「てならいのうた」
 
「タイトルは『萎える』」
 
過剰なサービスは
コストも膨れる
新規のサービスを
ひとつ立ち上げようとすれば
事前の準備やキャンペーン
新たなスタッフの採用
財源の調達
いろいろある
いったん出来てしまうと
今度は維持することが大変
そのうえそのサービスの
需要がなかったり
効果的でなかったりすると
要するに投資の無駄遣い
的なことになる
我が街と近隣の街の
市役所や町役場の建物は
やけに近代的だし
大きくて立派だ
それを見るだけで心が萎える
 
この頃は
部屋に籠もって
よくタバコを吸う
三十本から四十本
多いと五百八十円が二箱
一日千円でも
ひと月で三万円
そのうち税金は一万八千円くらい
一年だと十万超え
それも 過剰で
余計なサービスや団体の
補助や維持に使われる
職場環境の
改善快適にも資するかも
普通に嗜好品だった頃からは
予測できなかった変化
極微の戦前と戦後に萎える
 
子どもに勉強を教えると
学校や教育委員会
そして文科省が大きくなる
地域の公共サービスが
あれもこれもと増えていくと
どんどん役場が立派になる
「よいことがある」
と言う大きな声の裏には
必ず嫌なことが
隠れている
公共サービスは
実によく出来たビジネスだ
市民の生活に資すると言いながら
市民生活よりも
提供母体がより充実していく
従事者たちの生活が
順調に豊かになる
「豊かな街作り」って
多分そう言うことだ
地下水をくみ上げるように
どこからでも吸い上げる
吸い上げられる方の生活は
次第に萎える
 
どいつもこいつも善人になりたくて
善を行いながら豊かにも成れる
そういうシステムが大好きだ
人の嗜好を邪魔しても
善を行えたらそれでよい
善の好きな善人に
「禁善」を課したら
わめき散らすだろうな
たちが悪くて萎える
 
2024/05/18
 
 
「癇癪が止まらない」
 
むかし一篇の詩を
毎日または断続的に
十年かけて
読みまた考えたことがある
息継ぎと声調について
もう変わりようがない
と言うところまで繰り返して
終わった
 
あれから
そんな詩に
二度と出会うことがなかった
粗削りで
未熟さも散見されたが
ストリートファイターみたいに
仁王立ちして
かかって来いと手招きしている
そういう挑戦的な詩であった
 
今も昔も
優れた詩としての表現や
愛誦される詩も
あることはあるが
どうだろう
そうした上質さ
高級さというものに
わたしはあまり惹かれない
どんな詩も
十回を超えて読み直すことは稀だ
その時のその一篇を除いて
 
『固有時との対話』
読み解くのに
長編小説より時間をかけ
今なお明確に理解し切れていない
始末が出来たとは
思えていない
あれから五十余年
わたしには格別の一篇
問いも応答も
無限に広がるばかりの抽象
十年の直接対話に耐え
なおも問うことを喚起させる
動的で懐深い詩
そういう詩をかく詩人は
今もいるか
そういう詩は
もちろん現在に見合う構成でだが
どこかで書かれているか
さみしいことに
わたしの全ての趣味の詩は
その一篇の詩の重さに
比し得ない
さみしいことに
圧倒的なあの詩の重量に
その後再び出会えた
というためしもない
 
とうの昔に了解済みだが
こんなふうに安っぽい
一篇を成すたびに
あるいはまた
詩の界隈を横切るたびに
本当は今も癇癪が止まらない
 
2024/05/17
 
 
「50の人よ」
 
30代後半から
毎日『そろそろかな』と
身体に問いかけながら
今年の2月に
73歳となった
少しも『そろそろ』は
やって来なかったのだが
現在でも
何かというと
『そろそろかな』と
呟く自分がいる
 
50の人よ
すでに大きな夢を
若くして叶えてしまった人も
若くして夢破れ
境界に佇む人も
さて これまでと
おんなじ50年のスタートライが
きみたちの目の前にある
ぼくらの時代は
人生50年が相場
それが今は100年
50の人よ
もしかすると
『そろそろかな』と
考え続けている人よ
ぼくに言わせれば
『そろそろかな』の
『そろそろ』は
いつまで経っても
来ないものだ
でなければ
不意を突いてやってきて
その時はお終いになる
さて 50の人よ
これまでの生涯と
同じ歳月が
目の前にあるとして
これからのその歳月を
きみはどう生きようとするだろうか
ゆるやかな延長としてか
もっと強く歯を食いしばってか
あるいは過去の自分を
葬るようにしてか
50の人よ
ぼくはもう
この大海に座礁した
言葉の破片をすくい上げ
乾かして
紙の上に整理する
だけで精一杯だ
配達までは手が回らない
だからいいか
自分の言葉は
リュックひとつに
まとめておけ
何が何でも座礁はするな
 
2024/05/16
 
 
「まといつく泥濘」
 
大気の底も
清流の底も
たいてい底という底には
泥や澱が堆積している
そっとしておいて
上澄みを掬えば
生活用水にもなり
地表に学校も建てられる
けれども上流から下流
標高数千からゼロ地点まで
泥や澱がない所はなくて
出来た学校の土台に
教室の床下に
社会の泥も澱も
積もり積もっている
という道理だ
 
浮いた言葉と勉強と
廊下や校庭を走る子らの足
まといつく泥濘
はじめから悩ましく
変だと
感知するのがヒト
地上を闊歩した
末裔の足が
気づかぬわけがない
それでもと言うべきか
それだから
と言うべきか
まといついた泥濘は
「あかいとりことり」
やがて上澄みにまで拡散して
社会的という層に
澱となって沈む
貧と富との間に
上と下との間
清と濁との間
尊と卑との間
陽と陰との間
人と人との間に差し込まれ
心と体のろくろっ首
魑魅魍魎の
安穏と均衡
そんな自画像に
もうだれも
気づけやしないさ
これから先は
人間は美しいと
自己欺瞞して
生きて行くほかはない
 
2024/05/15
 
 
「終焉のない舞台」
 
原っぱから帰還した子の
手と一緒に石けんを泡立て
水ですすいでやった
あの日の記憶は
息をいっぱい吸って
長い間夜を徹して
くぐり続けないと
辿り着かない
 
雪と氷の冬は
小さなモミジに
ひとつずつ
手袋をかけた
大きめの長靴で
コタンコタンと
駆けて行くのも
あの原っぱ
 
ずいぶんと奥にしまわれた
懐かしく幸福な記憶ほど
重なる層の最下層に
大切に保管されるものか
時折鍵を開け
丁寧に広げてみる
という余裕も
あるかないか危なっかしい
 
未踏の老いはまだ青臭く
鏡の前でこっそりと
ファイティングポーズをとる
ギラギラした目で
老いることさえ阻止されて
懐かし記憶も
隠居の様な振る舞いも許されず
長生きの分をただ
若くあるようにと努力する
脅迫じみた老後は
なんだかかわいそうだ
往きと還りの境で
ブレ続けて
縋るべき範もない
差し迫る他界の入り口で
ただ慌てふためく
このままでは
人間界の外へ
人間の外へ
連れて行かれそうな
そういう気もしたりする
 
終焉のない舞台に
戸惑いを隠せないまま立ち続け
よく晴れた日に
何処ともなく
旅立とうとしている
不思議なことに
心には
少年の姿がある
 
2024/05/14
 
 
「おとぎばなし」
 
乳幼児期に宇宙人から「ゲンゴ」を
埋め込まれたわたしたちの「ソセン」は
それ以降すっかり「ゲンゴ」に侵略され
「ゲンゴ」はわたしたちの生命と
不可分になった
「ワレワレハウチュウジンダ」と時折
わたしたちが巫山戯てそう口にするのは
あながち嘘偽りと言って片づけられない
地球に侵略し地球を征服する初期の使命を
わたしたちはふだん
意識してやっていることとは別に
「ゲンゴ」的という仕方で
やってきたのではないか
 
わたしたちがふと世界を見渡す時
この世界を破壊に導く歴史が
フラッシュバックするように
思い起こされる時がある
たぶん埋め込まれた「ゲンゴ」の
動作不良や回路の異常によるのだが
日常の意識の下で
わたしたちが気づかぬ
何かの活動が繰り返されているらしい
大昔に「ニンゲン」と呼ばれていた
わたしたちは今
急激に「ゲンゴ」に特化した
「ゲンゴ」を食べ「ゲンゴ」を飲み
「ゲンゴ」の「オトコ」と「オンナ」が
「ゲンゴ」様に性交する
全ての物質物体も「ゲンゴ」化され
地球から宇宙の隅々に到るまで
物的世界は崩壊し
「ゲンゴ」がとって代わろうとする
「ゲンゴ」が
宇宙の覇者になってしまうのだ
すでにわたしたちも
「ゲンゴ」に乗っ取られてしまい
わたしの主体はわたしではなくなっている
そんなわたしたちが言うのは
決まって否定できない正当な文言
つまり「ゲンゴ」だ
その時わたしたちは
非「ゲンゴ」的な領域で
もううんざりだ
という顔つきでいるはずだ
 
2024/05/13
 
 
「達磨さんの警告」
 
手も足も出ない
達磨さんになったが
ほんとは昔からこうだった
昨日までの手足は
仕事をし
家族を持つことで作り出した
幻影の四肢だ
世の中での立ち回りに
ぎこちなさがあったのは
そのためだ
そうやって
人並みに生きている
振りをしていた
そうやっていることで
最低限の存在意義を
自他に向けて
納得させていた
納得させようとしていた
のかも知れない
 
無職になり
身を引く形になってみると
趣味の詩をかく以外
何の執着も無い
つまりは昔も今も
達磨さんで
こんなことをする
そんなことがしたい
そういう何ものもない
だからもう幻肢は無用で
倒れた振りも要らない
幻の手足の労苦なんか
語っても意味がない
隠さず言えばつまらぬ老後だ
ゴルフも山登りも
やる気がしないし
生涯学習にも興味が無い
なので一人達磨さんごっこ
ビルほどに高い時間との対峙
空白の光景からの読み取り
小突かれて前後左右
起き上がり小法師の日々
 
せめて若い人に警告しよう
自分が何をしたいのか
やりたいことだけをやり
好きなことだけをして
若い時から老後まで通して
楽しくやれることを
やりきるのがよい
ぼくのようでは駄目だ
達磨さんになっては駄目だ
 
2024/05/12
 
 
「とあるイメージの唄」
 
犬猫にも
脊椎動物約五億年の
進化の歴史が埋め込まれ
それを携えた上で
それぞれの種の末裔として
そこに存在している
もちろん
生命の起源から数えると
約四十億年という
途方もない時間と
その中での進化と
活動の経過を経なければ
今ここに存在してはいない
生命の誕生が奇跡的というなら
原初に繋がりつつ
多様化しながら
現在に生誕する
と言うこともまた奇跡的だ
生きとし生けるものの
由緒、出自は
原初の細胞から派生し
わずかな種から発生している
源は共通だと
言っても良いくらいのものだ
わたしたちの誕生には
五億年と
更に遡って四十億年という
長い長い時間の経過が
必要だった
それが無かったら
わたしたちは誕生していない
他の動物や植物も同じで
由緒ある四十億年の
歴史的経過を踏まえ
しかもありふれて
いま そこに存在している
 
つまり考えてみると
どんな小さな虫にも
歳月が地層のように埋め込まれているし
その歳月のもとに
現在に適応する姿で
そこに生きている
そしてわたしたち人間も
同じということ
こういう見方をすると
社会に飛び交うさまざまな情報
人間の考えから観念から
地球という生命世界からすれば
異質で邪魔なもの
という気がする
あるいは使い方を間違っている
のではないか
全て40億年の
由緒ある生き物たちを
ぞんざいに考えてはなるまい
この世界は生きにくいとか
辛く苦しく悲しいばかりだ
と思わせてはなるまい
 
2024/05/11
 
 
「老いの手探り」
 
用事も強制もなくなれば
ただ時間に向き合うだけになる
 
動物や植物は
己を維持するだけに忙しい
人間の老人は年金で
とりあえず背中を丸め
ひっそり暮らしていれば
何とかなるが
そのぶん時間が間延びして
ひたすら眺めて向き合って
気がつくと
しなければならない
何事もない
 
一日中
時間に抱きつかれると
飽きてしまう
そのうち苦しくなる
なので
つい逃げたり
隠れたりしてしまう
テレビや動画を見るとか
掃除洗濯をするとか
緩衝材をプチプチするとか
諦めて
本を読んだり
趣味の詩を書いたり
そうこうして
またしても
時間に向き合うこととなる
逃げたいけど逃げられない
逃げられないけど逃げたい
そんなもんで一日を
何とか潰して
次の日に駆け込んで
 
年寄りの
十人に一人くらいは
大抵こんなだ
ちょっと気短な奴は
急ぎ滑り込む
それを見て
用心に用心を重ねる
小心者もいれば
厚化粧して
年齢詐称のウスッペラもいる
それでもけっこう生真面目に
手探りで それぞれに
老いの姿を探っている
 
ここから先は
これまでの経験と知識とで
未知を開拓して行く手筈だが
いまだにどうも
太刀打ちできそうにない
おそらくはまだ少し
準備不足の世代だ
その意味でも
真価はこれからだ
ゴールもこの先だ
先は長いぜベイビー
徒労と不毛のどん底から
そのまた底に向かって
ロックオン
逐次の経過報告は
このチャンネルで
みんな
チャンネル登録と
「いいね」を
ヨロシク
 
2024/05/10
 
 
「ささやかに祝福する」
 
痛みも傷も
血さえ流れぬ戦いの最中
スローモーに
頽れ行く
透明な身の丈
爽やかな五月の
光と影と風の密室
気づかぬうちに切迫する
セメントと水と砂利
を 混ぜ合わせる
知らぬ間に
出来上がっていた人型
一方通行の先の必然
あっけなく抜き取られる
言葉の口
声と涙と心と
第一章終章
「詰んだ」
に嘘と偽りはない
 
赤飯炊いてお祝いしよう
地上は至る所
倒れる身体にとっての
最終の場だ
あとにはもう
どん底の底を掘るように
進退は窮まり
選択肢は失われ
心置きなく
風の水路を下って行ける
自分を去らなければと呟く
もうひとりの自分が
目の前に
誕生するのだ
祝福せねば
 
2024/05/09
 
 
「高度文明における野蛮な心性」
 
敵は排除する
役に立たぬものも排除する
超高度経済文明の
最先鋒は
約めて言えばそれだ
帰納するところは
排除する極少と
排除される大多数だ
だが
そんな未来が
成り立つはずがない
 
人の生誕には責任がない
意志がなく誕生する
それが全てのはじまりだ
先天的な心や体の不具合
後天的な経験と学習からの
了解と関係づけの不具合
いずれも
全ての責任を
個に負わせることは酷だし
適切なことではない
それらにはどこまでも
自然性がついて回る
技術文明やAI的手法では
補助的で近似的な解決策しか
不可能である
そもそもの
排除の指向性と論理が
歴史の過ちを刻んできた
人間は自身を虫けらか神仏か
過小か過剰に見て
等身大で見ることは稀だ
そして本当は
虫けらと神仏と人間とは
同列におくべきものだ
自然生成の人間を
超技術文明といえど創生し得ない
つまり元々が自然ベースの世界で
自然を排除して成る超文明は
はじめから偏奇なのだ
人は役立つように
生まれたのでもなければ
幸福に過ごすために
生まれたというのでもない
種として生まれて
種としての「我欲」を継承して
生きて行くだけのものだ
 
文明はノアの箱舟に乗って
先へと急ぐ
それに乗り損ねたからと言って
憂い嘆くには及ばない
文明など進むに任せればいいのだ
排除される側の大多数は
期せずして
すでに文明のロケットから
切り離されて牽引されることもない
経済合理性の彼岸に
革命を待たずして着地する
 
依然として
現在でも大事なことは
虚心に見て聞いて感じること
それをもとに思考すること
反対に最も駄目なのは
たとえて言えば
成年から壮年にかけての
人的活動の最盛期に
人間的価値が集約される
と考えることだ
言うまでもなく
人間の価値は
有用性や生産性で
計られるものではない
そう考えるとすれば
歴史的現在にありながら
甚だしく原始に近い
それは
野蛮な心性というものだ
 
2024/05/08
 
 
「秘技伝承の唄」
 
言葉を交わさなくとも
視野の端っこ
そのまた隅っこには居たい
 
朝の光となって
窓を開く時も
夕べに傷ついて
影のように心項垂れる時も
ただその微かな
あなたの信号を感じ
感じているものが
傍らにあると知らしめる
もうひとつの
信号となる
 
時は こんなにも駆け足で
置いてけぼりにする
胸にまで上がった水位は
やがて胸を越すだろう
否定したくても
難儀はますばかりだ
 
五月の人よ
いますぐ
心の向きを変えるのがよい
世界が一変して
いけないという理由はない
そうして
何も変わらぬ世界から
別次元に躍り出て
朝に窓を開き
夕べに窓を閉める
そのように
人は人の生きる様を
変えようがないと知る
 
言葉を交わさなくとも
視野の端っこ
そのまた隅っこには居たい
 
五月の人よ
逆さまに生き
逆さまに
死んでいこうとする
幻の人よ
境界をすり抜けて
自由に往来する
秘技の孤独に耐えられたら
わたしたちはきっと
無事だ
 
2024/05/07
 
 
「いのち」
 
どうしてこんなに詩を書き続けて
詩を上手く書けないんだろう
上手くなろうとしなかったから
 
どうしてこんなに働いたのに
裕福になれなかったんだろう
もらった先から散財したから
 
どうしてだろう
寝る間を惜しんで考えて来たのに
嘘偽りのない言動に徹してきたのに
自利に就かず
損得なしに
外部に対してはすべて公正に努め
権威権力に屈することを嫌い
上下・善悪・尊卑の二別を憎み
弱者・敗者を排出する社会は
誤った社会だと知らしめようとし
それやこれやに
それやこれやと関わってきて
気がつくと
圏外に弾き飛ばされている
飛ばされている
 
本来ならここでしおらしく
魂の寒い姿
あるいは涙や弱音など
語ってみるのもひとつだが
そうはしない
こんな事態は序の口
また自明のこと
心に『クソッタレ』と叫んで
明日もまた変わりなく
「徒労」と「不毛」の軌跡を
「小夜の中山」を
越えて行く
老いてなお
圏外に弾かれてなお
老体老醜の
歩む術もある
 
道に同行の人
すれ違う人があれば
わたしを見て
きっとこう呟く
『歳をとったからと言って
 あんなわがままは許されまい
 身内の迷惑はどんなか
 きっと考えもしないのだろう
 あんなふうには成りたくない
 成る気もない』
 
2024/05/06
 
 
「CMの家庭像は標準語」
 
テレビCMで
理想の家庭が提示されているように
感じられる時
視聴者は
自分の家庭に欠如するものがある
と思ったり
あんな親や子どもでいたい
と考えたりする
つまりCMは
誰もが望むような幸福な家庭像
あるいは誰も否定しきれない
家庭像というものを
創造的に音と映像を組み合わせ
拵えあげている
CMが終わっても
余韻としての理想像は
いつまでも残る
手の届きそうな憧れが誘引され
生活の影も背景もない人物たちが
笑顔を振りまいている
中身は充分に空っぽなのだが
きらめく誘いの力は
強くそして奥深い
 
標準語のような現代生活
 
地方語
方言
訛り
などを廃した仕方に似る
どちらも合理的効率的に
中央集権を目指す
社会と国家にとっては
必須であり
必然でもあったのであろう
そういう意味では
上手く成し遂げた
ぼくらはまんまとやられたし
これからも
やられていくのであろう
抗うすべも尽きた
自ら進んで向かう
標準語とCMの世界
批評の言葉はどこかに消えたか
まんまと消されたか
「検証を要する」と
AIが教えてくる
 
2024/05/05
 
 
「ゴールデンウィークに思う」
 
若い頃に子を連れて
何度か訪れたことがある
行楽の湖畔公園の賑わい
俯瞰で見ると
昔物語の極楽浄土
ほどよく種々の花々に
埋め尽くされ
隙間に列を作り行儀よく
老若男女が楽しげに歩いている
 
この国のリーダーたちの
ある種理想の一面が
現実化されたみたいな
文句のつけようのない到達
五月初めの光と風と
 
こういう光景を見せられれば
こういう光景の中に
手を繋いで歩けば
資本主義や民主主義が
人々に支持される
その理由がよく分かる
ここでは 享楽に現を抜かすことが
よいことなのだ
 
けれども帰り道
わたしなどの心の奥底は
いつも悩ましい
昨日の
貧しさの中に
うつろな目をした
あの子はどうしているだろうか
のっぴきならない不遇に
手も足も出ない
人と世を忌むあの若者は
そんなことを考えて
考えて考えて
その先に行けない
 
歴史的な時空の英知の
現在がその終結と考えれば
偉人聖人天才たちに比し
わたしには憂えたり
そもそも考える資格さえ
与えられていないと思える
無駄と無意味を積み重ねて
積み重ねて積み重ねて
その代償のように
周囲の大気は殊更薄くなった
もちろんそんなことは
どうでもよくて
ただ透明であることの
非力が辛い
と感じている
 
2024/05/04
 
 
「心を刈る言葉」
 
一粒の種から生えた
雑草の一本が
庭の手入れで引き抜かれ
乾涸らびて終える
人間の時間で数日の命だ
その命とわたしと
捨象と抽象の
どこかの段階では
どうしても
同じということになる
わたしからすれば
儚く感じたり
無意味無価値に思えたりするが
もしも仏や神がいて
そちらから見れば
わたしもまた
そうした雑草の一本と違わない
 
命には
それぞれに時間が課されていて
内的に また外的に
終焉の契機が巡っている
足掻いても
諦めて覚悟しても
ほんとの動きは
人為人知を超える
成り行きによる
他も然り
 
乾涸らびる一本の草に
人間の心があれば酷だ
わたしたちに
心があるというのも酷だ
なので 切に願う
きみの心を刈る
そういう言葉に
わたしはなりたい
 
2024/05/03
 
 
「理の外に生きる」
 
褒められもせず苦にもされない
格別の善行も悪行もない
さしたる仕事上の業績もなければ
懲罰に価する何事もない
まあ言ってみれば
すべてに差し障りのない
そういうありきたりの
普通の
透明人間じみた生き方をしていたら
逆説でも何でもなく
一番理想的な生き方と言える
胸を張ってニコニコして
日々の大気を身に浴びて過ごせば
なおさらよい
 
どんなに考えても
どうにも出来ないことがたくさんある
生きるということは
そういう世界に生きるということ
どうしようもない圧に
身を屈したり
引きこもったりもしながら
いざとなったら
喉から手を入れて
体をひっくり返すように魂を引っ張り出し
世間の目に晒して見せてやればいいのだ
生涯にたった一度
クセになったら二度三度
いや何度でも
たいていの人の魂は
鎧の下に隠されていて
生きることは伏せることだと
みんな考えている
それを反転させたら一瞬で凍り付く
そんな形で見返したら
誰も何も言えない
それが急所だ
いいか
そうやって
すべてをさらけ出す覚悟が出来たら
あとはただ昨日までのように寂びかに
普通に向かって
生存の軌跡を微調整して行くだけだ
それが普通
人間に内在する自然
 
姿を消すまで数十年
人間社会に厭いたり忌んだりしたら
その奥その先の
自然を念え
人としての自然を念え
 
2024/05/02
 
 
「人生の大事に向かう」
 
学問とか芸術とか
仕事とか修行とかを免罪符に
いい加減に暮らしたり
綻びや修繕すべきところを
怠ったりしていては駄目だな
 
考えてみれば
ほんとに難しいのはそういうところだ
もちろんぼくなんかは
すべてが中途半端で
通信票なら「よくできた」はひとつもない
5段階なら1から3を行ったり来たりか
とても悩ましい
やり遂げたことなんかも皆無
そこから言えば
特技があるだけで立派なもんだ
特技もなく暮らしの達人にも成れなかった
それでもまあ
あんまり卑下するのもよくない
ぼくによく似た人もいるわけで
そういう人にはきっと
いいよいいよと言うわけで
人間は
思うようには生きられない
 
肝心なのは
何が大事なのかを見失わないこと
暮らしを大切に思って
なおかつそれがうまくいかなかったら
それはそれでそれまでのこと
そんなに強く悲観したり
絶望したり失意に沈んだりしなくていいさ
たいてい人間の生き方に
うまくいかないことは付き物
そこからまた
大事に向かって歩き出せばいい
大事なのはそこだって
見失わなければ
それでよい
そんなふうに声掛け合えれば
なおのこと
それがよい
 
2024/05/01
 
 
「良心は呵責する」
 
意識や言葉を抜けば
頭と心の働きとを無とすれば
人間以外の生き物からどう見えるか
 
巨大な蟻が地上を移動し
時々は空に舞い
海にも潜る
得体の知れない変なやつ
また危険で獰猛な輩
くらいに見えるのだろう
 
地表のあちこちに巨大な蟻塚を作り
そのために草木を投げ倒し
虫や他の生き物たちも
コンクリの下敷きになった
 
一個の爆弾で
数人から数十人の人間と
数え切れないほどの
命も破壊し
意に介さない
自然災害の上にダブルパンチで
地上に害をもたらす最強の種
 
それでいて
そのうえに
同種にしか伝わらぬ
意識とか言葉とかを持って
愛だとか友情だとか絆とか
仲間内だけで
ずいぶんと立派な
自画自賛の世界を構築している
 
幻想が幻想を生み
宇宙大の妄想を築き
身体と身体の軌跡を見失っている
球体に収まる生命体の
親族のひとつに過ぎないことを
出自を詐称したうえで
いつしか忘れている
 
人間は変だと言うことを
もう少し謙虚に受け止めていけるなら
まだ何とかましな方向に
自らの歴史を編んで行けるかも知れない
その先端で
ぼくらは戸惑っているんだなあ
時に良心の呵責に苛まれたりしながら
 
2024/04/30
 
 
「錯覚の構造」
 
戦争があり
いくつもの内戦も内紛もあり
世界がまたそれぞれの国々が
手をこまねいて
何も出来ないということは
あるいは平和を標榜しながら
内向きには防衛力増強に走ることは
100年前の世界を彷彿とさせるし
何よりも先の大戦後の
平和および友好関係樹立の試み努力などが
ついに実らなかったと考えるほかはない
最高の英知また大哲学に大思想
小学生にも教えた前途洋々の
国家と世界の機構による
明るい未来はどこを探せばいいのだ
 
狭い地域社会に絞って考えてみても
こんな明るい未来を目指しますと言いながら
国家規模世界規模の現状とおんなじで
飾って言い立てたことと現実とは
妙にねじれて違っている
あちこちで破綻を来していることが見聞きされ
それへの対処や手当が進まない
個人レベル家庭レベルの内戦内紛の連続で
ジワジワと疲弊に襲われる
状勢状況に危機を覚え
何とかしなければと考えて
数と力で何かを成している
そういう連中がやっていることはみんな駄目だ
その積み重ねが現在に辿り着いた
こうなればもう
すべての人間的なベクトル
人間性とか人間らしさとかの進む方向性が
すべて間違っているからとしか考えようがない
頭を使う連中は
高級指揮官とその参謀たちは
計画と作戦とを誤り
平和な日常時においてさえ
敗北に次ぐ敗北を喫している
なおかつ責任を負わない
今でも未来は
そういう連中とは真反対の
黙した大衆の肩に掛かっていると言うべきだ
明るくまた暗く暮らしを積み重ねる
その飄々とした姿にこそ
大河の歴史を
その先へと進ませる力を見る
現実世界とはこう言うものだ
人間世界とはこう言うものだ
為す術もなく
一生を棒に振ったと考えたなら
たぶんその生き方は正しいのだ
 
2024/04/29
 
 
「頭や心の『脱力』」
 
 武術家たちの動画を見ていると、「脱力」の効果について述べていることが少なからずある。それは主に肉体に関係した「脱力」である。これを見聞きしながら、頭や心の「脱力」はどうなんだろうと考える。何か効果があるんだろうかということと、そもそも頭や心の「脱力」はあり得るかということ。
 強いて考えれば、頭や心の「脱力」はぼうっとすること。思い詰めないこと。喜怒哀楽それぞれにのめり込みすぎないこと。溺愛しない、深刻にならないなどなど。ほかにもいろいろある。その中でも最も大事そうなのは、感じ考えたりしたことを具現化せずにはいられない頭や心の衝動だろう。
 そこのところは「脱力」して、強く思い込まない方がよい気がする。わたしたちの具体現実の生活世界は、頭が考え心に思うようには出来ていない。成り立ちが違う。現実を考えや思いに寄せようとすると軋轢が生じ、歪みが起こる。結果、世の中が殺伐とする。
 頭や心の過剰は諸刃の剣だ。大層役にも立つが、大きな害にもなり得る。どこかでふっと力を抜くことも必要だ。
 武術の達人でも、生活の達人でもないわたしたちは、それでもどこかで「脱力」を習得しなければならない。それもよい塩梅にだ。力んでばかりでは、体も頭も心もカチカチに固まって動きが悪くなる。それではいざという時に即座に対応することも適応することも遅くなる。
 脱力する。力みを抜く。自分を客観視する。反省する。そういうことを目的としているわけではないが、わたしの趣味の詩作は、期せずしてそういうことも行っているという気がする。詩作の過程では、自分の中に凝り固まった考えや感じ方などを一度外に放り出し、内側を空っぽにして、疑いながら自分の考えや感じを是正してみる。何度も繰り返していると、真も信も揺らいできて、思いのほか大事というわけでもないと、そこにひとつのクッションがおかれる。力みが取れ、「脱力」し、「普通」の足場に立って環界に向かうということになる。
 武術家は修行や訓練を重ねて「脱力」を手に入れるだろうが、わたしたち一般人は頭や心の「脱力」として、詩を書くことにその手立てを見出せるかも知れない。もちろんそれは俳句でも短歌でもよいので、とりあえずできばえは度外視して、その作用や機能にスポットを当てる。一般に広まる愛好の詩は、もしかすると人それぞれの生き様に「おおらかさ」を提供してくれるかも知れない。純粋芸術に凝り固まらない詩的な運動が、ひとつくらいあってもよさそうな気が、今のわたしにはする。
 
 
2024/04/28
 
 
「文字を用いて文字をディスる」
 
言葉は無明の領域から立ち上がり
大気に溶け込んで消える
これを文字化すると自然性が失われ
半永久の人工物に化す
わたしたちの生活は言葉と共にあり
無明から無明へと運動を繰り返す
文字として切り取らないとすれば
ただ天と地とを行き来するだけだ
上下左右自在と言えば自在で
不定と言えば不定
達観の瞬間と貪欲の瞬間が交錯し
とても善の一定ではいられない
 
わたしたちの生涯は言葉である
文字と捉えると真を損なう
窮屈になり苦しくなる
言葉のように大気に流され
砂のように積んでは崩れる
それが生活であり生涯となる
センチメンタルな墓石は無用
生まれて死ぬ
ただそれだけの間を
大気の中にたゆたう
その間に
幾筋かの泪を地に落とせたら
人間の使命は成就する
その余は人生に
気楽に立ち寄った
そんなスタンスで過ごすのがよい
わたしたちには
それがよい
 
2024/04/27
 
 
「今のところ『正義』の物差しに『正義』はない」
 
喫煙者だから分かるが
最近の日本社会は
振りかざす「正義」が
度を超えている
コロナ時の緊急事態宣言の時は
まあそれなりだとしても
本来は許容さるべき
個々の自由な振る舞いが
ほんの少し自由すぎたりすれば
即座に匿名の検閲の餌食になる
全方位から
「正義」の矢が降りかかる
 
ちなみにぼくの居住地では
全面禁煙というのではなく
時々ぼくは
敷地内禁煙の外に出て
タバコを吸うことがあった
通行人からも職場の人からも
文句を言われたことは一度もない
つまり具体現実の場では
その程度は許容される
マスコミや報道などの電波の世界
そこに構成された
観念および幻想の住人たちの言葉が
遙かに辛辣で攻撃的だ
見えない他者には
どこまでも強制的になる
 
身内でも隣人でもない人たちの挙動に
そんなに目くじら立ててどうする
過剰な「正義」の矢を打ち込んで
本当は何がしたいんだ
生活保護の申請を却下するのと根は同じで
自分の「正義」の圏外にあるものを
許せなくなっている「正義」は
局地的な「正義」でしかない
そんなちゃちなものを
振りかざすんじゃない
 
歴史的現在において
絶対的「正義」の物差しは有り得ない
通念だとか
共同の規範や規制だからとか
そんなものを物差しにしても駄目だ
あるいは偉人や聖人や
時代のヒーローが身につけた物差しを
そのまま借用しても駄目だ
大事なことは
内部に形成されるそれを
止むことなく破棄し続けることだ
常に無効にすることだ
破壊と建設の繰り返し
つまり現在の「正義」は
この運動の繰り返しにしかないから
振り上げる前に
握った拳を下ろす
謙虚と潔さが必要なのだ
 
2024/04/26
 
 
「楽な生き方を発明したい」
 
生まれて死ぬまで数十年
その間に
自分の外側での生命の存亡は
数え切れない
一つ一つの生命を大事になんて
ひとりひとりを大事になんて
嘘つきにしか言えない
生命が重いのは
自分にとっての自分の生命だけだ
そうしてまた たかだか
自分の見知っている身内とか
身近に感じる知人についてだけだ
圏外については
本当はどうも思いやしない
 
ということは
たいてい自分の生命もそんなだ
気にしてくれるのは
身内以外はせいぜい数人から数十人で
あとは つまり
どんな風に生きようが死のうが
宇宙規模の無関心さだ
 
生まれて死ぬ
草木も獣も虫たちも
ただそれだけを繰り返している
草木や獣や虫たちにとって
それが「普通」だ
現在の人間だけがその数十年を
息せき切って
頭には新幹線を走らせて
ゴールに飛び込んでいこうとする
生まれて死ぬまで数十年
だれもかもが
生きることは頑張ること
努力することだと思い込んでいる
何かを成し遂げること
他に秀でること
みんなに愛され好かれること
社会から注目されること
草木や獣や虫たちのように
無視される存在になってはいけないと
強く思い込んでいる
そんなことはおかしなことだよって
誰でも気づけそうなものなのに
異数の苦しさには飛び込めないのだ
 
生まれて死ぬまで数十年
あれもこれも詰め込んで
自分で自分を苦しめて
自分が自分に苦しんで
やっと栄光をつかんでという筋書き
草木や獣や虫たちからしたら
「普通」じゃない
「正気」じゃあない
人間が全体群れて進む方角は
たいてい過誤に行き着く過去があり
ある日ある契機を境に
180度ひっくり返る
生命の「普通」を逸脱すると
必然的にそうなってしまう
「普通」は「普通」
「らしく」は「らしく」
そのことがもう見えなくなっている
もっとありふれて単純で
楽な生き方を発明したらって
強く思いながら
世に問いかけながら
まずはこの
孤軍奮闘からの脱却
静かなる全身脱力をめざす
心を錘と見立て
巷間に沈む
 
2024/04/25
 
 
「加齢による後退戦」
 
意識が言葉に吸着する時
また言葉が文字に変容する時
それはたわいのない
単なる観念的操作ですむ
と考えるのは違う
気力体力が必要で
一言で言えば
若さが必要になる
老いてやってみると分かる
 
まず意識に語彙を探して
語彙が沸き立って来ない
無理に定めて語彙を確定するにも
文字への過程で息切れがする
そこでもう小休止
次への展開に支障が来る
数行で限界が来て
早々と結に向かおうとする
老化する性と同じで
加齢による機能の低下は
こんな所にも及ぶ
 
非言語の海からの言語化は
非言語の海を超えない
同じように
非詩的生活からの詩的抽出表出は
非詩的生活に内在する
詩性を超えることがない
だとしたら もう
悪あがきしないで
ゆっくり消えて行くのがよい
のではないか
 
今日にはそう結論しながら
明日にはまた
石に齧り付いて
降ることを肯んじようとしない
自分もいるのだろう
ここ数年の推移はそんなだ
 
2024/04/24
 
 
「負者の使命」
 
四季を彩る大気には
いつも正の拡散が仕組まれている
これと言ったわけもなく
ありふれた性向のひとつとして
負の与件を訪ね歩いた
暗く長い道のりの中で
深く強い危惧があった
孤独な異数の世界に
まっしぐらに堕ちて行くのではないかと
 
予測の半分は現実になった
あとの半分は現在も進行中で
あふれた負の札に埋没しかかっている
激しい憤りをなだめ
負の与件を訪ね歩くその先に
負の与件が底をついたそのあとに
ひとつの願望が
奇跡の形態をとって現れるはずだ
また現れなければならない
 
拡散された正は
どれも一面的なものばかりで
ある場面には通用できても
他の場面には通用しない
そんなものを
正として拡散する恣意は不正だ
不正が正として飾られるこの世界に
異議を唱え続けなかったら嘘だ
いつまでも
力の虚偽 虚偽の力に
竦むばかりじゃいられない
債務の返済は
粛々と行われる
 
2024/04/23
 
 
「脱現実記」
 
どうしてかくも
現実はこのようであるか
暖かな小鳥たちの羽ばたきは
冷気に堕ちて
地の愛をついばむ代わりに
死語となった不運に
今どきの不運を重ねる
関係という関係は
みんな石女
口々に愛をついばみながら
切ないほどにすれ違う
あの時にあの辻を曲がってから
もう帰路を見失って
螺旋の時間に
心の疲弊だけが生きる証となる
どうしてかくも
現実はこのようであるか
愛に始まったはずが
日常の憎悪へと
時は移りゆくばかり
誰のせいでもないさ
と背を向けて
ゆっくりと
草叢の茎を遡上してみる
黄昏の葉脈から
大気にひとり
ダイブする
 
2024/04/22
 
 
「喉の支え」
 
喉と心の不調で
とりあえず言葉を掻き出し
言葉を吐き出し
支えを取り除こうとする
口からカードを吐き出すみたいに
言葉はするする
いくらでも出てくるが
いっこうに支えが取れない
それだけでもう
心の腐敗が進み
深く病んでしまうのだ
次第に 支えるものが
心なのか言葉なのか
あるいはまた別物か分からなくなる
有形無形の一切の物事
それらは すべて違う
無いもの あるいは
有り得ないもの
どうやら久しく支えるものは
そういうことらしい
こうなると
すべて妄想の類いと考えるか
これまでにない言葉を
自分で作って取り出すか
いよいよの終盤戦に
 
その余のことは
「総じてもって存知せざるなり」
つまり どうでもよい
一瞬でよいので
喉の支えが取れた状態で
この世界を
心ゆくまで眺めてみたい
郷愁と愛着の
わたしたちの住処を
 
2024/04/21
 
 
「《ひとつのメモとして》」
 
 意識、欲望、理性。人間が苦しんだり、喜んだりするすることの大本はそこだ。これに感情や価値観の違いなどが混然として、内省的に振り返ればとんでもない状況にわたしたちは立っている。そして、こうした事態や状況そのもの、あるいはそれらについて考察することが人間らしさと括られてわたしたちの目の前におかれている。
 人間の人間らしさの本質は、こうしたことから考えれば観念性や幻想性にあると考えることが出来る。人間の人間らしさ、人間性はそこにある。そう考えて、更に観念や幻想自体を考えていくと過剰が待ち受けていて、わたしたちは観念や幻想の泥沼に入り込み、ある意味で人間らしさから遠のいてしまうことになる。人間性が過剰になるという問題。老いてはなおさらそうだ。たぶん人間らしさ、人間性について考えると、身体を過小に扱うことになってしまうからだ。
 
2024/04/20
 
 
「踏み台昇降」
 
踏み台昇降
症候群のひとりが
ひとつの平たい台を
登ったり降りたりしている
目の前に大きなモニターが
ひとつあって
エンドレスの走馬灯が
既視も未視も
綯い交ぜに映し出す
 
行けども行けども
絶望的な徒労だと
この団地の最高齢者
三丁目の田中さん
息が上がった状態で
言ったとか言わなかったとか
噂になっている
誰も直に
聞いていないのに
 
心は脈絡のない対応である
時空と場面とに
適切にまた不適切に
ひとつの心が対応する
別の状況には別の心
意識が思うほど
心はひとつというのでもなく
同じなわけでもない
 
老いに追い込まれると
そろそろこの人から
去らなければと
重層の心は思う
 
2024/04/19
 
 
「不毛の行≒徒労の行」
 
白紙の上に
剥いたラッキョウの皮を
適当に並べる
電子タバコと鼻歌で
ちょちょいのちょいとやる
出来上がりに
細めに開けた窓から
黄昏の風が吹き
軽く黄昏れる
気負って二枚目の白紙
さらにラッキョウを剥く
生真面目な小鳥が
皮の配置を考える
後二三枚までは
なんとかなると
高を括る
 
ラッキョウの皮は
どこまで剥いてもラッキョウの皮
内面は何処まで行っても内面のまま
終いには飽きてしまったり
空虚に突き当たって
空虚を剥く手応えのなさに
青ざめてしまったり
こねくり回して
国生み歌生みを真似て
こっぴどく絶望する
それがいやだから
ラッキョウの皮
上っ面だけ並べる
これなら毎日やれるが
日を越えると
漉いた紙の上から
パラパラと透過して
白紙にも瞳にも
残らない
 
2024/04/18
 
 
「氾濫」
 
うるさいなあ
走り出さない言葉たち
一切が
内部から発すると思っていた
つい今しがたも
もうすぐ風向きが変わると
凧を背にして
指先に強く糸を感じて
 
言葉が出ないというのも
考えてみればエロスだ
途切れたり支えたり
吃音のエロスか
エロスの吃音か
とりあえずどちらでもよい
流暢でない
スムーズでない
たどたどしい不幸は
見た目が軽い
 
そうやって順繰りに
血縁が反復する
負債を全部背負い込んで
三枚に下ろすつもりが
丸ごと次世代に送り込んでいる
岸辺の草叢に
生涯を託すつもりになりながら
背の大河は
岸辺を越えて水位が上がり
取り返しのつかない
後頭部の夢に残る
河川は氾濫する
氾濫は反復する
 
2024/04/17
 
 
「生きてるだけでボランティア」
 
超有名人の有名な言葉
「生きてるだけで丸もうけ」
とても深く含蓄のある言葉だったので
ついぼくも真似てみた
「生きてるだけでボランティア」
少しインパクトが薄いが
わかりやすく納得されやすい
言葉だという気がする
 
太宰治の「恥の多い生涯」という
自分に厳しい
自分をいじめる言葉に対し
そんなことはないですよ
社会にとまでは言わないが
じゅうぶん他人のために
周囲のために役に立っています
生きるということには
期せずして
そういうことがあるものです
そんなニュアンスを込めてみた
 
本当は今はもう
自分の言葉か他人の言葉か
はっきりしないところがある
この歳になると
一緒くたになるのだ
ただ時として
ぼくはこの言葉を
何度も心に呟いた記憶がある
自分の人生がつまらなく
他者の役に立たぬ
そう思うことが多かったからだ
そのたびに
「生きてるだけでボランティア」
思いがけず
誰かの役に立つことだってあるさと
自分を慰めた
ぼくにとって
たとえば自分に自信のない人こそ
勇気を与えてくれる
ボランティアの人だし
ぼくもまた知らないところで
他者の心の内において
そんな勘定に入っているかも知れない
観念の中概念の中のボランティア
それだっていいんじゃないか
生きてることの
小さな価値は見出せる
それだけで充分
人生はボランティア
「生きてるだけでボランティア」
 
2024/04/16
 
 
「癒やしの動画から」
 
犬や猫とふれあう
人間の赤ちゃんの動画
あるいは異種の動物同士とか
そこに動物の赤ちゃんが混じるとか
いろんなのがあって
見ると癒やされる
 
だけじゃなくて
なんだろう 面白い
 
種の枠組みが消える
枠組みが成立しない
枠組みが無い
光景としてはそういうことだ
 
人間に飼われ
住まいを共にすると
猫とひよこが体を寄せ合って
互いが互いを
異種のように遇さない
自分というものを認識せず
まるで目に見えるものに
成り切っているように
それが自然だというように
振る舞って見える
犬も猫もインコも
ひよこもリスも
ウサギもカメもカワウソも
それに人間の赤ちゃんも
そこではみんな一緒くただ
 
区別が無いのか為ないのか
翻って
人間の世界は面倒くさいなぁ
勝ち負けの競争や
限りない夢と欲望
一方でぼくらのような後ろ向きが
人間という種の中で
どんどん距離を広げて行く
 
ぼくはただ
傍らで寝そべって
過ごしていたいだけなのに
それがとてつもなく
困難な社会と世界であるように
人間は
ぼくらは
その構築に寄与したんだ
なので
未明に未来を
未来に未明を
訪ねて行くのがいいよねって
せめてもの置き土産として
この悔恨を
言っておきたいと思う
 
2024/04/15
 
 
「世界の急所」
 
小さな寝返りを
どれだけ繰り返しても
風ひとつ起きない
起こせない
言葉を投げつけても
叩き付けても
波紋は起きない
水面は凪いでいる
流れ星みたいに
さっと視界をかすめる
受け流されて
飛び立てない小鳥たち
世界の本質は幻想である
と知らなかったので
なるほど
戦っても戦っても
傷つかない身体
見えない不幸や苦しみは
理解されたこともない
 
このように世界は
生身の次元にはないので
わたしだけが
わたしの意識の内側で
変わるほかなかったのだ
また変わったのだ
徐々に
塵埃が吹き溜まる様に似て
わたしは
わたしへと成型された
身動きの取れない自由さに
ようやく慣れてきて
やっと終わりが始まる
ここまで来れば
はっきりと世界は
わたしを舐めてかかるだろう
生存はあとわずかだと
油断するだろう
しかし わたしの
本当の戦いはこれからだ
本当の思考はこれからだ
世界は厚みを増して
身体をそして口や鼻を
圧迫しにかかっても
わたしにはまだ
考えることが許されている
圧倒的な後退戦で
わたしが得たものは大きい
わたしは考える
これから先も考える
世界の急所について
急所をどのように
仕留めるかについて
ひとりでも
ではなく ひとりだからこそ
わたしは戦える
 
2024/04/14
 
 
「術と科学」
 
口伝の殺人技は一子相伝
経験的に急所を押さえ
いかに合理的
経済的また効率的に成し遂げるか
それだけを延々探求し続ける
秘伝的な「術」の伝承
伝承者は父の系
継承者は子のうちの誰か
 
こうした「術」は「術」として
見事な発展を遂げ
日本的な結晶の高みを見せる
メジャーなところでは
華道や茶道
それに着物とか短歌や俳句なども
「術」の伝承の系列に入る
このことは
知らず知らずのうちに
庶民生活に薄くぼかしたように
広がりを見せて行くはずだ
 
この土壌から「科学」は発生しない
逆に「科学」の土壌では
「術」の伝承による高度な結晶は
異彩を放つ
経験的な伝承の土壌と
反省からの科学への飛躍と
異質の二面の発達は
優劣でも上下の問題でも無い
両頭並び立つ
伝承の土壌ではやがて「科学」を輸入し
「科学」の土壌では伝承を輸入する
 
いま伝承の地では輸入品がもてはやされ
出自の詐称が盛んだ
それを苦々しく思うものたちは
ことさら「術」的土壌を神格化する
血脈を疑うのが嫌いで
闇雲に民族の高等性を主張する
どちらにも加担しない者らは
無国籍のカメレオンと成り
輸入品と伝統品とを
適宜に使いこなせる人となる
傷つくことないアカデミズムともなる
時代の趨勢は「科学」に傾くが
「科学」を母体とする国々が
すべて国民を喜ばせ
満足させる国になっているかと言えば
そうとも言えない
どこかにみな
それ相当のほころびや
不満というものを抱え持つ
どんぐりの背比べの不完全さ
いい気になっている奴は
みんな駄目だ
「術」も「科学」もどっちも未到で
国民にはほかに
選択肢がない
 
2024/04/13
 
 
「社会貢献=投資という国家」
 
 仕事して給料をもらう時、ぼくは別人になっているという意識でいた。今みたいに仕事をしないでいると、別人に変身する手間がなくなり、そういう意味での面倒がない。
 充分ではないが年金で暮らしてみると、少し工夫すれば、たいていの人が仕事をしないで暮らせる世の中は出来る様な気がする。仕事をしなくてもすむものであれば、それは仕事をしない世の中になった方がいいのではないか。
 今のところはまだ、仕事をするというのが当たり前の世の中だが、言い訳程度にしか働いていない人も少なくない。要はお金が必要な世の中なので、そのために一生懸命働いているふりをしたりすることも必要になる。どこからか、生活や遊びのためのお金が舞い込むとすれば、たいていの人は、じゃあ仕事はしないでおこうと考えるに違いない。
 たくさんお金を持っている、稼いでいる人がいたとする。そういう人たちにもっともっと稼いでもらう。国全体で、そういうお金稼ぎに協力する。ちょっとした投資である。その代わりそういう人たちに心底からの社会貢献を考えてもらい、担ってもらい、大半のお金は国を支援するという意味で国に納めてもらう。これは逆向きの投資。そしてその納めてもらったお金は働かない人たちに分配する様にする。
 国民は働かなくてよくなるのだから、毎日に余裕が出来る。そこで、働く代わりに個々人の自由な裁量で、社会貢献に与してもらう様にする。お金持ちも国に投資することで社会貢献できるし、一般人も社会貢献が出来る。全員が社会貢献する国になって万々歳。穴の大きく空いた笊的思惟だが、これもまた極微の社会貢献の一つとして数えられることになる。
 
2024/04/12
 
 
「小さな不穏の構図」
 
小さく不穏な気配の中でも
おかしなことがあれば
その瞬間に出会う
稀なので
その瞬間が過ぎると
暗い雲の
不穏に差し替えられる
無邪気の上空
視線の圏外はすべて
無意識の不穏に囲われている
 
幼年の日の視線はめまぐるしい
田畑や隣家への往来で出来た
草が生え石が転がる道を
どこまでもなぞって行く
家々は樹木に囲まれ
雀はどこにでもいる
用水路のアメンボ
季節ごとに
蜻蛉や蝶々が
雑草の上を飛び交う
目に見え
耳にも聞こえる
それだけの世界
 
村の中はどこでも遊び場になる
鬼ごっこ
缶蹴り
枯れ枝は剣になり
ピストルにもなった
かくれんぼをする傍で
ひっそり不穏も隠れていた
響き渡る哄笑
 
幼年の日の記憶は
いつもこんな風にやってくる
はじめに不穏の気配を帯び
無垢の哄笑で終わる
それらの記憶はすべて
現在からの
心的な呼び込みで
やはり
無意識から
不穏がたちのぼり続けている
 
2024/04/11
 
 
「夢と現の記憶」
 
団地の中は
人が隠れるくらいに
水位が上がり
つい 二階の窓から
釣り糸を垂れて
針も餌もつけず
ただ浮きを浮かべて
眺めている
たゆたう波に
小さく波紋を起こし
たぷたぷ
浮きが揺れている
 
玄関から路へと
魚影の軌跡が
そのまま
消えずに重なりあう
季節を追う
定点カメラの映像みたいに
朝から黄昏まで
黄昏に黄昏れる
 
もうすぐ
あの時の津波が
この高台にも押し寄せる
ぼくだけが知っているが
すべて手遅れだ
やがて屋根上まで
水かさが増し
地表から痕跡を消される
ことだろう
それが成り行きなら
騒ぎ立てても仕方が無いと
夢また現の中のぼくは
考えている様なのだ
 
2024/04/10
 
 
「栄養ドリンクの功罪」
 
仕事などで負担が大きいと思う時
もっとよりよく
仕事をこなしたいと思う時など
よく栄養ドリンクのお世話になった
毎日飲む時期もあった
そしてその頃は
こう言うものがあってよかった
などとほんとに思っていた
以前ほどではないが
昨年くらいまでは愛好していた
 
しかしいつ頃からか
そうまでして仕事をやろうとすることに
少しずつ疑問を感じる様になった
たとえば 素のままでは
仕事に堪えられない自分だとしよう
仕事が自分の能力を超えて
過酷だったとしよう
いまならば 即座に
やめちまえばいい と思う
あるいは疲労を感じたら
サッと休んでしまえばいい話だ と
環境がそうなっていない とか
そう簡単に自分の意識を変えられない とか
いろいろ理由があって
なかなかそううまくはいかないが
そんな方向性も
今の世ならばありっちゃありだ
 
仕事ばかりでなく
遊びに向かっても同じことだ
栄養ドリンクを飲んで
めいっぱいに遊び尽くそうと考える
生きることを大事にする
と考える結果がこれだと言えば
それに文句をつける気も無いが
いまのぼくは
そんなにまでして輝いて生きて
どうするんだって思う
無理に輝き続けるその後が心配だ
 
言わないよ
口を挟まないよ
ただぼくはもう
そういう舞台からは
静かに降りた
 
2024/04/09
 
 
「とあるジレンマ」
 
 人の体も顔も皆違い、歩く姿も話す声もまるで同じというものはない。これは人について言えるばかりではなく、動物、植物を含め、自然界もみんなそんなだ。海の中に群れて泳ぐ鰯も、山林に敷き詰められた落ち葉でさえも、おそらくは皆微妙に何かが違っている。大きなところでは宇宙の星々でさえ皆違う。では小さなところで浜辺の砂粒はどうなのだろう。拡大鏡を使って覗けば、やはり差異は見えるのではないか。
 こう考えてみると、これはもう多様性どころの話ではない。どうしてこう言うことになっているのだろうか。経済的でも効率的でもない。
 これに反して、いまの人間が作るものは「同じ」であるものが多い。型を作って、それを使って同じ材料で大量生産されるものは特にそうだ。そこには「同じ」にするという思想が貫かれる。
 わたしたちの話す言葉自体もそうで、「葉」といえば差異を捨象した「葉」を表し、「砂」といえば「砂」を表す。上から全体に網をかける感じで、極端に言えば、「宇宙に存在するすべて」と言えば、存在するすべてをしらみつぶしに言い切った形になる。もちろん宇宙に存在するすべてを見てもいないし、触れてもいない。それどころか地球上に存在するものも、直に感覚で捉えられるのはごくわずかだ。なのに「宇宙」という大網を張った言葉を使うと、いかにも宇宙を捉えた気になり、自分の思念が宇宙大になった様な錯覚にさえ陥る。
 これを人間の一つの能力と捉えれば、これが極端化して発達すると、機構としては国家とか、国連とかが作られる様になって行くのではないか。上から見る見方に特化していく。
 ぼくらの様に言葉や文字にこだわる世界も、実は異母兄弟や異母世界と呼んでいいところがあって、本当は中身が空疎かも知れない。つまり、自分を含め、言葉の人、考える人、思想の人に、究極のところで信をおけないのはそのためだ。
 
2024/04/08
 
 
「尋常に老いて行く」
 
寝起きには
あちこちからだが
固まった様に痛い
医者には
「運動不足」
と伝えられた
 
そんなことは分かっている
運動不足からの血行不良
改善策に運動の勧め
 
ぼくからすれば
おかしいだろう それは
と言う話になる
中高は通学や部活で動き
社会人としては
通勤と仕事でからだも使い
退職後は
やっと心身を休められると期待して
気楽に楽しく
好きなことだけやっていける
と 喜んでいたのに
黙々とウォーキングしたり
意味も無いのに
せかせか動き回れと
年も下の医師に なぜ
説教されねばならないのか
どうして
またぞろ意を決して
体の酷使に
努めなければならないのか
どうして
第二の人生が
健康の強制でなければならないか
これでは無職の意味が無い
現役引退の意味が無い
形を変えて
刻苦勉励を強いられる
 
ものごころついてから
今この世界では
煩いも憂いもなく
ただ愉快で楽しく
やりたいことだけやって
暮らすということができない
生涯を通じて
あれやれこれやれと
情報が頭を透過し
不安が塵となって降り注ぐ
これが身体に逆流し
心身ともに
健康と不健康を行ったり来たり
半強制のシステムに
絡め取られる
 
痛みをこらえる方がまだましだ
ひたすら加齢を受け入れて
若さを保とうなんて
したくない
もうこうなったら
できることは一つだ
尋常に
老いを老いて行く
 
2024/04/07
 
 
「毎日が試作」
 
読み手に拒絶された文字が
モニターに並んでいる
練習には
数十年を費やして
まだ本作が書けない
理由は単純で
読者を認めたくないのと
読者を想定したくないからだ
認め想定すれば
つい丁重に
コック帽の型で
もてなす風(ふう)になる
つい想定に合わせて
分かりやすく
ろうそくを立て
甘さやクリーム多めで
フルーツを添えた成形をする
 
ぼくの出自はそんなんじゃない
他人に分かるわけがない
ぼくの作るスイーツが
めちゃくちゃな様に
ぼくの詩は製品にならない
製品にするために
作り込んでいない
書いてない
ほんの稀に
どんな高額な商品より
いけてるスイーツができて
一人ご満悦になる
なんていうか
ただそれだけのための
日課だ
 
2024/04/06
 
 
「病態論」
 
かつて身体から
やっと絞り出された言葉が
いまでは活字の物語となって
身体に襲いかかる
 
言葉はもう
生み落とすもの
であることを忘れて
既存の思念を
縦横のマス目に
埋めて行くだけのものに
なった
 
ほんとは
どんなに激アツな思想も
発声初期の
<あ>とか<う>とかと大差ない
生命の最深部から湧き上がる
表出意欲がそれだ
ある思想の思想以前には
無意識の言葉の大洋があり
音声以前には無声がある
そこから借りてくる手間ひまに
堪えられるかどうか
極限を超えて
思索されたものかどうか
それだけではなく
仮にそうして難産を越えてみたとしても
所詮借り物の構築物だから
発見された真理は
たいてい過誤の歴史を含む
このことも
勘定に入れておかなくてはならない
 
はてさて
そんな面倒なこと
やってられるかと考えるのが正しい
つまり晩年の言葉も思想も
遺伝性疾患の一つの病態になる
なのでやっぱり
やってられるかと考えて
言葉にも思想にも
縁の無い暮らしに帰るのが
正しい選択というものだ
安い食材でどう料理を作るか
暇で退屈な暮らしを
金を要さずどう楽しむか
今のところ
幻想の歴史はそこを
越えて行ってはいない
依然として
そこが人生の骨格であり
価値であることを
控えめに
教えている
 
2024/04/05
 
 
「むかしばなし」
 
むかし
学校は天上にあった
天上では勉強が大事と教わり
天の声なので
そのまま復唱していた
それはでも
ぼくだけの思い込みの世界
ほとんどの友達は
素知らぬふうで
村の小さな祠に集い
松の木の下に遊んでいた
祠は朽ちた材木の骨で出来ていた
山砂にたたかれ
洗われて数百年を経ていて
いい塩梅に空虚なものだった
見ていると
何の御宣託もなく
どんな無礼や乱暴を働いても
誰も意に介する者がない
ぼくだけが酷く浮いている
毎日の通学時には
祠の前を通ることになっていた
まとわりつくような
重い気配がいつもあり
憑かれそうな不安から
つい小走りになる
天の声とは大いに異質の
無声の発する声が
耳に残った
 
これが
天の声と地の声の
物語のすべてで
その後のぼくの行方は
誰も知らない
 
2024/04/04
 
 
「明るい枯れ葉色の中」
 
斜面を露わにした
明るい枯れ葉色の中に
林立する文字が
葉のない枝を張り巡らしている
枝々の間に風は休み
時に駆け抜けて
それでも世界は
画布の中に閉じ込められ
残らず乾いてしまう
 
しばらくすると
斜面は緑の洪水に溺れる
緑なす海の深海に
光の視線はことごとく跳ね返される
急な傾斜に足を取られて
堕ちて行った天使の姿も見えなくなる
忘れても気にしなくなる
そんな世界だ
文字たちは自からその姿を隠し
秘めて安堵に沈む
 
もうすぐ
枝々には無垢が芽吹き出す
少しずつ開いたその先に
静脈を透かして
光が羽虫の様に集まる
それでももう
「世界は限りなく異様に暗い」
と活字に変身する文字は
この世界に躍り出ることはない
画布の中をゆっくりと
季節は巡るだけになる
この世界はまだ
「花鳥風月」だとか
「武士道」だとか
悠長な話がまかり通る
それはそれで 完全に
言葉を失うよりは
まだましだ
 
2024/04/03
 
 
「言葉と文字と活字と」
 
むかし都会の雑踏に
潜んでいたから分かるが
朝夕の通勤電車は動く図書館で
言葉や文字や活字であふれている
人間は肉体を幻想に置き換えて
言葉や文字や活字として
ひしめき合いながら
乗り降りしているのだ
もちろんそれらは
異臭を放つ側溝の臭いに満ちていたり
パリの有名ブランドの
甘く爽やかな芳香を放っていたりもした
暗い四畳半の饐えたかび臭さや
汗や二日酔いの臭いもある
 
地方の小さな村落には
言葉はあるが
文字も活字もない
人たちは互いに
草木や鳥や猫に扮して
言葉を交わしたり
細い獣道のような土の上を
しばしば一人を楽しむように歩いて
風や雲に語りかけたりする
村落には
あちこち地形に沿ったにおいが漂い
人の体はそれを身にまとう
川ではせせらぎを着飾り
森に分け入って腐葉土をまとい
田畑では日向のにおいを放つ
もちろん最近は
ひっきりなしの車のエンジン音で
すっかりガソリン臭くもなってきた
 
いま地方都市近郊に住むぼくは
すっかり言葉も引きこもり
活字になれない薄っぺらな文字を頼りに
読者のない無に無を刻んでいる
転職に転職を重ね
身につくにおいを脱ぎ消した結果は
無色透明か
すべてから見下されるかだ
そしてこの在り様は
本人にはとてもご満悦で
毎日よだれを垂らしながら
午睡に励んだりしている
ふと目を覚まし
大きなあくびと伸びをして
孤独なゆとりに入り浸ったり
いつ死んでもいいという達観に
弄ばれたり弄んだり
先のことは一切考えず
いまこの時の平和呆けを
充分楽しもうと心がけている
もうすぐぼくの詩は終わる
相も変わらず
この先に路はない
 
2024/04/02
 
 
「歴史的な子ども期について」
 
 もっと「我欲」を深めたり広めたりしたくて共同体の成員になったはずなのに、いつの間にか社会性という言葉で制約されることが中心になってしまった。国民からすれば大いなる誤算だ。
 
 太古から積み重ねられて成った共同体とか共同社会。協力し、助け合って暮らしていこうという、言ってみれば成り行きというものだ。
 個々バラバラの欲求を放置したのでは、統制や秩序を保てない。それではいけないという考えが、富や力のある者たちから起こった。
 
 しかし、大きく成りすぎた共同体およびその社会を牽引し、統率する王とかその下部組織は、戦闘を専門とする組織を作り内外の憂患に備えた。ソフト面では「法」をもっって叛くものに刑罰を課すこととした。この頃にはすっかり人間に上下が出来、なおかつ所属員は皆家族とか、皆兄弟だとかを共同性の眼目として流布され始める。つまり、平等や公正公平が破綻した裏返しとして、思想的な充填が必要とされたのだ。
 
 王政、王制、専制に君主制や独裁、そして近代国家の成立から現代へ。いろいろ形態を変えながら、けれども統治、統制、統轄、そして国家の本質は何ら変わるところ無く今日に到ったと言うべきだ。
 
 こうしたことを考えると、階級も、上下や不平等や不公平も未だ生じない時代が懐かしく、また甘美を持って感じられる。もちろん、おそらくは想像するほどには生活は生やさしいものではないのかも知れないのだが、互いに自由闊達でありながら調和の取れた、ずっと小規模の共同社会生活を思い浮かべる。
 ちょうどわたしたちが子ども時代を振り返り、そこが黄金期と例えることがあるように、歴史上の黄金期は歴史上の子ども期をもって考えられるように思う。わたしたちはそれを国家成立の以前と以後とで考える。
 わたしたちは個人的にも歴史的にも子ども期に戻ることは出来ない。しかし一切の固定観念を排除して振り返ったり観察したりするならば、生命の自然によって生じる「我欲」と無知なる「無欲」が調和的に混在するその節点、そこに子ども期の本質をうかがい知ることが出来るに違いない。及ばずながら、大人としてのわたしたちや歴史的な大人期としての現代は、それを反省的に内在させることは可能なはずだ。
 
2024/04/01
 
 
「希望の老いに向かって」
 
用済みになった吃音の言葉たちは
裏山に捨てに行こう
今日からは言葉のない人になって
微笑みだけで生きて行こう
日々の暮らしに必要な言葉は二つ
「こんにちは」と
「ありがとう」だけを残し
無言の人になろう
そうすれば胸の水位も下がり
溺れそうな心の恐慌も
どもって支えた鉢合わせの生涯も
とりあえずおさらばさ
青空を雲が流れる
老いることは悪くない
70を過ぎると市民バスは無料だ
使ったことがないけど
たくさんの高齢者向けサービスが
新品無使用で置かれてる
老いることは悪くない
微笑みだけで生きて行こう
きょう
運転免許証の返納のように
吃音の言葉を捨てる
胸の支えも取れて
スッキリと老後を送る
少しずつ
心の吃音も捨てて行く
希望の老いに向かって
まばゆさの中を
ゆっくりと進む
 
2024/03/31
 
 
「サイレンス」
 
日のはじまりに
顔を洗って
掃除と洗濯をのんびり進めて
そのたびに
もうすぐ終わるよって声がする
集中しようと気を入れて
清々しさに分け入って
またそのたびに戻されて
 
知ることはいいことばかりじゃないね
この頃の若者像は賢くて
賢すぎて可哀想だ
知ることはいいことばかりじゃない
知らなければ
神よ仏よって
また天国に極楽に急いで行こうって
仮構や虚構を頼りにして
そうしたことを信じ切って
幸せな幻想や観念に溺れて
 
きっついな
風の無い森
凪いで奥に隠れた海洋のとどろ
光が立ち止まった空
隔離された都市の喧噪
未来に残される
廃墟の考古学
すべてそんなの知らないよと
あかんべえをするぼく
それからの永遠の
サイレンス
 
2024/03/30
 
 
「終わりまで続く」
 
 人間はどうあるべきかとか、どう生きるべきかとか、古来からたくさん考えられてきている。そういうことを記述した本もたくさん書かれている。そうしたベクトルのもとに、人間は少しずつ少しずつ本来の動物的な自然に近い在り方というようなものから遠離り、現代的な姿に辿り着いてきた。
 そのことは、現在から振り返って考えると、昔はいかによりどころ無く個々バラバラに、そして好き勝手に生きていたかと言うことだろうと思う。どうしようもないくらいに統率が取れないので、これをなんとかしなくちゃと考える人が出てきた。良かったか悪かったかは別として、人間同士互いに牽制し合い、干渉し合うようになり、自分でも自分を制限するように変化してきた。だからといって、もともとの性質や性格が跡形もなく消え去ったということではけしてない。そこの処理の仕方がますます肝要になってきているが、なかなかに手強く、うまく出来ている人もいれば出来ない人もいる。世間一般を見渡すとそう見えるが、同時にまた、そこが完璧に出来ているという人を目の当たりにすることは、現在社会においてもまず無い。
 余りに些細なことだけれども、人間は日々こういう困難を抱え、分刻み、秒刻みに刻々対峙していると言ってよい。その、目には見えない無意識の奮闘や修練の有り様、欲望に追随したり我慢したりの有様、人間として、ぼくらはその葛藤を信じたいと思う。たとえそれが、人間の始まりから終わりまで続くものだとしても、だ。
 
2024/03/29
 
 
「生涯の多くの時間は」
 
振り返ると
身と心とを使い
生涯の多くの時間は
仕事に費やした
いくつかの職種を経て
どの仕事も
終わってしまえばグッドバイだ
天職にもならず
なのにどうして
その時々は熱心に
また夢中になったのか
頼まれもせぬのに
会社や学校や
それぞれの職場を背負うみたいな
高揚した気分に
なったのだろうか
仕事を辞めればグッドバイ
職場環境も同僚たちも
懐かしさとか思い出とかを除けば
超々赤の他人だ
幻の糸を断ち切れば
単独者になるか
血縁に立ち戻るかだ
つまり 考えようによっては
徒労と不毛の壮年期
と言うことになりかねない
どうしてあんなにも
身と心とをすり減らし
仕事に打ち込んだりしたんだろう
仕事でなかったら
趣味としても
ボランティアとしても
あんなことを
あんなふうに
やりはしなかったのに
仕事って怖い
仕事をするぼくは
何かに憑かれていた
素のぼくならば
絶対しないだろうことを
さんざんやった
仕事でなければ出会わなかった
たくさんの人と出会った
そんなんじゃ意味が無い
そんなんじゃ
ほんとの出会いじゃない
しかもほんとの出会いの場では
誰にも出会えていない
素のまんまでは
誰にも出会わない
 
2024/03/28
 
 
「凡庸の『義』に生きる」
 
いろいろな分野・領域に超一流が存在している
たいてい勉強家だったり
研究熱心だったり努力家だったりする
たくさんの本を読んでるとか
他人が遊んでいる時に一心に練習に励むとか
常人には出来ないことを軽々やってのけて
後には天才と讃えられたりしている
 
ぼくらは興味関心が散漫で
一つことに集中も持続も出来ない
ぼんやりテレビなど見たりして
それでは時間がもったいないなど
少しは考えるが
かと言って本気で是正する気など無い
そういうだらしない駄目さを
たくさん持っているので
まあまあこんな暮らしが分相応かなと
自分に言い聞かせもする
焦ってはいけない
天才たちと比較してはいけない
自分の中に
あんなに知識を詰め込んだり出来ない
昼夜関係なく
たくさんの資料を読み解いたり
あるいは走ったり飛んだり
国や民族のために自爆も辞さないとか
いやだいやだやりたくない
当たり前を超えた
刻苦勉励はみんなごめんだ
 
ぼくらは植物の一木一草も
例えばハエや蚊の一匹も
正しく理解し評価することさえ可能ではない
人間に出来ることを成してきただけだ
やっと百メートルを9秒台にしただけだ
やがて8秒台という時が来るかも知れない
それはそれでめでたいけど
ぼくらのような凡庸な生活者が
いま一番望んでいることはそんなことじゃない
心に人界のストレス無く
普段着の気持ちよさで
一日一日を過ごしていきたい
ただそれだけのこと
凡庸なぼくらでは
ただそれだけのことも為し得ない
それで凡庸に苦しんでいるというわけだ
この事にはどんな天才も偉人も
役に立ってはくれない
昔から偉人・聖人・天才たちが
庶民の間で「弄り」の対象になるのは
そんな理由があるからだ
ささやかな願望さえ叶えられない
どんな偉大さも尊さも
よくて神棚に飾られるだけだ
そうして背を向けて
ぼくらはただ
日向に向かって歩いて行く
ほかにすべきこともない
あえて言うならば
それが凡庸の「義」だからだ
 
2024/03/27
 
 
「幻のシナリオ初稿」
 
校則のように
千の法
万の法を
設えねば成り立たぬ
生徒が
民が
愚かだからではない
もともとが
箍など嵌め得ぬものに
箍を嵌めようとするからだ
ひとつに出来ないものを
無理に一つにしようとして
どこまで規則を課しても
きりが無い
そうしていつしか
百万の法にも
従う気など失せる
刻々とその時が
近づいているかに見える
もうすぐ人間が変わる
人間の生理が変わる
自壊と自滅に一直線に
人間世界の地殻が崩落する
その時は
みんな野次馬となって
墜ち行く先まで
立ち会うことになる
目を見開いて
一部始終を見届けるがいい
悟りの微笑も
遅れた悔恨も役には立たぬ
言葉を失う衝撃に
直面するのみ
時を超え
無傷で行き会えたら
そうさその時こそ
手を取り合おう
 
2024/03/26
 
 
「ただ生き延びよ」
 
 だいぶ以前のことだが、国会の予算委員会か何かで、故石原慎太郎が質問者となって発言したのを聞いた記憶がある。発言の主たる内容は憲法についてだったと思う。当時首相だった安倍晋三が石原の質問に答えていた。いま考えると、お互いに敬意を払いながら真面目なやりとりをしていた。
 その中で気になる石原の発言があって、言葉としては「最近の国民は我欲の塊になって」と言うものだった。正確な言葉そのものではないが、たぶんそんなことに近い。これを示すものとして例を挙げていて、それは一人の未就労者の話だ。四十代か五十代の男だったと思うが、その男が、年金を受給していた父親が亡くなった後死亡届も出さず、もちろん葬儀もせず、遺体を部屋に放置しながら父親の年金を不正受給し続けたというものだ。
 石原はそういう例をほかにもいくつか挙げながら、要するに戦後の日本も日本人も駄目になったと言い、原因はアメリカおよび進駐軍主導の戦後憲法が改正されずに、今日に到っているからとの持論を展開した。
 当時も今も石原が言いたかったことは、保守の言い分としてよく分かる。たいてい保守派の論客は、これは進歩派も同じかも知れないが、自身が一般生活者の生活体験から浮上してしまって、大衆が顕現する我欲やその行為の選択を嫌い、また見下すことになってしまう。
 その場に居合わせた国会議員たち、あるいは大臣たちや役人、そしてテレビの視聴者も、多くは石原の発言を生真面目に受け止めていたに違いないと思う。だが私はそこにひとつの無意識のトリックがあると思いながら聞いた。
 政治家はよく国益と言い、また国家のため、日本のため、国民のためと口にする。だがそれは統治の側に属する者たちの「我欲」に他ならない。憲法の「主権在民」の「主権」は、本来国民の「我欲」そのものを肯定しつつ、それをも権利の一部と考えるものであって、国民の「我欲」を否定することは政治の本末転倒なのだ。国民の「我欲」によく耳を傾け、そこから国民の願望や希求をすくい上げるものでなくてはならない。「俺は何でも知っている。だから俺の言うことを聞け」と言う政治家は、ただ自分の「我欲」を、国民の「我欲」以上の規模で行おうとしているに過ぎない。国民が馬鹿ならそうした政治家はそれ以上の大馬鹿なのだ。
 私などは、古代の朝廷から始まり現代の国家も同じく踏襲する国民に課す税の徴収は、合法的且つ強制的な大衆からの不正受給であって、これに比べたら先の年金の不正受給はたいしたことと思えない。誇張して言えば、貧困者の自衛手段としては当然なことの部類に入ると思う。それを否定するなら、それ以前に生活者の困窮に目と耳と心を向け、政治の側からの効果的な対策をしてしかるべきなのだ。そんなことにも心到らず、大口ばかりたたいて、威厳あるふうの物言いをする馬鹿たちがいまもモニターやスピーカー越しに雁首を並べている。
 もしも私がその年金不正受給者の父親であったとしたなら、「いいよいいよ、それでいい。ほかにどうしようもなかったんだからそれでいい。」と息子の不正を肯定すると思う。遺体を家の中に放置することも、それで全然かまわないと考えると思う。ただ生き延びよと、声なき声で語ると思う。もちろんそうした不正を息子にさせたことは、自分にもその責任はあると自覚し、また自戒を込めながらのことだ。
 
 善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや
           (歎異抄ー親鸞)
※ここでの「悪人」は、念仏を唱えない人とか、功徳を積まない人とかのようです。現代的な「悪人」の概念とは少し違うようです。親鸞らは善人とは言えない民衆、念仏を唱えない民衆、功徳を積まない民衆をこそが救済されなければならないと考えたようです。またそんな人たちを救済するのが仏教であると考えたかったのだと思います。
 
2024/03/25
 
 
「『悔いなく生きる』ということ」
 
 幼なじみと言っていい人から数日前に連絡があり、仙台で近場の同級生の集まりを開くから来ないかと誘われた。せっかく声をかけてくれたのだからと1日考えてみて、結局は、出不精で億劫だからと言って断った。
 電話で話していた時に、彼は趣味やささやかな社会貢献に没頭して日々忙しく活動している様子だった。そしてその中で、「悔いが無いように生きたいから」ということも言っていた。
 「悔いなく生きる」という言葉はよく耳にする言葉で、いまでも若い人からお年寄りまでよく口にしている。何なら、私も余り口にすることはないにせよ、頭の中では何度となく考えたことがある。そういうところから言うと、間違いなく誰でも考えることだと言ってよいと思う。
 彼我のように老いたものには、その言葉は若かった時よりも切実に響く。つまり何というか、彼の口から聞くその言葉には、『そうだよな、みんなそうなんだよな』という共感めいた思いが湧いた。
 で、それでいいじゃないか、そんなもんだよと思いながら、頑張って全うできればよいなと願った。
 返事の電話を切ってから、私自身はおよそ二つのことを考えた。一つは、悔いを残して死のうが残さず死のうがどっちでもいいなと考えた。それはその時になってみないと分からない。また悔いを残しながら死んだとしても、死ねば死にきりで、まあそれはそういうもんだったと言うことで終わる。そう考えると、悔いを残そうが残すまいが、どっちだってよい。私の結論はそういうことになる。
 もうひとつ考えたことは、彼我の考えの違いで、真逆な考え方だというのが面白く、そこを少し掘り下げたいと思った。
 私からすると、彼の考える「悔いなく生きる」は、自分の命を「無駄なく使い切る」みたいな考え方のように思う。出来ることやれることはみんなやる。持った力を存分に発揮する。細かいところまでは立ち入らないが、およそそんなことのようだ。私はそうした彼の考えを、悪いとは思わないし、逆に当然の考え方のように思った。私自身もそういう考えに何度も立ったことがあったように思う。
 ところでいま私はそういうところからすれば真逆で、社会から引きこもっているような形で、ぼんやりと無為に日々を過ごしている。そして、これはこれで有りではないのかと思っているのだ。べつに世の中の役に立たなくても、自分の存在価値が無なのだとよそから言われたり思われたりしたとしても、彼らの自由であり、考えるという正当な権利の行使に他ならない。つまり私の行いが彼らにどう映ろうが、それはどうでもいいことだ。ただ、私にはこういう時に、狭苦しい人界の枠中に収まらず、動植物の生き方みたいなものが視野に置かれている。それが自然に入り込んでいるのだ。そこから言うと、だらんだらんとした生活、また生き方の果てに息絶える。それをとても魅力的に感じている。屁理屈を言えば、生誕と死との間では日向に寝そべって過ごす、そういうことの方が生命の在り方の本流のような気がする。人間は人間だから他の生き物に追随する必要は無いのだが、私は一緒に考えたい。
 これは人界の良識・常識とは言えない。逆に人界から外れた考え方と言っていいのかも知れない。そしてこれはいまの私の現実的な有り様を投影しているようにも思える。
 大まかなところを言えば私の考えたことはこんな所だが、2・3日すればもう頭から消えてしまっているだろう。つまりどうでもよいことを考えたり書いたりしてしまっているわけだが、これまでも、これからも、たいていこんなふうに推移するに違いないと思っている。ただ、明日のことは明日になってみないと分からない。
 
2024/03/24
 
 
「内観」
 
心が過剰なのだ
過剰に意味や価値をつけすぎる
 
その意味と価値は
刺客のように遠くからやってきて
四辻のすれ違いざま
心の点穴を衝く
それ以来心は言葉に埋め尽くされ
言葉には波紋のように
意味と価値とが揺蕩う
 
心は言葉に支配され
意味と価値だけが残り
心はそれだけにされてしまう
片時も離れず意味や価値を問い続けて
遙かな故郷の記憶のように
心から青空が消え雲が消え
山も森も海原も浜辺もみんな消える
正確に言えば時間と空間が変異して
意味と価値とを無くしたものは
みんな言葉や言葉の出自と一緒に
心の圏外に追いやられる
 
心には言葉が過剰なのだ
過剰に意味や価値を着込んだ言葉が
そのために心から隙間が消え
空白が消えゆとりが消えた
季節や風景はみんな画像になった
もう後戻りできない
もう輝く時はない
 
2024/03/23
 
 
「みんなくそったれだ」
 
資本主義経済と民主主義政治との両輪で
社会が回ったり進んだりしているとしよう
現在この両輪が
推進力として機能していない
という議論が学者・有識者の間にあったりする
 
このての話は専門性を要するので
部外者は置いてけぼりで
すまし顔の専門家の独壇場となる
けれどもぼくらのような
頼るものもない一般の生活者からすれば
資本主義経済も民主主義政治も
同じようにぼくらにとってはくそったれで
共々に利害の利を貪る機能と機構の別名だ
時代性を超える恩恵はほぼ皆無だから
どちらがどう困って解体の危機に瀕しようが
あるいは消滅しても差し支えない
利にぶら下がるすべての機構や組織は
大変だと騒ぎ立てるだろうし
みんなの生活が成り立たないよと脅すだろうが
ぼくらはずっと成り立たないところで
我慢したり工夫したり苦労したりして
ギリギリ成り立たせてきたから
そういう煽りや脅しは全部嘘だと見透かせる
ぼくらを含め
全体不如意の道を選択するほか無かった者たちは
そんなものを後生大事と思っていない
人間の質が違う
片方は上位や優位の椅子に執着し
もう一方はそうしたさもしさや
見苦しさが耐えられない
前者は下位の人間を見下しがちで
後者は偉ぶる馬鹿の発言を許しがちだ
どちらがいいとか悪いとかではなくて
歴史はその二層に色分けされるように進んだ
なるほど文明も文化も高度に発達したが
肝心要のところは皆からっきしだ
ぼくらは人をではなく
いとも容易く流通する
そんな思想性を見下しているのだ
 
2024/03/22
 
 
「論的心像」
 
お彼岸に墓参りの
伝統・風習・準規範は
主に先祖の供養を目的としている
大昔であれば村落の端っこ
ちょっと遠くても隣村くらい
歩いて半日程度の往来ですんだ 
 
現代では都会から田舎へ
地方都市から山漁村へ
鉄路や高速道路を使い
電車やバスや車を利用する
なので伝統・風習・準規範は
少しずつ少しずつ
拘束力が弱まってきた
時代の変化が
生活環境の変化をもたらし
それはまた多様性の考えをもとに
全体としてみれば
ばらける方に進んでいる
 
逆に見れば
社会や国家と言った全体性よりも
家族や個人の事情が優先され
家族と個人とではまた
個人の意向が大事になった
この事は知識や技術の
専門化や細分化の流れに
構造的によく似ている
反面統合や総合が難しくなり
分子構造的に不安定感が増す
以前は文学や思想が
統合や総合の一端を担ったが
いまは勢いをなくしている
 
2024/03/21
 
 
「消えゆく記憶と再生と」
 
定点カメラの風景を季節は巡り
そんな中 無言の蟻の行列
無名の群衆 そのひとりひとり
気の遠くなる長い歳月の間では
精神の内側にも季節は巡り
季節ごとに風景が変わり
見えない数々の殺傷もあった
たとえば老いたる男たちの間では
かつての眠狂四郎の円月殺法や
座頭市の抜刀術などが
何度か繰り返された筈だ
 
長い年月の間に
殺傷の記憶も無意識に沈み
ほら梅の花開き和む今日
レンズを通過する光には翳りもない
そうして大小の都市には
意識や言葉の行列が
白昼の午睡の内に流れ続けている
サラサラと
そしてドロドロと
 
2024/03/20
 
 
「意固地と天邪鬼」
 
しばらく前から本が読めなくなった
近視と老眼と白内障のトリプルパンチ
意固地と天邪鬼が降りてきて
メガネの買い換えや
白内障手術なんかもするもんかって
他人事にする
 
めっきり本を読まなくなって
活字はもっぱら
パソコンの拡大機能
それも目が辛いので時たまのこと
書棚と書棚からあふれた書物は
ただ悲しげに色褪せて行く
いつか読み返そうといういつかは
もう来ないのかも知れない
 
思えばそれらの書物から
ずいぶん教えられたり
助けられたりしたこともあった
ぼくの頭の半分は
おそらくそれらで育ったのだが
いまとなれば
それと確かめられるものは少ない
はっきりしてもいない
わずかな余韻を種にして
わずかなそれをメスにして
腑分けに臨み
錆と鈍さに四苦八苦
もう止めたらいいのに
いろんなことから退けばよいのに
そう考える先からまたしても
変えられぬ意固地と天邪鬼が降りてきて
意味も無い不毛と徒労にせき立てる
 
誰も止めてくれぬ
73歳の春の今日
日記には「暴風警報」の文字
 
2024/03/19
 
 
「凡人考」
 
善人とは言えない私にはよく分からないが
善人の人生はきっと良いものだろう
だがそれ以上に
凡人の人生はもっと良いに違いない
それはまだ私の中で確定していないが
親鸞さんの悪人正機説から考えて
悪人でもない半端な凡人にも
往生とまでは行かなくとも
現世の中で光が当たる部分が
気づきにくいのだがあるはずだ
という思いが私にはある
 
人を見下すこともなく
妬み羨みにも距離を置く
欲張らず
ほどほどの暮らしに満足し
争いがあれば
心震わせて遠離る
人の視線には
大気のごとく透明で
控えめな喜怒哀楽は小さくて見えにくい
周囲から取り沙汰されぬ淋しさは
いつも静かな微笑に変える
 
印象は薄く苦にされない
善くも悪くも範たりえない
そういう風姿風体は
自然や無名に溶け込んで
生き急ぐこともなく
頭を抱えることもなく
ただその時にやるべきことをやり
それは実に
遠く及ばぬ私の願望の立ち姿
古代から未来へと貫く
ただ一点に収斂する価値の源泉
心優しく穏やかな無名
私はそれを理想の人と呼びたい
人間はどう考えても
詰めて詰めて考えるほど
それがいいのだ
人間の分を知って
利害に余計な頭を使わない
あるべき姿でただそこにいる
それが価値で
それが理想だ
 
2024/03/18
 
 
「ここに立つ」
 
考えるのも
言葉を紡ぐのも辛いので
垂れ流しの映像を見
音声を聞き
日々に逃げる
日々を解き放つ
自分を見失わせて
明日また考える
それもやっぱり辛いので
早々に切り上げて
逃げる
解き放つ
迷走に潜ってを繰り返す
ただ遅々とした
その無為と徒労とを
あからさまにする
その生涯には
特筆すべき程のこともなく
それでもいいよねと居直って
 
ごくふつうに生きてきて
ごくふつうに頑張って
ヨブ記のように報われず
貧しさを不毛のように背負って
野心といって欠片もない
人人人に埋没し
褒められることもなく
わずかに家事に精出して
いまもほら
すぐそこに立っている
あなたに向かって
本当は告げたいのだ
 
普段着の言葉で
語りかけたいのだ
うそ偽りなく
ぼくの現在もこんなものですと
そのうえで
少なくともぼくにとって
あなたが価値なのだと
きみがいるから立っていられると
そう教えたいのだ
 
2024/03/17
 
 
「無名の人に」
 
労使の労が辛いとなって
今は言葉を刻んだり紡いだり
ただそれだけが残ったかも
たとえば心の中を鳥となって
パチリパチリと
シャッターチャンスを窺う
その振る舞いの
寂しいことは抜きにして
その振る舞いの
空しいことは抜きにして
わたしよ
ただひたすらに
花咲かぬ詩を書き続け
実のならぬ詩を書き続け
そういう詩でもいいのだと
そういう詩だからいいのだと
無名の人に
そっと届けよ
それをもって
小さく群れなす
無名の人々への挨拶とせよ
 
2024/03/16
 
 
「腐葉土」
 
肥料も腐葉土も
しばらく縁の無かった庭では
黄楊や山茶花が痩せ細り
つつじや紫陽花や南天も貧相なままだ
それらの生け垣と庭樹は
家を買った時にすべて
亡き父が設置の労を引き受けてくれた
あれから四十年近く
ほとんど手入れもしていないので
そのことはそのまま
それらの立ち姿に表れている
 
それでも玄関の目隠しに植えた杉が
ずいぶんの背丈になったので
妻は数年前に
根っこから抜こうと言った
結局一本だけ抜くことにして
残りは芯止めして剪枝することになった
世話などする気も無いくせに
すべてを抜くことに
わたしには少し抵抗があったのだろう
それらの庭樹はみな
まだわたしたちのものになってはいない
そういう気が今でもして
肥料や腐葉土を買い求めて
土に混ぜまた根元に盛りなどしていた
在りし日の父の姿を思い浮かべ
わたしの言葉や詩は
肥料とはならないまでも
いつか腐葉土になれるんだろうかって
しみじみと考えたりもする
 
2024/03/15
 
 
「老害論」
 
 世界の中の大国とか先進国とか、あるいは常任理事国とか言うもの。もっと言えばすべての国家というものは、現在ではすべて国民や住民生活者にとって、あるいは他国にとっても、老害かのように存在している。
 依然としてさまざまな場面で影響力を持ち続け、影響力を行使し、利用したいものにだけ利をもたらし、それ以外のものには直接的に間接的に害をもたらす。大きく見れば利よりも害の作用が広く強い。
 現在世界に網羅した国家はそれなりに紆余曲折の歴史を持ち、洗練され、成熟した側面を持っている。官僚の天下りが依然として重宝がられるこの社会では、国家もまた重宝がられ、国家の消失は想像も出来ないことであり、国家があって当たり前というのが常識となっている。
 国民にこのように周知徹底させ、国家は堅固な存在に自らを構築してきて成功を収めた。しかし、堅固に成熟してきた反面、複雑化、重層化、あるいはいっそうの多様化が進んだ今日の社会において、成熟は同時に硬直化として作用するように見える。
 硬直し高齢化した国家のもたらす影響力は、社会とそこに暮らす人々の活力を失わせる。その兆候を誰もが察知し始めて来ている。だからもう大小すべての国家は、そろそろ歴史から退場してよいのだ。さしあたって国家の無い社会をどうイメージするか、それが今日的な思想の課題だとわたしは思う。
 
2024/03/14
 
 
「ひたすらの無」
 
切っ先ただその上に
立ち止まる心
息を殺して対話して
行きつ戻りつ
不安な砂時計が
音も無く墜ち続ける
 
微弱な震動が
言葉の足下に伝わり
細い切っ先の上
綱渡るバランス
心細く止むことが無い
ひとりする
発条仕掛けの遊戯
その心
重く持て余し
差し出す触手が空を切る
極限に露出した
ただ原初に蠢く奇跡
乾いた泪の汗を滲ませ
無音の中を
後ずさりするのは
ひたすらの無
 
2024/03/13
 
 
「評価の我慢」
 
苦労が分かるとか
気持ちがよく分かるとか
安易に言うなという言い方がある
例えばスポーツのチャンプに成ったことのない者が
成り上がる過酷さも知らないくせに
分かったふうを言うなというような
気遣いと敬意と擁護の言い回し
普段よく聞くし
使うこともある用法である
 
この言で行けば
政治家も会社社長も
ふつうの人や平社員にとって雲の上だから
常に過酷な労苦に直面し
自己を犠牲にしながらもみんなのために尽力し
リスペクトされるべきということになる
確かにこれにも一理ある
だがしかし
人並み以上に努力して
自他共に認める上位に上り詰めた者に
文句をつけてはいけないことになってしまう
身を粉にして生きることが
一番の価値になってしまう
 
ぼくは全体そういう見方考え方は駄目だと思う
チャンプだろうが政治家や社長だろうが
その心と頭の働きは大衆一般に同じなので
物差しを使ってみるから別になる
物差しはみんな作られた恣意のものだ
だから本当はどう評価するのも勝手だが
評価したいところを
ぐっと我慢するのが一番よい
 
2024/03/12
 
 
「福寿草という花のこと」
 
ある建物と裏山との間の
ちょっとした日の当たる場所に
むかし福寿草を初めて見た
黄色に可憐に咲く花で
特に目を引くわけでは無くて
調べたらそれが福寿草だった
名前だけは聞いたことがあった
雪解けの後で
黄色の濃い花の色が目立った
葉っぱは独特な形と色をして
全体を人間に例えれば
農家のくせの強い娘
キャラが濃い
山野草には個性の強い
そうした姿形の花が多い
人社会にもまれて
観賞用に洗練された美ではない
それが好きというのでも無い
ただそう言うものがあって
そういうものを見たと
思い出しただけだ
それでまあ
生きていると
深くは関わらない
そんな出会いや出来事が
数限りなくあると
そう思い返してみている
 
2024/03/11
 
 
「概念に乾いた砂」
 
概念に乾いた砂が
何処までも続いている
行きつ戻りつの道に
ただ人の世の
人の集まりに拗れた糸の
近く遠く
潮騒となって
鳴り響くばかり
小さな蹉跌はそのままに
デジタル化して化石化し
立ち止まったり後退したり
ひっそりと
身を隠すべき隙も無い
 
われわれの心には
一番それが無い
逃げて身を整える
場所が無い
わたしはそれを
言葉や文字や
詩に託したいのだが
古代人の
自然に絡めた
素朴で太い吟詠には
とてもとても
敵わない
わたしの心にはもう
森も風も鳥も無く
立ち止まる光も
焼き付いた夕暮れも無い
辿り着いてみれば
ただ概念に乾いた砂が
空洞に舞っている
 
2024/03/10
 
 
「鬱屈の気」
 
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市内の求人は5件ほど
たいていは介護関係
それに警備や保育や調理補助
眺めながら
そんなのやりたくないと思う
労使の労はもうたくさんだ
こんな世の中の仕組みにしたのは誰だ
太古に戻って土地を持ち
田畑を耕し食を得て
森に木の実を探し
川で魚を捕らえて日を繋ぐ
そういう貧ならば
今よりも遙かに生き生きと
喜んで耐えもする
そういう気がするのだ
そしてまた
似たような境遇
同じように鬱屈の気のひとが
世の中にどれほどいることかと
思いを馳せ
また思いを巡らす
今この時の衣食足りても
なぜ心はこんなにもくぐもる
なぜ思い煩う
森に隠れ住まう獣たちも
風雨にさらされる草木も
人のする思い煩い
あるいは自己嫌悪に
おそらくは苦しむこともない
心を捨てさえすればと思うのだが
心はやはり我々の身体を
離脱しはしないのだ
 
2024/03/09
 
 
「評価戦線からの逸脱」
 
 価値基準の違い、評価基準の違いというものはとても悩ましい。自分のそれと、他者、もっと広く言えば社会との差異は、突き詰めて考えようとすればするほど決定的だ。
 日常生活的なところで言えば、人はいつも社会的な評価を気にし、またそれに晒される。高く、あるいはそこそこに評価されたいという願望がまずあって、たいていそれは適わない。自分では一生懸命に務めているつもりなのに、他者に、社会に、それが認められ評価されることは少ない。あるとすれば小さな仲間内とか、身内の中でだけだ。そして、ほとんどの人はそれくらいのところで生涯を終えることになっていると思う。
 わたしのように社会性のない生き方をして、さらに自己評価も低いところで納得しているものにとっては、それくらいの評価があればもうそれで充分だろうという気がする。しかし、個の立場に立てば、他人や社会の価値観や評価の仕方にはどうしても不服を覚え、異議を申し立てたくなると言う気持ちも分からなくはない。
 つまり、こういう問題は何処まで考えても解決がつかないというのが本当のところだ。それでいて個人にとってはいつまでも悩ましい問題となる。
 他者や社会の価値の置き方、評価の在り方に異和や反発を覚えるのは、覚える側に異なるそれが身についてしまっているからだ。それに執着すれば当然軋轢が生じる。
 悩まずにすむための一番の解決法は、自分に身についた評価や価値基準を手放してしまうことだと思える。そうすれば、考え方次第では他者や社会の評価を無効化することが出来る。実際に無くすと言うことではないが、それに囚われない立ち位置に立てると言うことだ。反動で孤独を余儀なくされるかも知れないが、自立の拠点に立つ、新たな自由人の道の開拓者にはなり得るかも知れない。
 
2024/03/08
 
 
「抗し得ない道」
 
春めいた空にも届かない
小鳥は飛ばず
福寿草も梅の花も
壊れたカメラの中だ
結局のところ
何に支えられているかと言えば
足下の土と
土に滲みた水と
丘の上の風と
ふりそそぐ太陽の光と
イメージする心だけだ
 
まひる時の静寂と
電網の喧噪と
ぽつんと取り残された心
微かな希望としての暗黒も
気がつくと
すっかり掃かれた霧となって
ぼくらの視界から
消えていった
化石化が進む歴史
手探りの考古学
もちろん
未練たらしい
ストーカー行為や
創り出される
妄想の類いは
全部だめだ
 
呆けて生きてみせるか
極限まで引きこもるか
道は二つに一つで
たいていは引き裂かれ
我が田に水を引く
抗し得ない道を
賑やかにか寂びかにか
辿る仕儀となっている
 
2024/03/07
 
 
「みんな言葉に仕舞い込む」
 
座椅子でウトウトする
夕食後のお決まり
モニターにYouTube動画を流し
以前はお笑いやエンタメが主だが
最近は武術や女子卓球を
見るようになった
どうであろうと
なんであろうと
この暮らしは快だ
老いて手にする
怠惰の快だ
 
ちょうど今は春三月
いい人になること
よきことをすること
などなどの
生臭い思念からの卒業には
持って来いの季節
四月からは
やむを得ず生きる
これを座右の銘として
夢も希望も持たず
すべての義務から
姿をくらまし
その日その日を
受け身で暮らす
考えるべきは考えた
やれることもすべてやった
愛も願いも届かない
さて還りがけ
分かったことも
面白いことも
みんな言葉に仕舞い込む
そういうもんだぜ
趣味の詩は
 
2024/03/06
 
 
「詩と微笑」
 
花を見て
子らを見て
笑みを湛えて
日をつなぐ
 
何気ない日々の暮らしの中
そんな老女や老爺が
羨ましくて
ああなりたいなって
妬ましい
 
価値ある生き方
価値ある老いって
そういうもんだ
遅ればせながら
不得意ながら
四の五の言わず
ラストスパート
詩は
微笑んで書く
 
2024/03/05
 
 
「言葉さがし」
 
深夜は寝静まった昼
電網の森ではまぶたの裏に
小さな光の粒をさがす
だらりんと集中して
言葉の羽ばたきを待つ
 
樹木に隠れた神秘の池
猟銃の照準を合わせていると
そこはもう砂浜に変わっている
ゆったりと寄せては返す波で
言葉も行ったり来たりしている
 
埃になじんだ部屋は
長い間黙って横たわっている
饐えた匂いも湧いている
此処に生まれて此処に死ぬ
呑み込んだ言葉は苦い
 
2024/03/04
 
 
「心象の空疎」
 
花鳥風月と言っても
幼い頃は極々身近にあり
振り返るものでもなかった
もっと昔の人たちは
朝から夜まで自然の傍らに生活し
花鳥も風月も心に住まうものだったろう
ほかに興味関心を向ける対象もなかった
その分思い入れは太く厚い
 
現在のわたしたちの
生活の傍らには何があるだろうか
花鳥風月に置き換わって
何が心を占めているか
意外なところでは人間というのもある
人間関係が驚くほど密だ
職場に学校にショッピングセンターなど
人の群れを見ない日はない
プライベートでは
テレビとかインターネットとか
画面越しに視聴する時間も多い
それらもそしてそのほかも
対象としては多種多様で
どれも象徴にはなり得ない
現在のわたしたちは
花鳥風月どころではなくなってしまい
それに変わるものにも出会えていない
分散した心は
路傍の草や小石をついばみ
繁みに引きこもる
 
2024/03/03
 
 
「眠れる夜は眠れ」
 
大昔から衣食住には苦労して
改善も改良もされた
今はずいぶんと良くなって
太古からは夢のように
快適な暮らしをを手にしたわけだ
それでいて
今には今の苦労があり
老朽化した住まいをどうしようとか
すき焼きじゃなくもつ鍋にしようとか
家ではなるべく厚着して
燃料費を節約しようとか
心にかかる苦労や負担は
けっこう切実なものがある
 
食べ物がなくて何日も空腹で過ごす
凍てつく夜に眠れずに過ごす
そんな体験はないだろう
と言われても困る
たしかに「貧」の文字は同じでも
その質と重さは違う
心はけれど
「苦」は「苦」として感受して
感受の針の振り幅や
メモリの数値の示すところは
さしたる違いが無い
苦しいと言えば
やはり苦しいのだ
 
どうにもならない時
太古には自然や神に祈願した
それでもだめな時は諦めた
現代では祈願よりも
金があればと考える
それがなかなかどうして
願うものには縁遠い
獲物が狩れないように
金に不自由して
太古も今も
たいていの人々の
たいていの日々は
「苦」と同居している
だから生きるとは
そういうことかも知れないし
それならば
嘆いてばかりもつまらない
歯の食いしばりは解いて
愚と貧との人よ
眠れる夜は眠れ
朝目覚めたら
ぼくらを思え
 
2024/03/02
 
 
「入力がずっと0なのに無理に出力する時」
 
読み書き
読み書き
バッサバサ
 
読み書き
読み書き
バッサバサ
切る
 
読んで読んで
書いて書いて
バッサバ
バッサバ
バッサバサ
 
読んで読んで
書いて書いて
バッサバ
バッサバ
バッサバサ
バッサバ
バッサバ
バッサバサ
切る
 
切る切る
切る切る
キーリキリ
切って切って
切って切って
キーリキリーの
カークカク
 
画掻く
核各
カックカク
角格
閣欠く
カックカク
斯く確
描く郭
カックカク
書く
 
2024/03/01
 
 
「とある領域の入り口で」
 
エロスから見放される
ポンコツの極みはこれだが
茨の中を引き回された
傷だらけ血だらけの
若き日々を思えば
老いた命と肉体の衰退は
魂が浮いたように身軽だ
 
思いもしなかった
歳を重ねての
おまけの一つがこれだ
もっと用無しに
もっと役立たずに
いっそ晴れ晴れとして
軽みのうちに
足の裏から離脱が
始まろうとしている
 
離脱しきれぬ生と
到達間近の死との中間に
見えない次元と
位相とが広がっている
上手くすれば無敵の領域となるが
下手すればもぬけの殻
無敵を信じれば無敵
自在を信じれば自在
どうする
人知れず人界を超越して
歓喜の日々を
ひとりして歩いてみたくはないか
微かなエロスと
白い香りの欲と
死ぬ直前の細胞の輝きに
身と心とを委ねながら
さてこの先は
存分に大気を味わって
暮らすのだ
 
2024/02/29
 
 
「人生の一小事」
 
増税のタバコは
台所の換気扇の前で
換気扇に向かって
吸ったり吐いたり
後ろめたい
数十年かけて
少しずつこうなった
その時に当たり前で
おおっぴらにしていたことが
いつの間にか逆転して
気がつくと
恐縮しながらやっている
あれもこれも
あっちにもこっちにも
そうして口には出さないが
ある日のある時刻には
心は『もうしわけない』で
埋め尽くされている
イヤイヤイヤイヤ
違うでしょって
微かに身震いさせてもみるのだが
海辺の砂浜に
寄せては返す波のように
時も思いも
サーッと洗われて行く
老いたる我が身は
ただ取り残さる
 
2024/02/28
 
 
「迷走の途次からの雑感」
 
学校ではたくさんの試験を経験する
試験には評価が伴う
そこはまだぼんやりしているが
子どもにもなんとなく
難儀なものに感じられていると思う
 
繰り返しているうちに
その習性が身についてしまう
自分の外の
社会とか世の中とかは
試験の形を取ろうが取るまいが
課題を持って立ち塞がるもので
個人はいつも
見えない課題にも対峙して
解を示さなければならない
課題に含まれる
社会や世の中の意志や意図を
読み取ろうと身構える
 
幸福になるための解を探す
全体が幸せになるための解を探す
平等な社会とか
世界の平和とか
課題は何でもよいが
ぼくらが頻りに考えてきたことは
試験の延長上で
解を探しているに過ぎないのじゃないか
こんな生き方は
学校化の末路であって
幸せな生き様とはずいぶんかけ離れている
そのうえ近代以降の学校教育
その影響をもろに受けていて
重症化した申し子だ
こういう所をえぐったり
あぶり出したりして
後の世代の人につなげて行ければ
と思いつつ
歳だけは長老とか
達人とかの域に達したが
とてもとても
闇深い迷走はまだまだ続くなあ
 
2024/02/27
 
 
「主体の二重性」
 
視線を足下に落とし
畦道を小走り
一瞬立ち止まり
視線を先に送ると
蛇の目が
田んぼの水の中から
こちらを窺っていた
 
ずいぶん昔のことだが
その時の足を止めたことや
視線を足下から
数メートル先に送ったことには
何か理由があったはずである
違和感があったとか
気配を感じたとかの類いだが
言ってみたいことは
その反応とか反射は
「自分」が主体となった
反射や反応ではないということだ
主体としての「自分」は
田んぼの先の川をめがけ
小走りに急いでいた
魚釣りのためか
友達と遊ぶためだったか
心も身体も
「自分」のすべては
川という一点に向かっていた
それは狭義の「自分」で
その奥に
あるいは背景に
広義の「自分」がある
時折この「自分」が
意識と無意識の裂け目から
不意とこの出来事のように
表層に浮かんでくることがある
太古の生命的な名残とか
面影とかが
我々にも継承されていて
「自分」とは
二つで一つと教えてくる
 
2024/02/26
 
 
「生真面目な冗句」
 
ふつうの人というのは
保守的な人だ
乳幼児の頃から
世界を受け入れることが
出来た人たちだ
世界から歓迎され
世界から愛されたので
文句をつけようにも
つけようがないのだ
伝統的な暮らしに
喜んで参加できる
秩序ある伝統に準じて
迷わない
ふつうとか
当たり前とかが
価値を帯びたり
理想に思えるのはそこだ
 
過去や現在の現状に
不満を抱く人は
やはり
そこを変えたいと考える
革新的傾向を持つ
たいていの場所が
居心地が悪い
ふつうや
当たり前になじめない
殻に閉じこもると
孤立したり
伝統から逸脱しがちだ
でもそのことで
新しい生き方や
価値や意味の鉱脈を
掘り当てたりするので
面白い
 
実際には
保守も革新も
それぞれに
濃淡や強弱の段階を持ち
けして単調ではないが
もしも理想社会が
実現されたとなれば
その時には人たちは皆
保守的伝統的に
ならざるを得ない
のではないか
 
2024/02/25
 
 
「ある懐疑からの言葉」
 
世間に怯え
夢に怯え
自分に怯えていた
少年はずっと
齟齬として世界を見
齟齬として存在した
何処まで行っても
この世界は違う
という気がしていた
 
なのでこの世界の
幻想の領域のすべて
人間的な思考や
知の蓄積
つまり
社会を形成し
大きな所帯にして行こう
とする方向性を
懐疑しまた不審した
開かれた社会性は
不可欠なものだったろうか
本当はそうではなくて
できるだけ小さく形成して
獣たちのように
身内で好き勝手して
生きていくことが
人間の本来の特性に
合致するのではないか
 
本来的なもの
また本能を否定して
理性を強化し
刻苦勉励して
巨大な人間帝国をつくり
それは種の戦略であった
かも知れないが
そのせいで
たくさんの我慢や
協調を強いられ
個々の多様性は
単純化の枠に嵌め込まれた
 
人間存在は
法に合致しない
規則や規範に合致できない
隙間無く合致するためには
人間を放棄し
AIにでもなるほかない
そんなことは
ほかの生き物たち
動物や植物が教えている
人間だけが
矛盾を抱えた生き物で
やり直すことも出来なければ
脱却することも出来ない
苦しみは永劫で
だからその余の時は
忘れて遊べ
 
2024/02/24
 
 
「老後の現在」
 
パチンコに出かけ
家では動画を見ていると
一日はあっと言う間だ
余りの時間で詩を書こうとすると
いったい何をやっているんだって
わずかに気が咎める
 
何のために生まれてきたか
本当にこんなことのために
生きながらえているのか
時々はそう考えて
情けない思いに浸ったり
希望とか理想とかを
思い返したり
本当にこんな柔な暮らしを
いつまで続けるんだろうかって
 
絵に描いたような怠惰な暮らし
けれども少し深掘りすると
こんなありふれた
ちょっと怠惰な庶民生活は
数千年数万年の歴史が
やっと辿り着いた
恩恵と言ってもよいもので
先人たちの希求の痕跡が
形になったものだとも言える
その意味では
大いに遊んだり楽しんだり
怠惰をむさぼるのも悪くはない
けれども小心者のわたしは
素直に楽しんだり
怠惰をむさぼって
すっかり満足することが出来ない
現代病でもあるだろうが
意味や意義を求め
価値ある生き方を
つい願ったりしてしまう
どうしても
がんじがらめの幻想から
自由になることが出来ない
この中途半端さが辛く
そして悲しいわたしの
老後の現在なのだ
 
2024/02/23
 
 
「青天の霹靂」
 
昨日の
春の暖かさから一転
今朝はこの冬一番の積雪
早くから雪かきの音
早めの出勤で
ライトを点灯した車が
団地から町道へ市道へ
さらに国道へと流れ込む
そんなにも
エネルギーを解放し合い
人も車もまた社会も
どこへ向かって行くんだろう
自分も一員でありながら思う
ずいぶんと無益なことを
為てはしないか
こんなにエネルギーを消費して
形成され維持されてきた社会は
望んだり願ったりしたものに
なっているのか
 
社会の上には国家(政府)があり
多細胞の人間個体には意識があり
それぞれ社会なり個人なりを
コントロールできると見なし
そのつもりになって
そうしていると考えている
ぼくはぼくだというように
国家は国家だというように
本当にコントロールできているか
どうかは分からない
人の意識は細胞を理解していないし
政府も国民の意を理解できない
そんなんで
ただ一生懸命に
バラバラで統一のない個体と
統一のない国家とが
それぞれに幸福や平和を願ってもいる
便利に暮らし長生きもして
それならばテレビや新聞の報道に
凶悪な犯罪や利害の争いや
不安な世情の記事が
無くなってもよかろう
善や愛を煽る
コメントも無くてよかろう
 
暖冬に気が緩んでいたところに
今日の寒さと積雪だ
防衛費の増額の話題と一緒で
青天の霹靂
と言えば誇張が過ぎるか
 
2024/02/22
 
 
「知の循環」
 
足の裏から下半身
そこから胴へ
胴から胸
胸から頭へと
上り詰める
言葉が起きて
文字を立て
幻想の知を
神経網に巡らす
 
一巡りして降る
頭から胸
そこから胴へ
胴から下肢へ
足裏へと
血液のように流す
人の知は
そのように作り育て
生の現場
生活の場に投影し
人の個体の
色模様となす
 
2024/02/21
 
 
「黄昏の時」
 
あちこちを
気の向くまま
足の向くままに
彷徨い歩き
恥ずかしきこと
悲しきこと
苦しきこと
悩ましきこと
嬉しきこと
楽しきことを
いくつも経て
気がつけば
黄昏の時
 
そういうもんだってことは
しかるべき歳の
しかるべき時に
誰もが出合う既知である
語っても
語らなくても
旅の終わりはそういうもんだ
誰ひとりの例外もなく
気が抜けて
抜けた気は風に乗り
共同浴場の天井みたいに
空に雲となって
一つ所にただ憩い
憩いながら混ざり合う
 
「しろいくも」
「おおきなくも」
下界では
空を見上げる幼児らが
教えるともなく
教え合っている
 
2024/02/20
 
 
「午前0時を越える」
 
本当のことを言うと
光も影も
季節も風景も
みんな幻となって霞み
ほぼほぼ消え失せた
 
午前0時を越えたら
心は何も映さない
乾燥して
肌荒れした言葉が
バラバラ音を立てる
自分の声も
他者の声も
そうなってしまった
 
言葉は言葉の内に引きこもり
外界との交流を絶って久しい
あたかも資本主義下の
建築材料となり
あちこちで
人工の季節や風景として
組み立てられている
詩人たちもまた
絵画を真似て配列したり
五線譜に書き込んだり
意味するものと
意味されるものとの
書き分けを
いかにトリッキーに
構成するか競っている
 
未明の店頭には
リンゴを越えたリンゴ
イチゴを越えたイチゴが
美しく並び
くすんだ心の消費者が
値段を気にしながら
手に取って見る
午前0時を越えたらもう
世界はおもちゃ箱に
変わっている
 
2024/02/19
 
 
「時読み」
 
時間が液状に
無限に広がって行く
空間化して
すべてに関係づけられる
かと思えば
締め切りの時間は
今この時にも
刻々と迫り来る
 
理解するとしても
この伸縮や変容には
容易に馴れることが出来ない
時間の概念を
考えすぎるためだ
幼児にはそれが無い
時間の概念は必要がない
明日を思い煩うことがない
 
衰えて
死を間近に感じるとか
余計なお世話だ意識よ
そろそろおまえも
緩やかに穏やかに
砂のようにさらさらと
衰えて行くがいいのだ
そうして幼児の
天衣無縫の生き方に
学ぶがいいのだ
 
2024/02/18
 
 
「生きる」
 
何をしているかは別として
ただ生きられているから
生きている
例外はない
夢を追っていようが
執着する何かに夢中であろうが
関係ない
この位相では
死ねば死にきり
生きてあるものは
何をしていても生きてあるもの
死んではだめということでもないし
生きていればよいというのでもない
生きてあることには
意味もなければ価値もない
死んで行くことにも
何もない
とりあえずそんなところを前提として
意味もあり
価値も付される人の世に
逆らわずに
そっと身を置く
しきたりや風俗に半身は妥協して
生きられるうちは生きる
生かされてあるものの
それが務めかと
うつらうつらと思いつつ
 
2024/02/17
 
 
「イマジネーション」
 
読んで面白くて
楽しくて
時間つぶしにもなる
そんな文学や思想は
今この時代にあるのだろうか
 
この問いを自分に向ければ
これはもう絶望的だ
これから先も
ほぼほぼあり得ない
若者たちはみんな
もっと面白いもの
楽しいものに
向日葵のように向かって
とっくに探し当てている
ミュージックやスポーツや
スターやタレントや
夢中になれるものを見つけている
 
ごくふつうの
一般の人はみんなそうだ
特別な自分に憧れる
憧れは憧れに終わり
それが太平と言うことだ
ぼくらの考えやその表現は
遙か後方に霞んで
見向きもされない
それには理由がある
その理由を
不問にしていてはだめだ
とりあえず
発生の現場に
足を向けてみなければ
この閉塞は穿てない
 
2024/02/16
 
 
「言葉考」
 
言葉は観念的な触手である
物に触れて
本質や属性を探査する
遠く原生生物や
原生動物からの面影が宿る
進んで逸れて迂回する
生命的な基礎の末端
最終の形態
 
その変態は
ほぼ突然の変異なので
どこにもよりどころがない
なので
言葉はいつも模索する
言葉の種は変遷するが
言葉の個は
生涯のように始まり
生涯のように終える
ひとりの生涯の中に形成され
ひとりの生涯の終わりに終わる
だから言語は無数だが
役割としては合同なのだ
言葉それぞれの概念や意味は
道標でもあるが
それが最重要なのでは無い
生命と不可分の属性を負っていて
もはやひとつの
生命現象そのものである
そしてそのことが重要なのだ
観念を生きるツール
現在の言葉は
そういう次元に到達してしまった
言葉は身体を大地として生成するが
肥大してやがて
身体を枯らす
 
2024/02/15
 
 
「縊死からの死考」
 
もうこうなったら
誰がいつ死んでもいいとしよう
 
遙か遠く戦火に倒れようが
おさなごの飢餓に倒れようが
あるいは身近な日常に
ロープに縊れようが
老いて穏やかに
息を引き取ろうが
すべて同じ死なのだと
考えてしまおう
 
自然の摂理による死も
人為の死も
今この時に消えるいのちも
人為によって
僅かに延びたいのちも
そこに善し悪しもなければ
尊卑もなく軽重もなく
痛ましさの有無もない
死は死であると等号に結ぶ
 
どうせ足下の
朽ち枯れた草木にも
空から落下する鳥たちにも
素知らぬふうの
わたしたちではないか
死の痛ましさ
それからの居たたまれなさ
そうした思いを
どんなに肥大させたところで
ついについに
その事実の前には
届かないのである
 
言っただけ
書き記しただけ
それならばいっそ
白旗を揚げて
痛ましさの感受を
封印してしまう方がましだ
だからもう
死はすべて同じなのだと
考えてしまおう
どんな死にも
痛ましいという
人の言葉を冠して
それで事は済んだと
いう気になってはいけない
そこから先にも
思考の触手は伸びようとする
そのひとつとして
死は死であると
今日は考える
 
2024/02/14
 
 
「老いの身構え」
 
どこまでも闇は深いから
風光を流れる人になる
浅く明るく
小魚のように群れて
一つ所にいるのは耐えがたい
滅びと気づきながらでも
もっと明るい場所へ
光の届く浅場へと
掌に視線が加速する
胸の中にはもう
倫理や掟の文字も住まわなくて
壊れた枠の欠片が
無造作に散らばったままだ
指示しているのはスマホ
指示されているのは自同律
あるいは自動律
白昼の午睡のように
平和に浸る
 
いついかなる時も
穏やかな笑みをたたえて
けして怒らず
半分呆けた老爺の姿と
一歩二歩
下がって言葉を発す
その奥ゆかしさを
体現できる自信は
もうない
望んだ明るさは
未知からの白光に変わり
目を閉じて包まれる
ただその一瞬を
小さな悲鳴となって待つだけになる
 
2024/02/13
 
 
「言霊への畏怖」
 
本当の言葉がしゃべり始めると
一話から二話
二話から三話へと
少しずつ偏って行く
たくさんの言葉が口をついて出た後に
言葉たちは虹となって
カリスマとなって
そこに新たな宗教が構成される
だからといって
看板を建てたり
信者を勧誘するというのでもない
意図なく真を語り始めたら
いつしか真っ直ぐが
曲線の軌跡を描いている
ただそれだけだ
人を目の前にして
届けと念じて言葉を発すると
人は言葉に取り込まれ
言葉は人を取り込む
そういう磁場が形成される
そこに宗教的な初期が生じ
信心の初期が生じているなどと
誰も考えはしない
考えはしないが
そうやって
たやすく信心と宗教とは
生成される
愛となり友情となり同志となり
黙契が生じ
規制や規範が生じ
拘束が生じ
裏切りが生じる
人はその客観的な
関係性の糸に絡まれて生き
そこから自由であることが出来ない
その時に言葉は蜘蛛の巣のように
人を拘束したり
自由を奪うものになる
 
だから言葉の働きは
心せねばならない
真を競う体(てい)をして
発話者は自己を貫徹しようとし
もって自利を達成してしまう
そういう言葉の無自覚な
利己機能の横行
それこそはアドルフ・ヒトラー
独裁者の系譜であり
またその末裔に当たる
そしてたいていの場合
時代の象徴と目される者たち
彼らの発する言葉の中に
それが現れる
 
2024/02/12
 
 
「老いを行く」
 
三十五歳くらいが
人間の生物学的なピークらしい
それ以降は
生き物的にはおまけの時間
になるらしい
しかし人間の
人間学的なピークは
もっとずっと後まで続いていそうだ
七十歳くらいと考えてどうか
そのあたりまでは
まだ幸福を求めたり
楽しさや愉快さも貪欲に求めたりできる
一緒に不安とか苦悩とかを
切実に感じ取ることも出来る
自分の体験で言えば
それ以後は少しずつ霞んで
何事も切実さに欠けるようになる
ふと立ち上がる時に
上半身に下半身がついて行けなかったり
足がもつれたりするのも
その頃から頻繁になる
おまけの身だから
そんなこともあるだろうくらいに考えて
深刻には受け止めない
ボロボロになり
ガタガタになり
人間の生涯とはこういうものか
人の一生とはかくなるものか
などと
最期の方で悟るのも悪くない
その時にはもう
言葉を口にするのも辛くなって
密かに決別して
背を向けるんだろうな
そのずっと前に
文字とは別れてしまって
 
2024/02/11
 
 
「頭の良さ悪さ」
 
学校の勉強がよく出来ることを
頭がいいと言っているうちは
社会に希望は持てない
解のある問いに
解を持ってするのは
解を探す嗅覚を育てたり
鍛えたりするだけの話で
頭の良さではない
犬や猫のように
嗅覚で解を探し当てて
それでもって世の政に携わる
人間も人間の世も解しない輩が
社会の舵を切っている間は
どうせまともな世は来ない
馬鹿には分からないだろうが
どんなに裏で民衆が
失策や愚策の尻拭いを
黙々と果たして
ダメージを最小にとどめているか
そうした連中に分かりはしないのだ
いわば暗黙のうちに
緩衝の役割を果たしている
本当の賢者とはそういうもので
隙間や穴を埋めて
言葉少なに耐えているのだ
メディアに出張って
ああでもないこうでもない
ああすべきこうすべき
と言うものたちとは格が違う
表層を渡り
表層に巣くった連中には分かるまい
君たちのきらびやかな経歴が
誰のどんな犠牲の上に
成り立っているのかを
それが分からないということは
いいか
君たちが愚かだからだ
頭が悪いからだ
書字学問にうつつを抜かし
不耕貪食の仕組みを
これっぽっちも是正しようとしない
利に賢きものたちよ
君たちが言っている
頭の良さとはそれだ
 
2024/02/10
 
 
「大切なこと」
 
いくつになっても
暗澹の中に彷徨ったり
迫ってくる
四囲の壁に怯えたり
これまでの経験や体験から
今よりましな明日を創り出せず
蹲ってしまう時がある
そうなってしまえば
心も体も錘になる
すうっと逃れて
遠くへ
人間を捨てに行きたくなる
 
それが出来なくて
一日椅子に身をもたせ
ふと立ち上がり台所に行くと
「明日のことを思い煩うな」
というマタイ6章34節が
頭に浮かんだ
 
なあんだ
たったそれだけのことか
思うことは思う心に任せて
わたしはふと立ち上がる
その「ふと」に
成り切ったらよいのだ
思い煩うのは心の仕事だ
わたしは心に住むのではない
眠りが一日のリセットであるように
辛い時には強制的に
そして意識的に
リセットをかけてしまえばいいのだ
それがわたしを
わたしの統制下に置くと言うことで
その時わたしはわたしに戻り
白紙の気持ちに戻り
さてと立ち止まり
また動き出せばよい
その繰り返しだけが
たぶん今のわたしには
大切なことだ
 
2024/02/09
 
 
「幸福の追求」
 
幸福を求めること
例えば個人の幸福を求めることや
家庭の幸福を求めること
国と国の民全体の幸福を求めることは
これは基本的な権利であり
義務でもあると言ってよいと思う
権利は個人や家庭が利己に働くことで
義務は国や国民全体に向けて利他に働くこと
自分たちの幸福も求めて
自分たち以外の全体の幸福も求めて
これが成せたらとりあえずは万々歳だ
けれどもそれはおそらく絵に描いた餅だ
 
一般的に言えば
誰かが過分に富を得たら
誰かは富を得られないと考えられる
ある家庭が大きな幸福に満たされたら
巡り巡って他の家庭の幸福度が
少し下がるかも知れないと予測される
昭和の文豪太宰治は
小説「家庭の幸福」の末尾を
「家庭の幸福は諸悪の本」と結んだ
誰かを利する行いは誰かの害になる
単純に言えばそういうことだ
太宰の言い分は
自分や自分の家庭の利のために
行動したことは一度もない
と言うものだったかも知れない
幸福を希求したが
現実には求めることができなかったと
その言を信じてもよい
だがしかし
それが唯一無二の真かと考えれば
そうでないような気もする
個人や家庭の最優先事項は
やはり自分たちの幸福の追求で
個人や家庭はその先の結果に
責任の持ちようがないのだ
そう考える立場もある
仮にすべての人が
自分や家庭を犠牲にして厭わない
そうして利他に尽くすとなれば
誰ひとり幸福を享受できないことになる
大変ややこしいことで
わたしの頭では整理がつかない
 
2024/02/08
 
 
「正気に返る」
 
もうすぐ終わる
苦しみ抜いた概念が
電源を落とした
モニター画面のように
意味を失う
紙の上の文字も
字画となって
ザワザワと踊り出し
縁から身を投げる
こうして人は
正気に返る
時代の
夢とまぼろしの
舞台を下りる
 
2024/02/07
 
 
「老いの独語」
 
仕事をしないとすれば
一日をどう過ごそうか
ひと月を
そして一年を
 
家の中を
姥捨て山のように見なして
台所や居間や
自分の部屋を交互に徘徊し
そして疲れて横たわり
社会からは隔絶され
死ぬも生きるも自由だなんて
ほったらかしにされても
困るんだよな
 
やりたいことを探して
趣味を広げて
充実した老後を送れたらいいのだが
そんな気持ちになりきれない
かと言って
拳を振り上げて
討ち死に覚悟の自爆テロ
なんてごめんだ
 
とりあえず
暇を持て余してみるさ
寝て起きて
飯を食らって
また寝て起きて
その余は成り行き任せで
その時に思いついたことを
試行するだけさ
反復さ
 
2024/02/06
 
 
「無明の底」
 
きみは生涯を
どんなふうに過ごしてきたのかと
雀さんや猫さんに問えば
雀さんはチュンチュン
猫さんはニャーで
嘘はつかない
 
人間だって本当は答えようがないのに
学問や研究に身を捧げたとか
ほとんどはテレビを見て過ごしたとか
一つことを取り上げて
そんな自分だと嘘をつく
つこうとしての嘘ではないが
単純化して話すのが相場だ
 
実態は一言では尽くせない
ことばは実態ではない
それをことばにしようとするから
ことばはいつも嘘になる
現実実存の世界では嘘だが
観念の世界では
真はことばに託されている
そこで往ったり来たりして
人は無明の中に底深く墜ちて行き
次第に声を失っていく
言っても言わなくても
聞いても聞かなくても
どっちでもいいやってなって行く
死に行く時に
持って行けるわけでもないし
 
2024/02/05
 
 
「撃ちてし止まん」
 
手も足も出ないので
普通なら諦めるところだ
諦めが悪いのは
山間の集落の出だからだ
 
小猿みたいにキャッキャ
日がな一日遊ぶ毎日
春夏秋冬を一つ超えるたびに
少しずつ街場に引き寄せられた
歩きの通学路から
自転車通学
時々バスに乗り
最後は鉄道に乗って
都市へと運ばれた
 
つまりぼうっとしてたら
そんな目に遭った
ぼうっとしてたら都市へと運ばれた
いつの間にか
そんな移動の道ができていて
考える暇なく
行けよ来いよのかけ声に
雑踏へと運ばれて行った
 
ぼくから言わせれば
それはぼくの意志じゃない
留まることも去ることも
まったくぼくの意志じゃない
もともと意志も選択も
ぼくは持っていなかった
 
なのでぼくの責任は半分だ
後の半分は
ぼくを運んだ外界にある
なのでぼくは諦めが悪い
手も足も出なくなった
責任の半分はぼくにあり
半分の力で自分を打ち据える
残りの半分で
外界めがけて拳を振り上げる
どちらかが息絶えるまでは
「撃ちてし止まん」
田舎者のやることは
論理や科学で割り切れない
時折は予測もつかず
自然気象みたいに荒れ狂う
面白くないよと
何が何でも「撃ちてし止まん」
連呼し続けてきてここまで来た
声もかすれ
目も耳も加齢に衰えたが
「撃ちてし止まん」
時間は残り少ない
いつまでも
ぼうっとしてばかりいられない
ぼくを連れ去った連鎖よ
心しておれ
 
2024/02/04
 
 
「切り替えの美学」
 
いつだって紛れ込んで行ける
潜り込んで行ける
手を切ることだってできる
頭でなすことのすべてを
サッと取り払って
台所に立つこともすれば
脱衣場で洗濯機を回すことも
躊躇なくやれる
そんなことは当たり前なんだ
それとこれとは違っていて
これをやるからあれができないとか
あれをやるからこれはしなくてよいとか
そういうことじゃない
あれとこれとは別だ
別だから
それもするしこれもする
そんなことは当たり前だ
もちろん
あれもこれもしたくないって
怠惰を決め込んでもいいわけだ
やるとやらないも二つで一つ
気取って言えばそういうことだ
やろうとすればいつでもやれる
いつでも切り替え可能なように
準備は怠らない
そこさえ過たずに見切れたら
その余の現れはどうだってよい
思い切り傾(かし)いで傾(かぶ)いて
「やるだけはやった」
それではみなさん
「さようなら」だ
 
2024/02/03
 
 
「上納される幻想のシステム考」
 
古代の社会から
初期国家が産み落とされ
数々の権力闘争を経て
国家は高度にまた堅固に成長した
文明文化の興隆をもたらし
人々の生活の質も向上させてきた
今では民主主義国家国民国家として
主たる権威権限は
国家の運営者にではなく
国民や民衆の側に存すると謳われている
 
ことば通りに受けとれば
国政の中心となる政府は
国民から負託された機関で
国家の主体である国民の意思に従って
国政を掌らなければならない
だが現実実際的には
そうした関係が
うまく機能しているようには見えない
国家内制度や規範や規制が硬直し
国民の多くは
世の中が生きづらいと実感し
貧困や不遇に喘ぐ者もいて
一方に「我が世の春」と
謳歌するものがいて
その不平等不公正は目にも見え
耳に届きもする
 
国民の負託を受けた
政府首脳や閣僚たちは
何をやっているのか
もちろん何かをやっているに違いないが
同時に毎日のように醜聞をまき散らし
それでいて国士を装ったような
見かけの立ち居振る舞い
これが噴飯物でない訳がない
けれども今日の学者や文化人
文明論者たちは
国家という幻想構造に踏み込まず
国家ありきの論や提言に終始している
修正国家主義の域を出ようとしない
つまり奈良朝以降に延々と続く
小坊主的国家御用達の
知識学問の徒ばかりなのだ
言っていることは
「千年前に比べれば
 生活水準は格段によくなっている」とか
「百年前に比べたら
 民衆の知的レベルは数百倍高くなっている」
などのありきたりのことばかり
『世界的に国家の賞味期限は尽きた』
などと危ないことには
誰も触れようとはしなくなった
 
あらゆる知識英知学問が
運営階級の手柄となり
またそのように
懐に呼び込まれてしまう時に
どうして嫌悪や憎悪や羞恥なしに
そこに留まっていられるのだろうか
そしてついに指導者の顔に
変貌してしまうのだろうか
どうして塀の中の
そのまた中央に籍を置いて
制限された発言と思考に終始して
それを是とできるのか
大きな視野を得た小さな専門家たち
無縁の輩たち
賢しらな
若き聡明な小僧たち
 
2024/02/02
 
 
「老後に思う」
 
暇でたいくつ
食後はソファーでウトウト
高齢者の日常は
老いて呆けて嫌われて
見下され蔑まれ
存在として価値がない
ように見られがちだ
けれどもよく見ると
他の生き物たち
特に哺乳類は
たいていそんな姿だ
狩り以外にはやることもなく
食後はのんびりゆったり
日向ぼっこしたり
日影に涼んだり
まわりでじゃれ合う
子らを眺めていたり
つまりそれは順当な
生き物たちの
日常の姿に近い
 
人間世界では
ややもすると白眼視され
時間を無駄にしていると馬鹿にされる
そのためかどうか
ウォーキングしたり
趣味の陶芸やジム通い
ゴルフやスイミング
その他の習い事から遊びから
学問も研究もして
いろんなことで
意味ある生き方をしようと
高齢者たちは躍起だ
もちろんそれはそれでよいのだが
けして批判をするつもりもないが
一度の人生に
そんなにパンパンに
意味や意義を盛り込まなくたってと
ぼくなんかは思う
欲張りすぎじゃないのって
なのでそれはそれとして
人間というのは
そこまでやんなきゃいけないのかと
賞賛の気持ちも持ちながら
欲深い人間の性を
悲しく思う時もある
 
2024/02/01
 
 
「あまりに個人的な願望」
 
CMの数も長さも増してきて
テレビを見ることが少なくなった
やはりネットだと見ていたら
いつの間にかこれもテレビと同じになった
見たくもないCMが
ダラダラと繰り返される
こんなにも嫌われているのに
スポンサーは何を考えているんだ
どこでCMをやろうが
番組にもスポンサーにも益にならない
視聴者はそこから離れて
CMのない媒体を探して流れて行く
視聴者でもある市民にとっては
店頭でまた口コミで情報を得ればすむし
今どきCMを見て購買を決めるなんて
めったにないことだ
メディアとスポンサーとCM業界との蜜月
そこにどれだけの金額が注がれているものやら
その垂れ流しをやめたら
複合化で膨れる単価が安くなり
消費者は安価にものを購入できて
とても助かる
旧態依然の悪癖をやめて
視聴者本位
消費者本位の仕組みや構造に
早くできないかなって切に思う
 
2024/01/31
 
 
「冬の姿」
 
雪がない
凍り付かない
こんな冬を歓迎したい
ぼくの記憶では
一月でこんな天候は珍しい
日差しがそして体感が
もうすでに春めいている
記憶の冬はもっと厳しく
一面の銀世界が
冬といえば定番だった
長靴履いてキックキック
子どもの頃の
凍える冷たさと
まるで無の世界の情景は
もう今の人たちには伝わらない
暖冬は老いには優しいが
また切なくもある
 
母の後を追い
川の薄氷を割り
洗濯を手伝ったことがある
愚痴をこぼさぬ後ろ姿だった
大切なことをたくさん学んだ
本当にたくさんのことを
もうぼくも
そんなことを思い出す
そんな歳になったんだ
 
2024/01/30