個々の民からかき集めたものが
文明文化の発展の礎となった
その構造その仕組みは現在にも通底し
社会の基礎を構成する一般の生活者大衆
その存在なしには成り立たない
だから本来なら
大衆の上に君臨するなどおこがましいのだ
文明文化の担い手たちは
細分化する専門性の先端をひた走っている
過剰と思えるほどで制御が効かない
ちょうど若い世代が息せき切って
がむしゃらに夢を追う姿と同じだ
一つに集中するあまり
それが生きることのすべてで
価値ある生き方を体現していると思ったりする
それはそれでよい
放射状に輝いて飛んで飛び切りになる
それを本望とするならそれでよい
ここからが難しいところで
だからこそ大事なところだが
輝くものを羨まないということ
この世界で最も偉大な
最後尾のパトロンであることを
無名を生きるものの矜恃として持ち続けること
ひけらかさず
優位を欲しがらず
現実が強いてくるものと自分とを引き受けて
言葉少ない生活に降りて行く
もしもそれが苦でなくなったとしたら
わたしたちはそうしよう
2024/05/26
「反転のための注」
先行きへの不安について
わたしは無力である
不安を消すことも出来なければ
解決策も見出せない
この歳までずっと引きずってきた
そうしてここまで来たら
これからも続くんだろうと
それが当然なんだろうと
思うようになった
悩んでも苦しんでも
これは生涯なくならない
少し遅すぎたかも知れないが
これはもう受け入れたり
どこかで折り合いをつけなくちゃいかん
とまあそういうことだ
生涯かけて
何もしなかった
何も出来なかった
それでもいいのではないか
そのほうがよかったのではないか
と思ったりもする
この世界は
成功者の
成功者による
成功者のための世界
であるかのように見える
だが本当を言えば
成功者というカテゴリー自体
そもそもが如何わしい上に
成功も陳腐であり俗的だ
仕組みやシステムによって
大したことのように
見えるだけだ
本当に偉大なのはそこではない
言葉に出来ない
まだるっこしさはあるが
無名の間の奥のまた奥に
偉大は隠れてじっとしている
成功者は成功に到る過程を
安易にコメントしていい気になりがちだ
それは失笑するくらいに無である
何も知らないことの反転だ
本当に偉大に近いのは
無名の人々であり
今日から明日への展望の何もない
そういう人たちこそ
不安から恐怖までの経験を
こころを全開にしながら
皆に語って聞かせればよいのだ
それらの言葉はきっと
人間らしさの宝庫だ
人間の
人間による
人間のための世界
の端緒がその先に見える
今何者でもないことは
誇ってよい
反転すれば
そういうことになる
2024/05/25
「ぼくならだいじょうぶだ」
どこで道を間違えたか
間違えなかったか
量販店のエスカレーターで
上下にすれ違う
老夫婦がいて聞いた
『笑顔で過ごせ』
と懐かしい声がした
左にガラス張りの大きな窓
遠く船形連峰の山々が
透かして見える
それは多分そういうことになる
言葉はそういうもので
自然の中に散骨され
海へと運ばれて行く
半分は海水に
半分は蒸発して
雨の中に含まれる
沈黙の堆積量は不変で
わたしたちを襲った
いくつもの
あの日が横たわる
「死」の言葉を
使い間違えたらお終いだ
笑おうとして笑わない顔が
明日にはぎこちなく
ゆがんだ笑いに
なるとよい
それを決めるのは成り行きで
身を投じて茨を行く
悲痛に出会ったら隈無く拾う
『ぼくならだいじょうぶだ』
間違えても間違えなくても
道は道だ
わたしひとりの
過去と未来だ
手中には霊
生身には空蝉の術
ぼくだけは
倒れられない
2024/05/24
「個の曲線はこうして辿る」
「大変お世話になりました」
そう言って
上着を脱ぎ捨ててから
半年近く経った
この軽装や身軽さに
やっと慣れてきた
一日を素のままで過ごすなんて
素に籠もって暮らすなんて
いつ以来のことか
いざこんなふうになると
居場所がなくなる不安
それを感じてしまうくらい
袖すり合いながら
長く人群れの中に暮らした
そのせいか
あまりにも長く強く
人間関係だけが
人の住む場と錯覚した
素に引きこもる今
関係の網の目から外れて
むかし
人との距離は
こうだったと思い返す
村落の隣家の
声も物音も聞こえぬ距離
友らと遊び興じたあと
ひとり河辺に走り
釣り糸を垂れた
田んぼの脇の用水路に
泥鰌取りの罠を仕掛けた
どう言えばいい
単調ではなかった
人間界と自然界は
ほどよく隣接し
片方に飽きたら
いつでももうひとつに
逃げ込めたのだ
あるいは夢中になって
忘れたいことを忘れられた
力も抜けた
気も抜けて固まらぬ
こういう暮らしは悪くない
人に頼り切る暮らしは危ない
当てにしては裏切られ
当てにされては裏切る
人間は彼我ともに
そんなに優れてはいない
適度に離れてちょうどよい
地図を広げ
老いの時間の中を
もっとゆっくり
間に合わぬほどにゆっくりと
まぼろしの旅は
旅されなければならない
この人から去らなければと
こころが
こころに決めるまでは
2024/05/23
「彼らに畏れおののくな」
文字・学問の類い
芸能・芸術そして宗教と
あらゆる文化・教養の類いはすべて
常に何事かであるように
何事かを語り聞かせる
いい気なものだ
盛んになればなるほど
不耕貪食の現代版は
世を巻き込んで席巻する
いかにもの言は
けれども
いまだかつて
この社会から
貧しさも気の病みも
取り除いたりしていない
モグラ叩きゲームに
延々興じているだけだ
世の騒乱も混乱も
治まるどころか悪化して
気づいてみれば
おのれの名声を高くしたばかり
生涯の真摯な働きかけは
ただ私利私欲に紛う着地
彼らの仕儀は無力だ
と言う自覚もなければ
恥じらいもない
「唾し はぎしりゆききする」
ひとりの修羅がいるならば
「いかりのにがさまた青さ」
威嚇の言葉吐き散らし
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
と唄うだろう
祈りも願いも届かない
この世界はそう言う仕儀になっている
善や愛を叫ぶほど
世界は沼度を増して行く
誰も責任を
取ろうとしない
痛感していない
だから小さなやさしい群れよ
項垂れるな
彼らに畏れおののくな
2024/05/22
「非知界を渡る」
空の中の
また雲の中に浮かび
峰を駆け下りる
冷気の顔つきに染まり
岩場の清流から大河の河口へと
ただ時を流れる
海には行けぬ
さてそれでどうする
今さら知界に
降りては行かぬ
戻れるわけもない
漂うものは
人知れず漂う
漂うものに紛れ
漂いの中に漂う
もう
苦しく考えなくても
さっと見切れる
おそらくは
それだけでいいのだ
すべてのものを透過し
すべてのものから
透過されるものでありたくて
別れたい
すべてのものと別れ
凪いだ大洋のど真ん中で
驟雨に沈む
海へ
父と母とのもとへ
その時はもう
すべてから去っていよう
それだけのために
それだけのために
時を 渡ってきた
2024/05/21
「地獄は一定すみかぞかし」
天国と地獄でひとつ
天と地でひとつ
世界はどちらかでは無い
二つで一つ
一つが天国の顔つきをする時もあれば
地獄の顔つきを見せる時もある
鎌倉時代の独りの宗祖は
「地獄は一定すみかぞかし」
と語っている
地獄を強調すると共に
意志的に地獄を選択している
とも見える
令和の時代に
「自分は地獄を抱えている」
と公言する人はまずいない
この時代では
特に家族関係に
誰もが地獄を見ている筈だが
隠したり断ち切ったりして
周囲には見せない
あるいはそうでない振りをしたり
自分に自分で嘘をついて
そんなものはないと
言い聞かせたりもする
この世界では誰もが地獄を体験する
それが当たり前だ
それから当たり前に天国も体験する
なぜなら天国と地獄で世界だからだ
地獄だけというのもなければ
天国だけというのもない
恋愛だったり会社の人間関係だったり
いつでもどこでも
どっちに転んでもおかしくない
そういうところに
人は生きている
言ってみたいことは
誰でも地獄を経験しているよということ
現に今地獄にいると実感している人も
それは「自分だけ」じゃなく
ただ言っていないだけで
目の前を通過する人もみんな同じで
地獄を抱えている
あるいはこれから抱える人たちだ
今地獄の渦中にあっても
悲観する必要はない
逆に悲観すると
地獄の度合いが濃くなる
寝ると地獄からも天国からも離れる
死ねば永遠に離れる
この事が示唆するものは何か
よくよく考えたらよい
「地獄は一定すみかぞかし」とは
そんなものとして
人生を味わってみるという選択
またその決意と覚悟
心を一つ跳ね上げて
つぶさに見るに徹したら
それはそれで
身過ぎ世過ぎの仕方とはなる
2024/05/20
「暇つぶし考」
二週間に一度
県の図書館に出かける
二冊の本を返し
同じ二冊の本を借りる
そのやりとりを繰り返している
三ヶ月ほど経つが
二冊とも二週間で2、3ページ
進むか進まないかだ
表層的には酩酊状態で
覚醒の仕儀ではない
それは分かっている
それでいいのだ
読みたくなったら読む
そう決めて
読みたくなる時がない
インターネット上の
記事を読んだり
気になるドラマや
ほかの動画を見ることが多い
その方が楽で
暇つぶしには優れている
昔はそれが読書だったが
同じ暇つぶしでも
楽な方に傾くし
文字だけよりも
刺激が多様で面白い
情報量も多くて
ためになる度合いだって
考えようにもよるが
互角以上かも知れない
一冊は詩集
一冊は思想書
バラエティー番組や
ドラマ以上に
文字を読むことで
高揚できていたあの頃とは
何もかも違ってしまった
そういう流れなんだと
そこは抗うこともなく
時を降って行く
2024/05/19
「タイトルは『萎える』」
過剰なサービスは
コストも膨れる
新規のサービスを
ひとつ立ち上げようとすれば
事前の準備やキャンペーン
新たなスタッフの採用
財源の調達
いろいろある
いったん出来てしまうと
今度は維持することが大変
そのうえそのサービスの
需要がなかったり
効果的でなかったりすると
要するに投資の無駄遣い
的なことになる
我が街と近隣の街の
市役所や町役場の建物は
やけに近代的だし
大きくて立派だ
それを見るだけで心が萎える
この頃は
部屋に籠もって
よくタバコを吸う
三十本から四十本
多いと五百八十円が二箱
一日千円でも
ひと月で三万円
そのうち税金は一万八千円くらい
一年だと十万超え
それも 過剰で
余計なサービスや団体の
補助や維持に使われる
職場環境の
改善快適にも資するかも
普通に嗜好品だった頃からは
予測できなかった変化
極微の戦前と戦後に萎える
子どもに勉強を教えると
学校や教育委員会
そして文科省が大きくなる
地域の公共サービスが
あれもこれもと増えていくと
どんどん役場が立派になる
「よいことがある」
と言う大きな声の裏には
必ず嫌なことが
隠れている
公共サービスは
実によく出来たビジネスだ
市民の生活に資すると言いながら
市民生活よりも
提供母体がより充実していく
従事者たちの生活が
順調に豊かになる
「豊かな街作り」って
多分そう言うことだ
地下水をくみ上げるように
どこからでも吸い上げる
吸い上げられる方の生活は
次第に萎える
どいつもこいつも善人になりたくて
善を行いながら豊かにも成れる
そういうシステムが大好きだ
人の嗜好を邪魔しても
善を行えたらそれでよい
善の好きな善人に
「禁善」を課したら
わめき散らすだろうな
たちが悪くて萎える
2024/05/18
「癇癪が止まらない」
むかし一篇の詩を
毎日または断続的に
十年かけて
読みまた考えたことがある
息継ぎと声調について
もう変わりようがない
と言うところまで繰り返して
終わった
あれから
そんな詩に
二度と出会うことがなかった
粗削りで
未熟さも散見されたが
ストリートファイターみたいに
仁王立ちして
かかって来いと手招きしている
そういう挑戦的な詩であった
今も昔も
優れた詩としての表現や
愛誦される詩も
あることはあるが
どうだろう
そうした上質さ
高級さというものに
わたしはあまり惹かれない
どんな詩も
十回を超えて読み直すことは稀だ
その時のその一篇を除いて
『固有時との対話』
読み解くのに
長編小説より時間をかけ
今なお明確に理解し切れていない
始末が出来たとは
思えていない
あれから五十余年
わたしには格別の一篇
問いも応答も
無限に広がるばかりの抽象
十年の直接対話に耐え
なおも問うことを喚起させる
動的で懐深い詩
そういう詩をかく詩人は
今もいるか
そういう詩は
もちろん現在に見合う構成でだが
どこかで書かれているか
さみしいことに
わたしの全ての趣味の詩は
その一篇の詩の重さに
比し得ない
さみしいことに
圧倒的なあの詩の重量に
その後再び出会えた
というためしもない
とうの昔に了解済みだが
こんなふうに安っぽい
一篇を成すたびに
あるいはまた
詩の界隈を横切るたびに
本当は今も癇癪が止まらない
2024/05/17
「50の人よ」
30代後半から
毎日『そろそろかな』と
身体に問いかけながら
今年の2月に
73歳となった
少しも『そろそろ』は
やって来なかったのだが
現在でも
何かというと
『そろそろかな』と
呟く自分がいる
50の人よ
すでに大きな夢を
若くして叶えてしまった人も
若くして夢破れ
境界に佇む人も
さて これまでと
おんなじ50年のスタートライが
きみたちの目の前にある
ぼくらの時代は
人生50年が相場
それが今は100年
50の人よ
もしかすると
『そろそろかな』と
考え続けている人よ
ぼくに言わせれば
『そろそろかな』の
『そろそろ』は
いつまで経っても
来ないものだ
でなければ
不意を突いてやってきて
その時はお終いになる
さて 50の人よ
これまでの生涯と
同じ歳月が
目の前にあるとして
これからのその歳月を
きみはどう生きようとするだろうか
ゆるやかな延長としてか
もっと強く歯を食いしばってか
あるいは過去の自分を
葬るようにしてか
50の人よ
ぼくはもう
この大海に座礁した
言葉の破片をすくい上げ
乾かして
紙の上に整理する
だけで精一杯だ
配達までは手が回らない
だからいいか
自分の言葉は
リュックひとつに
まとめておけ
何が何でも座礁はするな
2024/05/16
「まといつく泥濘」
大気の底も
清流の底も
たいてい底という底には
泥や澱が堆積している
そっとしておいて
上澄みを掬えば
生活用水にもなり
地表に学校も建てられる
けれども上流から下流
標高数千からゼロ地点まで
泥や澱がない所はなくて
出来た学校の土台に
教室の床下に
社会の泥も澱も
積もり積もっている
という道理だ
浮いた言葉と勉強と
廊下や校庭を走る子らの足
まといつく泥濘
はじめから悩ましく
変だと
感知するのがヒト
地上を闊歩した
末裔の足が
気づかぬわけがない
それでもと言うべきか
それだから
と言うべきか
まといついた泥濘は
「あかいとりことり」
やがて上澄みにまで拡散して
社会的という層に
澱となって沈む
貧と富との間に
上と下との間
清と濁との間
尊と卑との間
陽と陰との間
人と人との間に差し込まれ
心と体のろくろっ首
魑魅魍魎の
安穏と均衡
そんな自画像に
もうだれも
気づけやしないさ
これから先は
人間は美しいと
自己欺瞞して
生きて行くほかはない
2024/05/15
「終焉のない舞台」
原っぱから帰還した子の
手と一緒に石けんを泡立て
水ですすいでやった
あの日の記憶は
息をいっぱい吸って
長い間夜を徹して
くぐり続けないと
辿り着かない
雪と氷の冬は
小さなモミジに
ひとつずつ
手袋をかけた
大きめの長靴で
コタンコタンと
駆けて行くのも
あの原っぱ
ずいぶんと奥にしまわれた
懐かしく幸福な記憶ほど
重なる層の最下層に
大切に保管されるものか
時折鍵を開け
丁寧に広げてみる
という余裕も
あるかないか危なっかしい
未踏の老いはまだ青臭く
鏡の前でこっそりと
ファイティングポーズをとる
ギラギラした目で
老いることさえ阻止されて
懐かし記憶も
隠居の様な振る舞いも許されず
長生きの分をただ
若くあるようにと努力する
脅迫じみた老後は
なんだかかわいそうだ
往きと還りの境で
ブレ続けて
縋るべき範もない
差し迫る他界の入り口で
ただ慌てふためく
このままでは
人間界の外へ
人間の外へ
連れて行かれそうな
そういう気もしたりする
終焉のない舞台に
戸惑いを隠せないまま立ち続け
よく晴れた日に
何処ともなく
旅立とうとしている
不思議なことに
心には
少年の姿がある
2024/05/14
「おとぎばなし」
乳幼児期に宇宙人から「ゲンゴ」を
埋め込まれたわたしたちの「ソセン」は
それ以降すっかり「ゲンゴ」に侵略され
「ゲンゴ」はわたしたちの生命と
不可分になった
「ワレワレハウチュウジンダ」と時折
わたしたちが巫山戯てそう口にするのは
あながち嘘偽りと言って片づけられない
地球に侵略し地球を征服する初期の使命を
わたしたちはふだん
意識してやっていることとは別に
「ゲンゴ」的という仕方で
やってきたのではないか
わたしたちがふと世界を見渡す時
この世界を破壊に導く歴史が
フラッシュバックするように
思い起こされる時がある
たぶん埋め込まれた「ゲンゴ」の
動作不良や回路の異常によるのだが
日常の意識の下で
わたしたちが気づかぬ
何かの活動が繰り返されているらしい
大昔に「ニンゲン」と呼ばれていた
わたしたちは今
急激に「ゲンゴ」に特化した
「ゲンゴ」を食べ「ゲンゴ」を飲み
「ゲンゴ」の「オトコ」と「オンナ」が
「ゲンゴ」様に性交する
全ての物質物体も「ゲンゴ」化され
地球から宇宙の隅々に到るまで
物的世界は崩壊し
「ゲンゴ」がとって代わろうとする
「ゲンゴ」が
宇宙の覇者になってしまうのだ
すでにわたしたちも
「ゲンゴ」に乗っ取られてしまい
わたしの主体はわたしではなくなっている
そんなわたしたちが言うのは
決まって否定できない正当な文言
つまり「ゲンゴ」だ
その時わたしたちは
非「ゲンゴ」的な領域で
もううんざりだ
という顔つきでいるはずだ
2024/05/13
「達磨さんの警告」
手も足も出ない
達磨さんになったが
ほんとは昔からこうだった
昨日までの手足は
仕事をし
家族を持つことで作り出した
幻影の四肢だ
世の中での立ち回りに
ぎこちなさがあったのは
そのためだ
そうやって
人並みに生きている
振りをしていた
そうやっていることで
最低限の存在意義を
自他に向けて
納得させていた
納得させようとしていた
のかも知れない
無職になり
身を引く形になってみると
趣味の詩をかく以外
何の執着も無い
つまりは昔も今も
達磨さんで
こんなことをする
そんなことがしたい
そういう何ものもない
だからもう幻肢は無用で
倒れた振りも要らない
幻の手足の労苦なんか
語っても意味がない
隠さず言えばつまらぬ老後だ
ゴルフも山登りも
やる気がしないし
生涯学習にも興味が無い
なので一人達磨さんごっこ
ビルほどに高い時間との対峙
空白の光景からの読み取り
小突かれて前後左右
起き上がり小法師の日々
せめて若い人に警告しよう
自分が何をしたいのか
やりたいことだけをやり
好きなことだけをして
若い時から老後まで通して
楽しくやれることを
やりきるのがよい
ぼくのようでは駄目だ
達磨さんになっては駄目だ
2024/05/12
「とあるイメージの唄」
犬猫にも
脊椎動物約五億年の
進化の歴史が埋め込まれ
それを携えた上で
それぞれの種の末裔として
そこに存在している
もちろん
生命の起源から数えると
約四十億年という
途方もない時間と
その中での進化と
活動の経過を経なければ
今ここに存在してはいない
生命の誕生が奇跡的というなら
原初に繋がりつつ
多様化しながら
現在に生誕する
と言うこともまた奇跡的だ
生きとし生けるものの
由緒、出自は
原初の細胞から派生し
わずかな種から発生している
源は共通だと
言っても良いくらいのものだ
わたしたちの誕生には
五億年と
更に遡って四十億年という
長い長い時間の経過が
必要だった
それが無かったら
わたしたちは誕生していない
他の動物や植物も同じで
由緒ある四十億年の
歴史的経過を踏まえ
しかもありふれて
いま そこに存在している
つまり考えてみると
どんな小さな虫にも
歳月が地層のように埋め込まれているし
その歳月のもとに
現在に適応する姿で
そこに生きている
そしてわたしたち人間も
同じということ
こういう見方をすると
社会に飛び交うさまざまな情報
人間の考えから観念から
地球という生命世界からすれば
異質で邪魔なもの
という気がする
あるいは使い方を間違っている
のではないか
全て40億年の
由緒ある生き物たちを
ぞんざいに考えてはなるまい
この世界は生きにくいとか
辛く苦しく悲しいばかりだ
と思わせてはなるまい
2024/05/11
「老いの手探り」
用事も強制もなくなれば
ただ時間に向き合うだけになる
動物や植物は
己を維持するだけに忙しい
人間の老人は年金で
とりあえず背中を丸め
ひっそり暮らしていれば
何とかなるが
そのぶん時間が間延びして
ひたすら眺めて向き合って
気がつくと
しなければならない
何事もない
一日中
時間に抱きつかれると
飽きてしまう
そのうち苦しくなる
なので
つい逃げたり
隠れたりしてしまう
テレビや動画を見るとか
掃除洗濯をするとか
緩衝材をプチプチするとか
諦めて
本を読んだり
趣味の詩を書いたり
そうこうして
またしても
時間に向き合うこととなる
逃げたいけど逃げられない
逃げられないけど逃げたい
そんなもんで一日を
何とか潰して
次の日に駆け込んで
年寄りの
十人に一人くらいは
大抵こんなだ
ちょっと気短な奴は
急ぎ滑り込む
それを見て
用心に用心を重ねる
小心者もいれば
厚化粧して
年齢詐称のウスッペラもいる
それでもけっこう生真面目に
手探りで それぞれに
老いの姿を探っている
ここから先は
これまでの経験と知識とで
未知を開拓して行く手筈だが
いまだにどうも
太刀打ちできそうにない
おそらくはまだ少し
準備不足の世代だ
その意味でも
真価はこれからだ
ゴールもこの先だ
先は長いぜベイビー
徒労と不毛のどん底から
そのまた底に向かって
ロックオン
逐次の経過報告は
このチャンネルで
みんな
チャンネル登録と
「いいね」を
ヨロシク
2024/05/10
「ささやかに祝福する」
痛みも傷も
血さえ流れぬ戦いの最中
スローモーに
頽れ行く
透明な身の丈
爽やかな五月の
光と影と風の密室
気づかぬうちに切迫する
セメントと水と砂利
を 混ぜ合わせる
知らぬ間に
出来上がっていた人型
一方通行の先の必然
あっけなく抜き取られる
言葉の口
声と涙と心と
第一章終章
「詰んだ」
に嘘と偽りはない
赤飯炊いてお祝いしよう
地上は至る所
倒れる身体にとっての
最終の場だ
あとにはもう
どん底の底を掘るように
進退は窮まり
選択肢は失われ
心置きなく
風の水路を下って行ける
自分を去らなければと呟く
もうひとりの自分が
目の前に
誕生するのだ
祝福せねば
2024/05/09
「高度文明における野蛮な心性」
敵は排除する
役に立たぬものも排除する
超高度経済文明の
最先鋒は
約めて言えばそれだ
帰納するところは
排除する極少と
排除される大多数だ
だが
そんな未来が
成り立つはずがない
人の生誕には責任がない
意志がなく誕生する
それが全てのはじまりだ
先天的な心や体の不具合
後天的な経験と学習からの
了解と関係づけの不具合
いずれも
全ての責任を
個に負わせることは酷だし
適切なことではない
それらにはどこまでも
自然性がついて回る
技術文明やAI的手法では
補助的で近似的な解決策しか
不可能である
そもそもの
排除の指向性と論理が
歴史の過ちを刻んできた
人間は自身を虫けらか神仏か
過小か過剰に見て
等身大で見ることは稀だ
そして本当は
虫けらと神仏と人間とは
同列におくべきものだ
自然生成の人間を
超技術文明といえど創生し得ない
つまり元々が自然ベースの世界で
自然を排除して成る超文明は
はじめから偏奇なのだ
人は役立つように
生まれたのでもなければ
幸福に過ごすために
生まれたというのでもない
種として生まれて
種としての「我欲」を継承して
生きて行くだけのものだ
文明はノアの箱舟に乗って
先へと急ぐ
それに乗り損ねたからと言って
憂い嘆くには及ばない
文明など進むに任せればいいのだ
排除される側の大多数は
期せずして
すでに文明のロケットから
切り離されて牽引されることもない
経済合理性の彼岸に
革命を待たずして着地する
依然として
現在でも大事なことは
虚心に見て聞いて感じること
それをもとに思考すること
反対に最も駄目なのは
たとえて言えば
成年から壮年にかけての
人的活動の最盛期に
人間的価値が集約される
と考えることだ
言うまでもなく
人間の価値は
有用性や生産性で
計られるものではない
そう考えるとすれば
歴史的現在にありながら
甚だしく原始に近い
それは
野蛮な心性というものだ
2024/05/08
「秘技伝承の唄」
言葉を交わさなくとも
視野の端っこ
そのまた隅っこには居たい
朝の光となって
窓を開く時も
夕べに傷ついて
影のように心項垂れる時も
ただその微かな
あなたの信号を感じ
感じているものが
傍らにあると知らしめる
もうひとつの
信号となる
時は こんなにも駆け足で
置いてけぼりにする
胸にまで上がった水位は
やがて胸を越すだろう
否定したくても
難儀はますばかりだ
五月の人よ
いますぐ
心の向きを変えるのがよい
世界が一変して
いけないという理由はない
そうして
何も変わらぬ世界から
別次元に躍り出て
朝に窓を開き
夕べに窓を閉める
そのように
人は人の生きる様を
変えようがないと知る
言葉を交わさなくとも
視野の端っこ
そのまた隅っこには居たい
五月の人よ
逆さまに生き
逆さまに
死んでいこうとする
幻の人よ
境界をすり抜けて
自由に往来する
秘技の孤独に耐えられたら
わたしたちはきっと
無事だ
2024/05/07
「いのち」
どうしてこんなに詩を書き続けて
詩を上手く書けないんだろう
上手くなろうとしなかったから
どうしてこんなに働いたのに
裕福になれなかったんだろう
もらった先から散財したから
どうしてだろう
寝る間を惜しんで考えて来たのに
嘘偽りのない言動に徹してきたのに
自利に就かず
損得なしに
外部に対してはすべて公正に努め
権威権力に屈することを嫌い
上下・善悪・尊卑の二別を憎み
弱者・敗者を排出する社会は
誤った社会だと知らしめようとし
それやこれやに
それやこれやと関わってきて
気がつくと
圏外に弾き飛ばされている
飛ばされている
本来ならここでしおらしく
魂の寒い姿
あるいは涙や弱音など
語ってみるのもひとつだが
そうはしない
こんな事態は序の口
また自明のこと
心に『クソッタレ』と叫んで
明日もまた変わりなく
「徒労」と「不毛」の軌跡を
「小夜の中山」を
越えて行く
老いてなお
圏外に弾かれてなお
老体老醜の
歩む術もある
道に同行の人
すれ違う人があれば
わたしを見て
きっとこう呟く
『歳をとったからと言って
あんなわがままは許されまい
身内の迷惑はどんなか
きっと考えもしないのだろう
あんなふうには成りたくない
成る気もない』
2024/05/06
「CMの家庭像は標準語」
テレビCMで
理想の家庭が提示されているように
感じられる時
視聴者は
自分の家庭に欠如するものがある
と思ったり
あんな親や子どもでいたい
と考えたりする
つまりCMは
誰もが望むような幸福な家庭像
あるいは誰も否定しきれない
家庭像というものを
創造的に音と映像を組み合わせ
拵えあげている
CMが終わっても
余韻としての理想像は
いつまでも残る
手の届きそうな憧れが誘引され
生活の影も背景もない人物たちが
笑顔を振りまいている
中身は充分に空っぽなのだが
きらめく誘いの力は
強くそして奥深い
標準語のような現代生活
地方語
方言
訛り
などを廃した仕方に似る
どちらも合理的効率的に
中央集権を目指す
社会と国家にとっては
必須であり
必然でもあったのであろう
そういう意味では
上手く成し遂げた
ぼくらはまんまとやられたし
これからも
やられていくのであろう
抗うすべも尽きた
自ら進んで向かう
標準語とCMの世界
批評の言葉はどこかに消えたか
まんまと消されたか
「検証を要する」と
AIが教えてくる
2024/05/05
「ゴールデンウィークに思う」
若い頃に子を連れて
何度か訪れたことがある
行楽の湖畔公園の賑わい
俯瞰で見ると
昔物語の極楽浄土
ほどよく種々の花々に
埋め尽くされ
隙間に列を作り行儀よく
老若男女が楽しげに歩いている
この国のリーダーたちの
ある種理想の一面が
現実化されたみたいな
文句のつけようのない到達
五月初めの光と風と
こういう光景を見せられれば
こういう光景の中に
手を繋いで歩けば
資本主義や民主主義が
人々に支持される
その理由がよく分かる
ここでは 享楽に現を抜かすことが
よいことなのだ
けれども帰り道
わたしなどの心の奥底は
いつも悩ましい
昨日の
貧しさの中に
うつろな目をした
あの子はどうしているだろうか
のっぴきならない不遇に
手も足も出ない
人と世を忌むあの若者は
そんなことを考えて
考えて考えて
その先に行けない
歴史的な時空の英知の
現在がその終結と考えれば
偉人聖人天才たちに比し
わたしには憂えたり
そもそも考える資格さえ
与えられていないと思える
無駄と無意味を積み重ねて
積み重ねて積み重ねて
その代償のように
周囲の大気は殊更薄くなった
もちろんそんなことは
どうでもよくて
ただ透明であることの
非力が辛い
と感じている
2024/05/04
「心を刈る言葉」
一粒の種から生えた
雑草の一本が
庭の手入れで引き抜かれ
乾涸らびて終える
人間の時間で数日の命だ
その命とわたしと
捨象と抽象の
どこかの段階では
どうしても
同じということになる
わたしからすれば
儚く感じたり
無意味無価値に思えたりするが
もしも仏や神がいて
そちらから見れば
わたしもまた
そうした雑草の一本と違わない
命には
それぞれに時間が課されていて
内的に また外的に
終焉の契機が巡っている
足掻いても
諦めて覚悟しても
ほんとの動きは
人為人知を超える
成り行きによる
他も然り
乾涸らびる一本の草に
人間の心があれば酷だ
わたしたちに
心があるというのも酷だ
なので 切に願う
きみの心を刈る
そういう言葉に
わたしはなりたい
2024/05/03
「理の外に生きる」
褒められもせず苦にもされない
格別の善行も悪行もない
さしたる仕事上の業績もなければ
懲罰に価する何事もない
まあ言ってみれば
すべてに差し障りのない
そういうありきたりの
普通の
透明人間じみた生き方をしていたら
逆説でも何でもなく
一番理想的な生き方と言える
胸を張ってニコニコして
日々の大気を身に浴びて過ごせば
なおさらよい
どんなに考えても
どうにも出来ないことがたくさんある
生きるということは
そういう世界に生きるということ
どうしようもない圧に
身を屈したり
引きこもったりもしながら
いざとなったら
喉から手を入れて
体をひっくり返すように魂を引っ張り出し
世間の目に晒して見せてやればいいのだ
生涯にたった一度
クセになったら二度三度
いや何度でも
たいていの人の魂は
鎧の下に隠されていて
生きることは伏せることだと
みんな考えている
それを反転させたら一瞬で凍り付く
そんな形で見返したら
誰も何も言えない
それが急所だ
いいか
そうやって
すべてをさらけ出す覚悟が出来たら
あとはただ昨日までのように寂びかに
普通に向かって
生存の軌跡を微調整して行くだけだ
それが普通
人間に内在する自然
姿を消すまで数十年
人間社会に厭いたり忌んだりしたら
その奥その先の
自然を念え
人としての自然を念え
2024/05/02
「人生の大事に向かう」
学問とか芸術とか
仕事とか修行とかを免罪符に
いい加減に暮らしたり
綻びや修繕すべきところを
怠ったりしていては駄目だな
考えてみれば
ほんとに難しいのはそういうところだ
もちろんぼくなんかは
すべてが中途半端で
通信票なら「よくできた」はひとつもない
5段階なら1から3を行ったり来たりか
とても悩ましい
やり遂げたことなんかも皆無
そこから言えば
特技があるだけで立派なもんだ
特技もなく暮らしの達人にも成れなかった
それでもまあ
あんまり卑下するのもよくない
ぼくによく似た人もいるわけで
そういう人にはきっと
いいよいいよと言うわけで
人間は
思うようには生きられない
肝心なのは
何が大事なのかを見失わないこと
暮らしを大切に思って
なおかつそれがうまくいかなかったら
それはそれでそれまでのこと
そんなに強く悲観したり
絶望したり失意に沈んだりしなくていいさ
たいてい人間の生き方に
うまくいかないことは付き物
そこからまた
大事に向かって歩き出せばいい
大事なのはそこだって
見失わなければ
それでよい
そんなふうに声掛け合えれば
なおのこと
それがよい
2024/05/01
「良心は呵責する」
意識や言葉を抜けば
頭と心の働きとを無とすれば
人間以外の生き物からどう見えるか
巨大な蟻が地上を移動し
時々は空に舞い
海にも潜る
得体の知れない変なやつ
また危険で獰猛な輩
くらいに見えるのだろう
地表のあちこちに巨大な蟻塚を作り
そのために草木を投げ倒し
虫や他の生き物たちも
コンクリの下敷きになった
一個の爆弾で
数人から数十人の人間と
数え切れないほどの
命も破壊し
意に介さない
自然災害の上にダブルパンチで
地上に害をもたらす最強の種
それでいて
そのうえに
同種にしか伝わらぬ
意識とか言葉とかを持って
愛だとか友情だとか絆とか
仲間内だけで
ずいぶんと立派な
自画自賛の世界を構築している
幻想が幻想を生み
宇宙大の妄想を築き
身体と身体の軌跡を見失っている
球体に収まる生命体の
親族のひとつに過ぎないことを
出自を詐称したうえで
いつしか忘れている
人間は変だと言うことを
もう少し謙虚に受け止めていけるなら
まだ何とかましな方向に
自らの歴史を編んで行けるかも知れない
その先端で
ぼくらは戸惑っているんだなあ
時に良心の呵責に苛まれたりしながら
2024/04/30
「錯覚の構造」
戦争があり
いくつもの内戦も内紛もあり
世界がまたそれぞれの国々が
手をこまねいて
何も出来ないということは
あるいは平和を標榜しながら
内向きには防衛力増強に走ることは
100年前の世界を彷彿とさせるし
何よりも先の大戦後の
平和および友好関係樹立の試み努力などが
ついに実らなかったと考えるほかはない
最高の英知また大哲学に大思想
小学生にも教えた前途洋々の
国家と世界の機構による
明るい未来はどこを探せばいいのだ
狭い地域社会に絞って考えてみても
こんな明るい未来を目指しますと言いながら
国家規模世界規模の現状とおんなじで
飾って言い立てたことと現実とは
妙にねじれて違っている
あちこちで破綻を来していることが見聞きされ
それへの対処や手当が進まない
個人レベル家庭レベルの内戦内紛の連続で
ジワジワと疲弊に襲われる
状勢状況に危機を覚え
何とかしなければと考えて
数と力で何かを成している
そういう連中がやっていることはみんな駄目だ
その積み重ねが現在に辿り着いた
こうなればもう
すべての人間的なベクトル
人間性とか人間らしさとかの進む方向性が
すべて間違っているからとしか考えようがない
頭を使う連中は
高級指揮官とその参謀たちは
計画と作戦とを誤り
平和な日常時においてさえ
敗北に次ぐ敗北を喫している
なおかつ責任を負わない
今でも未来は
そういう連中とは真反対の
黙した大衆の肩に掛かっていると言うべきだ
明るくまた暗く暮らしを積み重ねる
その飄々とした姿にこそ
大河の歴史を
その先へと進ませる力を見る
現実世界とはこう言うものだ
人間世界とはこう言うものだ
為す術もなく
一生を棒に振ったと考えたなら
たぶんその生き方は正しいのだ
2024/04/29
「頭や心の『脱力』」
武術家たちの動画を見ていると、「脱力」の効果について述べていることが少なからずある。それは主に肉体に関係した「脱力」である。これを見聞きしながら、頭や心の「脱力」はどうなんだろうと考える。何か効果があるんだろうかということと、そもそも頭や心の「脱力」はあり得るかということ。
強いて考えれば、頭や心の「脱力」はぼうっとすること。思い詰めないこと。喜怒哀楽それぞれにのめり込みすぎないこと。溺愛しない、深刻にならないなどなど。ほかにもいろいろある。その中でも最も大事そうなのは、感じ考えたりしたことを具現化せずにはいられない頭や心の衝動だろう。
そこのところは「脱力」して、強く思い込まない方がよい気がする。わたしたちの具体現実の生活世界は、頭が考え心に思うようには出来ていない。成り立ちが違う。現実を考えや思いに寄せようとすると軋轢が生じ、歪みが起こる。結果、世の中が殺伐とする。
頭や心の過剰は諸刃の剣だ。大層役にも立つが、大きな害にもなり得る。どこかでふっと力を抜くことも必要だ。
武術の達人でも、生活の達人でもないわたしたちは、それでもどこかで「脱力」を習得しなければならない。それもよい塩梅にだ。力んでばかりでは、体も頭も心もカチカチに固まって動きが悪くなる。それではいざという時に即座に対応することも適応することも遅くなる。
脱力する。力みを抜く。自分を客観視する。反省する。そういうことを目的としているわけではないが、わたしの趣味の詩作は、期せずしてそういうことも行っているという気がする。詩作の過程では、自分の中に凝り固まった考えや感じ方などを一度外に放り出し、内側を空っぽにして、疑いながら自分の考えや感じを是正してみる。何度も繰り返していると、真も信も揺らいできて、思いのほか大事というわけでもないと、そこにひとつのクッションがおかれる。力みが取れ、「脱力」し、「普通」の足場に立って環界に向かうということになる。
武術家は修行や訓練を重ねて「脱力」を手に入れるだろうが、わたしたち一般人は頭や心の「脱力」として、詩を書くことにその手立てを見出せるかも知れない。もちろんそれは俳句でも短歌でもよいので、とりあえずできばえは度外視して、その作用や機能にスポットを当てる。一般に広まる愛好の詩は、もしかすると人それぞれの生き様に「おおらかさ」を提供してくれるかも知れない。純粋芸術に凝り固まらない詩的な運動が、ひとつくらいあってもよさそうな気が、今のわたしにはする。
2024/04/28
「文字を用いて文字をディスる」
言葉は無明の領域から立ち上がり
大気に溶け込んで消える
これを文字化すると自然性が失われ
半永久の人工物に化す
わたしたちの生活は言葉と共にあり
無明から無明へと運動を繰り返す
文字として切り取らないとすれば
ただ天と地とを行き来するだけだ
上下左右自在と言えば自在で
不定と言えば不定
達観の瞬間と貪欲の瞬間が交錯し
とても善の一定ではいられない
わたしたちの生涯は言葉である
文字と捉えると真を損なう
窮屈になり苦しくなる
言葉のように大気に流され
砂のように積んでは崩れる
それが生活であり生涯となる
センチメンタルな墓石は無用
生まれて死ぬ
ただそれだけの間を
大気の中にたゆたう
その間に
幾筋かの泪を地に落とせたら
人間の使命は成就する
その余は人生に
気楽に立ち寄った
そんなスタンスで過ごすのがよい
わたしたちには
それがよい
2024/04/27
「今のところ『正義』の物差しに『正義』はない」
喫煙者だから分かるが
最近の日本社会は
振りかざす「正義」が
度を超えている
コロナ時の緊急事態宣言の時は
まあそれなりだとしても
本来は許容さるべき
個々の自由な振る舞いが
ほんの少し自由すぎたりすれば
即座に匿名の検閲の餌食になる
全方位から
「正義」の矢が降りかかる
ちなみにぼくの居住地では
全面禁煙というのではなく
時々ぼくは
敷地内禁煙の外に出て
タバコを吸うことがあった
通行人からも職場の人からも
文句を言われたことは一度もない
つまり具体現実の場では
その程度は許容される
マスコミや報道などの電波の世界
そこに構成された
観念および幻想の住人たちの言葉が
遙かに辛辣で攻撃的だ
見えない他者には
どこまでも強制的になる
身内でも隣人でもない人たちの挙動に
そんなに目くじら立ててどうする
過剰な「正義」の矢を打ち込んで
本当は何がしたいんだ
生活保護の申請を却下するのと根は同じで
自分の「正義」の圏外にあるものを
許せなくなっている「正義」は
局地的な「正義」でしかない
そんなちゃちなものを
振りかざすんじゃない
歴史的現在において
絶対的「正義」の物差しは有り得ない
通念だとか
共同の規範や規制だからとか
そんなものを物差しにしても駄目だ
あるいは偉人や聖人や
時代のヒーローが身につけた物差しを
そのまま借用しても駄目だ
大事なことは
内部に形成されるそれを
止むことなく破棄し続けることだ
常に無効にすることだ
破壊と建設の繰り返し
つまり現在の「正義」は
この運動の繰り返しにしかないから
振り上げる前に
握った拳を下ろす
謙虚と潔さが必要なのだ
2024/04/26
「楽な生き方を発明したい」
生まれて死ぬまで数十年
その間に
自分の外側での生命の存亡は
数え切れない
一つ一つの生命を大事になんて
ひとりひとりを大事になんて
嘘つきにしか言えない
生命が重いのは
自分にとっての自分の生命だけだ
そうしてまた たかだか
自分の見知っている身内とか
身近に感じる知人についてだけだ
圏外については
本当はどうも思いやしない
ということは
たいてい自分の生命もそんなだ
気にしてくれるのは
身内以外はせいぜい数人から数十人で
あとは つまり
どんな風に生きようが死のうが
宇宙規模の無関心さだ
生まれて死ぬ
草木も獣も虫たちも
ただそれだけを繰り返している
草木や獣や虫たちにとって
それが「普通」だ
現在の人間だけがその数十年を
息せき切って
頭には新幹線を走らせて
ゴールに飛び込んでいこうとする
生まれて死ぬまで数十年
だれもかもが
生きることは頑張ること
努力することだと思い込んでいる
何かを成し遂げること
他に秀でること
みんなに愛され好かれること
社会から注目されること
草木や獣や虫たちのように
無視される存在になってはいけないと
強く思い込んでいる
そんなことはおかしなことだよって
誰でも気づけそうなものなのに
異数の苦しさには飛び込めないのだ
生まれて死ぬまで数十年
あれもこれも詰め込んで
自分で自分を苦しめて
自分が自分に苦しんで
やっと栄光をつかんでという筋書き
草木や獣や虫たちからしたら
「普通」じゃない
「正気」じゃあない
人間が全体群れて進む方角は
たいてい過誤に行き着く過去があり
ある日ある契機を境に
180度ひっくり返る
生命の「普通」を逸脱すると
必然的にそうなってしまう
「普通」は「普通」
「らしく」は「らしく」
そのことがもう見えなくなっている
もっとありふれて単純で
楽な生き方を発明したらって
強く思いながら
世に問いかけながら
まずはこの
孤軍奮闘からの脱却
静かなる全身脱力をめざす
心を錘と見立て
巷間に沈む
2024/04/25
「加齢による後退戦」
意識が言葉に吸着する時
また言葉が文字に変容する時
それはたわいのない
単なる観念的操作ですむ
と考えるのは違う
気力体力が必要で
一言で言えば
若さが必要になる
老いてやってみると分かる
まず意識に語彙を探して
語彙が沸き立って来ない
無理に定めて語彙を確定するにも
文字への過程で息切れがする
そこでもう小休止
次への展開に支障が来る
数行で限界が来て
早々と結に向かおうとする
老化する性と同じで
加齢による機能の低下は
こんな所にも及ぶ
非言語の海からの言語化は
非言語の海を超えない
同じように
非詩的生活からの詩的抽出表出は
非詩的生活に内在する
詩性を超えることがない
だとしたら もう
悪あがきしないで
ゆっくり消えて行くのがよい
のではないか
今日にはそう結論しながら
明日にはまた
石に齧り付いて
降ることを肯んじようとしない
自分もいるのだろう
ここ数年の推移はそんなだ
2024/04/24
「負者の使命」
四季を彩る大気には
いつも正の拡散が仕組まれている
これと言ったわけもなく
ありふれた性向のひとつとして
負の与件を訪ね歩いた
暗く長い道のりの中で
深く強い危惧があった
孤独な異数の世界に
まっしぐらに堕ちて行くのではないかと
予測の半分は現実になった
あとの半分は現在も進行中で
あふれた負の札に埋没しかかっている
激しい憤りをなだめ
負の与件を訪ね歩くその先に
負の与件が底をついたそのあとに
ひとつの願望が
奇跡の形態をとって現れるはずだ
また現れなければならない
拡散された正は
どれも一面的なものばかりで
ある場面には通用できても
他の場面には通用しない
そんなものを
正として拡散する恣意は不正だ
不正が正として飾られるこの世界に
異議を唱え続けなかったら嘘だ
いつまでも
力の虚偽 虚偽の力に
竦むばかりじゃいられない
債務の返済は
粛々と行われる
2024/04/23
「脱現実記」
どうしてかくも
現実はこのようであるか
暖かな小鳥たちの羽ばたきは
冷気に堕ちて
地の愛をついばむ代わりに
死語となった不運に
今どきの不運を重ねる
関係という関係は
みんな石女
口々に愛をついばみながら
切ないほどにすれ違う
あの時にあの辻を曲がってから
もう帰路を見失って
螺旋の時間に
心の疲弊だけが生きる証となる
どうしてかくも
現実はこのようであるか
愛に始まったはずが
日常の憎悪へと
時は移りゆくばかり
誰のせいでもないさ
と背を向けて
ゆっくりと
草叢の茎を遡上してみる
黄昏の葉脈から
大気にひとり
ダイブする
2024/04/22
「喉の支え」
喉と心の不調で
とりあえず言葉を掻き出し
言葉を吐き出し
支えを取り除こうとする
口からカードを吐き出すみたいに
言葉はするする
いくらでも出てくるが
いっこうに支えが取れない
それだけでもう
心の腐敗が進み
深く病んでしまうのだ
次第に 支えるものが
心なのか言葉なのか
あるいはまた別物か分からなくなる
有形無形の一切の物事
それらは すべて違う
無いもの あるいは
有り得ないもの
どうやら久しく支えるものは
そういうことらしい
こうなると
すべて妄想の類いと考えるか
これまでにない言葉を
自分で作って取り出すか
いよいよの終盤戦に
その余のことは
「総じてもって存知せざるなり」
つまり どうでもよい
一瞬でよいので
喉の支えが取れた状態で
この世界を
心ゆくまで眺めてみたい
郷愁と愛着の
わたしたちの住処を
2024/04/21
「《ひとつのメモとして》」
意識、欲望、理性。人間が苦しんだり、喜んだりするすることの大本はそこだ。これに感情や価値観の違いなどが混然として、内省的に振り返ればとんでもない状況にわたしたちは立っている。そして、こうした事態や状況そのもの、あるいはそれらについて考察することが人間らしさと括られてわたしたちの目の前におかれている。
人間の人間らしさの本質は、こうしたことから考えれば観念性や幻想性にあると考えることが出来る。人間の人間らしさ、人間性はそこにある。そう考えて、更に観念や幻想自体を考えていくと過剰が待ち受けていて、わたしたちは観念や幻想の泥沼に入り込み、ある意味で人間らしさから遠のいてしまうことになる。人間性が過剰になるという問題。老いてはなおさらそうだ。たぶん人間らしさ、人間性について考えると、身体を過小に扱うことになってしまうからだ。
2024/04/20
「踏み台昇降」
踏み台昇降
症候群のひとりが
ひとつの平たい台を
登ったり降りたりしている
目の前に大きなモニターが
ひとつあって
エンドレスの走馬灯が
既視も未視も
綯い交ぜに映し出す
行けども行けども
絶望的な徒労だと
この団地の最高齢者
三丁目の田中さん
息が上がった状態で
言ったとか言わなかったとか
噂になっている
誰も直に
聞いていないのに
心は脈絡のない対応である
時空と場面とに
適切にまた不適切に
ひとつの心が対応する
別の状況には別の心
意識が思うほど
心はひとつというのでもなく
同じなわけでもない
老いに追い込まれると
そろそろこの人から
去らなければと
重層の心は思う
2024/04/19
「不毛の行≒徒労の行」
白紙の上に
剥いたラッキョウの皮を
適当に並べる
電子タバコと鼻歌で
ちょちょいのちょいとやる
出来上がりに
細めに開けた窓から
黄昏の風が吹き
軽く黄昏れる
気負って二枚目の白紙
さらにラッキョウを剥く
生真面目な小鳥が
皮の配置を考える
後二三枚までは
なんとかなると
高を括る
ラッキョウの皮は
どこまで剥いてもラッキョウの皮
内面は何処まで行っても内面のまま
終いには飽きてしまったり
空虚に突き当たって
空虚を剥く手応えのなさに
青ざめてしまったり
こねくり回して
国生み歌生みを真似て
こっぴどく絶望する
それがいやだから
ラッキョウの皮
上っ面だけ並べる
これなら毎日やれるが
日を越えると
漉いた紙の上から
パラパラと透過して
白紙にも瞳にも
残らない
2024/04/18
「氾濫」
うるさいなあ
走り出さない言葉たち
一切が
内部から発すると思っていた
つい今しがたも
もうすぐ風向きが変わると
凧を背にして
指先に強く糸を感じて
言葉が出ないというのも
考えてみればエロスだ
途切れたり支えたり
吃音のエロスか
エロスの吃音か
とりあえずどちらでもよい
流暢でない
スムーズでない
たどたどしい不幸は
見た目が軽い
そうやって順繰りに
血縁が反復する
負債を全部背負い込んで
三枚に下ろすつもりが
丸ごと次世代に送り込んでいる
岸辺の草叢に
生涯を託すつもりになりながら
背の大河は
岸辺を越えて水位が上がり
取り返しのつかない
後頭部の夢に残る
河川は氾濫する
氾濫は反復する
2024/04/17
「生きてるだけでボランティア」
超有名人の有名な言葉
「生きてるだけで丸もうけ」
とても深く含蓄のある言葉だったので
ついぼくも真似てみた
「生きてるだけでボランティア」
少しインパクトが薄いが
わかりやすく納得されやすい
言葉だという気がする
太宰治の「恥の多い生涯」という
自分に厳しい
自分をいじめる言葉に対し
そんなことはないですよ
社会にとまでは言わないが
じゅうぶん他人のために
周囲のために役に立っています
生きるということには
期せずして
そういうことがあるものです
そんなニュアンスを込めてみた
本当は今はもう
自分の言葉か他人の言葉か
はっきりしないところがある
この歳になると
一緒くたになるのだ
ただ時として
ぼくはこの言葉を
何度も心に呟いた記憶がある
自分の人生がつまらなく
他者の役に立たぬ
そう思うことが多かったからだ
そのたびに
「生きてるだけでボランティア」
思いがけず
誰かの役に立つことだってあるさと
自分を慰めた
ぼくにとって
たとえば自分に自信のない人こそ
勇気を与えてくれる
ボランティアの人だし
ぼくもまた知らないところで
他者の心の内において
そんな勘定に入っているかも知れない
観念の中概念の中のボランティア
それだっていいんじゃないか
生きてることの
小さな価値は見出せる
それだけで充分
人生はボランティア
「生きてるだけでボランティア」
2024/04/16
「癒やしの動画から」
犬や猫とふれあう
人間の赤ちゃんの動画
あるいは異種の動物同士とか
そこに動物の赤ちゃんが混じるとか
いろんなのがあって
見ると癒やされる
だけじゃなくて
なんだろう 面白い
種の枠組みが消える
枠組みが成立しない
枠組みが無い
光景としてはそういうことだ
人間に飼われ
住まいを共にすると
猫とひよこが体を寄せ合って
互いが互いを
異種のように遇さない
自分というものを認識せず
まるで目に見えるものに
成り切っているように
それが自然だというように
振る舞って見える
犬も猫もインコも
ひよこもリスも
ウサギもカメもカワウソも
それに人間の赤ちゃんも
そこではみんな一緒くただ
区別が無いのか為ないのか
翻って
人間の世界は面倒くさいなぁ
勝ち負けの競争や
限りない夢と欲望
一方でぼくらのような後ろ向きが
人間という種の中で
どんどん距離を広げて行く
ぼくはただ
傍らで寝そべって
過ごしていたいだけなのに
それがとてつもなく
困難な社会と世界であるように
人間は
ぼくらは
その構築に寄与したんだ
なので
未明に未来を
未来に未明を
訪ねて行くのがいいよねって
せめてもの置き土産として
この悔恨を
言っておきたいと思う
2024/04/15
「世界の急所」
小さな寝返りを
どれだけ繰り返しても
風ひとつ起きない
起こせない
言葉を投げつけても
叩き付けても
波紋は起きない
水面は凪いでいる
流れ星みたいに
さっと視界をかすめる
受け流されて
飛び立てない小鳥たち
世界の本質は幻想である
と知らなかったので
なるほど
戦っても戦っても
傷つかない身体
見えない不幸や苦しみは
理解されたこともない
このように世界は
生身の次元にはないので
わたしだけが
わたしの意識の内側で
変わるほかなかったのだ
また変わったのだ
徐々に
塵埃が吹き溜まる様に似て
わたしは
わたしへと成型された
身動きの取れない自由さに
ようやく慣れてきて
やっと終わりが始まる
ここまで来れば
はっきりと世界は
わたしを舐めてかかるだろう
生存はあとわずかだと
油断するだろう
しかし わたしの
本当の戦いはこれからだ
本当の思考はこれからだ
世界は厚みを増して
身体をそして口や鼻を
圧迫しにかかっても
わたしにはまだ
考えることが許されている
圧倒的な後退戦で
わたしが得たものは大きい
わたしは考える
これから先も考える
世界の急所について
急所をどのように
仕留めるかについて
ひとりでも
ではなく ひとりだからこそ
わたしは戦える
2024/04/14
「術と科学」
口伝の殺人技は一子相伝
経験的に急所を押さえ
いかに合理的
経済的また効率的に成し遂げるか
それだけを延々探求し続ける
秘伝的な「術」の伝承
伝承者は父の系
継承者は子のうちの誰か
こうした「術」は「術」として
見事な発展を遂げ
日本的な結晶の高みを見せる
メジャーなところでは
華道や茶道
それに着物とか短歌や俳句なども
「術」の伝承の系列に入る
このことは
知らず知らずのうちに
庶民生活に薄くぼかしたように
広がりを見せて行くはずだ
この土壌から「科学」は発生しない
逆に「科学」の土壌では
「術」の伝承による高度な結晶は
異彩を放つ
経験的な伝承の土壌と
反省からの科学への飛躍と
異質の二面の発達は
優劣でも上下の問題でも無い
両頭並び立つ
伝承の土壌ではやがて「科学」を輸入し
「科学」の土壌では伝承を輸入する
いま伝承の地では輸入品がもてはやされ
出自の詐称が盛んだ
それを苦々しく思うものたちは
ことさら「術」的土壌を神格化する
血脈を疑うのが嫌いで
闇雲に民族の高等性を主張する
どちらにも加担しない者らは
無国籍のカメレオンと成り
輸入品と伝統品とを
適宜に使いこなせる人となる
傷つくことないアカデミズムともなる
時代の趨勢は「科学」に傾くが
「科学」を母体とする国々が
すべて国民を喜ばせ
満足させる国になっているかと言えば
そうとも言えない
どこかにみな
それ相当のほころびや
不満というものを抱え持つ
どんぐりの背比べの不完全さ
いい気になっている奴は
みんな駄目だ
「術」も「科学」もどっちも未到で
国民にはほかに
選択肢がない
2024/04/13
「社会貢献=投資という国家」
仕事して給料をもらう時、ぼくは別人になっているという意識でいた。今みたいに仕事をしないでいると、別人に変身する手間がなくなり、そういう意味での面倒がない。
充分ではないが年金で暮らしてみると、少し工夫すれば、たいていの人が仕事をしないで暮らせる世の中は出来る様な気がする。仕事をしなくてもすむものであれば、それは仕事をしない世の中になった方がいいのではないか。
今のところはまだ、仕事をするというのが当たり前の世の中だが、言い訳程度にしか働いていない人も少なくない。要はお金が必要な世の中なので、そのために一生懸命働いているふりをしたりすることも必要になる。どこからか、生活や遊びのためのお金が舞い込むとすれば、たいていの人は、じゃあ仕事はしないでおこうと考えるに違いない。
たくさんお金を持っている、稼いでいる人がいたとする。そういう人たちにもっともっと稼いでもらう。国全体で、そういうお金稼ぎに協力する。ちょっとした投資である。その代わりそういう人たちに心底からの社会貢献を考えてもらい、担ってもらい、大半のお金は国を支援するという意味で国に納めてもらう。これは逆向きの投資。そしてその納めてもらったお金は働かない人たちに分配する様にする。
国民は働かなくてよくなるのだから、毎日に余裕が出来る。そこで、働く代わりに個々人の自由な裁量で、社会貢献に与してもらう様にする。お金持ちも国に投資することで社会貢献できるし、一般人も社会貢献が出来る。全員が社会貢献する国になって万々歳。穴の大きく空いた笊的思惟だが、これもまた極微の社会貢献の一つとして数えられることになる。
2024/04/12
「小さな不穏の構図」
小さく不穏な気配の中でも
おかしなことがあれば
その瞬間に出会う
稀なので
その瞬間が過ぎると
暗い雲の
不穏に差し替えられる
無邪気の上空
視線の圏外はすべて
無意識の不穏に囲われている
幼年の日の視線はめまぐるしい
田畑や隣家への往来で出来た
草が生え石が転がる道を
どこまでもなぞって行く
家々は樹木に囲まれ
雀はどこにでもいる
用水路のアメンボ
季節ごとに
蜻蛉や蝶々が
雑草の上を飛び交う
目に見え
耳にも聞こえる
それだけの世界
村の中はどこでも遊び場になる
鬼ごっこ
缶蹴り
枯れ枝は剣になり
ピストルにもなった
かくれんぼをする傍で
ひっそり不穏も隠れていた
響き渡る哄笑
幼年の日の記憶は
いつもこんな風にやってくる
はじめに不穏の気配を帯び
無垢の哄笑で終わる
それらの記憶はすべて
現在からの
心的な呼び込みで
やはり
無意識から
不穏がたちのぼり続けている
2024/04/11
「夢と現の記憶」
団地の中は
人が隠れるくらいに
水位が上がり
つい 二階の窓から
釣り糸を垂れて
針も餌もつけず
ただ浮きを浮かべて
眺めている
たゆたう波に
小さく波紋を起こし
たぷたぷ
浮きが揺れている
玄関から路へと
魚影の軌跡が
そのまま
消えずに重なりあう
季節を追う
定点カメラの映像みたいに
朝から黄昏まで
黄昏に黄昏れる
もうすぐ
あの時の津波が
この高台にも押し寄せる
ぼくだけが知っているが
すべて手遅れだ
やがて屋根上まで
水かさが増し
地表から痕跡を消される
ことだろう
それが成り行きなら
騒ぎ立てても仕方が無いと
夢また現の中のぼくは
考えている様なのだ
2024/04/10
「栄養ドリンクの功罪」
仕事などで負担が大きいと思う時
もっとよりよく
仕事をこなしたいと思う時など
よく栄養ドリンクのお世話になった
毎日飲む時期もあった
そしてその頃は
こう言うものがあってよかった
などとほんとに思っていた
以前ほどではないが
昨年くらいまでは愛好していた
しかしいつ頃からか
そうまでして仕事をやろうとすることに
少しずつ疑問を感じる様になった
たとえば 素のままでは
仕事に堪えられない自分だとしよう
仕事が自分の能力を超えて
過酷だったとしよう
いまならば 即座に
やめちまえばいい と思う
あるいは疲労を感じたら
サッと休んでしまえばいい話だ と
環境がそうなっていない とか
そう簡単に自分の意識を変えられない とか
いろいろ理由があって
なかなかそううまくはいかないが
そんな方向性も
今の世ならばありっちゃありだ
仕事ばかりでなく
遊びに向かっても同じことだ
栄養ドリンクを飲んで
めいっぱいに遊び尽くそうと考える
生きることを大事にする
と考える結果がこれだと言えば
それに文句をつける気も無いが
いまのぼくは
そんなにまでして輝いて生きて
どうするんだって思う
無理に輝き続けるその後が心配だ
言わないよ
口を挟まないよ
ただぼくはもう
そういう舞台からは
静かに降りた
2024/04/09
「とあるジレンマ」
人の体も顔も皆違い、歩く姿も話す声もまるで同じというものはない。これは人について言えるばかりではなく、動物、植物を含め、自然界もみんなそんなだ。海の中に群れて泳ぐ鰯も、山林に敷き詰められた落ち葉でさえも、おそらくは皆微妙に何かが違っている。大きなところでは宇宙の星々でさえ皆違う。では小さなところで浜辺の砂粒はどうなのだろう。拡大鏡を使って覗けば、やはり差異は見えるのではないか。
こう考えてみると、これはもう多様性どころの話ではない。どうしてこう言うことになっているのだろうか。経済的でも効率的でもない。
これに反して、いまの人間が作るものは「同じ」であるものが多い。型を作って、それを使って同じ材料で大量生産されるものは特にそうだ。そこには「同じ」にするという思想が貫かれる。
わたしたちの話す言葉自体もそうで、「葉」といえば差異を捨象した「葉」を表し、「砂」といえば「砂」を表す。上から全体に網をかける感じで、極端に言えば、「宇宙に存在するすべて」と言えば、存在するすべてをしらみつぶしに言い切った形になる。もちろん宇宙に存在するすべてを見てもいないし、触れてもいない。それどころか地球上に存在するものも、直に感覚で捉えられるのはごくわずかだ。なのに「宇宙」という大網を張った言葉を使うと、いかにも宇宙を捉えた気になり、自分の思念が宇宙大になった様な錯覚にさえ陥る。
これを人間の一つの能力と捉えれば、これが極端化して発達すると、機構としては国家とか、国連とかが作られる様になって行くのではないか。上から見る見方に特化していく。
ぼくらの様に言葉や文字にこだわる世界も、実は異母兄弟や異母世界と呼んでいいところがあって、本当は中身が空疎かも知れない。つまり、自分を含め、言葉の人、考える人、思想の人に、究極のところで信をおけないのはそのためだ。
2024/04/08
「尋常に老いて行く」
寝起きには
あちこちからだが
固まった様に痛い
医者には
「運動不足」
と伝えられた
そんなことは分かっている
運動不足からの血行不良
改善策に運動の勧め
ぼくからすれば
おかしいだろう それは
と言う話になる
中高は通学や部活で動き
社会人としては
通勤と仕事でからだも使い
退職後は
やっと心身を休められると期待して
気楽に楽しく
好きなことだけやっていける
と 喜んでいたのに
黙々とウォーキングしたり
意味も無いのに
せかせか動き回れと
年も下の医師に なぜ
説教されねばならないのか
どうして
またぞろ意を決して
体の酷使に
努めなければならないのか
どうして
第二の人生が
健康の強制でなければならないか
これでは無職の意味が無い
現役引退の意味が無い
形を変えて
刻苦勉励を強いられる
ものごころついてから
今この世界では
煩いも憂いもなく
ただ愉快で楽しく
やりたいことだけやって
暮らすということができない
生涯を通じて
あれやれこれやれと
情報が頭を透過し
不安が塵となって降り注ぐ
これが身体に逆流し
心身ともに
健康と不健康を行ったり来たり
半強制のシステムに
絡め取られる
痛みをこらえる方がまだましだ
ひたすら加齢を受け入れて
若さを保とうなんて
したくない
もうこうなったら
できることは一つだ
尋常に
老いを老いて行く
2024/04/07
「毎日が試作」
読み手に拒絶された文字が
モニターに並んでいる
練習には
数十年を費やして
まだ本作が書けない
理由は単純で
読者を認めたくないのと
読者を想定したくないからだ
認め想定すれば
つい丁重に
コック帽の型で
もてなす風(ふう)になる
つい想定に合わせて
分かりやすく
ろうそくを立て
甘さやクリーム多めで
フルーツを添えた成形をする
ぼくの出自はそんなんじゃない
他人に分かるわけがない
ぼくの作るスイーツが
めちゃくちゃな様に
ぼくの詩は製品にならない
製品にするために
作り込んでいない
書いてない
ほんの稀に
どんな高額な商品より
いけてるスイーツができて
一人ご満悦になる
なんていうか
ただそれだけのための
日課だ
2024/04/06
「病態論」
かつて身体から
やっと絞り出された言葉が
いまでは活字の物語となって
身体に襲いかかる
言葉はもう
生み落とすもの
であることを忘れて
既存の思念を
縦横のマス目に
埋めて行くだけのものに
なった
ほんとは
どんなに激アツな思想も
発声初期の
<あ>とか<う>とかと大差ない
生命の最深部から湧き上がる
表出意欲がそれだ
ある思想の思想以前には
無意識の言葉の大洋があり
音声以前には無声がある
そこから借りてくる手間ひまに
堪えられるかどうか
極限を超えて
思索されたものかどうか
それだけではなく
仮にそうして難産を越えてみたとしても
所詮借り物の構築物だから
発見された真理は
たいてい過誤の歴史を含む
このことも
勘定に入れておかなくてはならない
はてさて
そんな面倒なこと
やってられるかと考えるのが正しい
つまり晩年の言葉も思想も
遺伝性疾患の一つの病態になる
なのでやっぱり
やってられるかと考えて
言葉にも思想にも
縁の無い暮らしに帰るのが
正しい選択というものだ
安い食材でどう料理を作るか
暇で退屈な暮らしを
金を要さずどう楽しむか
今のところ
幻想の歴史はそこを
越えて行ってはいない
依然として
そこが人生の骨格であり
価値であることを
控えめに
教えている
2024/04/05
「むかしばなし」
むかし
学校は天上にあった
天上では勉強が大事と教わり
天の声なので
そのまま復唱していた
それはでも
ぼくだけの思い込みの世界
ほとんどの友達は
素知らぬふうで
村の小さな祠に集い
松の木の下に遊んでいた
祠は朽ちた材木の骨で出来ていた
山砂にたたかれ
洗われて数百年を経ていて
いい塩梅に空虚なものだった
見ていると
何の御宣託もなく
どんな無礼や乱暴を働いても
誰も意に介する者がない
ぼくだけが酷く浮いている
毎日の通学時には
祠の前を通ることになっていた
まとわりつくような
重い気配がいつもあり
憑かれそうな不安から
つい小走りになる
天の声とは大いに異質の
無声の発する声が
耳に残った
これが
天の声と地の声の
物語のすべてで
その後のぼくの行方は
誰も知らない
2024/04/04
「明るい枯れ葉色の中」
斜面を露わにした
明るい枯れ葉色の中に
林立する文字が
葉のない枝を張り巡らしている
枝々の間に風は休み
時に駆け抜けて
それでも世界は
画布の中に閉じ込められ
残らず乾いてしまう
しばらくすると
斜面は緑の洪水に溺れる
緑なす海の深海に
光の視線はことごとく跳ね返される
急な傾斜に足を取られて
堕ちて行った天使の姿も見えなくなる
忘れても気にしなくなる
そんな世界だ
文字たちは自からその姿を隠し
秘めて安堵に沈む
もうすぐ
枝々には無垢が芽吹き出す
少しずつ開いたその先に
静脈を透かして
光が羽虫の様に集まる
それでももう
「世界は限りなく異様に暗い」
と活字に変身する文字は
この世界に躍り出ることはない
画布の中をゆっくりと
季節は巡るだけになる
この世界はまだ
「花鳥風月」だとか
「武士道」だとか
悠長な話がまかり通る
それはそれで 完全に
言葉を失うよりは
まだましだ
2024/04/03
「言葉と文字と活字と」
むかし都会の雑踏に
潜んでいたから分かるが
朝夕の通勤電車は動く図書館で
言葉や文字や活字であふれている
人間は肉体を幻想に置き換えて
言葉や文字や活字として
ひしめき合いながら
乗り降りしているのだ
もちろんそれらは
異臭を放つ側溝の臭いに満ちていたり
パリの有名ブランドの
甘く爽やかな芳香を放っていたりもした
暗い四畳半の饐えたかび臭さや
汗や二日酔いの臭いもある
地方の小さな村落には
言葉はあるが
文字も活字もない
人たちは互いに
草木や鳥や猫に扮して
言葉を交わしたり
細い獣道のような土の上を
しばしば一人を楽しむように歩いて
風や雲に語りかけたりする
村落には
あちこち地形に沿ったにおいが漂い
人の体はそれを身にまとう
川ではせせらぎを着飾り
森に分け入って腐葉土をまとい
田畑では日向のにおいを放つ
もちろん最近は
ひっきりなしの車のエンジン音で
すっかりガソリン臭くもなってきた
いま地方都市近郊に住むぼくは
すっかり言葉も引きこもり
活字になれない薄っぺらな文字を頼りに
読者のない無に無を刻んでいる
転職に転職を重ね
身につくにおいを脱ぎ消した結果は
無色透明か
すべてから見下されるかだ
そしてこの在り様は
本人にはとてもご満悦で
毎日よだれを垂らしながら
午睡に励んだりしている
ふと目を覚まし
大きなあくびと伸びをして
孤独なゆとりに入り浸ったり
いつ死んでもいいという達観に
弄ばれたり弄んだり
先のことは一切考えず
いまこの時の平和呆けを
充分楽しもうと心がけている
もうすぐぼくの詩は終わる
相も変わらず
この先に路はない
2024/04/02
「歴史的な子ども期について」
もっと「我欲」を深めたり広めたりしたくて共同体の成員になったはずなのに、いつの間にか社会性という言葉で制約されることが中心になってしまった。国民からすれば大いなる誤算だ。
太古から積み重ねられて成った共同体とか共同社会。協力し、助け合って暮らしていこうという、言ってみれば成り行きというものだ。
個々バラバラの欲求を放置したのでは、統制や秩序を保てない。それではいけないという考えが、富や力のある者たちから起こった。
しかし、大きく成りすぎた共同体およびその社会を牽引し、統率する王とかその下部組織は、戦闘を専門とする組織を作り内外の憂患に備えた。ソフト面では「法」をもっって叛くものに刑罰を課すこととした。この頃にはすっかり人間に上下が出来、なおかつ所属員は皆家族とか、皆兄弟だとかを共同性の眼目として流布され始める。つまり、平等や公正公平が破綻した裏返しとして、思想的な充填が必要とされたのだ。
王政、王制、専制に君主制や独裁、そして近代国家の成立から現代へ。いろいろ形態を変えながら、けれども統治、統制、統轄、そして国家の本質は何ら変わるところ無く今日に到ったと言うべきだ。
こうしたことを考えると、階級も、上下や不平等や不公平も未だ生じない時代が懐かしく、また甘美を持って感じられる。もちろん、おそらくは想像するほどには生活は生やさしいものではないのかも知れないのだが、互いに自由闊達でありながら調和の取れた、ずっと小規模の共同社会生活を思い浮かべる。
ちょうどわたしたちが子ども時代を振り返り、そこが黄金期と例えることがあるように、歴史上の黄金期は歴史上の子ども期をもって考えられるように思う。わたしたちはそれを国家成立の以前と以後とで考える。
わたしたちは個人的にも歴史的にも子ども期に戻ることは出来ない。しかし一切の固定観念を排除して振り返ったり観察したりするならば、生命の自然によって生じる「我欲」と無知なる「無欲」が調和的に混在するその節点、そこに子ども期の本質をうかがい知ることが出来るに違いない。及ばずながら、大人としてのわたしたちや歴史的な大人期としての現代は、それを反省的に内在させることは可能なはずだ。
2024/04/01
「希望の老いに向かって」
用済みになった吃音の言葉たちは
裏山に捨てに行こう
今日からは言葉のない人になって
微笑みだけで生きて行こう
日々の暮らしに必要な言葉は二つ
「こんにちは」と
「ありがとう」だけを残し
無言の人になろう
そうすれば胸の水位も下がり
溺れそうな心の恐慌も
どもって支えた鉢合わせの生涯も
とりあえずおさらばさ
青空を雲が流れる
老いることは悪くない
70を過ぎると市民バスは無料だ
使ったことがないけど
たくさんの高齢者向けサービスが
新品無使用で置かれてる
老いることは悪くない
微笑みだけで生きて行こう
きょう
運転免許証の返納のように
吃音の言葉を捨てる
胸の支えも取れて
スッキリと老後を送る
少しずつ
心の吃音も捨てて行く
希望の老いに向かって
まばゆさの中を
ゆっくりと進む
2024/03/31
「サイレンス」
日のはじまりに
顔を洗って
掃除と洗濯をのんびり進めて
そのたびに
もうすぐ終わるよって声がする
集中しようと気を入れて
清々しさに分け入って
またそのたびに戻されて
知ることはいいことばかりじゃないね
この頃の若者像は賢くて
賢すぎて可哀想だ
知ることはいいことばかりじゃない
知らなければ
神よ仏よって
また天国に極楽に急いで行こうって
仮構や虚構を頼りにして
そうしたことを信じ切って
幸せな幻想や観念に溺れて
きっついな
風の無い森
凪いで奥に隠れた海洋のとどろ
光が立ち止まった空
隔離された都市の喧噪
未来に残される
廃墟の考古学
すべてそんなの知らないよと
あかんべえをするぼく
それからの永遠の
サイレンス
2024/03/30
「終わりまで続く」
人間はどうあるべきかとか、どう生きるべきかとか、古来からたくさん考えられてきている。そういうことを記述した本もたくさん書かれている。そうしたベクトルのもとに、人間は少しずつ少しずつ本来の動物的な自然に近い在り方というようなものから遠離り、現代的な姿に辿り着いてきた。
そのことは、現在から振り返って考えると、昔はいかによりどころ無く個々バラバラに、そして好き勝手に生きていたかと言うことだろうと思う。どうしようもないくらいに統率が取れないので、これをなんとかしなくちゃと考える人が出てきた。良かったか悪かったかは別として、人間同士互いに牽制し合い、干渉し合うようになり、自分でも自分を制限するように変化してきた。だからといって、もともとの性質や性格が跡形もなく消え去ったということではけしてない。そこの処理の仕方がますます肝要になってきているが、なかなかに手強く、うまく出来ている人もいれば出来ない人もいる。世間一般を見渡すとそう見えるが、同時にまた、そこが完璧に出来ているという人を目の当たりにすることは、現在社会においてもまず無い。
余りに些細なことだけれども、人間は日々こういう困難を抱え、分刻み、秒刻みに刻々対峙していると言ってよい。その、目には見えない無意識の奮闘や修練の有り様、欲望に追随したり我慢したりの有様、人間として、ぼくらはその葛藤を信じたいと思う。たとえそれが、人間の始まりから終わりまで続くものだとしても、だ。
2024/03/29
「生涯の多くの時間は」
振り返ると
身と心とを使い
生涯の多くの時間は
仕事に費やした
いくつかの職種を経て
どの仕事も
終わってしまえばグッドバイだ
天職にもならず
なのにどうして
その時々は熱心に
また夢中になったのか
頼まれもせぬのに
会社や学校や
それぞれの職場を背負うみたいな
高揚した気分に
なったのだろうか
仕事を辞めればグッドバイ
職場環境も同僚たちも
懐かしさとか思い出とかを除けば
超々赤の他人だ
幻の糸を断ち切れば
単独者になるか
血縁に立ち戻るかだ
つまり 考えようによっては
徒労と不毛の壮年期
と言うことになりかねない
どうしてあんなにも
身と心とをすり減らし
仕事に打ち込んだりしたんだろう
仕事でなかったら
趣味としても
ボランティアとしても
あんなことを
あんなふうに
やりはしなかったのに
仕事って怖い
仕事をするぼくは
何かに憑かれていた
素のぼくならば
絶対しないだろうことを
さんざんやった
仕事でなければ出会わなかった
たくさんの人と出会った
そんなんじゃ意味が無い
そんなんじゃ
ほんとの出会いじゃない
しかもほんとの出会いの場では
誰にも出会えていない
素のまんまでは
誰にも出会わない
2024/03/28
「凡庸の『義』に生きる」
いろいろな分野・領域に超一流が存在している
たいてい勉強家だったり
研究熱心だったり努力家だったりする
たくさんの本を読んでるとか
他人が遊んでいる時に一心に練習に励むとか
常人には出来ないことを軽々やってのけて
後には天才と讃えられたりしている
ぼくらは興味関心が散漫で
一つことに集中も持続も出来ない
ぼんやりテレビなど見たりして
それでは時間がもったいないなど
少しは考えるが
かと言って本気で是正する気など無い
そういうだらしない駄目さを
たくさん持っているので
まあまあこんな暮らしが分相応かなと
自分に言い聞かせもする
焦ってはいけない
天才たちと比較してはいけない
自分の中に
あんなに知識を詰め込んだり出来ない
昼夜関係なく
たくさんの資料を読み解いたり
あるいは走ったり飛んだり
国や民族のために自爆も辞さないとか
いやだいやだやりたくない
当たり前を超えた
刻苦勉励はみんなごめんだ
ぼくらは植物の一木一草も
例えばハエや蚊の一匹も
正しく理解し評価することさえ可能ではない
人間に出来ることを成してきただけだ
やっと百メートルを9秒台にしただけだ
やがて8秒台という時が来るかも知れない
それはそれでめでたいけど
ぼくらのような凡庸な生活者が
いま一番望んでいることはそんなことじゃない
心に人界のストレス無く
普段着の気持ちよさで
一日一日を過ごしていきたい
ただそれだけのこと
凡庸なぼくらでは
ただそれだけのことも為し得ない
それで凡庸に苦しんでいるというわけだ
この事にはどんな天才も偉人も
役に立ってはくれない
昔から偉人・聖人・天才たちが
庶民の間で「弄り」の対象になるのは
そんな理由があるからだ
ささやかな願望さえ叶えられない
どんな偉大さも尊さも
よくて神棚に飾られるだけだ
そうして背を向けて
ぼくらはただ
日向に向かって歩いて行く
ほかにすべきこともない
あえて言うならば
それが凡庸の「義」だからだ
2024/03/27
「幻のシナリオ初稿」
校則のように
千の法
万の法を
設えねば成り立たぬ
生徒が
民が
愚かだからではない
もともとが
箍など嵌め得ぬものに
箍を嵌めようとするからだ
ひとつに出来ないものを
無理に一つにしようとして
どこまで規則を課しても
きりが無い
そうしていつしか
百万の法にも
従う気など失せる
刻々とその時が
近づいているかに見える
もうすぐ人間が変わる
人間の生理が変わる
自壊と自滅に一直線に
人間世界の地殻が崩落する
その時は
みんな野次馬となって
墜ち行く先まで
立ち会うことになる
目を見開いて
一部始終を見届けるがいい
悟りの微笑も
遅れた悔恨も役には立たぬ
言葉を失う衝撃に
直面するのみ
時を超え
無傷で行き会えたら
そうさその時こそ
手を取り合おう
2024/03/26
「ただ生き延びよ」
だいぶ以前のことだが、国会の予算委員会か何かで、故石原慎太郎が質問者となって発言したのを聞いた記憶がある。発言の主たる内容は憲法についてだったと思う。当時首相だった安倍晋三が石原の質問に答えていた。いま考えると、お互いに敬意を払いながら真面目なやりとりをしていた。
その中で気になる石原の発言があって、言葉としては「最近の国民は我欲の塊になって」と言うものだった。正確な言葉そのものではないが、たぶんそんなことに近い。これを示すものとして例を挙げていて、それは一人の未就労者の話だ。四十代か五十代の男だったと思うが、その男が、年金を受給していた父親が亡くなった後死亡届も出さず、もちろん葬儀もせず、遺体を部屋に放置しながら父親の年金を不正受給し続けたというものだ。
石原はそういう例をほかにもいくつか挙げながら、要するに戦後の日本も日本人も駄目になったと言い、原因はアメリカおよび進駐軍主導の戦後憲法が改正されずに、今日に到っているからとの持論を展開した。
当時も今も石原が言いたかったことは、保守の言い分としてよく分かる。たいてい保守派の論客は、これは進歩派も同じかも知れないが、自身が一般生活者の生活体験から浮上してしまって、大衆が顕現する我欲やその行為の選択を嫌い、また見下すことになってしまう。
その場に居合わせた国会議員たち、あるいは大臣たちや役人、そしてテレビの視聴者も、多くは石原の発言を生真面目に受け止めていたに違いないと思う。だが私はそこにひとつの無意識のトリックがあると思いながら聞いた。
政治家はよく国益と言い、また国家のため、日本のため、国民のためと口にする。だがそれは統治の側に属する者たちの「我欲」に他ならない。憲法の「主権在民」の「主権」は、本来国民の「我欲」そのものを肯定しつつ、それをも権利の一部と考えるものであって、国民の「我欲」を否定することは政治の本末転倒なのだ。国民の「我欲」によく耳を傾け、そこから国民の願望や希求をすくい上げるものでなくてはならない。「俺は何でも知っている。だから俺の言うことを聞け」と言う政治家は、ただ自分の「我欲」を、国民の「我欲」以上の規模で行おうとしているに過ぎない。国民が馬鹿ならそうした政治家はそれ以上の大馬鹿なのだ。
私などは、古代の朝廷から始まり現代の国家も同じく踏襲する国民に課す税の徴収は、合法的且つ強制的な大衆からの不正受給であって、これに比べたら先の年金の不正受給はたいしたことと思えない。誇張して言えば、貧困者の自衛手段としては当然なことの部類に入ると思う。それを否定するなら、それ以前に生活者の困窮に目と耳と心を向け、政治の側からの効果的な対策をしてしかるべきなのだ。そんなことにも心到らず、大口ばかりたたいて、威厳あるふうの物言いをする馬鹿たちがいまもモニターやスピーカー越しに雁首を並べている。
もしも私がその年金不正受給者の父親であったとしたなら、「いいよいいよ、それでいい。ほかにどうしようもなかったんだからそれでいい。」と息子の不正を肯定すると思う。遺体を家の中に放置することも、それで全然かまわないと考えると思う。ただ生き延びよと、声なき声で語ると思う。もちろんそうした不正を息子にさせたことは、自分にもその責任はあると自覚し、また自戒を込めながらのことだ。
善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや
(歎異抄ー親鸞)
※ここでの「悪人」は、念仏を唱えない人とか、功徳を積まない人とかのようです。現代的な「悪人」の概念とは少し違うようです。親鸞らは善人とは言えない民衆、念仏を唱えない民衆、功徳を積まない民衆をこそが救済されなければならないと考えたようです。またそんな人たちを救済するのが仏教であると考えたかったのだと思います。
2024/03/25
「『悔いなく生きる』ということ」
幼なじみと言っていい人から数日前に連絡があり、仙台で近場の同級生の集まりを開くから来ないかと誘われた。せっかく声をかけてくれたのだからと1日考えてみて、結局は、出不精で億劫だからと言って断った。
電話で話していた時に、彼は趣味やささやかな社会貢献に没頭して日々忙しく活動している様子だった。そしてその中で、「悔いが無いように生きたいから」ということも言っていた。
「悔いなく生きる」という言葉はよく耳にする言葉で、いまでも若い人からお年寄りまでよく口にしている。何なら、私も余り口にすることはないにせよ、頭の中では何度となく考えたことがある。そういうところから言うと、間違いなく誰でも考えることだと言ってよいと思う。
彼我のように老いたものには、その言葉は若かった時よりも切実に響く。つまり何というか、彼の口から聞くその言葉には、『そうだよな、みんなそうなんだよな』という共感めいた思いが湧いた。
で、それでいいじゃないか、そんなもんだよと思いながら、頑張って全うできればよいなと願った。
返事の電話を切ってから、私自身はおよそ二つのことを考えた。一つは、悔いを残して死のうが残さず死のうがどっちでもいいなと考えた。それはその時になってみないと分からない。また悔いを残しながら死んだとしても、死ねば死にきりで、まあそれはそういうもんだったと言うことで終わる。そう考えると、悔いを残そうが残すまいが、どっちだってよい。私の結論はそういうことになる。
もうひとつ考えたことは、彼我の考えの違いで、真逆な考え方だというのが面白く、そこを少し掘り下げたいと思った。
私からすると、彼の考える「悔いなく生きる」は、自分の命を「無駄なく使い切る」みたいな考え方のように思う。出来ることやれることはみんなやる。持った力を存分に発揮する。細かいところまでは立ち入らないが、およそそんなことのようだ。私はそうした彼の考えを、悪いとは思わないし、逆に当然の考え方のように思った。私自身もそういう考えに何度も立ったことがあったように思う。
ところでいま私はそういうところからすれば真逆で、社会から引きこもっているような形で、ぼんやりと無為に日々を過ごしている。そして、これはこれで有りではないのかと思っているのだ。べつに世の中の役に立たなくても、自分の存在価値が無なのだとよそから言われたり思われたりしたとしても、彼らの自由であり、考えるという正当な権利の行使に他ならない。つまり私の行いが彼らにどう映ろうが、それはどうでもいいことだ。ただ、私にはこういう時に、狭苦しい人界の枠中に収まらず、動植物の生き方みたいなものが視野に置かれている。それが自然に入り込んでいるのだ。そこから言うと、だらんだらんとした生活、また生き方の果てに息絶える。それをとても魅力的に感じている。屁理屈を言えば、生誕と死との間では日向に寝そべって過ごす、そういうことの方が生命の在り方の本流のような気がする。人間は人間だから他の生き物に追随する必要は無いのだが、私は一緒に考えたい。
これは人界の良識・常識とは言えない。逆に人界から外れた考え方と言っていいのかも知れない。そしてこれはいまの私の現実的な有り様を投影しているようにも思える。
大まかなところを言えば私の考えたことはこんな所だが、2・3日すればもう頭から消えてしまっているだろう。つまりどうでもよいことを考えたり書いたりしてしまっているわけだが、これまでも、これからも、たいていこんなふうに推移するに違いないと思っている。ただ、明日のことは明日になってみないと分からない。
2024/03/24
「内観」
心が過剰なのだ
過剰に意味や価値をつけすぎる
その意味と価値は
刺客のように遠くからやってきて
四辻のすれ違いざま
心の点穴を衝く
それ以来心は言葉に埋め尽くされ
言葉には波紋のように
意味と価値とが揺蕩う
心は言葉に支配され
意味と価値だけが残り
心はそれだけにされてしまう
片時も離れず意味や価値を問い続けて
遙かな故郷の記憶のように
心から青空が消え雲が消え
山も森も海原も浜辺もみんな消える
正確に言えば時間と空間が変異して
意味と価値とを無くしたものは
みんな言葉や言葉の出自と一緒に
心の圏外に追いやられる
心には言葉が過剰なのだ
過剰に意味や価値を着込んだ言葉が
そのために心から隙間が消え
空白が消えゆとりが消えた
季節や風景はみんな画像になった
もう後戻りできない
もう輝く時はない
2024/03/23
「みんなくそったれだ」
資本主義経済と民主主義政治との両輪で
社会が回ったり進んだりしているとしよう
現在この両輪が
推進力として機能していない
という議論が学者・有識者の間にあったりする
このての話は専門性を要するので
部外者は置いてけぼりで
すまし顔の専門家の独壇場となる
けれどもぼくらのような
頼るものもない一般の生活者からすれば
資本主義経済も民主主義政治も
同じようにぼくらにとってはくそったれで
共々に利害の利を貪る機能と機構の別名だ
時代性を超える恩恵はほぼ皆無だから
どちらがどう困って解体の危機に瀕しようが
あるいは消滅しても差し支えない
利にぶら下がるすべての機構や組織は
大変だと騒ぎ立てるだろうし
みんなの生活が成り立たないよと脅すだろうが
ぼくらはずっと成り立たないところで
我慢したり工夫したり苦労したりして
ギリギリ成り立たせてきたから
そういう煽りや脅しは全部嘘だと見透かせる
ぼくらを含め
全体不如意の道を選択するほか無かった者たちは
そんなものを後生大事と思っていない
人間の質が違う
片方は上位や優位の椅子に執着し
もう一方はそうしたさもしさや
見苦しさが耐えられない
前者は下位の人間を見下しがちで
後者は偉ぶる馬鹿の発言を許しがちだ
どちらがいいとか悪いとかではなくて
歴史はその二層に色分けされるように進んだ
なるほど文明も文化も高度に発達したが
肝心要のところは皆からっきしだ
ぼくらは人をではなく
いとも容易く流通する
そんな思想性を見下しているのだ
2024/03/22
「論的心像」
お彼岸に墓参りの
伝統・風習・準規範は
主に先祖の供養を目的としている
大昔であれば村落の端っこ
ちょっと遠くても隣村くらい
歩いて半日程度の往来ですんだ
現代では都会から田舎へ
地方都市から山漁村へ
鉄路や高速道路を使い
電車やバスや車を利用する
なので伝統・風習・準規範は
少しずつ少しずつ
拘束力が弱まってきた
時代の変化が
生活環境の変化をもたらし
それはまた多様性の考えをもとに
全体としてみれば
ばらける方に進んでいる
逆に見れば
社会や国家と言った全体性よりも
家族や個人の事情が優先され
家族と個人とではまた
個人の意向が大事になった
この事は知識や技術の
専門化や細分化の流れに
構造的によく似ている
反面統合や総合が難しくなり
分子構造的に不安定感が増す
以前は文学や思想が
統合や総合の一端を担ったが
いまは勢いをなくしている
2024/03/21
「消えゆく記憶と再生と」
定点カメラの風景を季節は巡り
そんな中 無言の蟻の行列
無名の群衆 そのひとりひとり
気の遠くなる長い歳月の間では
精神の内側にも季節は巡り
季節ごとに風景が変わり
見えない数々の殺傷もあった
たとえば老いたる男たちの間では
かつての眠狂四郎の円月殺法や
座頭市の抜刀術などが
何度か繰り返された筈だ
長い年月の間に
殺傷の記憶も無意識に沈み
ほら梅の花開き和む今日
レンズを通過する光には翳りもない
そうして大小の都市には
意識や言葉の行列が
白昼の午睡の内に流れ続けている
サラサラと
そしてドロドロと
2024/03/20
「意固地と天邪鬼」
しばらく前から本が読めなくなった
近視と老眼と白内障のトリプルパンチ
意固地と天邪鬼が降りてきて
メガネの買い換えや
白内障手術なんかもするもんかって
他人事にする
めっきり本を読まなくなって
活字はもっぱら
パソコンの拡大機能
それも目が辛いので時たまのこと
書棚と書棚からあふれた書物は
ただ悲しげに色褪せて行く
いつか読み返そうといういつかは
もう来ないのかも知れない
思えばそれらの書物から
ずいぶん教えられたり
助けられたりしたこともあった
ぼくの頭の半分は
おそらくそれらで育ったのだが
いまとなれば
それと確かめられるものは少ない
はっきりしてもいない
わずかな余韻を種にして
わずかなそれをメスにして
腑分けに臨み
錆と鈍さに四苦八苦
もう止めたらいいのに
いろんなことから退けばよいのに
そう考える先からまたしても
変えられぬ意固地と天邪鬼が降りてきて
意味も無い不毛と徒労にせき立てる
誰も止めてくれぬ
73歳の春の今日
日記には「暴風警報」の文字
2024/03/19
「凡人考」
善人とは言えない私にはよく分からないが
善人の人生はきっと良いものだろう
だがそれ以上に
凡人の人生はもっと良いに違いない
それはまだ私の中で確定していないが
親鸞さんの悪人正機説から考えて
悪人でもない半端な凡人にも
往生とまでは行かなくとも
現世の中で光が当たる部分が
気づきにくいのだがあるはずだ
という思いが私にはある
人を見下すこともなく
妬み羨みにも距離を置く
欲張らず
ほどほどの暮らしに満足し
争いがあれば
心震わせて遠離る
人の視線には
大気のごとく透明で
控えめな喜怒哀楽は小さくて見えにくい
周囲から取り沙汰されぬ淋しさは
いつも静かな微笑に変える
印象は薄く苦にされない
善くも悪くも範たりえない
そういう風姿風体は
自然や無名に溶け込んで
生き急ぐこともなく
頭を抱えることもなく
ただその時にやるべきことをやり
それは実に
遠く及ばぬ私の願望の立ち姿
古代から未来へと貫く
ただ一点に収斂する価値の源泉
心優しく穏やかな無名
私はそれを理想の人と呼びたい
人間はどう考えても
詰めて詰めて考えるほど
それがいいのだ
人間の分を知って
利害に余計な頭を使わない
あるべき姿でただそこにいる
それが価値で
それが理想だ
2024/03/18
「ここに立つ」
考えるのも
言葉を紡ぐのも辛いので
垂れ流しの映像を見
音声を聞き
日々に逃げる
日々を解き放つ
自分を見失わせて
明日また考える
それもやっぱり辛いので
早々に切り上げて
逃げる
解き放つ
迷走に潜ってを繰り返す
ただ遅々とした
その無為と徒労とを
あからさまにする
その生涯には
特筆すべき程のこともなく
それでもいいよねと居直って
ごくふつうに生きてきて
ごくふつうに頑張って
ヨブ記のように報われず
貧しさを不毛のように背負って
野心といって欠片もない
人人人に埋没し
褒められることもなく
わずかに家事に精出して
いまもほら
すぐそこに立っている
あなたに向かって
本当は告げたいのだ
普段着の言葉で
語りかけたいのだ
うそ偽りなく
ぼくの現在もこんなものですと
そのうえで
少なくともぼくにとって
あなたが価値なのだと
きみがいるから立っていられると
そう教えたいのだ
2024/03/17
「無名の人に」
労使の労が辛いとなって
今は言葉を刻んだり紡いだり
ただそれだけが残ったかも
たとえば心の中を鳥となって
パチリパチリと
シャッターチャンスを窺う
その振る舞いの
寂しいことは抜きにして
その振る舞いの
空しいことは抜きにして
わたしよ
ただひたすらに
花咲かぬ詩を書き続け
実のならぬ詩を書き続け
そういう詩でもいいのだと
そういう詩だからいいのだと
無名の人に
そっと届けよ
それをもって
小さく群れなす
無名の人々への挨拶とせよ
2024/03/16
「腐葉土」
肥料も腐葉土も
しばらく縁の無かった庭では
黄楊や山茶花が痩せ細り
つつじや紫陽花や南天も貧相なままだ
それらの生け垣と庭樹は
家を買った時にすべて
亡き父が設置の労を引き受けてくれた
あれから四十年近く
ほとんど手入れもしていないので
そのことはそのまま
それらの立ち姿に表れている
それでも玄関の目隠しに植えた杉が
ずいぶんの背丈になったので
妻は数年前に
根っこから抜こうと言った
結局一本だけ抜くことにして
残りは芯止めして剪枝することになった
世話などする気も無いくせに
すべてを抜くことに
わたしには少し抵抗があったのだろう
それらの庭樹はみな
まだわたしたちのものになってはいない
そういう気が今でもして
肥料や腐葉土を買い求めて
土に混ぜまた根元に盛りなどしていた
在りし日の父の姿を思い浮かべ
わたしの言葉や詩は
肥料とはならないまでも
いつか腐葉土になれるんだろうかって
しみじみと考えたりもする
2024/03/15
「老害論」
世界の中の大国とか先進国とか、あるいは常任理事国とか言うもの。もっと言えばすべての国家というものは、現在ではすべて国民や住民生活者にとって、あるいは他国にとっても、老害かのように存在している。
依然としてさまざまな場面で影響力を持ち続け、影響力を行使し、利用したいものにだけ利をもたらし、それ以外のものには直接的に間接的に害をもたらす。大きく見れば利よりも害の作用が広く強い。
現在世界に網羅した国家はそれなりに紆余曲折の歴史を持ち、洗練され、成熟した側面を持っている。官僚の天下りが依然として重宝がられるこの社会では、国家もまた重宝がられ、国家の消失は想像も出来ないことであり、国家があって当たり前というのが常識となっている。
国民にこのように周知徹底させ、国家は堅固な存在に自らを構築してきて成功を収めた。しかし、堅固に成熟してきた反面、複雑化、重層化、あるいはいっそうの多様化が進んだ今日の社会において、成熟は同時に硬直化として作用するように見える。
硬直し高齢化した国家のもたらす影響力は、社会とそこに暮らす人々の活力を失わせる。その兆候を誰もが察知し始めて来ている。だからもう大小すべての国家は、そろそろ歴史から退場してよいのだ。さしあたって国家の無い社会をどうイメージするか、それが今日的な思想の課題だとわたしは思う。
2024/03/14
「ひたすらの無」
切っ先ただその上に
立ち止まる心
息を殺して対話して
行きつ戻りつ
不安な砂時計が
音も無く墜ち続ける
微弱な震動が
言葉の足下に伝わり
細い切っ先の上
綱渡るバランス
心細く止むことが無い
ひとりする
発条仕掛けの遊戯
その心
重く持て余し
差し出す触手が空を切る
極限に露出した
ただ原初に蠢く奇跡
乾いた泪の汗を滲ませ
無音の中を
後ずさりするのは
ひたすらの無
2024/03/13
「評価の我慢」
苦労が分かるとか
気持ちがよく分かるとか
安易に言うなという言い方がある
例えばスポーツのチャンプに成ったことのない者が
成り上がる過酷さも知らないくせに
分かったふうを言うなというような
気遣いと敬意と擁護の言い回し
普段よく聞くし
使うこともある用法である
この言で行けば
政治家も会社社長も
ふつうの人や平社員にとって雲の上だから
常に過酷な労苦に直面し
自己を犠牲にしながらもみんなのために尽力し
リスペクトされるべきということになる
確かにこれにも一理ある
だがしかし
人並み以上に努力して
自他共に認める上位に上り詰めた者に
文句をつけてはいけないことになってしまう
身を粉にして生きることが
一番の価値になってしまう
ぼくは全体そういう見方考え方は駄目だと思う
チャンプだろうが政治家や社長だろうが
その心と頭の働きは大衆一般に同じなので
物差しを使ってみるから別になる
物差しはみんな作られた恣意のものだ
だから本当はどう評価するのも勝手だが
評価したいところを
ぐっと我慢するのが一番よい
2024/03/12
「福寿草という花のこと」
ある建物と裏山との間の
ちょっとした日の当たる場所に
むかし福寿草を初めて見た
黄色に可憐に咲く花で
特に目を引くわけでは無くて
調べたらそれが福寿草だった
名前だけは聞いたことがあった
雪解けの後で
黄色の濃い花の色が目立った
葉っぱは独特な形と色をして
全体を人間に例えれば
農家のくせの強い娘
キャラが濃い
山野草には個性の強い
そうした姿形の花が多い
人社会にもまれて
観賞用に洗練された美ではない
それが好きというのでも無い
ただそう言うものがあって
そういうものを見たと
思い出しただけだ
それでまあ
生きていると
深くは関わらない
そんな出会いや出来事が
数限りなくあると
そう思い返してみている
2024/03/11
「概念に乾いた砂」
概念に乾いた砂が
何処までも続いている
行きつ戻りつの道に
ただ人の世の
人の集まりに拗れた糸の
近く遠く
潮騒となって
鳴り響くばかり
小さな蹉跌はそのままに
デジタル化して化石化し
立ち止まったり後退したり
ひっそりと
身を隠すべき隙も無い
われわれの心には
一番それが無い
逃げて身を整える
場所が無い
わたしはそれを
言葉や文字や
詩に託したいのだが
古代人の
自然に絡めた
素朴で太い吟詠には
とてもとても
敵わない
わたしの心にはもう
森も風も鳥も無く
立ち止まる光も
焼き付いた夕暮れも無い
辿り着いてみれば
ただ概念に乾いた砂が
空洞に舞っている
2024/03/10
「鬱屈の気」
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市内の求人は5件ほど
たいていは介護関係
それに警備や保育や調理補助
眺めながら
そんなのやりたくないと思う
労使の労はもうたくさんだ
こんな世の中の仕組みにしたのは誰だ
太古に戻って土地を持ち
田畑を耕し食を得て
森に木の実を探し
川で魚を捕らえて日を繋ぐ
そういう貧ならば
今よりも遙かに生き生きと
喜んで耐えもする
そういう気がするのだ
そしてまた
似たような境遇
同じように鬱屈の気のひとが
世の中にどれほどいることかと
思いを馳せ
また思いを巡らす
今この時の衣食足りても
なぜ心はこんなにもくぐもる
なぜ思い煩う
森に隠れ住まう獣たちも
風雨にさらされる草木も
人のする思い煩い
あるいは自己嫌悪に
おそらくは苦しむこともない
心を捨てさえすればと思うのだが
心はやはり我々の身体を
離脱しはしないのだ
2024/03/09
「評価戦線からの逸脱」
価値基準の違い、評価基準の違いというものはとても悩ましい。自分のそれと、他者、もっと広く言えば社会との差異は、突き詰めて考えようとすればするほど決定的だ。
日常生活的なところで言えば、人はいつも社会的な評価を気にし、またそれに晒される。高く、あるいはそこそこに評価されたいという願望がまずあって、たいていそれは適わない。自分では一生懸命に務めているつもりなのに、他者に、社会に、それが認められ評価されることは少ない。あるとすれば小さな仲間内とか、身内の中でだけだ。そして、ほとんどの人はそれくらいのところで生涯を終えることになっていると思う。
わたしのように社会性のない生き方をして、さらに自己評価も低いところで納得しているものにとっては、それくらいの評価があればもうそれで充分だろうという気がする。しかし、個の立場に立てば、他人や社会の価値観や評価の仕方にはどうしても不服を覚え、異議を申し立てたくなると言う気持ちも分からなくはない。
つまり、こういう問題は何処まで考えても解決がつかないというのが本当のところだ。それでいて個人にとってはいつまでも悩ましい問題となる。
他者や社会の価値の置き方、評価の在り方に異和や反発を覚えるのは、覚える側に異なるそれが身についてしまっているからだ。それに執着すれば当然軋轢が生じる。
悩まずにすむための一番の解決法は、自分に身についた評価や価値基準を手放してしまうことだと思える。そうすれば、考え方次第では他者や社会の評価を無効化することが出来る。実際に無くすと言うことではないが、それに囚われない立ち位置に立てると言うことだ。反動で孤独を余儀なくされるかも知れないが、自立の拠点に立つ、新たな自由人の道の開拓者にはなり得るかも知れない。
2024/03/08
「抗し得ない道」
春めいた空にも届かない
小鳥は飛ばず
福寿草も梅の花も
壊れたカメラの中だ
結局のところ
何に支えられているかと言えば
足下の土と
土に滲みた水と
丘の上の風と
ふりそそぐ太陽の光と
イメージする心だけだ
まひる時の静寂と
電網の喧噪と
ぽつんと取り残された心
微かな希望としての暗黒も
気がつくと
すっかり掃かれた霧となって
ぼくらの視界から
消えていった
化石化が進む歴史
手探りの考古学
もちろん
未練たらしい
ストーカー行為や
創り出される
妄想の類いは
全部だめだ
呆けて生きてみせるか
極限まで引きこもるか
道は二つに一つで
たいていは引き裂かれ
我が田に水を引く
抗し得ない道を
賑やかにか寂びかにか
辿る仕儀となっている
2024/03/07
「みんな言葉に仕舞い込む」
座椅子でウトウトする
夕食後のお決まり
モニターにYouTube動画を流し
以前はお笑いやエンタメが主だが
最近は武術や女子卓球を
見るようになった
どうであろうと
なんであろうと
この暮らしは快だ
老いて手にする
怠惰の快だ
ちょうど今は春三月
いい人になること
よきことをすること
などなどの
生臭い思念からの卒業には
持って来いの季節
四月からは
やむを得ず生きる
これを座右の銘として
夢も希望も持たず
すべての義務から
姿をくらまし
その日その日を
受け身で暮らす
考えるべきは考えた
やれることもすべてやった
愛も願いも届かない
さて還りがけ
分かったことも
面白いことも
みんな言葉に仕舞い込む
そういうもんだぜ
趣味の詩は
2024/03/06
「詩と微笑」
花を見て
子らを見て
笑みを湛えて
日をつなぐ
何気ない日々の暮らしの中
そんな老女や老爺が
羨ましくて
ああなりたいなって
妬ましい
価値ある生き方
価値ある老いって
そういうもんだ
遅ればせながら
不得意ながら
四の五の言わず
ラストスパート
詩は
微笑んで書く
2024/03/05
「言葉さがし」
深夜は寝静まった昼
電網の森ではまぶたの裏に
小さな光の粒をさがす
だらりんと集中して
言葉の羽ばたきを待つ
樹木に隠れた神秘の池
猟銃の照準を合わせていると
そこはもう砂浜に変わっている
ゆったりと寄せては返す波で
言葉も行ったり来たりしている
埃になじんだ部屋は
長い間黙って横たわっている
饐えた匂いも湧いている
此処に生まれて此処に死ぬ
呑み込んだ言葉は苦い
2024/03/04
「心象の空疎」
花鳥風月と言っても
幼い頃は極々身近にあり
振り返るものでもなかった
もっと昔の人たちは
朝から夜まで自然の傍らに生活し
花鳥も風月も心に住まうものだったろう
ほかに興味関心を向ける対象もなかった
その分思い入れは太く厚い
現在のわたしたちの
生活の傍らには何があるだろうか
花鳥風月に置き換わって
何が心を占めているか
意外なところでは人間というのもある
人間関係が驚くほど密だ
職場に学校にショッピングセンターなど
人の群れを見ない日はない
プライベートでは
テレビとかインターネットとか
画面越しに視聴する時間も多い
それらもそしてそのほかも
対象としては多種多様で
どれも象徴にはなり得ない
現在のわたしたちは
花鳥風月どころではなくなってしまい
それに変わるものにも出会えていない
分散した心は
路傍の草や小石をついばみ
繁みに引きこもる
2024/03/03
「眠れる夜は眠れ」
大昔から衣食住には苦労して
改善も改良もされた
今はずいぶんと良くなって
太古からは夢のように
快適な暮らしをを手にしたわけだ
それでいて
今には今の苦労があり
老朽化した住まいをどうしようとか
すき焼きじゃなくもつ鍋にしようとか
家ではなるべく厚着して
燃料費を節約しようとか
心にかかる苦労や負担は
けっこう切実なものがある
食べ物がなくて何日も空腹で過ごす
凍てつく夜に眠れずに過ごす
そんな体験はないだろう
と言われても困る
たしかに「貧」の文字は同じでも
その質と重さは違う
心はけれど
「苦」は「苦」として感受して
感受の針の振り幅や
メモリの数値の示すところは
さしたる違いが無い
苦しいと言えば
やはり苦しいのだ
どうにもならない時
太古には自然や神に祈願した
それでもだめな時は諦めた
現代では祈願よりも
金
金
金
金があればと考える
それがなかなかどうして
願うものには縁遠い
獲物が狩れないように
金に不自由して
太古も今も
たいていの人々の
たいていの日々は
「苦」と同居している
だから生きるとは
そういうことかも知れないし
それならば
嘆いてばかりもつまらない
歯の食いしばりは解いて
愚と貧との人よ
眠れる夜は眠れ
朝目覚めたら
ぼくらを思え
2024/03/02
「入力がずっと0なのに無理に出力する時」
読み書き
読み書き
バッサバサ
読み書き
読み書き
バッサバサ
切る
読んで読んで
書いて書いて
バッサバ
バッサバ
バッサバサ
読んで読んで
書いて書いて
バッサバ
バッサバ
バッサバサ
バッサバ
バッサバ
バッサバサ
切る
切る切る
切る切る
キーリキリ
切って切って
切って切って
キーリキリーの
カークカク
画掻く
核各
カックカク
角格
閣欠く
カックカク
斯く確
描く郭
カックカク
書く
2024/03/01
「とある領域の入り口で」
エロスから見放される
ポンコツの極みはこれだが
茨の中を引き回された
傷だらけ血だらけの
若き日々を思えば
老いた命と肉体の衰退は
魂が浮いたように身軽だ
思いもしなかった
歳を重ねての
おまけの一つがこれだ
もっと用無しに
もっと役立たずに
いっそ晴れ晴れとして
軽みのうちに
足の裏から離脱が
始まろうとしている
離脱しきれぬ生と
到達間近の死との中間に
見えない次元と
位相とが広がっている
上手くすれば無敵の領域となるが
下手すればもぬけの殻
無敵を信じれば無敵
自在を信じれば自在
どうする
人知れず人界を超越して
歓喜の日々を
ひとりして歩いてみたくはないか
微かなエロスと
白い香りの欲と
死ぬ直前の細胞の輝きに
身と心とを委ねながら
さてこの先は
存分に大気を味わって
暮らすのだ
2024/02/29
「人生の一小事」
増税のタバコは
台所の換気扇の前で
換気扇に向かって
吸ったり吐いたり
後ろめたい
数十年かけて
少しずつこうなった
その時に当たり前で
おおっぴらにしていたことが
いつの間にか逆転して
気がつくと
恐縮しながらやっている
あれもこれも
あっちにもこっちにも
そうして口には出さないが
ある日のある時刻には
心は『もうしわけない』で
埋め尽くされている
イヤイヤイヤイヤ
違うでしょって
微かに身震いさせてもみるのだが
海辺の砂浜に
寄せては返す波のように
時も思いも
サーッと洗われて行く
老いたる我が身は
ただ取り残さる
2024/02/28
「迷走の途次からの雑感」
学校ではたくさんの試験を経験する
試験には評価が伴う
そこはまだぼんやりしているが
子どもにもなんとなく
難儀なものに感じられていると思う
繰り返しているうちに
その習性が身についてしまう
自分の外の
社会とか世の中とかは
試験の形を取ろうが取るまいが
課題を持って立ち塞がるもので
個人はいつも
見えない課題にも対峙して
解を示さなければならない
課題に含まれる
社会や世の中の意志や意図を
読み取ろうと身構える
幸福になるための解を探す
全体が幸せになるための解を探す
平等な社会とか
世界の平和とか
課題は何でもよいが
ぼくらが頻りに考えてきたことは
試験の延長上で
解を探しているに過ぎないのじゃないか
こんな生き方は
学校化の末路であって
幸せな生き様とはずいぶんかけ離れている
そのうえ近代以降の学校教育
その影響をもろに受けていて
重症化した申し子だ
こういう所をえぐったり
あぶり出したりして
後の世代の人につなげて行ければ
と思いつつ
歳だけは長老とか
達人とかの域に達したが
とてもとても
闇深い迷走はまだまだ続くなあ
2024/02/27
「主体の二重性」
視線を足下に落とし
畦道を小走り
一瞬立ち止まり
視線を先に送ると
蛇の目が
田んぼの水の中から
こちらを窺っていた
ずいぶん昔のことだが
その時の足を止めたことや
視線を足下から
数メートル先に送ったことには
何か理由があったはずである
違和感があったとか
気配を感じたとかの類いだが
言ってみたいことは
その反応とか反射は
「自分」が主体となった
反射や反応ではないということだ
主体としての「自分」は
田んぼの先の川をめがけ
小走りに急いでいた
魚釣りのためか
友達と遊ぶためだったか
心も身体も
「自分」のすべては
川という一点に向かっていた
それは狭義の「自分」で
その奥に
あるいは背景に
広義の「自分」がある
時折この「自分」が
意識と無意識の裂け目から
不意とこの出来事のように
表層に浮かんでくることがある
太古の生命的な名残とか
面影とかが
我々にも継承されていて
「自分」とは
二つで一つと教えてくる
2024/02/26
「生真面目な冗句」
ふつうの人というのは
保守的な人だ
乳幼児の頃から
世界を受け入れることが
出来た人たちだ
世界から歓迎され
世界から愛されたので
文句をつけようにも
つけようがないのだ
伝統的な暮らしに
喜んで参加できる
秩序ある伝統に準じて
迷わない
ふつうとか
当たり前とかが
価値を帯びたり
理想に思えるのはそこだ
過去や現在の現状に
不満を抱く人は
やはり
そこを変えたいと考える
革新的傾向を持つ
たいていの場所が
居心地が悪い
ふつうや
当たり前になじめない
殻に閉じこもると
孤立したり
伝統から逸脱しがちだ
でもそのことで
新しい生き方や
価値や意味の鉱脈を
掘り当てたりするので
面白い
実際には
保守も革新も
それぞれに
濃淡や強弱の段階を持ち
けして単調ではないが
もしも理想社会が
実現されたとなれば
その時には人たちは皆
保守的伝統的に
ならざるを得ない
のではないか
2024/02/25
「ある懐疑からの言葉」
世間に怯え
夢に怯え
自分に怯えていた
少年はずっと
齟齬として世界を見
齟齬として存在した
何処まで行っても
この世界は違う
という気がしていた
なのでこの世界の
幻想の領域のすべて
人間的な思考や
知の蓄積
つまり
社会を形成し
大きな所帯にして行こう
とする方向性を
懐疑しまた不審した
開かれた社会性は
不可欠なものだったろうか
本当はそうではなくて
できるだけ小さく形成して
獣たちのように
身内で好き勝手して
生きていくことが
人間の本来の特性に
合致するのではないか
本来的なもの
また本能を否定して
理性を強化し
刻苦勉励して
巨大な人間帝国をつくり
それは種の戦略であった
かも知れないが
そのせいで
たくさんの我慢や
協調を強いられ
個々の多様性は
単純化の枠に嵌め込まれた
人間存在は
法に合致しない
規則や規範に合致できない
隙間無く合致するためには
人間を放棄し
AIにでもなるほかない
そんなことは
ほかの生き物たち
動物や植物が教えている
人間だけが
矛盾を抱えた生き物で
やり直すことも出来なければ
脱却することも出来ない
苦しみは永劫で
だからその余の時は
忘れて遊べ
2024/02/24
「老後の現在」
パチンコに出かけ
家では動画を見ていると
一日はあっと言う間だ
余りの時間で詩を書こうとすると
いったい何をやっているんだって
わずかに気が咎める
何のために生まれてきたか
本当にこんなことのために
生きながらえているのか
時々はそう考えて
情けない思いに浸ったり
希望とか理想とかを
思い返したり
本当にこんな柔な暮らしを
いつまで続けるんだろうかって
絵に描いたような怠惰な暮らし
けれども少し深掘りすると
こんなありふれた
ちょっと怠惰な庶民生活は
数千年数万年の歴史が
やっと辿り着いた
恩恵と言ってもよいもので
先人たちの希求の痕跡が
形になったものだとも言える
その意味では
大いに遊んだり楽しんだり
怠惰をむさぼるのも悪くはない
けれども小心者のわたしは
素直に楽しんだり
怠惰をむさぼって
すっかり満足することが出来ない
現代病でもあるだろうが
意味や意義を求め
価値ある生き方を
つい願ったりしてしまう
どうしても
がんじがらめの幻想から
自由になることが出来ない
この中途半端さが辛く
そして悲しいわたしの
老後の現在なのだ
2024/02/23
「青天の霹靂」
昨日の
春の暖かさから一転
今朝はこの冬一番の積雪
早くから雪かきの音
早めの出勤で
ライトを点灯した車が
団地から町道へ市道へ
さらに国道へと流れ込む
そんなにも
エネルギーを解放し合い
人も車もまた社会も
どこへ向かって行くんだろう
自分も一員でありながら思う
ずいぶんと無益なことを
為てはしないか
こんなにエネルギーを消費して
形成され維持されてきた社会は
望んだり願ったりしたものに
なっているのか
社会の上には国家(政府)があり
多細胞の人間個体には意識があり
それぞれ社会なり個人なりを
コントロールできると見なし
そのつもりになって
そうしていると考えている
ぼくはぼくだというように
国家は国家だというように
本当にコントロールできているか
どうかは分からない
人の意識は細胞を理解していないし
政府も国民の意を理解できない
そんなんで
ただ一生懸命に
バラバラで統一のない個体と
統一のない国家とが
それぞれに幸福や平和を願ってもいる
便利に暮らし長生きもして
それならばテレビや新聞の報道に
凶悪な犯罪や利害の争いや
不安な世情の記事が
無くなってもよかろう
善や愛を煽る
コメントも無くてよかろう
暖冬に気が緩んでいたところに
今日の寒さと積雪だ
防衛費の増額の話題と一緒で
青天の霹靂
と言えば誇張が過ぎるか
2024/02/22
「知の循環」
足の裏から下半身
そこから胴へ
胴から胸
胸から頭へと
上り詰める
言葉が起きて
文字を立て
幻想の知を
神経網に巡らす
一巡りして降る
頭から胸
そこから胴へ
胴から下肢へ
足裏へと
血液のように流す
人の知は
そのように作り育て
生の現場
生活の場に投影し
人の個体の
色模様となす
2024/02/21
「黄昏の時」
あちこちを
気の向くまま
足の向くままに
彷徨い歩き
恥ずかしきこと
悲しきこと
苦しきこと
悩ましきこと
嬉しきこと
楽しきことを
いくつも経て
気がつけば
黄昏の時
そういうもんだってことは
しかるべき歳の
しかるべき時に
誰もが出合う既知である
語っても
語らなくても
旅の終わりはそういうもんだ
誰ひとりの例外もなく
気が抜けて
抜けた気は風に乗り
共同浴場の天井みたいに
空に雲となって
一つ所にただ憩い
憩いながら混ざり合う
「しろいくも」
「おおきなくも」
下界では
空を見上げる幼児らが
教えるともなく
教え合っている
2024/02/20
「午前0時を越える」
本当のことを言うと
光も影も
季節も風景も
みんな幻となって霞み
ほぼほぼ消え失せた
午前0時を越えたら
心は何も映さない
乾燥して
肌荒れした言葉が
バラバラ音を立てる
自分の声も
他者の声も
そうなってしまった
言葉は言葉の内に引きこもり
外界との交流を絶って久しい
あたかも資本主義下の
建築材料となり
あちこちで
人工の季節や風景として
組み立てられている
詩人たちもまた
絵画を真似て配列したり
五線譜に書き込んだり
意味するものと
意味されるものとの
書き分けを
いかにトリッキーに
構成するか競っている
未明の店頭には
リンゴを越えたリンゴ
イチゴを越えたイチゴが
美しく並び
くすんだ心の消費者が
値段を気にしながら
手に取って見る
午前0時を越えたらもう
世界はおもちゃ箱に
変わっている
2024/02/19
「時読み」
時間が液状に
無限に広がって行く
空間化して
すべてに関係づけられる
かと思えば
締め切りの時間は
今この時にも
刻々と迫り来る
理解するとしても
この伸縮や変容には
容易に馴れることが出来ない
時間の概念を
考えすぎるためだ
幼児にはそれが無い
時間の概念は必要がない
明日を思い煩うことがない
衰えて
死を間近に感じるとか
余計なお世話だ意識よ
そろそろおまえも
緩やかに穏やかに
砂のようにさらさらと
衰えて行くがいいのだ
そうして幼児の
天衣無縫の生き方に
学ぶがいいのだ
2024/02/18
「生きる」
何をしているかは別として
ただ生きられているから
生きている
例外はない
夢を追っていようが
執着する何かに夢中であろうが
関係ない
この位相では
死ねば死にきり
生きてあるものは
何をしていても生きてあるもの
死んではだめということでもないし
生きていればよいというのでもない
生きてあることには
意味もなければ価値もない
死んで行くことにも
何もない
とりあえずそんなところを前提として
意味もあり
価値も付される人の世に
逆らわずに
そっと身を置く
しきたりや風俗に半身は妥協して
生きられるうちは生きる
生かされてあるものの
それが務めかと
うつらうつらと思いつつ
2024/02/17
「イマジネーション」
読んで面白くて
楽しくて
時間つぶしにもなる
そんな文学や思想は
今この時代にあるのだろうか
この問いを自分に向ければ
これはもう絶望的だ
これから先も
ほぼほぼあり得ない
若者たちはみんな
もっと面白いもの
楽しいものに
向日葵のように向かって
とっくに探し当てている
ミュージックやスポーツや
スターやタレントや
夢中になれるものを見つけている
ごくふつうの
一般の人はみんなそうだ
特別な自分に憧れる
憧れは憧れに終わり
それが太平と言うことだ
ぼくらの考えやその表現は
遙か後方に霞んで
見向きもされない
それには理由がある
その理由を
不問にしていてはだめだ
とりあえず
発生の現場に
足を向けてみなければ
この閉塞は穿てない
2024/02/16
「言葉考」
言葉は観念的な触手である
物に触れて
本質や属性を探査する
遠く原生生物や
原生動物からの面影が宿る
進んで逸れて迂回する
生命的な基礎の末端
最終の形態
その変態は
ほぼ突然の変異なので
どこにもよりどころがない
なので
言葉はいつも模索する
言葉の種は変遷するが
言葉の個は
生涯のように始まり
生涯のように終える
ひとりの生涯の中に形成され
ひとりの生涯の終わりに終わる
だから言語は無数だが
役割としては合同なのだ
言葉それぞれの概念や意味は
道標でもあるが
それが最重要なのでは無い
生命と不可分の属性を負っていて
もはやひとつの
生命現象そのものである
そしてそのことが重要なのだ
観念を生きるツール
現在の言葉は
そういう次元に到達してしまった
言葉は身体を大地として生成するが
肥大してやがて
身体を枯らす
2024/02/15
「縊死からの死考」
もうこうなったら
誰がいつ死んでもいいとしよう
遙か遠く戦火に倒れようが
おさなごの飢餓に倒れようが
あるいは身近な日常に
ロープに縊れようが
老いて穏やかに
息を引き取ろうが
すべて同じ死なのだと
考えてしまおう
自然の摂理による死も
人為の死も
今この時に消えるいのちも
人為によって
僅かに延びたいのちも
そこに善し悪しもなければ
尊卑もなく軽重もなく
痛ましさの有無もない
死は死であると等号に結ぶ
どうせ足下の
朽ち枯れた草木にも
空から落下する鳥たちにも
素知らぬふうの
わたしたちではないか
死の痛ましさ
それからの居たたまれなさ
そうした思いを
どんなに肥大させたところで
ついについに
その事実の前には
届かないのである
言っただけ
書き記しただけ
それならばいっそ
白旗を揚げて
痛ましさの感受を
封印してしまう方がましだ
だからもう
死はすべて同じなのだと
考えてしまおう
どんな死にも
痛ましいという
人の言葉を冠して
それで事は済んだと
いう気になってはいけない
そこから先にも
思考の触手は伸びようとする
そのひとつとして
死は死であると
今日は考える
2024/02/14
「老いの身構え」
どこまでも闇は深いから
風光を流れる人になる
浅く明るく
小魚のように群れて
一つ所にいるのは耐えがたい
滅びと気づきながらでも
もっと明るい場所へ
光の届く浅場へと
掌に視線が加速する
胸の中にはもう
倫理や掟の文字も住まわなくて
壊れた枠の欠片が
無造作に散らばったままだ
指示しているのはスマホ
指示されているのは自同律
あるいは自動律
白昼の午睡のように
平和に浸る
いついかなる時も
穏やかな笑みをたたえて
けして怒らず
半分呆けた老爺の姿と
一歩二歩
下がって言葉を発す
その奥ゆかしさを
体現できる自信は
もうない
望んだ明るさは
未知からの白光に変わり
目を閉じて包まれる
ただその一瞬を
小さな悲鳴となって待つだけになる
2024/02/13
「言霊への畏怖」
本当の言葉がしゃべり始めると
一話から二話
二話から三話へと
少しずつ偏って行く
たくさんの言葉が口をついて出た後に
言葉たちは虹となって
カリスマとなって
そこに新たな宗教が構成される
だからといって
看板を建てたり
信者を勧誘するというのでもない
意図なく真を語り始めたら
いつしか真っ直ぐが
曲線の軌跡を描いている
ただそれだけだ
人を目の前にして
届けと念じて言葉を発すると
人は言葉に取り込まれ
言葉は人を取り込む
そういう磁場が形成される
そこに宗教的な初期が生じ
信心の初期が生じているなどと
誰も考えはしない
考えはしないが
そうやって
たやすく信心と宗教とは
生成される
愛となり友情となり同志となり
黙契が生じ
規制や規範が生じ
拘束が生じ
裏切りが生じる
人はその客観的な
関係性の糸に絡まれて生き
そこから自由であることが出来ない
その時に言葉は蜘蛛の巣のように
人を拘束したり
自由を奪うものになる
だから言葉の働きは
心せねばならない
真を競う体(てい)をして
発話者は自己を貫徹しようとし
もって自利を達成してしまう
そういう言葉の無自覚な
利己機能の横行
それこそはアドルフ・ヒトラー
独裁者の系譜であり
またその末裔に当たる
そしてたいていの場合
時代の象徴と目される者たち
彼らの発する言葉の中に
それが現れる
2024/02/12
「老いを行く」
三十五歳くらいが
人間の生物学的なピークらしい
それ以降は
生き物的にはおまけの時間
になるらしい
しかし人間の
人間学的なピークは
もっとずっと後まで続いていそうだ
七十歳くらいと考えてどうか
そのあたりまでは
まだ幸福を求めたり
楽しさや愉快さも貪欲に求めたりできる
一緒に不安とか苦悩とかを
切実に感じ取ることも出来る
自分の体験で言えば
それ以後は少しずつ霞んで
何事も切実さに欠けるようになる
ふと立ち上がる時に
上半身に下半身がついて行けなかったり
足がもつれたりするのも
その頃から頻繁になる
おまけの身だから
そんなこともあるだろうくらいに考えて
深刻には受け止めない
ボロボロになり
ガタガタになり
人間の生涯とはこういうものか
人の一生とはかくなるものか
などと
最期の方で悟るのも悪くない
その時にはもう
言葉を口にするのも辛くなって
密かに決別して
背を向けるんだろうな
そのずっと前に
文字とは別れてしまって
2024/02/11
「頭の良さ悪さ」
学校の勉強がよく出来ることを
頭がいいと言っているうちは
社会に希望は持てない
解のある問いに
解を持ってするのは
解を探す嗅覚を育てたり
鍛えたりするだけの話で
頭の良さではない
犬や猫のように
嗅覚で解を探し当てて
それでもって世の政に携わる
人間も人間の世も解しない輩が
社会の舵を切っている間は
どうせまともな世は来ない
馬鹿には分からないだろうが
どんなに裏で民衆が
失策や愚策の尻拭いを
黙々と果たして
ダメージを最小にとどめているか
そうした連中に分かりはしないのだ
いわば暗黙のうちに
緩衝の役割を果たしている
本当の賢者とはそういうもので
隙間や穴を埋めて
言葉少なに耐えているのだ
メディアに出張って
ああでもないこうでもない
ああすべきこうすべき
と言うものたちとは格が違う
表層を渡り
表層に巣くった連中には分かるまい
君たちのきらびやかな経歴が
誰のどんな犠牲の上に
成り立っているのかを
それが分からないということは
いいか
君たちが愚かだからだ
頭が悪いからだ
書字学問にうつつを抜かし
不耕貪食の仕組みを
これっぽっちも是正しようとしない
利に賢きものたちよ
君たちが言っている
頭の良さとはそれだ
2024/02/10
「大切なこと」
いくつになっても
暗澹の中に彷徨ったり
迫ってくる
四囲の壁に怯えたり
これまでの経験や体験から
今よりましな明日を創り出せず
蹲ってしまう時がある
そうなってしまえば
心も体も錘になる
すうっと逃れて
遠くへ
人間を捨てに行きたくなる
それが出来なくて
一日椅子に身をもたせ
ふと立ち上がり台所に行くと
「明日のことを思い煩うな」
というマタイ6章34節が
頭に浮かんだ
なあんだ
たったそれだけのことか
思うことは思う心に任せて
わたしはふと立ち上がる
その「ふと」に
成り切ったらよいのだ
思い煩うのは心の仕事だ
わたしは心に住むのではない
眠りが一日のリセットであるように
辛い時には強制的に
そして意識的に
リセットをかけてしまえばいいのだ
それがわたしを
わたしの統制下に置くと言うことで
その時わたしはわたしに戻り
白紙の気持ちに戻り
さてと立ち止まり
また動き出せばよい
その繰り返しだけが
たぶん今のわたしには
大切なことだ
2024/02/09
「幸福の追求」
幸福を求めること
例えば個人の幸福を求めることや
家庭の幸福を求めること
国と国の民全体の幸福を求めることは
これは基本的な権利であり
義務でもあると言ってよいと思う
権利は個人や家庭が利己に働くことで
義務は国や国民全体に向けて利他に働くこと
自分たちの幸福も求めて
自分たち以外の全体の幸福も求めて
これが成せたらとりあえずは万々歳だ
けれどもそれはおそらく絵に描いた餅だ
一般的に言えば
誰かが過分に富を得たら
誰かは富を得られないと考えられる
ある家庭が大きな幸福に満たされたら
巡り巡って他の家庭の幸福度が
少し下がるかも知れないと予測される
昭和の文豪太宰治は
小説「家庭の幸福」の末尾を
「家庭の幸福は諸悪の本」と結んだ
誰かを利する行いは誰かの害になる
単純に言えばそういうことだ
太宰の言い分は
自分や自分の家庭の利のために
行動したことは一度もない
と言うものだったかも知れない
幸福を希求したが
現実には求めることができなかったと
その言を信じてもよい
だがしかし
それが唯一無二の真かと考えれば
そうでないような気もする
個人や家庭の最優先事項は
やはり自分たちの幸福の追求で
個人や家庭はその先の結果に
責任の持ちようがないのだ
そう考える立場もある
仮にすべての人が
自分や家庭を犠牲にして厭わない
そうして利他に尽くすとなれば
誰ひとり幸福を享受できないことになる
大変ややこしいことで
わたしの頭では整理がつかない
2024/02/08
「正気に返る」
もうすぐ終わる
苦しみ抜いた概念が
電源を落とした
モニター画面のように
意味を失う
紙の上の文字も
字画となって
ザワザワと踊り出し
縁から身を投げる
こうして人は
正気に返る
時代の
夢とまぼろしの
舞台を下りる
2024/02/07
「老いの独語」
仕事をしないとすれば
一日をどう過ごそうか
ひと月を
そして一年を
家の中を
姥捨て山のように見なして
台所や居間や
自分の部屋を交互に徘徊し
そして疲れて横たわり
社会からは隔絶され
死ぬも生きるも自由だなんて
ほったらかしにされても
困るんだよな
やりたいことを探して
趣味を広げて
充実した老後を送れたらいいのだが
そんな気持ちになりきれない
かと言って
拳を振り上げて
討ち死に覚悟の自爆テロ
なんてごめんだ
とりあえず
暇を持て余してみるさ
寝て起きて
飯を食らって
また寝て起きて
その余は成り行き任せで
その時に思いついたことを
試行するだけさ
反復さ
2024/02/06
「無明の底」
きみは生涯を
どんなふうに過ごしてきたのかと
雀さんや猫さんに問えば
雀さんはチュンチュン
猫さんはニャーで
嘘はつかない
人間だって本当は答えようがないのに
学問や研究に身を捧げたとか
ほとんどはテレビを見て過ごしたとか
一つことを取り上げて
そんな自分だと嘘をつく
つこうとしての嘘ではないが
単純化して話すのが相場だ
実態は一言では尽くせない
ことばは実態ではない
それをことばにしようとするから
ことばはいつも嘘になる
現実実存の世界では嘘だが
観念の世界では
真はことばに託されている
そこで往ったり来たりして
人は無明の中に底深く墜ちて行き
次第に声を失っていく
言っても言わなくても
聞いても聞かなくても
どっちでもいいやってなって行く
死に行く時に
持って行けるわけでもないし
2024/02/05
「撃ちてし止まん」
手も足も出ないので
普通なら諦めるところだ
諦めが悪いのは
山間の集落の出だからだ
小猿みたいにキャッキャ
日がな一日遊ぶ毎日
春夏秋冬を一つ超えるたびに
少しずつ街場に引き寄せられた
歩きの通学路から
自転車通学
時々バスに乗り
最後は鉄道に乗って
都市へと運ばれた
つまりぼうっとしてたら
そんな目に遭った
ぼうっとしてたら都市へと運ばれた
いつの間にか
そんな移動の道ができていて
考える暇なく
行けよ来いよのかけ声に
雑踏へと運ばれて行った
ぼくから言わせれば
それはぼくの意志じゃない
留まることも去ることも
まったくぼくの意志じゃない
もともと意志も選択も
ぼくは持っていなかった
なのでぼくの責任は半分だ
後の半分は
ぼくを運んだ外界にある
なのでぼくは諦めが悪い
手も足も出なくなった
責任の半分はぼくにあり
半分の力で自分を打ち据える
残りの半分で
外界めがけて拳を振り上げる
どちらかが息絶えるまでは
「撃ちてし止まん」
田舎者のやることは
論理や科学で割り切れない
時折は予測もつかず
自然気象みたいに荒れ狂う
面白くないよと
何が何でも「撃ちてし止まん」
連呼し続けてきてここまで来た
声もかすれ
目も耳も加齢に衰えたが
「撃ちてし止まん」
時間は残り少ない
いつまでも
ぼうっとしてばかりいられない
ぼくを連れ去った連鎖よ
心しておれ
2024/02/04
「切り替えの美学」
いつだって紛れ込んで行ける
潜り込んで行ける
手を切ることだってできる
頭でなすことのすべてを
サッと取り払って
台所に立つこともすれば
脱衣場で洗濯機を回すことも
躊躇なくやれる
そんなことは当たり前なんだ
それとこれとは違っていて
これをやるからあれができないとか
あれをやるからこれはしなくてよいとか
そういうことじゃない
あれとこれとは別だ
別だから
それもするしこれもする
そんなことは当たり前だ
もちろん
あれもこれもしたくないって
怠惰を決め込んでもいいわけだ
やるとやらないも二つで一つ
気取って言えばそういうことだ
やろうとすればいつでもやれる
いつでも切り替え可能なように
準備は怠らない
そこさえ過たずに見切れたら
その余の現れはどうだってよい
思い切り傾(かし)いで傾(かぶ)いて
「やるだけはやった」
それではみなさん
「さようなら」だ
2024/02/03
「上納される幻想のシステム考」
古代の社会から
初期国家が産み落とされ
数々の権力闘争を経て
国家は高度にまた堅固に成長した
文明文化の興隆をもたらし
人々の生活の質も向上させてきた
今では民主主義国家国民国家として
主たる権威権限は
国家の運営者にではなく
国民や民衆の側に存すると謳われている
ことば通りに受けとれば
国政の中心となる政府は
国民から負託された機関で
国家の主体である国民の意思に従って
国政を掌らなければならない
だが現実実際的には
そうした関係が
うまく機能しているようには見えない
国家内制度や規範や規制が硬直し
国民の多くは
世の中が生きづらいと実感し
貧困や不遇に喘ぐ者もいて
一方に「我が世の春」と
謳歌するものがいて
その不平等不公正は目にも見え
耳に届きもする
国民の負託を受けた
政府首脳や閣僚たちは
何をやっているのか
もちろん何かをやっているに違いないが
同時に毎日のように醜聞をまき散らし
それでいて国士を装ったような
見かけの立ち居振る舞い
これが噴飯物でない訳がない
けれども今日の学者や文化人
文明論者たちは
国家という幻想構造に踏み込まず
国家ありきの論や提言に終始している
修正国家主義の域を出ようとしない
つまり奈良朝以降に延々と続く
小坊主的国家御用達の
知識学問の徒ばかりなのだ
言っていることは
「千年前に比べれば
生活水準は格段によくなっている」とか
「百年前に比べたら
民衆の知的レベルは数百倍高くなっている」
などのありきたりのことばかり
『世界的に国家の賞味期限は尽きた』
などと危ないことには
誰も触れようとはしなくなった
あらゆる知識英知学問が
運営階級の手柄となり
またそのように
懐に呼び込まれてしまう時に
どうして嫌悪や憎悪や羞恥なしに
そこに留まっていられるのだろうか
そしてついに指導者の顔に
変貌してしまうのだろうか
どうして塀の中の
そのまた中央に籍を置いて
制限された発言と思考に終始して
それを是とできるのか
大きな視野を得た小さな専門家たち
無縁の輩たち
賢しらな
若き聡明な小僧たち
2024/02/02
「老後に思う」
暇でたいくつ
食後はソファーでウトウト
高齢者の日常は
老いて呆けて嫌われて
見下され蔑まれ
存在として価値がない
ように見られがちだ
けれどもよく見ると
他の生き物たち
特に哺乳類は
たいていそんな姿だ
狩り以外にはやることもなく
食後はのんびりゆったり
日向ぼっこしたり
日影に涼んだり
まわりでじゃれ合う
子らを眺めていたり
つまりそれは順当な
生き物たちの
日常の姿に近い
人間世界では
ややもすると白眼視され
時間を無駄にしていると馬鹿にされる
そのためかどうか
ウォーキングしたり
趣味の陶芸やジム通い
ゴルフやスイミング
その他の習い事から遊びから
学問も研究もして
いろんなことで
意味ある生き方をしようと
高齢者たちは躍起だ
もちろんそれはそれでよいのだが
けして批判をするつもりもないが
一度の人生に
そんなにパンパンに
意味や意義を盛り込まなくたってと
ぼくなんかは思う
欲張りすぎじゃないのって
なのでそれはそれとして
人間というのは
そこまでやんなきゃいけないのかと
賞賛の気持ちも持ちながら
欲深い人間の性を
悲しく思う時もある
2024/02/01
「あまりに個人的な願望」
CMの数も長さも増してきて
テレビを見ることが少なくなった
やはりネットだと見ていたら
いつの間にかこれもテレビと同じになった
見たくもないCMが
ダラダラと繰り返される
こんなにも嫌われているのに
スポンサーは何を考えているんだ
どこでCMをやろうが
番組にもスポンサーにも益にならない
視聴者はそこから離れて
CMのない媒体を探して流れて行く
視聴者でもある市民にとっては
店頭でまた口コミで情報を得ればすむし
今どきCMを見て購買を決めるなんて
めったにないことだ
メディアとスポンサーとCM業界との蜜月
そこにどれだけの金額が注がれているものやら
その垂れ流しをやめたら
複合化で膨れる単価が安くなり
消費者は安価にものを購入できて
とても助かる
旧態依然の悪癖をやめて
視聴者本位
消費者本位の仕組みや構造に
早くできないかなって切に思う
2024/01/31
「冬の姿」
雪がない
凍り付かない
こんな冬を歓迎したい
ぼくの記憶では
一月でこんな天候は珍しい
日差しがそして体感が
もうすでに春めいている
記憶の冬はもっと厳しく
一面の銀世界が
冬といえば定番だった
長靴履いてキックキック
子どもの頃の
凍える冷たさと
まるで無の世界の情景は
もう今の人たちには伝わらない
暖冬は老いには優しいが
また切なくもある
母の後を追い
川の薄氷を割り
洗濯を手伝ったことがある
愚痴をこぼさぬ後ろ姿だった
大切なことをたくさん学んだ
本当にたくさんのことを
もうぼくも
そんなことを思い出す
そんな歳になったんだ
2024/01/30