養老孟司「新書本」論
 
はじめに
 昨年あたりから養老孟司さんの新書本が立て続けに出版された。ぼく自身は,「バカの壁」(新潮社)を筆頭に,「まともな人」(中央公論新社),「いちばん大事なこと」(集英社),「スルメを見てイカがわかるかU」(角川書店),「からだを読む」(筑摩書房),「死の壁」(新潮社)を購入して読んだ。どれもコンスタントに面白かったし,とても今日的な内容が語られていて,ポピュラーになる可能性に富んでいると思った。案の定,新聞,テレビに取り上げられ,著者が顔を出すことも多くなった。
 養老さんの書いていること,話していること,考えていることに,ぼくもまた学ぶところ,賛同するところの多い人間である。それを形にすることで,自分の考えをもう少し整理したい。それが動機となって,これを書き出すことになった。
 表題には「論」となっているが,もちろん論として展開するほどの見識も何も持ち合わせていない。思いや感想を述べる程度にしかならないのだが,格好をつけるために「論」と書いてみただけなのだ。中身についてはあまり期待をしないで欲しい。養老さんを出汁に,自分の考えを言いつのるといった,邪道だが,素人の快感を求める,そういう行為にもなってしまうと思う。それについては誰も何も言ってこないので,ホームページに公開するだけのこんな文章は,やりたい放題といった特典がある。
 実は,「死の壁」にいたって,養老さんの本音が出ているとともに,そこに違和を感じるところがあった。最後に,そのあたりをどう書き進めることができるか,ぼくにとっては一つの冒険になるなと感じているところである。それらを含んで,読み始めてください。
 
 
T 「バカの壁」について
 
 養老さんの言う「バカの壁」というのは,二つの意味があると思います。一つは「リコウ」と思いこんでいる,そういう一元的な思いこみの世界に住むことを揶揄する表現だと思います。というより,安易な一元論,原理主義への批判,それを内在させている言葉だと思います。もう一つは,根本的に,脳が理解するということには限界があるよ,ということだと思います。そういった意味では,「脳の壁」,「脳におけるバカの壁」と題してもよいのかも知れません。
 ところで,この二つのことから,養老さんは分からないからといって悩みすぎる必要はないことを言い,また,逆に分かったつもりになって妄信する結果,結局はバカなことをしでかしてしまう,そういう危険に警告を発しているのだという気がします。
 そして,いずれにしても,これは人間における一部であるところの脳内に起こる出来事に過ぎないことであって,これをあんまり重要視しすぎるのもどうか,と危惧しているような気がします。
 人間の理解とは別に,自然の事象や事物はその外に存在しているわけです。ある意味切り離して考えなければいけない。つまり,別のシステムによってそこに存在しているのだというように。すべてを理解できるものだとは考えない方がいい。そう思います。
 事物や事象の理解という,そこにはすでに,人間という係数が入り込んでいるわけです。人間の脳理解,と言い換えてもいいかも知れません。要するにはじめから限度というか,限界というものがあると思うのです。これは個々人についても言えることだと思います。一人一人によって,この係数の値がちがう。この係数がちがうという限度があって,だから,意見の違いが生まれます。これが事実なのです。
 真理がどちら側にあるかの争いがよくなされますが,これは決して無意味なことではないと思います。けれども,相手がこちらを理解しない,そういう限界があるのだということを知った上でその論争をするかしないかは,大きなちがいがあります。言い換えれば,一人一人の誰でもが,それぞれに自分の内側に,言ってみれば自分という「壁」を持っていて,しかし全体としてはその「壁」同士が集まって社会を作り,生活をしているわけです。つまり,意見の違い,見解の違いがあって生活が成り立っていることを前提として論を争わなければならないのです。たとえ真実がこちら側にあったとして,そのこと自体には現実を動かす力はないと考えた方がいいと思うのです。
 それを自覚しておくことは,重要なことであり,生きていく上で実は大切なことでもあるんだよと,養老さんは指摘しているような気がします。
 
 この本の主張は,前書きにふれているとおりだと理解すればいいのではないでしょうか。 例えば,「結局われわれは,自分の脳に入ることしか理解できない。」という言葉があります。
 これは,「脳に入ることは理解できる」が「脳に入らないことは理解できない」,そういう裏面を捕捉しながら解していくといいと思うのです。そうして,脳に入るか入らないかは本文中にあるように,五感からの入力情報に関して自分がどういう重み付をしているのかによって左右される,と考えていけばいいわけです。簡単に言うと,関心を持つことは乾いた砂に水が沁みていくように脳に入っていくが,無関心なことは脳自体がコンクリートか何かのように硬直して水をはじき返すように,内部に取り込まないことを言うのでしょう。この場合,この関心のあるなしが,Y=a×Xという一次方程式にあらわされた,aという係数の値になるわけです。
 人間の言動,行動はもちろん感情や理性的な問題も含めた全般的なことへの,この方程式,数学的な導入というものは,大変いいものだという気がしています。
 まず,彼我のちがいを,価値や痩せ細る倫理の問題としないですむと思います。
 人間的な問題ととらえると,どうもぼくたちはいきり立ってしまう癖がある。そこに,争いに発展する契機といったものも含まれてくる。このことを方程式として解すると,そのちがいはちがいとして,客観的にあるいは当然のこととしてそのちがいを認められるようになる。その効果は,大きいと思うのです。
 養老さんは,この本で,戦争,テロ,民族間・宗教間の紛争も,この方程式の先に拡大した解釈ができるのではないかと考え,それを展開してみせています。もちろん,だからといってこのこと自体によって紛争がなくなったりするわけではありませんが,少なくともこの本に目を通せば,個々人の係数aに,何事かの影響を与えることはあり得ると思います。
 ぼく自身についていえば,ぼくの言動を左右するこの係数は何かと,客観視するようになりました。そこに,自分らしさも浮かび上がるような気がしています。そして,これは自分の成り立ちのどのあたりからよってきたものだろうかと考えることによって,自分というものを考えるもう一つの視点が与えられたなと思っているところです。他人の言動の由来もまた,この視点から考え,掘り起こしが可能になっていくと思います。他人の気持ちを分かる,理解する,そういうことは当たり前ですが大切なことです。すぐれて他人を理解できる人は,無意識にこういう考え方を自分の中で行っていて,他人の言動に共感ができている人なのだと思います。
 
 第三章において,「個性重視」の尊重,風潮を批判しています。脳,意識,言語は,もともと共通性を徹底的に追求するようにできている。そのことを根拠として,例えば文科省の「子どもの個性を尊重する」というような姿勢,方針を批判しているわけです。
 これにはしかし,文科省への同情もぼくなどには少しばかりないわけではない。なぜならば,「個性」の尊重が打ち出された背景には,例の受験戦争があり,「落ちこぼれ」問題があった。ある水準を決めての教育だから,どう詰め込もうとしたって理解できない,脳の中に取り込むことのできない子どもたちはいるわけです。それこそ脳にも個性がある。彼らが引き起こす事件に何らかの対策をしなければならなくなったから,「個性を大切に」しようなどといった方針を打ち出した。勉強ができなくても,何か一つくらいは取り柄があり,いいところがあるだろうからそれを発見して「褒めよう」よ,そういったところです。面白くないからといって事件を起こされたんじゃたまったものじゃない。何とかしよう。褒めておだてりゃ,いい気持ちになって,まあ,悪いことはしなくなる。そんな程度の考えです。
 「落ちこぼれ」は切り捨ててなどとあからさまには言えないものだから,「個性」的な教育,個に応じた教育,などの言葉を考える他はない。これなどは根本的な矛盾をカムフラージュするために使われているに過ぎない。つまり外壁を何回も何回も上塗りしているだけのことなのです。ほんとうは,養老さんの批判にも値しない,そういうものだとぼくは思っています。全然本気じゃないし,もしも文科省が本気だとすれば,「個性」を云々するより「指導要領」の廃止の方向を検討する施策が打ち出されてくるはずだと,ぼくなどは思っています。というより,ほんとうは文科省を解体するような方向にしか,打開する方策はないところまで来ているのです。それは大きな混乱を予想させますから,誰もそれを口にすることができないし,ある意味「ありえない」話しになるわけです。
 もっとも肝心なところには手をつけないことが暗黙の前提としてあるわけですから,端末の些細なこと,しかも結果がよく見えないところに対策の矛先を向けなければならない。こんなことはもう,ばかばかしいほど世の中の通例になっているところで,よほどのカマトトでなければ知らぬ顔はできない。けれども知らん顔をしてみせる人が多い。
 これで「子どもを何とかしよう」とか,「弱者対策」とか何とかいっているのですから,お話にもなんにもならない。生きているものはぼくも含めてすべて戦犯ですよ。こういう社会を作り,現在も一員としてこんな社会を形成しているその原因と責任は,みんなにある。そう,思います。
 ところで,どうでもいいような「個性」の重視ということですが,実際の教育現場ではどのような現れとして具体的になっているかというと,養老さんの本の中に書いているような,「求められる個性」の発揮,学校が期待する個性しか認められないことになっています。言葉のホントの意味での「個性」の尊重にはなっていないわけです。せっかく子どもが「個性的な考え」を出しても,それは違っている,それはダメダ,そうなります。
 ぼくなどはずいぶん,これはおかしいんじゃないの,矛盾じゃないの,などと首を傾げたりなどしたわけですが,そしてたぶん誰でもが,子どもも先生も,そう感じているのではないかと考えるのですが,学校現場ではどうすることもできない。ただそれがそのまま浸透していくだけです。ですから,これは怖いところで,子どもも先生も,こんなひどいことってないんじゃないか,と思うような処で毎日を過ごしているのです。これが「個」に溜まっていったらどういうことになるか,すでに,メディアが報じるさまざまの事件として分かっていることでしょう。
 学校も含めて,組織の中に存在するということは,どうしようもなく,共通枠の内部での言動を強制されます。自由さや,もっと開かれるということを性急に求めようとすると,枠外に出ていくしかありません。この「枠」は,ものすごく強固なものです。そして実体がありません。しかし,「鉄の檻」と比喩して間違いありません。最早,この「檻」の中に,子どもと先生とが共有して持っていた古き良き教育の「伝統主義的な精神」は存在しません。器の中に,精神が満ちていないのです。空っぽなのか,それとも他の何かで埋め尽くされているのか,その答はそれこそ「個性的」にしかないのかも知れません。ぼく自身の受け止め方からいえば,機械的で「大いなる虚無」が満ちていると感受しているところです。この勢い,この流れ,はとどまるところを知らない。この恐怖を,ぼくはずっと訴えつづけてきていると,思っています。
 人によっては,まだ幻影を見ている人はいると思います。教育の,よき姿を信じ,かつての,今の,よきイメージを教育界に学校に取り戻そうと奮闘している人々です。彼らにはしかし,組織外から見る目が足りない。「専門」の怖さ,がよく分かっていないと思うのです。そして,それは,致し方ありません。
 
 三章では,「個性は脳ではなく身体に宿っている」と養老さんは述べています。つまり,意識,思考,言語,心,そうしたものに個性があるのではなく,身体的なものこそが個性であるといっていたわけです。そして,脳というのは,社会生活を営むために,共通性を追求して行く性質というものを持っているのだと言っていました。
 四章ではそれに付け加えて,脳は,「自己同一性」を追求する作業を日々行っていることが言われています。「私」は「私」という,そういう意識作用です。これが高じると,「自分は永遠に不変だ」という思いこみになるといいます。それは,自己の情報化であると養老さんは説明します。
 情報は日替わりだが,自分は自分で変わらない,そういう思いこみは自分もしていました。養老さんの話を聞いて,なるほど,逆かと合点しました。一つの情報は情報自体として,情報になった時点から変わることはない。別の情報がどんどん流れているから,情報は変わるという思いこみがおこる。実は情報それ自体が自力で変わったわけではなく,別な情報が置き換わっただけだ。そういうことです。
 「私」についても,変わらないと考えるのは「私」だけで,実際には,一瞬間として同じであることはない。だから,詩人は枕元に,浮かんだ言葉を書き留めるメモ用紙を用意したものなのでしょう。それでなくとも日々,忘れ物の体験をし,過去の記憶も定かではなくなるという経験をぼくたちはしてきている。「私」は変わる。変わり続けている。それはけして良いこととか悪いこととかの問題にはならない。当然のメカニズムであるだけだ。こういうことをぼくは教わった気がします。
 このほかにも,この四章では,脳の働き,意識や言語について言及されています。「脳内のリンゴ活動」,「脳内の自給自足」,「偶像の誕生」などなど,興味深い挿話が記述されていて,なるほどという思いで読むことができました。
 
 そのほか,本編各章には「脳」を中心としていろいろ機能が解説されていると思うし,それにともなう養老さんの考えが披瀝されていて面白く読むことができると思います。内容は難解なことだが,実にわかりやすい例を引いて述べられているから,この本がベストセラーになるというのもうなずける,納得されることであるとぼくなどは思っている。
 ここに書かれているすべてに,自分の考えや意見を言えば,きりがないくらいであるが,それはいくら書いてもこの著書のおもしろさにはかなわないでしょう。
 この本を読んですぐに,この本について何かコメントしたいと考えたことのある手前,ここでは,もっとも自分に気にかかる部分についての考えを述べて,その責任を果たしたいというのが願いでした。ともかくも,これで「バカの壁」からは離れていってもかまわないだろう,そう考えています。
 今回読んでみて,当初新鮮に感じた養老さんの言葉が,当たり前のように感じられる箇所が相当ありました。これは,養老さんの言葉を自分の中に取り入れてしまったからだろうと思うし,よく読むと案外つまらないものだったという意味合いのものではありません。もちろんいくらか考えの隔たりがあるという箇所があることも発見しました。それでも,大筋のところ,養老さんの考えに異論はないな,と思いました。
 この本から得た啓発への,感謝と御礼の意味を,この文章に込めておきたいと思っています。
 
 
U 「まともな人」について
 
 この書は時事に関する文章で,その時々の報道などをもとに,それらに対する養老さんの考えが,連載の形で述べられたものです。
 扱っていることは多岐にわたりますが,ざっと思い出すと,教育や学習のこと,内外の政治経済のこと,地球温暖化および環境問題のこと等々です。これらの中から,特に印象に残ることについて,ぼくの感想を書いていきたいと思います。
 
 はじめに,「学習」について言いますと,「脳でいうなら,知覚と運動である。」という言葉が出てきます。 どういうことかと言いますと,「知覚から情報が入り,運動として出て行く。出て行くが,運動の結果は状況を変える。その状況の変化が知覚を通して脳に再入力される。こうして知覚から運動へ,運動から知覚へという,ループが回転する。そうしたループをさまざまに用意しモデル化すること,これが学習である。」ということです。つまり,学習に際して,脳では以上のようなことが行われているという訳なのです。
 言語の習得,あるいはスポーツにおいて,この知覚から運動,運動から知覚という繰り返しのループは典型的な例です。いったんこのループが成立すると,それはモデル化され,応用が利くようになります。
 この入出力のループになっていないものは,経験ではあり得ても学習ではない,そう養老さんは指摘しています。
 このように,脳を中心に「学習」という行為をながめてみると,あ,そうか,と合点がいく思いがします。ぼくはかつて教員でしたので,授業において,子どもたち個々にこのループがどのように形成されていくか,その形成といった観点からも考えてしかるべきであった,と振り返って思います。
 言い換えると,身に付くと言うこと,分かる,できる,ということは,子どもたちの脳の中で,今言っているようなことができていなければならない。そういうことなのだと思うのです。もっと言うと,必要なのは必ずしも「正解」なのではないということです。このループの形成に寄与しているかどうか,どんなループが期待されるのか,こういう観点が授業にはもっと取り入れられていかなければならいのではないでしょうか。そう,思いました。
 
 〔現代こそ心の時代そのもだ〕という小題では,欲望や恐怖,それに関わる心の問題と身体の問題についてふれています。
 例えば,「人間の通常の欲望には,進化の過程で発生した歯止めがかかっている。」,こんな箇所がありました。食欲,性欲などには,満たされればその場はそれで収まるといった側面があるということです。
 これに対して,金欲は,欲望を満たす可能性への欲望で,これには進化上の歯止めがかかっておらず,こういう欲望を生み出す変な脳を持ったのは,「動物界広しといえども,ヒトだけである。」,と養老さんは言っています。この考え方,とらえ方は,同じく解剖学者であった三木茂夫さんという人の本にもありました。脳が限りない欲望を生産し,極限まで行くだろうという予想と,それを押しとどめなければいけないという苦悩を,そこに読み取ることができました。
 お金が欲しい,と人々が願うのは,実はお金がいろいろな欲望に交換可能なものだからで,とにかくいくらでもほしがる,そこに際限がないという面があるようです。なるほど,自分自身を振り返っても,どこか,金,金,金の衝動が底に流れているような気がします。欲望を満たす可能性を,取り敢えずは持っておきたい。それがないと不安だ。どうも,ぼくたちはそういう欲望と不安と恐怖とに縛られているのかも知れない,そういう気さえします。
 対象が特定しないこういう欲望や不安を,政治や経済は利用する。養老さんは,そう述べています。例えば,近頃よく聞かれる言葉に,「危機管理」がある。養老さんは,戦争や有事に絡めてこの「危機管理」の問題を出しているのですが,これとは別にぼくが在籍した頃,学校でもよく「危機管理」が話題にあがっていました。
 何をしていたかというと,子どもが怪我をしたときに裁判などで敗訴しないように,万全の措置を講ずる手配を整えるマニュアル作り,職員の共通理解などの話し合いでした。もちろん,子どもの安全を第一に考えるものではあったわけですが,どこか言い訳がましい対策だった気がします。これなどは,さまざまに職員の不安を煽り,結局のところ,こういう対策をしましたよ,学校も文科省も苦労してがんばっていますよ,そういう宣伝的効果しかないものだった気がします。
 また,不審者対策が問題になりましたが,ぼくが考えるには,宅間被告が犯したような事件と同じ事件が起こる可能性はほんの少しなのです。宅間被告の事件がそうであったように,世間をあっといわせる事件は,前例のないところにしか起こりえないのです。それなのに,全国の小中学校がこぞって暴漢対策などのチャンバラごっこに興じていました。笑うに笑えない,情けない姿と感じたのはぼくだけでしょうか。それだったらはじめから教員採用時に,機動隊員のような人たちを採用する方が手っ取り早い。そう,感じました。冗談じゃない。先生たちを何のために採用したんだ。本職の,教育自体が限りなく怪しくなっている時期にこんなことをやるなんて,世間への目隠し効果以外の何物でもない。もちろん,世間の人々だってそんなことくらいはお見通しだったのではないでしょうか。「教育の危機」には,何の効果的な具体策も講じられないくせに,こんな茶番だけは思いっきり新聞やテレビに公開する。校地内の全面禁煙の問題もそうでしたが,要するに教育界という業界が生き残りをかけて「威信」を保ち,自己保身をするために,必死の話題作りをしているに過ぎません。そう,ぼくは思っていました。
 多くの先生たちも子どもたちも悩んでいますよ。実際の現実の学校が,教育が,自分のフィーリングにぴったりと過不足なくはまり,その中で生き生きと活動できている先生や子どももいることにはいるでしょうが,ぼくにはそう多くは見かけることができなかったように思います。苦しんでいる子どもや先生たちの現実には,カウンセリングをあてがって,はい,それで終わり,じゃ身も蓋もない。
 エライ教育者なんでしょう。世間の非常識な常識を変えるくらいのことをしでかしたり,あっと感心するくらいの見識を披露して欲しいものだ。在職中,教育事務所や県の教育委員会にたいして,ぼくなんかはずっとそう思っていました。
 つい最近の,小六少女の被害者や加害者も,少なくとも彼女たちをそういうふうにしたその責任の一端は,彼女らの「心」も見失った教育界の現状にあると,そう思っています。ぼく自身もそうかも知れませんが,エライ教育関係者にも子どもたちの姿が見えていないのです。どうしたらいいかも,よく分からないはずなのです。それをはっきりとさせ,自分たちが,また現在の機関が,無能であり役立たずであることを言うことは,自己の解体につながるから言わないのです。その上で,本筋から言えば脇のことを前面に打ち出して,この場をすり抜けようとしています。
 そんなことですり抜けられる事態かどうか,自分がいるうちだけは何とか組織を守っていきたい,そんな考え自体が犯罪的であることを連中は本当に自覚できていないのでしょうか。もちろん,自覚できていないのでしょう。だからどんな事件が起きても,他人事として,責任をとるものはいません。どうしてなのでしょう。たとえ社会や家庭のせいだという側面があるにしても,それを阻止できなかった自分の,自分たちの組織の,骨抜きになった教育の,無力さに何の感じるところもないのでしょうか。そういうところを若い世代に見せて,そういう世代はどう育っていくと考えているのでしょう。
 もちろん,先のような対策を講じることが悪いとか無意味だと言うつもりはありませんが,いたちごっこの上に,今言ったような意味での根本の対策が見過ごされてしまう,そういう危険がありはしないかと言いたいのです。「危機管理」と言う言葉には,何かしら目先のことに注目させておいて,実は違う目的が働いている,そんな気がしてしまいます。そして,それにともすればうかうか乗せられてしまうのは,恐怖や不安感,場合によっては欲望があるからなのだと考えなければいけないのかも知れません。
 養老さんに言わせれば,「危機とは,そもそも管理できない状態をいう。それを『管理する』とはどういうことか。」となるようです。ここを読んで,なるほどと感嘆したのを覚えています。昔は,食うことというような,もっと差し迫った問題から,こういう対策を考える前に「覚悟」の二文字で決着していたと養老さんは言います。その「覚悟」の二文字が今はどこを見渡しても見あたらない。ぼくは,管理職や行政職にそれが欲しいと思っていました。もちろん管理職が,子どもの怪我や事故は「覚悟」しろ,そんなことを保護者に言えば,怒鳴られ,問題にされるだけだという実態も分かっています。けれども,そうした理由でこの言葉を自分で飲み込んでしまった教育界も,結局のところ進んでこの「覚悟」の二文字を死語にすることに荷担したことは否定できない事実で,いわば,日本人の「心」を維持することに踏ん張りきれなかったことを意味しはしないかと思うのです。
 若い保護者に向かって,はっきりとものを言う。子どもの怪我や病気や,また事故による災難は,けしてあり得ないことではないこと。そういう世界に生きているのだということ。だから,「覚悟」の二文字があるのだということ。それは,日本的な伝統的な文化であるということ。
 第一,誤解を恐れずに言えば,子どもの生死を他人に託すこと自体がそもそも軽薄ではないのかとぼくは思います。どんな動物も,自分の子は自分で守っているではないですか。少なくとも,朝,子どもが玄関を出て行く時に,もしかしてこれが最後にならないとも限らない,そう不安に思った経験が皆無なはずはありません。それでも見送るわけです。そこに,「覚悟」が入っていなければおかしいのではないでしょうか。親としての,子どもの安全への配慮を,そこでは社会に託し,いわば自分の責任を放棄しているわけです。社会がそうであるから,それに従うほかないことは仕方のないことですが,どんな理由があろうと,自分の手から子どもを離すということは,子どもに対してはやはり親としての責任を全うしていないということなのです。逆に言えば,子どもの危機を覚悟する,そういう親としての「覚悟」なしに,子どもを自分のそばから手放してはならない,そう思います。
 社会の枠組みよりも,個人のそういう思いの方が大きいのだ。そしてそれは「価値」なのだ。そういうふうに語ってくれる人のいないことを,ぼくは悲しく思います。もちろんぼく自身,組織の中にあるときにはこの思いを公然と語る機会はありませんでした。あえて言おうとも思いませんでした。尋ねられたら,しかし,そう言っていると思います。
 
 養老さんは,メタ欲望,メタ恐怖から,上に述べたようなことを言っていたわけではないです。メタ欲望を抑えるのは文化である,とだけ言っています。つまり,個々人は自力でそれらの欲望と戦っていくしかないと言っているのだと思います。それらの総和が,文化として形あるものとなっていくのでしょう。
 こういう部分があります。
 
  マッサージとは変なもので,要するに精神に影響する。肉体の状態が,精神に直接に 影響することを,これほど明確に示すものはない。
 
  メタ欲望の無限性と身体性は相反する。身体はそもそも有限であり,あらゆる意味で 質素なものである。
 
  いまでは癒しが,ひそかにか,公にか,流行している。もともとこれは宗教が与えて いたものの一つである。その宗教がはっきりいえば役に立たないから,癒しが流行する。 マッサージも一種の癒しであろう。宗教のいう救いに比較すれば,癒しは軽い。その軽 いものが社会的に要求されるのは,身体の欲求のつつましさを示している。
  若者の極端な犯罪を見聞きして,しばしば人は心の問題を語る。私はむしろ身体を語 りたい。癒しは心の問題ではない。世上伝えられる奇妙な凶悪犯罪もまた,身体がらみ であることは,いうまでもない。現代人が抱えているのは,心ではなく,身体の取り扱 いの問題である。現代社会はまさに心の社会,意識中心の社会だから,身体という無意 識の声が聞こえない。オリンピックという騒ぎは,その意味では害悪でしかない。ふつ うの人には,ああした身体の使用はとうていできない。あれは日常とは,全く無関係な のである。
 
 ぼくたちはストレス解消法として癒しを考え,心の問題と思ってきました。しかし養老さんは,心の問題などではなく,身体の取り扱いの問題だといいます。それは,身体という無意識の声が聞こえなくなっているからなのだということです。このあたりなども,ぼくなどは大変共感する考え方です。
 このあとの結びの部分がまたすごい。じっくりと読んで理解しなければならないところです。
 
  メタ欲望が肥大するのは,それが単純な身体的欲求を置換するからであろう。しかし 単純な欲求は,単純であるだけに別なものでそれを満たすことができない。別なもので それを満たそうとしたとき,無限欲求の地獄におちいる。満腹中枢が壊れているならと もかく,それが機能している人なら,食べ過ぎるはずはない。別な欲望を食べることに よって満たそうとして過食におちいる。なぜそうなるかというなら,自分の身体の声が 素直に聞こえてこないからであろう。その意味で,現代こそ心の時代そのものだ,とい うしかない。
 
 単純な身体的欲求をメタ欲望で満たそうとしたとき,欲望の過剰がおこる。なぜメタ欲望で満たそうと置き換えをしてしまうかというと,現代のわれわれには身体の無意識の声が素直に届かない,身体の感受性が鈍感になってしまっている。そう言うことをいっているのだと思います。この場合,身体というとき,細胞や筋肉,神経,内臓など,もろもろを指しているので,その文脈で考えなければならないところです。また,現代こそ心の時代というとき,意識中心の社会を意味しているところも考慮しなければならないと思います。
 蛇足かも知れませんが,簡単に解説を試みてみますと,例えば子どもには身体を動かしたい欲求があるとします。それを我慢する,あるいはそうしたいという身体の声が聞こえずに,子どもが別な欲望で代替えする。もちろん無意識のところでそうするわけですが,ゲームなどのようなものに変えて,それに興じることで実は身体を動き回らせたい欲求を満たそうとする。そうすると,際限なくやってしまう。もちろん,置き換えられているのはゲームそのものではなく,勝負に勝つ,ゲームをクリアーする,そういう欲望にであるのかも知れません。
 もともと身体が何を欲求しているのかは,考えて分かるものではありません。昔は,欲求にそって自然に人間たちは活動していたはずのことです。畑仕事をして疲れたから昼寝をするとか,お腹がすいたときに食事をとるとか,です。ところがこの欲求とそれを満たすところのリズムが,現代では特にさまざまな規制が働いて,特に意識において遮断されてしまうことが多くなっているのです。
 これを三木茂夫さんは,女性の月経現象を引き合いに出して語っていました。つまり子宮という身体部では,精子を待ち望んで受胎の準備をしますが,産児制限によってはぐらかされることが多い。そのことが,女性の精神にどのような影響を与えるのか。その子宮の欲求は,どんな欲求に置換され,どのような無限欲求を求めることになってしまうのか。 身体的欲求とは,その人の意識に関わらない身体独自の欲求で,それ自体は最早風前のともしびといったおもむきがあります。そういうように,われわれは社会を,個人を作ってきたと言っていいかも知れません。最早立ち戻ることはできないのでしょう。
 昨今の,子どもたちを含めたいろいろな犯罪,事件の根幹には,こうした身体の問題が介在する。誰が,どれくらいの人々が,こうした問題に目覚めているのか。それこそ,歴史的に,生物学的に,またはもっとさまざまな観点から考察していかなければならない大きな問題が,目の前に横たわっている。養老さんの考えは,この問題にどう立ち向かっていったらよいかにヒントを与えてくれる数少ない考えの一つで,ぼくの,彼の文章に注目する理由がここにあると考えているのです。
 
 〔教育を受ける動機がない〕という小題の文章も,なかなか面白いものです。自分が教員であったという関係もあるでしょうが,関心を持ちました。
 簡単に言うと,いまのヒトの子どもたちは,家畜や実験動物たちと同じように籠の中の環境で育てられ,「生まれ持った能力のほとんどを使う必要がな」く,「水と餌とねぐら」を与えられているのだから生きものとしてはそれ以上に必要なものはなく,必然的に教育を受ける動機を持たない,そう養老さんは言っているのです。逆に言えば,「水と餌とねぐら」を自分で探させるようにできれば,危険な周囲に反応し,自分の持って生まれた能力を自己開発でき,その過程で自ら学習し,進んで教わろうとし,急速に育っていくものだということのようです。
 これも,なるほどなと感心して読んだところです。いま学校では躍起になって,情報の提供,伝達方法の工夫などで子どもたちに対していると思いますが,当の子どもたちはその必要性を感じていない。何しろ,何もしなくても,安全で快適な環境が身の回りにできあがっているのですから。これを都市化と,養老さんは言っている。子どもは「上手に,速やかに育たない」。最早人生自体が籠の中である。福祉,年金,老人医療。死ぬまで水と餌とねぐらは与えられる。ただ従順に,体制に気に入られるようにしていれば,という話し,です。
 これはある意味理想的な社会の到来ではないか,そう,ぼくは思います。努力せず,遊んでいて,それで生きていけるのです。
 第三世界とか,発展途上国,後進国は,そういう社会を夢見て努力をしている。かつては日本もそうで,特に戦後の焼け野原からの復興はいま思えばめざましい。水と餌とねぐらを求め,また他人の水と餌とねぐらの確保にも労を惜しまずに努力してきた。その成果が現代日本の姿である,そう思います。当時は,当然のように水と餌とねぐらを求めるために,教育の力を必要とした。資源を持たない国だから,余計,教育力にすがるほかなかったのではないでしょうか。そこには,教育を受ける動機が,充ち満ちていたわけです。 これほど典型的な,歴史的皮肉といったものもないものだと思います。遊んでいてもいいような理想的な社会ができあがって,遊んでいると,困ったものだと言い,何かしようと勢い込んで事件を起こすと,これまた困ったものだと言われる。要するに実験動物や家畜のように,子どもも若者も,言うことを聞いておればよい,と,そういうことのようです。そうすれば,水と餌とねぐらは保証してやるぞ,と。なに,勉強なんかできなくてもいいのである。やっているふりをすることが,大事なのだ。後は,動物的な能力のすべての退化を待つだけだ。そうすれば,おかしな行動もなくなる。そういうことなのでしょう。 この,体制の維持に直接,間接に関係のある人だけが,ある意味大変な苦労を背負うことになる。これは,避けがたいことでしょう。この人たちのがんばりで,多くの人たちが何もしなくてもよい状態を作り,維持していかなければいけない訳なのですから。これはしかし,だからといって偉そうにする必要は少しもない。なぜなら,いくらでも取って代われる人材はあふれかえっているのですから。かえって,人を押しのけて,その立場に立ったわけで,耐え難いならいつでも交代可能である。そういう理解で,いいと思うのです。
 ところが,この種類の人たちは,自分ががんばっているから,他の人が遊んでいる状態が面白くない。これは人情でしょう。人々に向けて,檄を飛ばす。それがいま叫ばれる,環境,省エネ,ボランティア,福祉,バリアフリー,等々の言葉となって出てきているような気が,ぼくにはします。何にもしないんだったら,こんなことでも考えろ,そう言っているような気がするのです。
 一面で家畜のようでありながら,こうしなければ飼ってやらないと放り出される不安を抱え込んでいるのが,現代に生きる人々なのではないでしょうか。
 自衛として,いつでも水と餌とねぐらは自分で探して確保するという強い覚悟と,そのための能力の維持,体験が必要だと,ぼくなどは考えます。子どもたちにも,そういう状況に置かれるという体験が,一度はあってしかるべきではないか,そう思います。そしてそれは,親が,考えなければならない。
 こういう状況にある子どもたちを,ぼくは一面で幸福であり,また反面かわいそうだと思っています。生まれながらの本能を,開放する場がない。この身体の問題が,どう精神に影響するか,先に検討した事柄に関連していきます。
 養老さんは,実験室で飼われているマウスやラットは,どうも動物ではないような気がしたと述べていましたが,ぼくたちも知らず人間ではない領域に足を踏み入れているのではないか,そういう不安がつきまとってきます。ぼく自身,学校で,教室の中で,子どもたちを見ていても,どこかいままで自分が考えてきた人間らしさと異質な感じを感受する機会が多くなったことを感じていました。
 人間という,あるいは子どもという,これまでの概念からは考えられないような,奇妙な凶悪な犯罪が多くなってきたとは感じないでしょうか。
 ぼく自身は,こうした事態をどうにかできる立場にもなく能力もないと自覚する一方,しかし,ひそかに,人間の概念の拡大解釈を導入していかなければならない必要を感じてその努力はしているつもりなのですが,さて,あなたはこうした現実を前に,どう考えていこうとしているのでしょうか。
 
 養老さんの文章を読んでいると,統一理論とか,一神教,一元論,原理主義,そうしたものへの警戒心,批判的な思いがくみ取れます。これは,教授時代の教え子たちがオウム真理教に関わっていたことと関係しているようです。逆折伏,などといった言葉などもどこかに書いてあったような気がします。簡単に言うと,改心させるための教えということだと思いますが,信じていることを改心させるだけの魅力を自分の考えに込めたい,という思いがあるのだろうと思います。
 こうした考え方への批判はは至る所でなされていますが,「原理主義VS.八分の正義」の小題でも,次のような記述が見られます。
 
  しかしかつて私が脳化社会という言葉を創案した理由の一つは,この原理主義にある。 すでに述べたように,いくら自分の信念が正しいと思うにしても,それはたかだか千五 百グラムの脳味噌がそう思っているだけですよ。脳化という言葉には,そうしたメッセ ージをこめたつもりである。本気でそう思えるなら,命をかけて飛行機でビルに突っ込 むことはないはずである。脳が身体を思うようにしていいという根拠はないからである。
 
 「千五百グラムの脳味噌がそう思っているだけ」という表現や,「脳が身体を思うようにしていいという根拠はない」という言い回しは,とても養老孟司的で,また解剖学者的と言ってみたいほど,先輩筋の三木茂夫の考えにも通じるところがあって,ぼくなどはとても気に入っているところです。
 誤解を恐れずに言えば,身体的に「生きる」ということと,脳を中心に「考える」ことをして「生きる」ということとの二重性と,その乖離。そこが現代において甚だしい乖離となっていて,「生きる」ということの難しさを感じさせている。それが「問題」である,とぼくなどは考えているところなのです。
 動物的に生きるということは,身体の欲求にしたがって生きることだと思うのです。したがって,そこには身体と脳との欲求に過不足は見られない。
 しかし,脳の発達によって,身体性から切り離れた欲求が生まれるようになる。屋上屋を重ねる。幻想の上に幻想を重ねる。精神が,あたかもかつて土台であった身体であるかのような役割を果たし,その上にさらに精神を積み重ねて行く。そういうイメージなのですが,そうすると今度は,身体性から切り離れたさらに架空の領域ができあがってしまう。架空の二重性と言っていいかも知れない,そういう砂上の楼閣を,ぼくたちの精神はあたかも実体であるかのように見なして,そうして「生き」ているわけです。最早,身体を持たない,精神的な存在に,なっている。
 ところが,実際には身体が切り離れているわけではない。身体を顧みないとして,逆襲が,時として不意に個を襲うことがあるわけです。つまりいつでも精神が精神をコントロールできるかと言えば,そうではない。時として強烈に身体からの欲求の電波が発しられ,精神の波長が乱れ,あるいはフリーズしてしまう。そういうことはあり得るのではないか,いや,そうなっているのではないか,そうぼくは考えています。
 このことは,こころある人々が現在いろいろに追求する過程にあるところの問題だと思います。それぞれに試みがなされ,それぞれに卓見もあろうかと思いますが,まだ世間的に認められているとは言い切れないところだと思います。
 いずれにしても,こういうところを考えずに単に「こころ」の問題,「善悪」「正義」などの古典的な考えで昨今の現象,例えば少年の凶悪犯罪など,を解釈しようとすると大きく間違ってしまうのではないかと思っています。
 ところで,養老さんの文章に戻りますと,すぐ後のところに次のようなことが書いてあります。
 
  世界貿易センタービルも,それに突っ込んだ旅客機も,脳化の象徴といえる存在であ る。こうした脳化世界がいかに脆弱か,それを意識しない人が多い。それは今度の事件 の反応からもわかる。そういうものが安全であって当然だ。そう思っていたらしいから である。別に安全ではない。
 
 「世界貿易センタービル」,「旅客機」,が「脳化の象徴」であるならば,「学校」はどうか,ふとぼくはそう思いました。宅間守が小学校に乱入し,子どもたちを襲撃したとき,人々は同様の反応を見せたのではなかったかと思いました。学校は安全であって当然だ。誰もがそう思っていたはずです。外部からの襲撃はあり得ないと。ぼく自身もそう思っていました。犯罪者のあいだにも暗黙の共通了解がある,と。しかし犯人,宅間守はそこをついてきた。ある意味,養老さんの言う「脳化社会」,「脳化世界」,「都市化」への逆襲となったわけです。宅間の姿が,虐げられる身体,に重なって,ぼくには感じられました。 養老さんの文章は,しかし,そこを言及しようとしているわけではない。この後,原理主義について,この原理主義が戦争の原動力になってしまう一面を持つことを述べています。原理主義一般への警戒。それをはっきりと言い切っています。また,次のような表現も見られます。
 
  われわれが見ている世界は,繰り返すが,たかだか千五百グラムの脳が決めている世 界である。ヴァーチュアルな世界などない。もしヴァーチュアルという概念を認めるな ら,すべての世界像はヴァーチュアルであるというしかない。それはつねに「脳に映っ た世界」に他ならないからである。
 
 虚像という概念を認めるなら,すべての世界像は虚像である。それは脳に映った世界を指しているから。
 そこで,養老さんは,虚像の世界などというものはないんだ,といっているのだと思うのです。そうしますと,実像の世界です。一人一人の頭の中にあるのは,紛れもなく実像の世界なのだと。その実像の世界は一人一人違っているはずです。すると,頭の数だけ,人間の数だけ,この実像の世界が存在することになる。これは,世界は一つではない,ということです。当たり前のことなのですが,一人一人の世界があるということなのですね。簡単に,「お前の考えは間違っているぞ」とは言えない。何しろ,そこに同じ原理が働いて,しかも相違を形作っているわけですから。この部分の文章から,そういうことを考えさせられました。
 最後にこの小題での養老さんの言い分を引用しておきましょう。
 
  なぜわれわれは,戦争がやめられないのか。正義の戦争があるからであろう。さらに いうなら,正義があるからであろう。特攻のアラブ人も正義を信じ,アメリカもイスラ エルも正義を信じている。それが脳なのである。それならその脳は正義か。だから私は 脳のことをあえていう。
  それをニヒリズムと称する人もある。そうではない。腹八分ではないが,正義もまた 八分だ。私はそういっているだけである。残りの二分とはなにか。すべての脳は完全で はない。それをつねに考慮すべきだ。それだけのことである。だから私は自分の考えす ら,八分ほども信用していない。
  八分の主張は,十分の主張に短期的には負ける。二分足りないから,負けるに決まっ ている。私見によれば,だから原理主義はたえず再生産され,そして相変わらず戦争は やまないのである。
 
 これが養老孟司さんの主張するところであると思います。「それならその脳は正義か」の言葉には,養老さんの養老さんらしさが実に見事に感じられます。この言葉は,即,自戒へとなって脳にこだまします。お前は正義か,そうではないだろう。それであったら過信するなよ。そう自分に言い聞かせている自分に気がつきます。
 最後の,「短期的には負ける」という言葉も,なかなか微妙な言葉です。なぜ,「短期的に」という使い方をしたのか。もちろんこの反対の「長期的」という言葉をすぐさま連想させます。けれども,「長期的には勝つ」というようには言明していません。それが,微妙なところです。言わないけれども,やまない戦争がいつかやむときが来るかも知れない。そういうニュアンスを,余韻として残していると思います。ここらあたりも,養老さんの本が世間に受けている,その一因かなと思うところではありました。
 
 「テロリズム自作自演」という小題の文では,テロリズムとアメリカ文明との関わりについて,いかにも養老さん的な発想の元に感想,感慨が述べられていると感じられました。
 この中では文明の発達,その象徴的出来事とも言える交通の発達がエイズを世界に広めたことなどの指摘もあり,ところどころそれなりに感心しながら読みました。
 結論的にはアメリカ文明のグローバル化による,自作自演と言うしかない側面が,9.11テロにはあったと,養老さんは言っていると思います。もちろん意図して自作自演ということではなく,結果として自作自演になったことを言っているのでしょう。養老さんらしいところは,そうであるならば,「日本人としての私,アジア人としての私,時代遅れの私」には「関係ない」ということを強調しているところにあると思います。
 いわゆる正義面して憤ってみせる,そうした俗な反応ではなく,テロの本質をさぐり,世界各国の政府の反対表明を報道で理解した上での意思表明です。
 報道を見聞きすると,政治関係者はもちろんのこと,どのコメンテーターもテロ行為を人道にもとる行為であるかのように強く非難していました。まるで,自分がやられたかのように,言いつのっていたような気がします。けれども,「オメエ,被害者となんか関係があんのかよ。」と,ついテレビ画面のこちら側で言いたくなってしまう気持ちが起こりました。彼らの憤りは,いかにも「善」の象徴のように映りますが,被害加害の実相を掘り下げた上での発言ではなく,単に自分を「善」であると主張するだけのような,もっと言えば事件をダシにして結局は「自分」を売る行為に,それは,見えてしまうものでした。 視聴者には,そういうように見えてしまうことがあるということに対して,意外と無防備であるなと,そう感じました。
 こういう大きな事件が起こると,その度に,憤って見せなければならない。そういう風潮が,報道という向こう側だけではなく,一般の我々にもありはしないか。少なくとも,自分が「正義」や「善」の側に立っていなければならないというような,無言の小さな脅迫が,どこからともなく聞こえて来るというようなことは,あるような気がします。
 養老さんは,「摩天楼,ジェット機,シミュレーター,国際金融市場その他に,私の人生は無関係だった」,だから,事件について語る動機がない。そのことを,言っているのだと思います。
 それでは多くのコメンテーターはどうなのか。多くの日本人はどうなのか。「オレには関係ないよ」と,自分の生活の足場にしっかりと立ち,その繰り返しからしか身に付くはずのない人間の未来の生き方,それを体現している人はきっといるはずです。
 この文章の最後に養老さんは言います。
 
  テロはもういい。私がいちばん知りたいこととはなにか。現代の日本人が本当に望ん でいることとはなにか,それである。
  他人の気持ちを推し量ってなにかしようとすること,そんなことに興味はないし,聞 き飽きた。あなたは本当はどうありたいのか。そこが聞きたい。やむをえないから働く しかない。そんなことではない。一度しかない一生を,どう生きたいのか。そのホンネ が聞きたいのである。
 
 ぼくなどは,この問いに答えることが難しいと感じています。分からないということではなく,結果として,後に付いてくることだからと今は思うからです。一瞬一瞬に生と死を抱え,生を積み重ねて行く,そういうこととしてしか考えることができないのです。
 けれども,この養老さんの言葉は,ぼくが現役の小学校教員であった頃に,子どもたちに向けて心で問いかけていた言葉と全く同じものだと感じています。
 「福祉,環境,ボランティア。大人の思惑によってこしらえられたそういう「善」への気配り,配慮はもういい。やむをえないから勉強するしかない。それが聞きたいのでもない。今,きみはどうしたいのか。きみの身体の底に埋もれて眠る,そのホンネが聞きたいのだ。」と。
 もちろん,この言葉は直接語りかけるためのものではなくて,教員として,どう子どもを理解できるか,その洞察力を自分に問いかける言葉でした。結果として,答はその時には見いだすことができなかったといっていいと思います。
 養老さんの,自分には「関係ない」の表明は,「関係ない」が「いえない」世界からの押しつけの強力さを逆に照射します。
 日頃,ゴミ問題,エネルギー問題について,ぼくは憂慮はするが関係はないと思ってきました。それは,責任をとれる立場にはない,ということです。ぼく個人の石油の消費,またゴミの排出量はたかが知れているし,つましいものです。好きこのんで消費したり排出したりしているわけでもない。これは純然たる政治,行政の問題であるはずなのに,個人の問題であるかのようにすり替えようとしている。「関係ない」とは「いえない」ような強力な囲い込み,押しつけが押し寄せてくるかのようです。こういうことがいちばん危ない。ぼくはそう思います。報道が一体となってこれをやる。「関係ない」といえば,まかり間違うとバッシングにつながって行く。どこか「欲しがりません勝つまでは」の世界に地続きになっていく恐れを,ぼくは感じてしまいます。
 子どもたちもまた,この「いえない」世界に有無を言わさず組み込まれていることは間違いないはずです。教育は,この「いえない」世界,「いってはいけない」世界を再生産する機能を無意識に果たしていく面を持っています。このことが,子どもたちにどんな影響を与えるのか,考えるだけでおそろしく,とてもその世界に居座りつづけていられなくなった,そこはぼく個人の,今に思う述懐です。
 
 養老孟司さんは,虫捕りが自ら生業というくらい好きだ,と至る所で書いています。「まともな人」の中でも,ノミの大きさくらいの虫の標本作りの一端が書かれていて,これは半端でなく好きなんだ,やってるんだと思いました。
 「相変わらず虫の話」の小題では,ぼくたちの生活する地方の区分が,根本的には自然の区分が影響したのではないかという話が出ていて,とても興味深く感じました。その詳細となると,文章にするにもかなりの苦労がぼくには要るので省きますが,自然条件の反映という見方は,ぼくにとっては新鮮に映りました。本書では,マイマイカブリのミトコンドリアのDNA研究について紹介があり,それによると,例えば,東北地方はかつて二つの小島として存在した時期があり,このマイマイカブリを東北の各地域から細かく集めて比較すると,「それぞれの細かい地域がどちらの島に属していたか」が,分かるのだそうです。そこから,
 
  虫はヒトよりもはるかに古くから,日本列島に住んでいた。その虫が,ヒトよりも古 列島の歴史を反映して当たり前である。この列島にはるかに遅れて移住してきたヒトは, そうした自然の区分に適応し,生活をはじめた。そのヒトの生活に,自然の区分が反映 していないはずがない。
 
という表現になっていきます。
 こういう観点は,すぐにどうこう言えるわけでもないのですが,古代の人間の生活を考える上でも,大きな示唆を与える研究ではないかと思います。いつか,時間と縁があったら自分もその世界をのぞき見てみたい気持ちになりました。個人的には,言語,方言の発達,民族の区分などに敷衍して考えていけないだろうかなどと,これまた野次馬的に思ったものでした。
 
 〔地球温暖化論に根拠はないが〕という小題の文章は,昨今では,なじみのあると言っていいような地球温暖化論について述べています。
 これについては,データの取り方,解釈の仕方で違って来るという側面が一つ。また,科学的な調査の結果を,信仰する傾向があるという側面が一つ。また,こういう「科学的」といわれるものを,「政治的」に利用するという側面が一つ。ざっと考えただけでも,こういった落とし穴がある,とぼくなどは感じてきました。
 ここで養老さんが言っていることも,似たようなことを言っています。つまり,単純ではない物言いをしています。
 養老さんの言うところとは別に,これをぼくなりに考えると,要するに,温暖化論はおかしい。炭酸ガス排出規制,環境問題の取り上げ方もおかしい。おかしいのだけれでも決して間違いというわけではない。間違いではないが,正しくもない。こういうことになるでしょうか。
 こういうことを詰めていってもきりがないし,あまり意味がない。ぼくなどはそう感じて,嫌になってしまいます。それでも,なにかとコメントしたくなるのは,こうした問題が意図的あるいは無意図的に「脅し」として作用している面が多いからです。たとえば「禁煙」の問題がそうです。温暖化にしても,環境問題にしても,必ずそこには「脅し」の要素が含まれます。誰が脅すのかというと,たどっていけば科学者と政治家と報道にたずさわるものと訳の分からない活動団体だと,ぼくのような一般人は考える他はない。こいつらはひどい。特に,羊の皮をかぶって,「善」としてそれを言うから性質が悪い。また自分たちの主張が絶対であるかのような権威を装って言うから,なおさら性質が悪い。もっとある。スローガンを信仰し,科学を信仰し,主張を信仰しているから,これ以上ないと言うほどの性質の悪さを兼ね備えている。率直に言ってぼくはそう思っています。これに行政関係者を付け加えてもいいかも知れません。彼らはその指命が正しかろうが間違っていようが,それを実行するだけです。しかも,場合によっては,上からの指令以上にやりすぎることさえしばしばです。もちろんこのことは,生活身辺で,ふだんの仕事上で,誠実に対処している部分がないことを意味しているものではないことは,言うまでもないことです。
 彼らのひどさのいちいちをあげつらう労は,ここではとりたくもありません。分かってもらえなくてもいい。ただ彼らの無意識の「善」を装った主張や行動が,どんな巨悪を形成する元凶になっているか,こいつらには分かっていないし分かりようもないと,それだけは言っておきたいと思います。
 今起きている社会的な様々な問題は,かつての問題に対して「こうすればいい」という判断の結果として,現在問題化している事柄です。今日の,あらゆる「こうすればいい」という提案が,未来に同じような結果として欠陥を露わにしないと,あなたは信じることができますか。
 言っているのは羽振りのいい壮年か,死ぬまで安泰で悠々自適を保証された老人連中じゃないですか。それだけでもぼくには,「こいつら,自分に都合のいいことばかりいいやがって」と,否定したい気持ちでいっぱいになります。過去にこいつらがいたら,今現在もっと良い社会になっていたかといえば,そんなわけはない。同様に先導するやつがいて,本人はよかれと思ってやってきたことが,今の社会のいろいろな問題に結果として結びついている。それなら,今,大声で,あたかも正義であり,真実であるかのように表れている言動のすべては,実はもっとも怪しいものだと考えなければならないのは,ごく当然のことだと思うのです。それが「学習」でしょう。かつて戦争体験を学べと主張していた連中は,何を学んだのか。それどころか,次から次へと旗印を変えては,お先棒を担ぐことにいそしんでいる。なに,集団や組織の保身,日本ではそれが金科玉条,ただそれだけのことだという気がします。
 
 各小題には,それぞれに養老さんらしい発言があって,ちょっとでも触れておきたい気になるのだが,そうしているとこの小論はいつまでも終わらないことになってしまいそうです。かといって,一刀両断,核心をついて短い言葉で評するには,まだまだぼくの力の及ぶところではありません。
 「マツタケは俺にくれ」の小題も,少しだけ立ち止まっておきたいと思う箇所です。いわゆる北朝鮮に関する話題なのですが,拉致問題を真正面から論じているわけではありません。突然の小泉首相の訪朝で実現した日朝首脳会談のおみやげの,マツタケの話です。もらった日本側が,それを焼き捨てたとか捨てなかったとか言うことですが,養老さんはこれを美女軍団がアジア大会で夕食時のステーキ肉を食べなかったという報道と重ねて考えていました。
 「相手の用意した食べ物を食べるかどうか,それは社会におけるもっとも基本的な人間関係に関わっている。」
 つまり,どちらも相手を心から受け入れていない。この食べ物を拒否するという二つの事例から,そういう深層心理を見て取っていました。そういう中で,本当に北朝鮮との「外交」が成り立つのか,養老さんは,そう言っていると思います。今ある日本の北朝鮮に対する感情は,戦争の感情である。そうとまで言っています。
 この視点は,面白いものだと思いました。ところで,これはこれとして,ぼくがもっとも気になったところは養老さんの次に引用するところの考えです。
 
  江戸時代まで,日本人は四足獣の肉を食べなかった。鳥や魚はむろん食べる。その理 由は差別問題ではないかと思ったのである。弥生人が縄文人を差別するとき,縄文人が 好んで食べるもののなかで,肉を選んで禁忌とした。これは私の想像だが,ありそうな ことではないかと思う。日本語には例えばヘビなどを「人間の食うものじゃない」と表 現することがある。その「人間」とは,自分と同じ社会に属する,自分と対等の人間の ことである。逆にいうなら,ヘビを食うようなやつは「人間じゃない」ということにな る。
 
 これを読んで,ぼくもありそうなことではないかという気になりました。日本人にはどこか,同じ社会,同じ組織,同じ共同体に属するものへの身内意識が非常に強い。これが対,外になると,とたんに警戒心が強くでて,排除の姿勢をとるといった傾向を示すもとになっている気がします。これが生きものの二大性能であるところの一つ,「食」に結びついたとき,これはその食べ物の拒否となって現れる。
 養老さんの指摘する点の当否はともかく,「食」がこのように,人間関係,共同体の関係,に深く影響するという視点は考えておかなければならないことだと思いました。古代でもあるいは現代でも,贈与の関係に類することはとても重要な事柄です。贈る側の「借り」を,受けて立つ,つまり受け取るということは,相手を受け入れるということでもあります。これは形を変えて,その大小を変えて,今でも身近な問題であると考えていいのではないかという気がします。
 先のマツタケの問題に触れて,養老さんの結論はこうである。それを紹介して次に進んでいこうと思います。
 
  あのマツタケは,金正日が山に入って自分で採ってきたというものではあるまい。そ れなら採ってきた人は,食うや食わずの人たちのはずである。その状況を考えたら,焼 けない。私なら焼かない。
  どうするか。好意だけはまずいただき,現物はお返しする。それが礼儀であり,そこ でなにをいうかが外交であろう。
 
 さすがに,焼いて食うとは,養老さんは言いません。
 
 この新書本のタイトルともなっている「まともな人」の項では,中高年男子について論じています。ストレートな表現ではないが,だらしがない,そういうことを言いたいのだろうと思います。
 なにをだらしがないと見ているかというと,自分の外の事象に関して,自分の「あたりまえ」という判断の物差しで測って盛んに文句をつけることはするが,本当に自分の人生の是非を問うことからは逃れていて,安易だということだと思います。
 人生の意味について,若者の疑問に応える見識を示すことができない。自分では応えているつもりでも,その見解は偏狭である。それに気づくことさえできない。そうしてただただ,偉そうで,得意げで,と,そういうことだと思います。
 こういう人たちは一見,「まともな人」に見えます。というより,世間的にはそういう人こそが「まともな人」だと評価されているようにも思えます。けれどもこんな混迷した時代には,「まとも」な彼らの主張が何の指標にもならない。すくなくとも,若者たちからはそっぽを向かれ,若者たちは遠ざかっていく。
 若者たちの遠ざかる要因を,自分の考えに組み込めないのです。別にそうであったってさしあたって困ることはなにもないのですが,年寄りの存在意義といえば,若者たちが感心して聞くような意見を持てる,そういう人生についての深い洞察力の有無だと思うのです。それが一様になくなって,NHKの「みんなのうた」の意味が分からない歌詞に,そんなことでいいのかと文句を垂れる。歌詞には意味がなければならないという偏狭な思いこみ。その思いこみがおかしいかどうかちょっと顧みる余裕さえ持っていない。これまでなにをしてきたんだ。どう生きてきたんだ。
 世の中万事,こういうことになっていると思います。つまり,自分の人生を潜りぬけた言葉が,少なすぎる。そういうことです。
 
 新書本「まともな人」の項目,その小題も後わずかになってきています。この試みにも幾分疲れを感じて,ところどころ端折ってきているのですが,「カブト虫の話」も,半分取り上げなくてもいいかという気になっていました。でも,気を取り直して,ちょっとだけ触れておこうと思います。学問について触れている箇所があるので,そこだけは黙ってとおりすぎることはできないと思ったからです。
 学問は,対象について深く広く知ること,という面を持っているといいます。「知る」ということ。学校では,それを抜きにして学校という存在の意義を考えることはできないといえるでしょう。多く知ることは,利口である。一般的にはそういう考えが流通していると思います。養老さんは,「知った」ことをどう活用するか,それが大切であり,本当に学ばなければならないのは,そういう「知」の取り扱いを学ぶことだといいます。
 学者のような専門的な知識,あるいは技能は,ごく普通の社会そして社会人にとってどれだけ必要かというと,まあ,不要であると言っていいと思います。自分の体験から,ぼくはそう思っています。学校で学んだことは,ほとんど必要ないというのが実感です。実際に社会に生きていくということと,学校で知識を詰め込むということには大きな隔たりがある,そう思っています。知識があってもなくても,まわりの人のいうことが分かれば,教わって何とかやっていくことができる。そういうことがほとんどでした。つまりその場所で必要なことは,その場所で調達できる,そういうことです。それは,身に付くまで教えてくれます。もちろん,技能系,語学系などのように,職種によっては基礎が必要なものもあります。だからといって,学校で学んだことがそのまま職場で通用するかというとそうではなくて,いわゆる応用が利かなくてはならない。この活用,応用が,役に立つということなのです。役に立たなくては仕事にならない。
 知識,学問の修得は,必ずしも役に立つことを必要とするものではありません。それはそれでいいのですが,それならば,はじめから偉そうにする必要はない。つまり,どれだけ詰め込むことができたかなどというような「評価」なんかしなくても良い,ぼくなんかはそう言いたいのです。
 少し前,政治家の学歴詐称疑惑の問題が報道され,世間をにぎわせました。会社の社員採用にも,相変わらず学歴が重視されているようです。世の中の表面上の流行はいろいろあっても,実質的なあるいは根源的な発想の転換はそう簡単にできるものではない。そういうことなのかも知れません。
 養老さんは,ここでは生物行動学の「ハンディキャップの原理」を使い,カブト虫の角の説明をしています。
 無駄に大きい角を持ってもやっていけるほどの立派に丈夫な体であり,健康であることをアピールしているのだというのです。
 これを,東大出がもてはやされた理由に養老さんは転用します。東大なんか出たのに,まだバカになっていない。もともとそれほど利口だったのだ。ハンディキャップの原理を使うと,そう言うことになるというのです。東大生の,カブト虫の角のように無駄に大きい知識の量。角がなければカブト虫ではないと同じに,その無駄がなければ東大生ではないし,そんなに無駄があってもバカになっていない,そこのところがもてはやされた理由だろうと,養老さんらしく言うのです。
 頭取の退職金,銀行員の給料,これらはカブト虫の角に他ならない。要らぬ大きさだがカブト虫たる威厳を保ち,信用を保つのに必要らしい。昨今は,なんだかこちらの方の雲行きも怪しくなってきているようです。
 どちらも,角の信用が通用しなくなるかどうかということは,いずれにしてもぼくたちには全く関係ない事柄です。
 
 「目的のない組織と個性のありか」という小題の文においても,養老さんは教育,あるいは学校教育の問題に触れています。
 目的のない組織とは,ここでは学校のことを指していると思います。人事の順送り,そこには本気で機能させようとする切実さがかけている。学校はそうなっているのではないかというのです。
 個性については,養老さんの以前から指摘する身体の個別性がここでも主張されています。頭の個性,心の個性,これは突き詰めて考えたら,精神病院に行くしかないというものです。逆に共有性,共感性が頭や心の問題なのだと言うことです。
 先のことに関しては,残念ながらそう言う部分がないとは限らないとぼくも思います。かといって,養老さんが推薦する「陰山メソッド」で有名なあの校長さんのような人がどんどん出てくればいいかというと,そうでもないような気がします。陰山さんが実践してきたというように反復練習で基礎学力をつけるというのは,これはあまり報道では取り上げられませんが,従来と同じようにどの学校でも重視されています。ぼくたちも,百マス計算は十年以上前から注目し,取り組んでいました。陰山さんは,きっとそれを徹底して,学校規模に展開し成果を上げたのだと思います。その意味で,彼の情熱は高く評価されてしかるべきだと思いますが,一方では明確な目的のもとに猛進する,そのことに弊害や疑問の余地はないかといえば,ぼくにはあるような気がしているのです。
 養老さんにしても,大学の講義では解剖学の講義よりは人間のことを話すことが多いことをどこかで書いていたと思います。講義の目的を,そこでは教師の感ずるところ,信ずるところにおいて若干変更している部分があると思うのです。
 陰山さんのように徹底して,かつ成果を上げて世の注目を浴びるというのは,ぼくなんかにはかえってどこかに大きな欠陥が隠れていないかと思われてなりません。まあ,ひがみといえばそうに違いないのですが,あんまり,いい,いいといわれると,世の中にそんなにうまいばかりの話があるか,そう言ってみたくなります。
 反復練習や基礎学力の話は,実は個性重視の教育,それに並行して進められたいわゆる「総合的な学習の時間」の導入時にもささやかれ,学力低下を懸念する声も当時から出ていたものでした。
 ぼくなどは,詰め込み教育の反省,受験戦争の反省,あるいは学力獲得に落ちこぼれた子どもたちの非行,暴力,そんな学校の現実,社会的な背景のもとに,教育の転換が進められたと理解しています。進む先はどうであろうと,進まざるをえなかった。その方向の転換は,養老さんたちが経験した戦後の教育の方向転換と何ら変わるものではない,ぼくなどはそう思っています。つまり,信用できる転換ではないということです。にもかかわらず,あらためられなければならないという必要性は,十分にあったという立場に立っています。いわば,進むも地獄,進まぬも地獄という見方を,大げさにいってみれば,していました。
 そこで感じたところでは,何のかんのと理屈を言ってみても,個性重視という美辞に隠れた真意は,勉強のできない子どもが,ぐれて事件を起こさないようにしようということだったと理解しています。子どもが学習内容を理解する程度にも,個々の能力にちがいがある。そのちがいを分かってあげて,できない子どもを見捨てたり,ダメダなんて言うな。俗っぽく言えばそういうことだったと,ぼくは思っています。それが,個性を大切にしようということの内実だったと思うのです。
 また,学力の低下の問題にしても,かつては高い学力があったと仮定して,それでいったいどういう社会が出現し,どういう立派な成人になり,彼らがどんな生き方をしてきたのか,そういうことを考えると,その学力の高さがぼくの生活にどう役立ったのか,あまり関係ないのではないかと思われてなりません。要するに,学力の定義にも問題はありますが,通常その低下を嘆く人たちには,嘆く必要がある人たちで,その人たちの思い描く,あるいは希望する状況にかげりを生じるところから嘆くものであって,一般のぼくたち生活者にとっては実際問題何の影響もない。困るのは学力の低下を嘆く彼らだけだ,ということになります。別に彼らが困ったところでどうということもない。勝手に困って,勝手に嘆いていればいい。そういう問題でしかありません。だって,日本の社会や経済,その将来を考えるのはぼくたちの役目ではありませんから。ぼくたちには責任を持とうたって,残念ながら対策を考えたりする役割を持たせられているわけではありません。日本の将来に責任を持てと脅されたって,よく考えてみるとその責任の持ちようがない。ただただ為政者の対策に賛成し,それを指示する側に回れと,そう言い寄っているだけのことです。
 もっと言えば,実感から言って,あんまり高い学力なんか持つものじゃないと考えているというのがホンネです。別にたいしたことができたり,やったりしているわけでもないのに,「知っている」ことが広く多いというだけで,なにかしら自分がエライとか,人よりもすぐれていると錯覚する。学力には,そういう錯覚を生じさせる魔力があって,それが錯覚であると自覚できている人が非常に少ない。それならば,学力がなくても他人に迷惑をかけないように生きている人々,他人の気持ちに共感でき,分かってあげることのできる人の方がよっぽどエライとぼくなんかは思っています。
 養老さんの言うところには,学校や教育がよいものだという「常識」,「あたりまえ」に対する疑いの視点が見られません。大学教授として当然かも知れないのですが,ぼくには少し残念なところでもあり,ぼくはまた違ったところでこの問題については考えていかなければならないと感じているところではあります。
 
 「日本州にも大統領選挙権を」では,アメリカと日本の合体が,半分は冗談で提案されています。なぜそうした方がいいかの一つ一つの理由を考えると,そうなったとしても不思議ではないと考えられてきます。自分でも,ある時期から冗談交じりにそう考えてきました。そうなった方が,絶対楽だからです。もっと極端に,全世界が,アメリカの州になったらどうかと考えたりもしました。国はあげます。その代わりに私たちの生活は保障してください。州としての自治権は認めてください。私たちの州の利益を考えてくれたら,大統領選挙であなたに投票します。言葉も生活習慣もそのままで,ただアメリカの一員となる,それに何の不満がおこるか。起こらないと思うのです。全世界が一つの国です。州の独自性から,中央との確執などが生じても,武力行使の戦争にもなりません。ある意味,生活水準の平等化が推進されて,アメリカ国家の名の下に,どの地域にも飢餓や貧困のない生活上の対策が講じられると思うのです。
 これは現在,冗談としてしか通用しない事柄ではありますが,国連という形になるにせよ,ゆくゆくはそういう世界の平準化を目指していくことになるのではないでしょうか。 さて,ここではしかし,この日本州問題とは別に,養老さんにとって大事なことが告白されている。
 
  かつて日本がアメリカと戦争をしたとき,戦争は人だけではなく,お金がする,資源 がするものだとは思っていなかった。だから戦争に負けて,物量にはかなわないという 教訓を得た。
  ではそれが真実か。私はそう思わない。そうはひたすら思わない。それが,考えてみ れば,私の人生だった。私自身がなぜ研究にお金を使うのが嫌だったのか,今になって やっとわかる。私自身は,全く個人的に,この前の戦争をつづけていたのである。
  (中略)
  もはや別な道を歩くには,歳をとり過ぎた。死ぬまで私は,私個人の戦争を戦うしか あるまいと思う。9・11のテロ事件以降,親米とか反米という言い方が流行した。心 のうちでいまだに戦争を続けている人間にとって,そんな言葉にまったく意味はない。 私の敵は別にアメリカではない。そんな実体があると,私は思っていない。アメリカと いう国家など,人の世の約束事に過ぎないからである。しかし私には戦う相手がある。 それは半世紀以上前に,私の先輩たちが生命をかけて戦った真の相手と同じものに違い ない。自分の戦いを続けるなら,その正体は少しずつでも,わかってくるであろう
 
 平和主義者,理想主義者を自認する養老さんの戦争,その個人的な戦争の継続の相手が何であるのか。その部分部分の姿は,養老さんの昨今の新書本シリーズに書き表されているに違いない。逆にいえば,書かれていることの総体が,戦う相手の姿となるといってもいいかも知れません。書くことによって,その相手の輪郭がしだいに明らかに浮かび上がってきた。読者としてのぼくは,それを見届け,著者の思いを受け止めなければならない,そう感じさせられました。
 養老さんには,まだ敗戦がやってきません。決着はついていないと,考えているのだと思います。この驚異的で個人的なねばり強さに,ぼくは知識人の知識人としての誠意を感じます。言い換えれば,知識人として評価できる,信じられると,そう思っているのです。そして,信じられる知識人としてのその数は,そんなに多くはないというのが実際のところだと思うのです。
 
 養老孟司さんへの,疑念といえば疑念が,ぼくは「部族としての日本人」の冒頭を読むときに感じます。それは,次のように始まります。
 
  先日,機会があって自衛隊のある司令官と話をした。最後に質問を受けた。指揮官は 兵を死地に追いやらざるを得ないことがある。外国なら宗教があるかもしれないが,わ れわれにはそれがない。それならそれを許す最終的根拠はなにか。
  正確にそういう質問だったわけではない。しかし内容はそのことだと理解した。同時 に私はたいへん感銘を受けた。そういうことを想って当然だとはいえ,指揮官とはそう あるべき者だと思っていたからである。
 
 ここで言われている「感銘」の質とはなにか。それがぼくにはよくわからないのです。感銘を受けること自体は理解ができます。ぼくも会って話を聞いていれば,なかなか立派なことを考えているじゃないか,そう感じると思うのです。ただぼくには指揮官という在り方自体をすんなりと認めたくないという思いがあります。そこに,やむなく指揮官の立場に立たざるをえないものがあるとするならば,という注釈がつきます。
 「指揮官とはそうあるべき者だと思っていた」という養老さんの言葉には,はじめからその存在を認めている,たとえ本意ではないとしても,在るものは動かしがたいという思いからの肯定であるにせよ,認めているというニュアンスが読み取れます。
 この違いは大きい。ぼくはそう感じます。
 現実に存在するものは,存在するとはいえ,必ずしも絶対のものではない。移り変わりがあり,それが存在しない場合が過去にも未来にもあり得ると思います。指揮官という立場が存在しない世界を基礎に考えて,ぼくは現在存在する指揮官のあるべき姿を考えます。そんなことは架空だといえば架空な訳ですが,こういうとらえ方からいえば,感銘は受けるけれども,指揮官という在り方を根底から問う,もう一つの思考の反転がなければならないと感じるのです。
 為政者がしばしば糾弾されるのは,支配下にある者たち,あらざるを得ない者たちに対して,どれだけ考慮を払ったかが問われるのである。対象が個人だとはいえ,医師もまた本質的には同じ立場にある。養老さんは,そう考えます。そして,次のように続けます。
 
  解剖をし,表現は悪いが,対象をバラバラにしたのは,ほかでもない,この私である。 それは一種の加害者責任である。それをどう片づけるか。いくら逃げても,人生の本質 的な問題から逃げることはできない。
  背負っていけ。いうのは簡単である。それを背負っていることを,どう表現するか。 そこから慰霊祭という儀式が生じる。それは根本的には背負う者の気持ちである。もち ろん,それだけではない。すべての関係者を含んでいる。なぜなら解剖に同意すること によって,いわば加害に同意したからである。本人の同意はいうまでもない。しかしそ れでもなにか残るものがある。加害者としての私がその「なにか」を知っていること, せめてものこととしてそれをどう表現するか。それが慰霊祭という儀式であろう。
 
 ここに養老さんの誠意,潔さというようなものも感じとることができます。そしてそれはそれでいいと,ぼくは感じます。
 しかし,こうした表現から導き出されてくるのは,加害者の側,為政者の側からの視点だけではないのか,そう思います。それが悪いと言っているのではありません。知らず,被害者の側,大衆の側からの視点が抜け落ちてしまうのではないのか,そういう危うさを感じてしまうといっているのです。
 ここまで養老さんの考えを追ってきて,ぼくはそれほど突き詰めて読んでいたわけではありませんが,文学者でいえば,江藤淳さんという批評家の考え方,感性にとてもよく似ているなと感じてきました。特にこの為政者側の心理,思いに,筆を進めるくだりは似ているという気がします。そしてそこのところでぼくは,共感とふとした異和感を両者に感じてしまいます。どうしてそんなに為政者に肩入れしなければならないのか。そこが不思議に思います。逆にいえば,ぼくにはあらゆる組織,共同体の長になることへの抵抗があります。なろうかという頃合いに,いつもぼくはそこから逃げてきた。そういう経歴があります。だから異和感を感じてしまうものなのでしょう。
 島尾敏雄さんという作家は,先の戦争で特攻隊の小隊長でした。傍目には立派な隊長として見えていたようですが,自身は指揮官としての在り方に混濁した思いを抱き,その異和感にこだわった文章を書きつづりました。それは潔くもかっこよくもない,いわば指揮官としてのあるべき姿を示したり,模索するものでもなく,ただ,言ってみれば,個としての人間の在り方を写す,作家としての誠意が示されていたように思います。指揮官である前に一個の人間であり,その一個の人間としての部分をクローズアップした作品を書き続けました。
 つまり,似た事柄であってもどの部分をクローズアップするか,そこに,個の資質が関与してくると思うのです。
 養老さんは,そこから指揮官の側,為政者の側に比重をおいた視点をピックアップしてくる。そういう資質があるのではないか。そう,ぼくは推測しているということをここに書き留めて,ひとまず,小休止ということにします。
 
 新書本「まともな人」も,いよいよ最後に来ました。
 「『親の責任』と乱暴に決めつけるな」という小題が付いた文章がそうです。これはもちろん,少年犯罪に対するある政治家の発言を取り上げて書かれています。
 「引き回しのうえ,打ち首」。これがその政治家の発言です。ずいぶん乱暴だなあと思いますが,もしも子どもが犯罪を犯したとしたら,親としてどう対処すればいいだろうかと,それはぼくなりに考えさせられた事件でした。
 この事件のことはともかく,そしてこの政治家の発言もおいておくとして,ここでぼくの関心に入ってくるのは養老さんの次の言葉です。
 
  戦後の日本は子どもの都合を無視してきた。動機となったのは,いわずと知れた経済 優先である。
 
 養老さんは,窓の開く高層マンションでの子育て,「遊び場」の喪失などをその具体的な例としてあげています。
 考えてみると,「やむをえない」という一つの言葉で,戦後,子どもは子どもの都合を我慢しなければならなかったことがたくさんあるような気がします。一度虚心になって周囲を見回してご覧なさい。子どもにとって都合の良い時間と空間がどこかにありますか。周囲はみな大人が占有しているのではありませんか。
 例えば団地に,子どもの視線は生かされているでしょうか。子どもが生活する場所として適切であるというような視点を考えて作られているでしょうか。一つ一つの家はどうでしょうか。お店はどうでしょうか。子どもの安全面から,団地という作りは考えられているところがどこかあるでしょうか。
 ぼくもそうでしたが,買う側は,値段ばかり気にすることになってはいないでしょうか。 道を歩く子どもたちの立場に立って,道路というものは考えられてきたでしょうか。
 なにもかもが,大人の思惑,そして経済の優先であったのではなかっただろうか,ぼくはそう思いました。
 いや,ずいぶん子どものことは考えてやってきたんだ,そう大人は言うと思います。でも,それは大人の都合ででしょう。そこにはきっとたくさんの「やむをえない」があって,その余を子どものためと考えてきたに過ぎないと思うのです。
 車がばんばんとばす道路の端っこを,子どもたちは危険にさらされながら,追い立てられた動物のように小さくなって毎日歩いています。これをぼくは,かわいそうだが「やむをえない」と思って見ています。自家用車,商用車,これを途から締め出したら経済が成り立たない。漠然とそう思ってしまうのです。「子どもの都合を無視している」とは,このことを言うのです。
 朝,街頭指導といって保護者や先生たちが道路に立つのは,危険であることを知っているからでしょう。その危険をもとから断つという発想は採ることができずに,その危険は手つかずに,「やむをえず」街頭指導するほかないということなのだと思うのです。
 子どものことは常に二の次で,これまでやってきた。一事が万事で,他のすべてのことをこの点から見直してみると,実はそうであったことが理解できると思うのです。
 かつて自分が勤めた学校でも,交通安全週間には,地域のみんなで子どもを守るかのような考え方,言い方をしていたものでしたが,しかし,よく考えると,いちばん大事なことを抜かしていると思うのです。危険は取り去らなければならない。その発想です。取り去ることによって,誰が困るのか。大人たちに決まっています。だから,そういう発想はとらない。そうして,街頭指導なんかでお茶を濁して,「あなたたちのために」みんなが協力してがんばっているのよ,と言う。
 ある時,職場でこのことを話したときがありました。団地も含め,ほとんどの施設は,子どもを抜きにした作りをしているといった意味のことをです。みな怪訝な顔をしていたと思います。たぶん,みんなが子どものため,と考えてやっているのになんてことを言うんだ,変なやつだ,そう思ったと思います。
 こう言うからといって,ぼくはなにも,もっと子ども中心の世界を作れ,などと言っているのではありません。
 ただ,大人が言っているよりは,実際には,子どもは大切にされてきているわけではないようですよ,そう言いたいだけです。
 本音で子どものことを考えているというのなら,例えば学校なら少人数学級なんか,すぐできるわけでしょう。それができないのは,予算だ何だと,つまりは経済を優先させて,「やむをえない」と判断するからなので,なに,口で言うほど子どものことを大切にしているわけでは全然ありません。また,離婚の多さを考えても,同じことが言えると思います。もっと言えば,子どもが邪魔だ,そう思っている大人,親が多くなってきているのではないでしょうか。
 こどもは権力を持たないし,意見が言えない。それが普通の子どもの在り方です。置かれた状況を黙って受け止めるしかない。少年犯罪が多くなってきたとして,結局は養老さんの言うように,「暗黙の異議申し立て」である側面が強いと思うのです。何に異議申し立てをしているのか,それを考えるのは大人の責任のような気がするのです。子どものためと考えているから,子どものためになっているのだと思いこんで,それで責任を果たしたと考えるのは大きな間違いである。ぼくはそう思っています。大人の考える「子どものため」ほど,子どものためにならないものはない。そう言ってしまいたいほど,大人は自分の都合を子どもに押しつけるものです。ぼく自身,そうであると思います。だから,ぼくは子どものため,という言い方をしないようにしています。また,子どもは大切,子どもは宝,などの言い方もしないようにしてきました。
 子どもたちの異議申し立てに耳を傾ける。ひそかに,ただそれだけはこれからも自分に課していきたい,そう思っているところです。
 最後に,政治家の発言に対する養老さんの感想。
 
  自分だけは別だとよく思えるなあ。自分の子どもはずいぶん立派に育っているんだろ うなあ。
 
 いそがしい政治家の子どもだ。どんなふうに育ったかは二世政治家の言動を見ればよくわかる。権力と利益には,何の衒いもなく群がっていくことができる。「恥ずかしい」。そういう意識と言葉とに,無縁に育ったのであろう。現代の日本では,それを「立派」という。ぼくには,そう思われます。
                               その1 了