或る「表白」
    ― 我が心の現在 ―
 
 ここのところ『日本書紀』の文庫版口語訳を読んでいる。強く興味を惹かれて読んでいるわけではないし、面白くて夢中になっているわけでもない。ただ暇なのである。しかもプライベートの暇な時間を使っているのではなく、仕事中、暇をもてあまして、そうしてまあ、個人の時間を使っては読む気にもならないだろうという、『日本書紀』を読んでいるというわけだ。こう伝えたところで、私の仕事がどんなに暇で楽な仕事か、理解されそうに思う。
 少し前まで、やはり文庫版の『折口信夫』の著作を読んでいた。『民族篇』とか『国学篇』、さらに『日本文学の発生 序説』等の類である。これも強く興味があってのことではなく、仕事中にもかかわらず自由な時間がいっぱいあるこんな折りにでも読んでおこうかと思ってのことだ。読んでやはり、よく分からないことが多い。ただ目を通しているという、それだけのことだ。
 仕事は無精で物臭な私にぴったりの、ただ一定の時間そこにいればいいという類のものだ。楽でどうしようもない。数度の巡回を除けば、ひとりの部屋で、折りたたみの椅子を三個ほど並べて横になっていてもいいのである。寝てばかりいても飽きる。起きてさて何をするか。新聞に目を通す。飽きる。テレビを見る。テレビだってそのうち飽きる。飽きたらさて、何をするか。することは何もない。じゃあ、本でも読むか。それだけのことである。この仕事を始めてから、家では本を読まない。書きものもしない。すべて狭いこの部屋の一室でまかなっている。
 折口を読んでいると、『古事記』や『日本書紀』の話題がいっぱいある。『古事記』は以前に目を通したことがある。『日本書紀』は目を通したことがない。では、『日本書紀』
を読んでみようか。と、ただそれだけのことである。退屈な『日本書紀』を読む。仕事が、仕事に携わる私の毎日が、いかに退屈な日々であるか理解できよう。退屈な『日本書紀』を、生あくびを繰り返しながら読んでいるのである。時に、つつつーと、目尻から涙がこぼれたりしている。他人には見られたくない図だ。一人だから自由に放屁もできる。『日本書紀』も『折口信夫』の数々の著作も、まさか後代にこんなふうに扱われ、読まれることがあろうとは、想像さえできなかったであろうと思う。
 教養とか、知識を蓄えるとか、そういう動機とは全然違う。ただただやたらに暇で、その限界に臨んで、こうしたものを読むという現実に到ったのである。他にすることはないのか。これはずいぶん時間を割いて考えて、そうして結論に到ったのがこの事態である。つまり私にはやるべきことが何もないのだ。
読書とは私のようなものにとっては、時間を浪費する、その一つの手段に過ぎない。
 こういう楽な仕事、楽な生活をしていると、「やりがい」とか「生きがい」とかのようなものとは無縁である。苦しくはないかわりに、苦労した後の喜びというものもない。毎日が平坦で、地下水のように音もなく時間だけが流れていく。やっぱり、人間こんな楽な生き方をしていてはだめなのであろうか。時折、そう考えて、その時だけはさっと心が陰って、気持が逆毛だつ。人間は、どうしても誉められるようなことをやらなければならないものだろうか。他人、しかもなるべく多くの人に役立つように生きなければならないものだろうか。意味や価値のある生き方を志すことこそが、人間にとって当たり前のことと言えるのであろうか。そういう疑問や反省が自然に湧いてきて、そうしてまた、いたたまれなくなるというような、そんな沈み込んだ気持になることもある。そしてそれは幾度も反復されてきたことだと言える。
 こんな在り方でいいのだろうか。そんな自問自答を繰り返しているばかりで、私はこれを相談できる相手を持っていない。もしかすると欲しいとも思っていない。ただ、生きていく上でのヒントみたいなものを、これまで私は書物の中に探してきたような気がしている。はっきりとそれを目的にしたわけではないが、振り返れば、いよいよ困ったときには自然と書物を手にしていたという気がする。好きとも思えない古典に、最近目が向くのはこのことと関係が無いとも言えない。折口などの民俗学などというものは、いずれにせよ古代の人々の生き方考え方、習俗や習慣などを詳しく調べたりなどして、明日の進路となるヒントをそこから発掘するという面を持つに違いない。もしかすると、それほど意識的ではないが、私が『折口』や『日本書紀』に目を向けるようになったには、そうした衝動が奥に隠れているのでもあろうか。それにしても、いつまでたっても解は見つからないのではあるが。
 
 江戸時代、青森に安藤昌益という町医者がいた。その人が書いた著作、『自然真営道』(正確ではないかも知れない)とか言うものの現代語訳を以前に読んだことがある。一読して衝撃を受けた。その時私が受け取った印象を簡単に言えば、人間というものは第一義に直接田畑を耕して野菜や穀物を生産し、それを消費するという繰り返しを繰り返すものだということである。それ以外のことはあらかた余計なことで、余計なことは出来るだけしないに越したことはないという主張のように読めた。核心の中の核心という意味では、そこが核心だと私は思っている。それはつまりは自然の理に適った、植物の生き方を基本とした考え方ではないかと私は思っている。安藤昌益の主張で本当に驚いたのは、さらにそのまた先にある。釈迦や孔子、いわばちょっとした教養を持つものであれば賞賛こそすれ、批判することなどあり得ない歴史上の偉人・聖人・賢人たちを、ばっさばっさと著書の中でやっつけていた。そしてその論法がまた天衣無縫、奔放自在。すなわち、このような賢人たちは、何はどうあれ農民の作った作物を自らは作らずに横取りしている。そうして生きているに過ぎないのに、やけに偉そうなことを考えたり言ったりしている連中ではないかと罵倒している件だ。それは言いがかりというべき内容も含んではいたが徹底していて、そこまで歴史上の賢人たちを根底から批判している文章は読んだことがなかったから、目からうろこの思いも生じた。献上物とかお布施とか供え物とか、形式とその呼び方はいろいろにあるが、自ら食するものを自分の手で獲得するのではなく、他人の作ったものを貰うにしろ買うにせよ「横取り」「貪る」と見る視線の鋭さ、現象の切り取り方の独特の切り口に驚嘆した。基底には「平等」に関しての根源的な思想が横たわっているかに思えるが、今はそれは問わない。
 一読して印象に残った安藤の主張は、世の中が釈迦のように悟りを得た連中だらけになったり、孔子のような連中だらけになったりということを想像してみると、批判の根拠はどうであれ一理あるなと私には読めた。つまり、食べ物を生産するものが皆無になったら、釈迦や孔子のような存在が増えても社会としては成り立たないし、そうした存在そのものが成り立ちようがないということだ。偉いのはどっちか。いなくなって困るのはどっちか。これは消去法でいえば、釈迦や孔子のような存在が無くても社会は成り立つということを意味している。そしてそのことは人間が内臓を持たない存在と化したり、内臓からの栄養の摂取を放棄する以外に、未来にわたって言えることだという気がした。つまり、食料が行き渡って、生産に携わらない連中を余剰として産みだす社会が到来しなければ、考えることを専門にする人間など生じることはなかったのだ。それなのに、聖人君主、今でいえば知識人や指導者連は、自分の胃袋を満たしてくれる作物を提供する農民たちに説教を垂れる。そればかりか富を貪り、生産者たちよりもすべての面で優位に立った生活を送ることができているこの構図は、どこか間違っている。たしかに農民たちは指導者たちのように弁舌をひけらかせない。だが、彼らの寡黙は天然自然の寡黙であり、天然自然から学んだ寡黙かも知れない。彼らが余剰を産み、その余剰によって非生産者に食糧を供給することができているから、非生産者も生かされているということができるのだ。構造的に見れば、農民などの生産者たちの、供給の構図、これに勝るボランティアはないと私は思う。安藤はそこで、非生産者たる聖人や賢人、偉人たちは逆に、寡黙な生産者に学ぶべき、と言いたかったのかも知れない。
 人間の歴史の、そのど真ん中を形成しているのは、原始の生命以来の、自己に有益なものを取り込むという行為の繰り返しである。食い物を摂取するということが基本の一つで、その理想型として安藤昌益は農耕というものを、人間社会における生き方の一つの典型として捉えた。つまり、大地に働きかけて野菜や穀物を生産し、その生産物が全員に行き渡れば社会は永久に継続すると考えた。この基本さえ守っていけばそれでいいじゃないか。大事なのは、この継続や反復に耐えていくことでしょう。そう安藤昌益は私たちに言葉を投げかけているように私には思われた。そして、釈迦や孔子のように、自ら額に汗して耕すことに満足できない連中が増えることを危惧し、批判した。
 安藤は第一義に食料の生産に携わることが大事だとした。何がどうであれ、個人はそこに向かって体と意識とを収斂させるのがよいので、たとえば孔子のように秩序を云々するようになるとかえって大乱が起きて逆効果になるのだと言い切る。これはかなり重要なそして本質的、本格的な指摘で、天下国家を論じたり、愛や慈しみを強調することが必ずしも考えた通りにならないばかりか、表向きにはかえって悪い結果をもたらすことを私たちは見聞きしている。
 私は直観的にだが、安藤の言おうとすることが分かるような気がした。孔子は、天下国家を論じたくなる誘惑に逆らって、本当はその地点で田畑を耕す方向に還るべきだったと言外に言っているのだと思えた。
 極論すれば、人間は観念や概念を産みだし、そこに異常なほどの価値を認めるようになったために自然界から孤立したと、安藤昌益の主張はそこまで引っ張っていっていると考えることができる。私には、安藤の言うところのものは、私の内部において明確ではないにしても、何かしらこの現代という時代の人間社会に、大きなアンチテーゼを投げかけるものと感じられた。
 そうは言ってもこの観念や概念なるものは、
人間の人間らしさを象徴する一つの到達点の形成に与るもので、これを否定することはアンチテーゼにはなり得ても、否定することが観念によるものだからそこに矛盾が内包される。つまりは、頭の働きはなくそうとして無くせるものではないということだ。
 感嘆して読み進めながら、かすかにだが違和感のようなものも私はそこに感じていた。安藤の勧奨する世界では、ほとんどの人々は大地を耕し、自然の変化に一喜一憂し、平和と退屈な日々を永遠に繰り返すほかない世界とも想像される。誇張して言えば、それは世界の文化・文明の停滞に外ならないとさえ感じられた。それは私たちにとって理想の社会、共同体のイメージとなりうるだろうか。
 
 徒然なるままに、民俗学とか古典、あるいは日本書紀のようなものを、読むとは言えないまでも、手にとって眺めてみるということ。また、安藤昌益のオリジナルな世界観に感嘆するということ。これらは何の脈絡もないようだが、ぼんやりとした共通を私はここのところ感じているようなところがある。それは何か原形を探る、初源に立ち戻る、成り立ちに遡る、悪く言えば先祖返り、幼児退行、そういった私個人の内部的な衝動みたいなものだ。あらゆるものを捨象して、残った共通性、人間的な生の特性といったようなもの。そういうところでの手応えを、求めているといってもいいのかもしれない。
 どうしてそうかは今は詮索しない。ただ現在が私にとってあまり居心地のいいものではないことだけは漠然とではあるが理解できている。そうして世の中の、善いとされていること、価値を認められ評価される全般に、疑いを持っているばかりか、内心では激しく反発をしている。それは真っ逆さまだと言いたいほどに、価値観はひっくり返っている。
 たとえば、テレビなどでスポーツ選手の活躍が報道され、それを見聞きしたときに、私はどうしてそんなにも肉体を酷使しなければならないのか分からないと考える。人並み以上に集中し、努力し、記録を積み重ね、あわよくば世界の頂点に立つ。大リーグに活躍するイチローのように、たくさんのファンが熱狂的に声援する。天才と称される。すごいことではあるけれども、反面、「それって何」と私は言いたい気持にもなってしまう。それは人間としての生き方の理想になりうるだろうか。凡人には想像できないほどの隠れた努力、隠されたストレス、そんな辛く過酷な人生が、理想的な生き方だとは私にはどう考えても思えない。東大合格。これも頭脳を駆使した過酷な競争の果てで、肉体の酷使と同様訓練や学習の過程において、平均的で標準的な生き方をしている人間の感性や情緒性というものを犠牲にせざるを得ないという気がする。誇張して言えば人々が注目し、憧れる生き方にはどれにもある種の病的さとあほらしさと馬鹿らしさとがつきまとう。それは一種のゲーム性といってもいい。何かに熱中し、夢中になり、突き詰める。それは私たち人間にとってはよくあることだが、おそらくは地球上の生命の中でも人間にだけある特徴だ。私たちは時にその徹底ぶりを誉め、他に秀でることに驚嘆し、そうした行為を支持したりする。それはもっといえば脳の特徴でもあろう。いったい、このような、人に秀でなければならないという衝迫はどこから生じ、しかも秀でようとする欲望は果てしがないのだろうか。もちろんこれらは歴史の進歩、社会の活性化の原動力にもなっている。
 人間の領域の膨張。可能性の拡大。けれどもこれは、都市的な存在空間の過密さとは逆行して、精神の孤立化を加速していくようにも思われる。
 学者から芸能人まで、どんな職業にも専門性がついて回る。より専門的になるということは、専門のことについてはどこまでも詳しく行動になっていくと同時に、専門以外のことについては疎遠になることを避けられない。自分の持っている能力と時間のほとんどを、専門に向かって費やすからだ。あることに特化してしまう反面、完全なる人間、あるいは生き物の姿から逆に遠ざかる。鳥獣でさえ自ら水場に体を運び水を飲む。木の実を探し、取って食にありつく。ねぐらは、枯れ草や小枝をかき集めて修繕する術を知っている。すべて十全に自分のことは自分でまかない、個々は生き物として完結した姿を見せている。だが人間はそうした完全なる姿をバラバラにして、かえって生き物としての不完全な姿に特化してきた。水は水道からか、ペットボトルからしか飲めない。自ら魚を捕り、肉を調達することさえできなくなった。自分の住む家を造るために木を切り倒したり、組み立てることもできない。全てにおいて他人に依存している部分が多くなっていると言える。生き物としては、完全に不具だと言われても仕方がないようになってしまった。
 
 正義を語って大地を血に染め、福祉を語って餓死や自殺を見過ごし、愛を叫んで隣人の苦しみに無関心に振る舞う。人々はまた誰もが世の中をよくしろと言いたい放題で、その実、誰も苦しんでいやしないじゃないか。苦しまないばかりでなく、自分の生活だけはそっと格上げを謀っているじゃないか。悪くはない。悪くはないが、だったら正直に、「私はこうしています」と言ったらいいじゃないか。とは、太宰治が言ってそうな言葉。そういう太宰だって苦悩と、苦悩との暗闘はすさまじいものがあったと想像され、そのために近親を苦しませてしまったという事実もあろう。私は、なれないことも充分自覚した上で、あえて、「ああはなりたくない」。人間、名目を語るときは、自己美化か金欲、名誉欲、他者からの感謝や賞賛の声を求める気持を、心の底にそっと隠し持っているものだ。だが、死ぬときはそれらの一切を手放して死んでいくのである。だったら善意の行いなど、善意と意識せずにやるのがいい。ただただ善も悪もない、人間の平凡な行いの範疇に入れておくに如くはない。
 つい口が滑ってしまった。私は何が言いたいのだろう。他人に向かって何か言いたいことなど無い。無い、筈だ。たぶん。無いと、思う。無いんじゃ、ないかな?
 
 解剖学者三木茂夫の著作から教わったことを思い出そうとしている。どこかで、ここまで書き、考えてきたことと重なるところがあるように感じていたからだ。
 三木茂夫もまた、脊椎動物の発達史を過去に遡って研究し、連綿と続く生命の時に緩やかに、時に急激に進化し続けてきた数十億の年月を鮮やかに再現した世界を私たちに提示した。そして進化の最先端に登場した我々人類について、他の生き物との飛躍的な差異としての異常なまでの脳の発達について、ある警鐘を鳴らすことを忘れなかった。
 生物学的に見れば、人間は植物器官である内臓をうちに抱き、外側を動物器官が囲い、それは体壁系と呼ばれ、すなわち内臓を防護している。象徴して言えば内側は植物で、外側に動物器官を配置して内臓を防御するとともに、主に食と性のためにあちこちを移動して歩く生き物ということになる。ここからも言えることだが、生命という点から見れば内臓が主たる要素であって、手足はそれこそ内臓が働くための手足となってこれに貢献するものであるといえる。もっと端的に言えば、内臓そのものが元はといえば腸管から派生したものということができ、この腸管は原始の生命体や生物の延長上にあるものと考えることができる。つまり、もともとはこの腸管様のもので単体で生物としてこの世界にあったものが、進化発展して種々に分化した。私たち人類もまた、祖先を、生命の起源に近いところのものを内に秘めているのであり、そこのところで初源につながっている。
 三木によれば、動物の腸管を裏返しにして大地に垂直に突き立てれば、これが植物の姿になるという。栄養などの摂取のための動物の腸の内側の働きは、植物となって直接大気や大地に接し、直接的に交流し、栄養その他の摂取を行う。枝や葉や根は、腸の内側にある突起、あるいは絨毛と呼ばれる物の変形としてみられる。
 植物は天候その他、地球だけでなく宇宙自然の変転に直に向き合って、言うならばその変転に同期し呼応していると言える。太陽を含む宇宙の星々の運行とも直結している。
 私の印象によれば、三木はそうした植物の姿に、地球生命の調和したスタイルを見、羨望の眼差しを送っていたように思える。たしかに、動物などのように食のためにあちこちさすらい彷徨うことなく、微動だにしない姿はある種自己完結した生命の極致にも見える。
 獣は手足を持つがゆえに、かえって手足に従属し、いやでも移動しなければ生きていけないようになってしまった。鳥もまた翼を持つがゆえに空を飛び続けなければならない。これを移動することの「自由」を備わったと考えることもできれば、移動し続けなければならない「不自由」を手にしたと考えることもできる。手足を捨てて、植物のように一点に屹立して宇宙自然の摂理に身を委ねる、そういう生き方ももちろん願っても適うはずはない。動物体と植物体の選択は、生命誕生の初源に遡るという。もちろん地球上に起こりうることはすべて宇宙内に起きることの変形の一種に過ぎないことに違いないから、それはもしかすると恒星と惑星の関係に匹敵するものか。移動しない植物。餌となるその植物を求めて移動し続ける動物たち。エネルギーの消費から見ても、どちらが効率のよい生き方を手にれているかは一目瞭然であろう。
 先に挙げた安藤昌益の考え方にしても、天然自然の合理性という点に目を向けて、大地を耕す農耕を人間社会における職業の第一等とみなしているところがあった。それは穀物や野菜といった植物の生産過程で、あるいは作物を体内に取り入れるという形において、植物のする宇宙との直接的な関わりの円環の中に身をおくことを想定してのことであったかも知れない。
 安藤昌益も三木茂夫も、そういえば医業に身を置くものであった。さらに共通しているのは、「頭の働き」が勝ることへの警鐘と、時としてそれに対して激しい敵愾心を隠さないことであった。三木は大脳前頭野の極端な発達によりかえって人間の欲望は果てしのないものになったと言い、人間は獣よりも獣臭くなったという先人の言葉を引いていた。安藤はまた安藤で、発達した脳の繰り出す知の蓄積としての智者の言葉に、執拗に激しい反駁を加えた。両者に共通するのは、知的なもの全般への嫌悪では決してない。三木は脳の発達の必然を熟知している。ただ、頭の働きが心の声を聞かないようになったがために、ということは自らの身体にも内在した「自然」を無視し始めて、脳が脳によってする欲望そしてその充足の欲求に従って暴走、加速度的にエスカレートしていくことを危惧したのだ。
 安藤も三木と同様、人間が知的な生き物であることは認め、ただその知は、心すなわち内臓のリズム、すなわち宇宙のリズム、それに従属する範囲内で働くべきものでなければならないという制限を設けていたように思う。しかし、知は動物が重力や大気の圧力、抵抗に逆らうように生きるに似て、自然の法則に逆らう面を持つ。安藤の言う自然の法則に準じた生き方から逸脱した生き方もまた知の宿命であり、安藤にはその逸脱が堕落であり、果敢無いことであると思われたに違いない。
 私たち人間は、たしかに知的な生き物としての道を歩んできた。それは動物における手足の利便性に似て、脳の発達こそは他の動物、植物とから峻別される人間だけの特性に違いない。考えることに伴うある種の自由なスタイルを私たちにもたらすものでもあった。同時にしかし、考えることなしには生きられない制約をも、それは私たちにもたらした。結局のところ、人間は植物にはもちろんのこと、動物にも戻れなくなってしまった存在である。考える脳は、発達すればするほど自然に逆らうという宿命を顕在化する。そして果てしなくそのの力を行使する以外に私たちの生き延びる道もないのだと言える。
 
 人間の社会は、自然に反することで成り立っている。どこがその地点かは分からないが、閾値を超えてしまった。暴走と混乱は、その閾値を超えたところからはじまっているのではないか。
 自然に反することが高級である。そういう思想が社会の隅々にまで浸透している。つまり、計量し、計画された何ものかの意志に突き動かされて生きることを強いられる。それは個々の自由意志に似て非なるものだ。起きて、仕事したり勉強したりして、寝る。毎日の繰り返しの中に、自由意志としての自然は入り込む隙がなく、窒息しかけている。たとえば、猫のように、仕事場からするりと抜け出してはだめなのだ。それは身勝手とされ、組織から排除される。以前は形式にとどまっていたが、今は実質において会社に貢献できないといけないという暗黙の規制がある。身も心も、労働時間内においては仕事漬けになっていなくてはいけない。実際はそうはなっていないとしても、そうであるようにという考えが職場に充満している。猫にも猿にもそういう生活はできない。猫や猿にできないことを、人間は自分たちが猫や猿とは違うからといって、当然にできるものと思い込んでいる。できるはずだと思っている。ということは、人間の生活がいかに自然に反することで組み立てられているかということだ。制度は観念の産物である。
 植物や動物にはある羨ましさを感じる。幸福という概念を前提に考えれば、我々人間よりもそれら動植物の側にこそ、それはあると思える時がある。自然に準じている、その度合いだけ、孤独を感じる空隙はないのではないか。幸福とは自然を超越したところに成り立つ砂上の楼閣というようなものではなく、自然と一体となって見分けがつかない、そこのところに隠れているものではないのか。時々ぼんやりとそんなことを思いやったりしている。その時、私は自分が意識を持つことを悲観的に考えているようなのだが、逆に、自分が自分の意識に人並み以上にこだわり続けてきたことをも知っている。私は小さい頃から風景を眺めるように自分の意識を眺めてきた人である。意識は自然としての身体から生じているものなのに、自然としての身体から
どこまでも遠く離れた無限遠点に到達したくて、身を捩るようにして母体を振り切ろうとする。意識はたしかに、牢獄のように身体を思いなし、それの束縛を受けずに自由にどこまでも飛翔したいと思っている。願わくば、全知全能にたどり着きたいと思っているのかも知れない。この宿命的な知の本能、意識の働きは、人間における反自然の砦である。
 現代に生きる私たち人間は、自然を土台に生活を営んでいるというよりは、その上に人工物を配置し、その上に乗って生活を営んでいる。人工物とは物質であると同時に観念でもある。遠くに眺められる自然は直接の土台ではなくして背景に退いている。その中で私たちは観念の藻に絡まり、社会という海の中で藻掻き、声なき声で叫んでいる。
 とはいえ、身辺を反自然、人工のものによって埋め尽くされた中に生活していても、私たち個々の人間が反自然そのものになったわけではなく、意識が自分自身をそれとは認識していないとはいえ、他者にとって我々はすべて自然として振る舞う部分を持っている。だから時として、自然を内在させる他者は邪魔な存在になる。他者ばかりか、自分をも意の通りにならない存在として忌避することがある。自然は、私たちの意識の思う通りにならない厄介な存在なのだ。だから自然を守れという流行の言葉の意味するものは、自分たちの都合のよい自然だけ、都合のよい度合いで、守れと言っているに過ぎないのだと思える。意識は、思う通りの存在になれない自然物としての自分を嫌ったりしているのだから。昨今のペットブーム、動物愛護の根底にある精神は、熊の天敵でもあったアイヌ人が熊を崇めたその精神とは雲泥の違いがあると思える。生死をかけて格闘した、いわば自然界の掟を身をもって知っていたものの、相手を尊ぶ神に近い精神の作用がそこには欠如している。それはただ愛玩物として、都合のよい関係だけを求める、意識のナルシシズムだといっていい。
 第一に守らなければならないのは、外界にある自然というよりも、私たちの中に内在する自然であろう。それを守れもしないのに、自然を守れとは笑止、ではなかろうか。今日の私たちの社会に起きている、異常と正常との見分けがつかないような事件の多発は、私たち個々人が内部から崩壊しかかっている前兆のように思える。言い換えれば、意識世界がその存在の前提であるはずの自然‖生命世界を凌駕しようとしているかにさえ見える。それは内面の人工化を目指すかのようであり、そうだとすれば絶対的自己矛盾、自己瓦解がその後に待ち受けているだろうことは間違いないことのように思われる。
 今や、人間に内在する環境が破壊されかかっているのに、もしかして私たちはそれに気づことができていないのかも知れない。安藤昌益も三木茂夫もそれぞれの著作の中で、実はそのことを暗示していたのだと私は思う。
 人間という種にもまた永遠はない。待ち受けているのは進化か絶滅であろう。どちらに転んでも、現在種はそこで途絶える。ならば自滅の道はゆったりと辿る方がよいと考えても、それは決しておかしくはない。
 自然物としての人間の側面、それを重視した生き方が、そこで考えられていかなければならない。個人の気まぐれな心、自由気ままな側面が、もっと尊重されてもよい。私はそう思うのだ。無法や無秩序を礼賛するわけではない。自然に帰れと提唱するつもりでもないし、欲望のままに生きよというのでもないし、また文明を否定するわけでもない。私には分からない。ただ、大多数が欲するところを、言葉になるかならないところに潜在する「願い」に近いある何かを意味する心性を汲んで、その実現を第一義に現実のものとする多くの人の取り組みが必要ではないのかと思うのだ。
 吉本隆明が大衆の原像と呼んだところのもの、柳田が言う常民、フーコーが言う平民。どれでもよいが、標準的と考えられる生活者が、生き心地、住み心地がよいと感じられる社会のシステムにならなければ、人間の欲する世界は成就されない。そしてその「願望」は、まだ何人によっても正確には全体像を把握されてきてはいない。それを把握する営為が必要ではないのかと私は思う。
 現在の社会は、それが顧みられていないというばかりでなく、たとえば「富」においては一部のものたちに集中しているという偏りが顕在化している。ふつうに、目先の仕事に一生懸命になっているというだけではとても蓄えるというところまでも行かない。何処まで行っても富は一部の富裕者に吸い上げられていくように成り立っている。これでは明らかにおかしい、これではどう考えてもおかしい。そういうことが当たり前というように罷り通っている。こんな社会を誰が望んだか。もちろんこんな社会で利益を得ているものが望んだことだというのは間違いない。なぜ、彼らの願望は実現されるのか。多くの理由があるには違いないが、一言でいえば、人間世界の価値基準がどこにおかれなければならないかが、つまり別な言い方をすれば人間性の成熟度が、未だこんな段階にとどまっていると解するほかにないと思う。人間的な特徴をもっとも普遍的に備えた、標準的な、しかもそれでいて個性的な大多数が、特徴をそのまま生かしつつ当たり前のように自由に、そして平等に生きられる世界こそが待望されなければならない。おそらくこれは人類史の底に流れ続ける願望であるし、常にこの願望との距離を測ることで修正を加えていく以外に到達への近道は存在しない。またこの願望から目をそらしたところに、今のところ私たち人間の存在意義は考えることができない。またどう考えても、人類はごく平凡な大多数の人々が幸福な実感を抱きながら生きていくことを目標として歴史を積み重ねる以外に、それに変わる目標が持ちようはないと私には思える。これはもちろん私が勝手にそう思っているというだけで、客観的、実際的な根拠を有するものではない。
 赤ん坊やペットを身近に見て微笑む。赤ん坊やペットに対して虐待する。前者には私たちが失ってきたものへの回帰の願望が見え、後者には失ってきたことへの嫌悪が感じられる。もしかすると両者の異なる態様は、本当は同根から発し、ただ何かの要因でベクトルが真逆になったという違いなのではないだろうかと考える。いずれにしても、両者に共通するのは喪失感であり、無意識への無意識の憧れである。私たちは、誰もが意識の過剰に苦しみはじめ、その永遠かと思われるループにそれ自体が病みはじめているのかも知れない。少なくとも意識や精神と呼ぶそれらについて、私たちは完全なる制御の主体者ではあり得なくなっているのではなかろうか。
 世の中がおかしい。世界全体がおかしい。それは、経済の繁栄のみによって解決できるものとは私には思えない。また政治的な解放が必須なのだとも思えない。それらはみな重層する課題の一つ一つに過ぎず、私のようなものにとっては、こんがらがった糸を解きほぐす方途はもはや不可能なのかとも見える。だが、こんなことを私がとやかく言ってみてもはじまらない。
 
 家のローンを抱え、低賃金の契約社員で、隠遁者のように世間的な関係も狭まり、家族関係も理想的なアットホームからはほど遠く、また何の才もなくといった状態で、時に投げやりな気持になって私がいくらか心がけていることがあるとすれば、生きることを放棄しないということだけだ。それさえ、明日どうなるかは分からないという情況の中で、さらに心がけることといえば、「心の声を聞いて生きる」というその一点だけであるかも知れない。「心の声を聞く」とは何か。そんなこと私は知らない。ただ、空念仏のようにそう思いなしているだけだ。あえて言えば、無理をしない、投げやりにならない、他人、その中でも優れた人と自分とを比較しない、そういう心の姿形、姿勢といっていいだろうか。小さな善意と小さな不善、わずかな怠惰とわずかな勤勉、ささいな正義とささいな悪、またその場その場での法の遵守と逸脱。そういう曖昧さといい加減さで生きていくほかに、私は別に生きる目標みたいなものを持たないことにしている。言ってみればこれが私の防御の姿だ。そんな生き方のどこが面白いと言われればそれまでで、もちろん面白くもないし、ただそれを言う人たちからは黙って離れて暮らすだけのことだ。そして指導者連からも、金に強欲な連中からも距離を置けばすむことだと考えている。私はただ、私の命が長らえたいと願うその声に、従属するようにだけ心がけている。それを前提にすれば、どう生きようが私の勝手である他はなく、何人も何事も私の意志を覆すことはできないのだと思っている。
 変な結末になってしまったかも知れない。わざわざこのような文章を書いて、いったい何が言いたかったことなのか。ここに到っても自分自身がその内容を把握していない。よく分からない心のモヤモヤを、とにかく目に見えるもの、形に表れるものとして内奥から取り出してみた次第だ。それがこんな訳の分からない文章になった。何が言いたいの?何がしたいの?そんな苛ついた批判が聞こえてきそうだ。読んで、結局時間の無駄ではなかったか。そう感じさせる文章になってしまったに違いない。自身、書き終わって気持がすっきりしたとは言えないし、モヤモヤを客観視して新たに啓示を抱いたということもない。ただ、最近の自分の心にはこんなモヤモヤが巣くっていて、そうしてどこにもこのモヤモヤを解放する場所を持ち得ないでいたということだけは真実らしく思われる。そして唯一、書くことだけがこのモヤモヤの内側に分け入り、吹き散らす可能性を秘めているとしか思われない。もちろんこの文章のようにその効果は遅々として決して晴れ間をもたらすことはないのではあるが、しかし、私にはほかに方法が見あたらない。
 
               09. 8.11